第20話 エピローグ
文字数 1,424文字
1952年3月、ヨーロッパ原子核共同研究所(CERN)のドイツ代表団を率いる。
1953年12月10日、アデナウアー首相により、アレクサンダー・フォン・フンボルト財団総裁に任命される。
1957年4月12日、ゲッチンゲンの他の17人の科学者とともに、西ドイツの核兵器所持に反対する声明を発表した。
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1957 年、政治的かつ道徳的に重要な出来事が突然ゲッティンゲンの名前が世界中の新聞の見出しを飾った。その年の4月12日に発表された「ゲッティンゲン宣言」である。1950年代半ばの「再装備」として知られる米軍への戦術核兵器の装備は、1956年を通じて連邦共和国内で新たに設立されたドイツ連邦軍における同様の計画についての議論をますます白熱させた。これに関連する懸念は、前原子力大臣フランツ・ヨーゼフ・シュトラウスが国防大臣に任命されたことでさらに高まった。ドイツ原子力委員会の「核物理学作業部会」のメンバーであるオットー・ハーンやカール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカーを含むドイツの核物理学者らは、シュトラウスとの話し合いでこの計画を阻止しようとしたが、失敗とみなされなければならなかった。コンラート・アデナウアー首相は1957年4月5日、戦術核兵器は「特別な通常兵器」として軽視されたと報道陣に発表した。主著者でもあったヴァイツゼッカーの提案により、ドイツ物理学会の「核物理学」委員会は宣言を採択し、当初はヴァイツゼッカーらに加えて18人の核科学者によって承認された。 元または現在のゲッティンゲン在住のマックス・ボルン、オットー・ハーン、ヴェルナー・ハイゼンベルク、マックス・フォン・ラウエ、ヴォルフガング・パウルが署名した。 彼らは専門知識に基づいて、連邦政府の矮小化した描写を拒否し、核兵器の危険性について国民に包括的な情報を与えるよう求めた。 政府は、連邦共和国国民をこれ以上危険にさらさないために連邦軍への核兵器の武装を控えるよう求められた。署名者は核兵器へのいかなる関与も拒否したが、同時に原子力エネルギーの平和利用を明示的に主張した。
(ゲッチンゲン大学のホームページ「1957年ゲッチンゲン宣言」より引用してGoogle翻訳で日本語に翻訳)
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1958年9月、家族と研究所をミュンヘンに移す。
1976年2月1日、ミュンヘンの自宅で癌のため死去。74歳であった。
ハイゼンベルクの死に際し、サムエル・ハウトスミットは、その追悼記事に文章を寄せた。そこにはハイゼンベルクに対する不満や遺憾の意が書かれていたが、こう結ばれている。
「ハイゼンベルクは非常に偉大な科学者であり、深い思索家だった。みごとな人間だった。そして勇気にあふれた人物だった。彼はわれわれの時代が生んだ最も偉大な科学者のうちの一人だったが、狂信的な同僚たちの不当な攻撃を猛烈に受けた。彼はある意味でナチス体制の犠牲者であったと考えられるべきだ、というのが私の意見である」
2023年10月27日金曜日
Das Ende
完
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