第3話 シュレーディンガー方程式

文字数 1,553文字


エルヴィン・シュレーディンガー

ハイゼンベルクの「行列力学」は、原子・電子などの「量子」の運動を表すことに成功したが、行列(マトリックス)という数学は、物理学者にも扱いにくかった。

ところが38歳のオーストリアの物理学者、チューリヒ大学の理論物理学教授のエルヴィン・シュレーディンガー(上の写真)が、ハイゼンベルクとは異なった手法で量子原子物理学の問題に取り組み、その成果を1926年の前半に論文として発表した。

シュレーディンガーは、当時フランスの博士号候補者、ルイ・ド・ブローイ(ドが付いているから貴族である!)の物質波の仮説を利用した。この仮説は、あのアインシュタインに好意的な評価を受けていた。


ルイ・ド・ブローイ

ド・ブローイ(上の写真)はこの1924年の学位論文で、対称性と相対性から次のように推論した。電磁波が粒子(光量子=光子)のように振る舞うなら、ある条件下では、粒子は物質の波動(物質波)のように振る舞うはずだ。

それに対してシュレーディンガーは、もしそうならば、物質波の広がりや伝播を表す「波動方程式」があるはずで、その波動そのものを表す「波動関数」があるはずだと考えた。

シュレーディンガーは、アイルランドの数学者・物理学者のハミルトンの理論を「物質波」電子の力学に適用した。その物質波は波動関数ψ(プサイ)で表され、小さなミクロの空間内で大きな曲率(小さな直径)の軌道上を動く。

シュレーディンガーは、どのようなタイプの運動の波動についても、見慣れた方程式を見出した。

シュレーディンガーはさらに発表した論文で、時間も変数に含めることにより、波動の伝播について、より一般的な方程式を得た。その波動力学は、ハイゼンベルクのややこしい行列力学と同様に、同じような力学の問題に完全に適用できた。

大部分の物理学者は、シュレーディンガーの方程式、つまり単なる偏微分方程式を解くということを歓迎した。ハイゼンベルクの行列力学に、ずっと取り扱いがやさしい、シュレーディンガー方程式という強力なライバルが現れたのだ。

パウリと出会った、ミュンヘン大学の学生時代、ハイゼンベルクの最初の先生だったゾンマーフェルトですら「正しいが、恐ろしくややこしくて抽象的な行列力学から、シュレーディンガーは物理学者の窮地を救った」とまで絶賛した。

ハイゼンベルクの同僚で、批判精神の旺盛なウォルフガング・パウリ(下の写真)も、1926年4月初めパスカル・ヨルダンに「この論文は最近書かれたものの中で、最も重要なものに入る。注意深く、よく考えながら読むといい」と書いている。ただし彼は「チューリヒの田舎の迷信」とも皮肉った。


ウォルフガング・パウリ

その頃ハイゼンベルクのいたゲッチンゲン大学の物理学教授、量子力学の確率解釈を発表したマックス・ボルンもシュレーディンガーの仕事に勇気づけられた。

ハイゼンベルクはボルンが波動力学にあからさまに離反したことに、もちろん愉快ではなかった。

1926年3月、シュレーディンガーは波動方程式と行列代数は、見かけと中身が違うように思えるが、実際に数学的には等価であることの証明を発表した。

その後ハイゼンベルクとその仲間たちは、シュレーディンガーの物理学を公然とあざけり始め、論争は感情的に、罵り合いになった。

シュレーディンガー方程式の本を読むと、代入したり変形したりして、いろんな量子エネルギーを表すことができる。物理数学赤点の私は式の論理は追えなかったが、本やテレビの放送大学の「量子物理学」の放送を見て、方程式ってこういう風に使うんだと腑に落ちた。残念ながら、難しい計算を黒板いっぱいに書く理論物理学者も、同じ事実を表すならシュレーディンガー方程式の方が、ハイゼンベルクの行列代数よりもずっと扱いやすかったのである。




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登場人物紹介

ヴェルナー・カール・ハイゼンベルクWerner Karl Heisenberg, 1901年12月5日 - 1976年2月1日)は、ドイツ理論物理学者行列力学不確定性原理によって量子力学に絶大な貢献をした。量子力学のほかにピアノが得意でベートーベンのソナタなどを弾く。趣味はスキーと山歩き。師のボーアとは後で激しい論争をし、涙を流すこともあった。1933年、量子力学の確立により1932年にノーベル物理学賞を受賞した。 彼は量子力学の哲学的側面も扱った。また、ナチスが政権を取ってからコペンハーゲンに行ったが、デンマークはナチスに占領され、ハイゼンベルクは原子爆弾について忠告しようとしたが、ボーアと気持ちがすれ違ってしまった。戦後、ナチスに両親を殺されたオランダ人との同僚ともしっくり行かなかった。ハイゼンベルクはナチス党員ではなかったが、ドイツで物理学の仕事を続けるため、ナチスの高官と妥協した。それを責められないと私は思うが、親を殺されたらしっくり行かないだろう。

ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーアデンマーク語: Niels Henrik David Bohr[1]1885年10月7日 - 1962年11月18日)は、デンマークの理論物理学者[2]量子論の育ての親として、前期量子論の展開を指導、量子力学の確立に大いに貢献した。王立協会外国人会員。ユダヤ人。ハイゼンベルクの師。基本的には優秀でいい人なんだけど、物理学の議論になると、我を忘れることも。コペンハーゲンのニールス・ボーア研究所に来たシュレーディンガーは、ボーアの厳しい論争に病気になったし、ハイゼンベルクもボーアと不仲なときがあって、自分の失敗で涙を流したことが。1922年原子構造とその放射に関する研究でノーベル物理学賞を受賞。

ヴォルフガング・エルンスト・パウリWolfgang Ernst Pauli, 1900年4月25日 - 1958年12月15日)は、オーストリア生まれのスイスの物理学者。スピンの理論や、現代化学の基礎となっているパウリの排他律の発見などの業績で知られる。緑で塗ったらカッパみたいになった。カッパウリと呼んでくださいw。

アインシュタインの推薦により、1945年に「1925年に行われた排他律、またはパウリの原理と呼ばれる新たな自然法則の発見を通じた重要な貢献」に対してノーベル物理学賞を受賞した。
パウリはウィーンでヴォルフガング・ヨセフ・パウリとベルタ・カミラ・シュッツの間に生まれた。エルンストという彼のミドルネームは名付け親の物理学者エルンスト・マッハに敬意を表して付けられた。父方の祖父はユダヤ人で、名の知れた出版社の経営者だった[1]

ハイゼンベルクの批判精神にあふれた同僚で、ハイゼンベルクは何か新しいことを思いつくと、いつもパウリに連絡した(離れていたときは、当時は主に手紙で)。

エルヴィーン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガードイツ語: Erwin Rudolf Josef Alexander Schrödinger [ˈɛɐ̯viːn ˈʃʁøːdɪŋɐ]1887年8月12日 - 1961年1月4日)は、オーストリア出身の理論物理学者

1926年波動形式の量子力学である「波動力学」を提唱。次いで量子力学の基本方程式であるシュレーディンガー方程式や、1935年にはシュレーディンガーの猫を提唱するなど、量子力学の発展を築き上げたことで名高い[3]

1933年イギリスの理論物理学者ポール・ディラックと共に「新形式の原子理論の発見」の業績によりノーベル物理学賞を受賞した[1][3]1937年にはマックス・プランク・メダルが授与された[2]

1983年から1997年まで発行されていた1000オーストリア・シリング紙幣に肖像が使用されていた。シュレディンガーとも表記される。デイビッド・C・キャシディ『不確定性』では「粋なオーストリアの物理学者」と紹介され、愛人が3人いて、子供もたくさんいたらしい。それはともかく、アインシュタイン+シュレーディンガー対ニールス・ボーア+ハイゼンベルクで物理学的に対立しており、感情的な言い争いになったこともあるそうだ。

アルベルト・アインシュタイン[注釈 1]: Albert Einstein[注釈 2][注釈 3][1][2]1879年3月14日 - 1955年4月18日)は、ドイツ生まれの理論物理学者ユダヤ人スイス連邦工科大学チューリッヒ校卒業。

特殊相対性理論および一般相対性理論、相対性宇宙論ブラウン運動起源を説明する揺動散逸定理光量子仮説による光の粒子と波動の二重性、アインシュタインの固体比熱理論、零点エネルギー、半古典型のシュレディンガー方程式ボース=アインシュタイン凝縮などを提唱した業績で知られる。当時は"無名の特許局員"が提唱したものとして全く理解を得られなかったが、著名人のマックス・プランクが支持を表明したことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった。

それまでの物理学の認識を根本から変え、「20世紀最高の物理学者」とも評される。特殊相対性理論や一般相対性理論が有名だが、光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によって1921年ノーベル物理学賞を受賞した。

アインシュタインはユダヤ人だったため、ドイツを去り、アメリカに移住した。「神はサイコロを振らない」と言って、ボーアのコペンハーゲン解釈による量子力学を一生認めなかった。


ルイ・ド・ブロイ(Louis Victor de Broglie)こと、第7代ブロイ公爵ルイ=ヴィクトル・ピエール・レーモン(Louis-Victor Pierre Raymond, 7e duc de Broglie 、1892年8月15日 - 1987年3月19日)は、フランス理論物理学者

彼が博士論文で仮説として提唱したド・ブロイ波(物質波)は、当時こそ孤立していたが、後にシュレディンガーによる波動方程式として結実し、量子力学の礎となった。電子の波動性の発見により1929年ノーベル物理学賞を受賞した。

細かい間違いはあったようだが(シュレーディンガーにも間違いはあった)、ド・ブロイにヒントを得て、シュレーディンガーは波動力学を生み出した。ボーアもハッキリしないところもあったし、ハイゼンベルクもミスしてベソをかいた。間違っていいから、みんなどんどん研究して物理学を発展させて欲しい。

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