刑事の過去

文字数 12,205文字

 夏休みの小学校は昼間だと言うのに静まり返って、蝉の声だけがやけに煩い。桜の木の下に蝉の抜け殻がいくつか落ちている。生徒のいない学校はまるで蝉の抜け殻みたいだと吉原は思った。
 予め出勤している当番の教師に電話を入れておいた。職員室に向かう廊下から覗く教室の机や椅子が玩具のように小さくて、自分も昔、あんな小さな椅子に座って授業を受けていたんだと、小さく微笑んだ。
 職員室の引き戸を開けると若い、地味な感じの女教師が首で会釈をして立ち上がった。
「江田と申します。」
吉原も会釈をして促されるままビニール・クッションのついたスティールの椅子に腰掛け、江田は奥に行き、それからお盆を両手で持って来て、茶飲みを吉原の前に置いた。吉原は例を言ってお茶を啜った。戸塚絹子の入れたお茶ほどではないがやはり熱い。クーラーで治まった汗がまた染み出してくる。吉原の母親は京都生まれでお茶にはうるさく、普段家族にお茶を入れるときでも湯飲みを暖めて、冷まし湯で茶を入れる。安いお茶でもそうすると甘みが出て美味しいのだといつも言っていた。今年の夏は久しぶりに母親のところへ行く時間があるかもしれないな、などと考えた。刑事と言う不規則な仕事で、ここしばらく母に顔をみせていない。時々佃煮煮や米なんかを送ってきたり、突然電話がかかってきて、ちゃんと野菜を食べなさいとか、和食が身体に一番いいんだから飲み屋でもいいから煮物や魚を出す店に通いなさいとか、でもお酒は控えめにね、などとこまごまとしたことを言われる。
 吉原には妹が生まれるはずだった。吉原がまだ小学校のときだ。まだ流産と言う言葉も知らないころだったけれど、母親が、妹、生まれる前に死んじゃったのよ、そう言って泣いていたのを今でもはっきり覚えている。だから父親が死んでからは、吉原にとって母はたったひとりの家族なのだ。
「まだ、見つからないのですね。」
江田が尋ねる。
「突然蒸発する人は意外なほど多いんです。事件というわけではないので警察としても少ない職員を動員してまで探すというわけにはいかないんですよ。」
「わかります。でも、あの丸山先生が蒸発とは考えにくいと思うんですけど。とっても明るくて、悩んだりするタイプとは正反対ですしね。」
「おっしゃることはわかります。今日お話を
伺うのも署の意向というより僕自身、なんだか納得できないんです。何かの事件に巻き込まれたんじゃないかって気がして。」
「刑事さんの第六感っていうやつですか?」
江田が言った。
「いえ、そんな大それたことではなく、明るく借金もなく女性関係もシンプルな健康で若い男性が突然消えた。そうなると、何かが起きたとしか思えないんです。」
「消去法。」
「そう、消去法です。あの、事件の前後、丸山先生の身辺で何かあったとか、学校の行事でいつもと違う行動をしたとか、生徒の父兄といざこざがあったとか、何でもいいです。何かありませんか?」
江田は腕を組んで小首を傾げた。下を向くと奥二重の小さな目の上に薄っすらとブルーのアイシャドウが見える。
「別に思い当たることはありませんけど、実は私もどう考えてもあの丸山先生が蒸発というのは腑に落ちないんですよね。だって、自信家で野心家というのが僕のモットーだって自分でいう人ですから。」
「自信家で野心家。」
吉原が言うと江田はくすっと笑って、
「ええ。丸山先生らしいっていうか、ドライで割り切っているところが私から見ると可愛いっていうか、まあ、そんな感じで女性にもモテたと思いますよ。」
「はあ。でもだとしたら年配の先生方にはあまり評判が良くないとかってことはないんですか?」
「中にはね、ちょっと批判的な先生も何人かいたけれど、校長先生や教頭先生には気に入られていたと思いますよ。何と言っても野心家ですから。」
 吉原は頷いた。敵がいないわけではない、ということか。江田に言われて批判的だという何人かの教師の名前を手帳に書き記す。
「例えば問題のある生徒さんとか、そういう方面はどうでしょうか?」
「四年生ですからねえ、いくら最近の子は発育が早いと言ってもまだほんの子供ですから。」
江田はそう言ってから、何かを思い出したように顔を上げた。
「事件とは関係無いかもしれませんが、しいて言えば、丸山先生のクラスにひとり、ちょっと問題のある女の子がいます。」
手帳に書く手を止めて、吉原も顔を上げた。
「学校生活に問題があるというのではなく、父親を事故で亡くして精神的にちょっと壊れた部分があるというか、父親が生きていると信じて疑わないというか・・・」
江田は真美のことを手身近に説明した。
「その生徒が丸山先生を嫌っていたかどうかはわかりませんけど、丸山先生の方が、なんていうか、苦手なんだよなあ、ってちょっと避けていたという風な感じですね。気味が悪いとか言っていました。」
 父親を自分のせいで亡くして精神の壊れた女の子。ちょっと気になる情報ではあるけれど、丸山の失踪にはあまり関係なさそうだな、吉原は手帳に書きながら思った。
「あのよろしかったら勤務日誌、ご覧になりますか?」
吉原が顔を上げた。
「ええ、どんな些細なことでも、何かの助けになると思います。」
江田がバインダーに挟まれた勤務日誌を重そうに抱えて来た。
「小学校の勤務日誌ですから大した事件や問題も無いし、あまりお役にたつようなこともないと思いますけど。」
 吉原はページを捲った。丸山失踪前の一ヶ月近辺のページを捲る。生徒の誰それが休んだとか、試験や課題、平凡な文章が淡々と並ぶ。吉原はいったんページを閉じて、一学期の行事を綴ったカレンダーに目を通した。新学期、花見、ゴールデンウイーク、課外授業。
失踪の二週間ほど前に課外授業があって、丸山が引率とあり、その日付のページを捲った。
 小石川植物園。下川辺真美が歯痛(?)。
 下川辺真美。翌日のページに下川辺真美、歯痛で病欠とある。
「このクエスチョン・マークは?」
「ああ、この生徒、例の問題のある子なんですけど、二年生の時に課外授業で勝手に列を抜け出した前歴があって、丸山先生は歯痛は仮病だ、とか言ってました。」
 吉原は納得して、他のページをぱらぱらと確認したけれど、平凡な小学校の平凡な日常が続く以外に特筆するような事件もイベントもみつからなかった。



 小学校を出て歩きながら吉原は下川辺真美のことを考えた。何かが引っかかる。
父親の死を否定し続ける女の子。いったいどういう子なのだろうか。吉原はふと、江田に聞いた下川辺真美の住所を頼りに真美の家へ寄ってみようと思った。
 途中に広がる石神井公園は、夏休みということもあって、サッカーや野球をする子供たちの嬌声があちこちで上がる。犬を散歩させる人々、お弁当を広げる姿も見えるのどかな、どこにでもある平和な風景だ。
 真美の家はモダンなコンクリート打ちっぱなしの二階建てで、屋上にたくさんの鉢植えが並んでいるのが見える。この辺りはかなり裕福な家庭が多いのだろう。アメリカの家みたいに芝生が広がっている大きな敷地の家も多い。真美の家はその中にあっては比較的小さめで、庭と呼べるスペースも外からは見当たらないけれど、直線的なコンクリートの壁に高級感が漂い、玄関のドアの横にセコムのシールも貼ってある。鉄の門のところの呼び鈴を鳴らそうとして手を止めた。窓のカーテン越しに赤い花を咲かせた鉢植えが見える。ベゴニアだろうか。レースのシンプルなカーテンに透けて室内の優しさが伝わる。俺はいったい何しに来たんだ。父親を亡くして寄り添って生きている親子に向かって、丸山先生の失踪の件でお宅のお子さんが問題があると聞いてちょっと話を聞かせて下さい、とでも言うのか。苦笑いをこぼし、手持ち無沙汰のまま署に向かった。収穫ゼロ。単なる失踪か、やくざかチンピラにでも絡まれたか、最近流行の親父狩りか。吉原はそんなことを考えながらも、真美のことがなぜか頭から離れなかった。




 真美は瑤子さんに行きと同じ石神井公園の所で降ろしてもらい、歩いて家に帰った。瑤子さん家に寄って行きませんかと提案したけれど、真美ちゃんが箱根から帰って来て、もっと優等生の格好をしているときに改めてお邪魔するわ、と言ってそのまま走り去った。
 家に帰るとお母さんが玄関にやってきて、
「憧れの先輩に会えた?」といたずらっぽく笑った。真美は、
「うん。会えた。ものすごく憧れている先輩とお昼を一緒に食べて幸せなの。」
「良かったわね。一緒にマック食べた?」
「もっと美味しいもの。そしてカプチーノ。」
カプチーノ?真美が言うと、お母さんは不思議そうな顔をした。真美はお母さんの手を取って、
「ねえお母さん、私、お母さんが本当に大好き。」
そう言って、お母さんに抱きついて、それから洗面所で手を洗い、二階の自分の部屋にカバンを置きに走った。お母さんは階段の下から、真美の後ろ姿を眺めて、ため息をついた。もうすぐ十歳。真美も一人前に恋をする年頃になったってことね。
そう思って小さく笑った。
 カバンを置いて、いつものようにお父さんの書斎に行こうとして、真美は思い立ってそっとお母さんの部屋に行き、仏壇の前に座る。
「天国にいるおじいちゃんとおばあちゃん、お母さんと真美を守ってください。」
そして心の中で、お父さん、お母さんと一緒に箱根に行きます。仕事の忙しいお父さんが一緒に行かなくてもお父さんの魂が私の心の中で一緒に旅をするから寂しくありません。そう呟いた。
  そして真美は書斎に行った。お父さんがいつものように微笑んでいる。真美もいつものように緑色のソファーに座った。
「ねえ、お父さん、真美は今練習しているの。こうやって練習すればいつでもどこでもお父さんと話ができる。お父さん、真美がお父さんを心から求めると心が繋がって、お父さんの魂は真美といつも一緒にいられるって瑤子さんが言ってたの。お父さんもそう思う?」
お父さんが静かに微笑んで言った。
「瑤子さんの言うとおりだ。真美が望めばお父さんはいつでもどこでも真美と一緒にいられる。真美がお父さんを必要である限り、お父さんが真美の側を離れることは無いんだよ。」
 真美はお父さんに言われて、心の中にお父さんの魂がすうーっと静かに入って来たように感じていた。心が望めば魂はそこに留まることができる。そしてその魂と話が出来るようになる。



 自宅のマンションのベッドに横になり、吉原は天井を眺めながら、真美のことを考えていた。行方不明の教師と心に傷を持った少女。署に戻って、杉浦に収穫無しと告げると肩をたたかれ、まあ、やるだけやって自分が納得すればそれでいいんだ。考えてみれば疑問を持って徹底的に当たるってのが刑事の基本だからな。刑事なんて、九十パーセントが徒労だ。でも残りの十パーセントでほとんどの事件が解決する、そう言われた。山崎は例の新田幹也にかなりの余罪がありそうだ、と言った。強盗事件の前に夜道を歩いていたOLを襲って金を奪ったことを自供したと言う。OLの方は強姦されたことを恋人や家族に知られたくなくて、届けを出していなかった。
 奴が教師を殺した可能性もあるんじゃないか?あいつなら、教師だろうと勤め人だろうと何も考えないでナイフ突きつけて金奪うんじゃないか。しかし杉浦は、あいつは自分よりガタイのいい若い男なんて狙わないって。俺みたいな年寄りに後ろから襲いかかるくらいが関の山だ、と言った。
 吉原には恋人はいない。学生時代に同じ大学の女性と卒業する頃まで付き合っていたけれど、彼が刑事になりたいというと、あっさり振られてしまった。まず犯罪者と関わるし、不規則だし、危ないし。私は一流企業のエンジニアになって海外赴任があるような人と結婚したいのよ。あなたにはそういう道が約束されていたのに馬鹿みたい。刑事なんて、かっこいいのはテレビドラマの中だけ。そういうテレビ観て偶像の刑事に憧れる、ミーハーで短絡的で献身的な女の子でも探すべきね。そう言われてショックじゃなかったと言えば嘘になるけれど、その後は傷心する暇もないほど忙しかったから、気がついたら彼女のことも思い出のひとつとして消化されてしまった。
 吉原の父親は富山でYKKの下請け工場を経営していた。いわゆる町工場だ。裕福というほどではないけれど、母親に専業主婦をさせて充分に暮らせる収入があった。父は米を作る農家の出で、中学校を出てすぐにYKKの工場でラインの仕事についた。勤勉で飲み込みも早かったから、すぐに精密機械を扱う高度な仕事を任されるようになった。そんなおり、米の収穫で畑に出ている祖父がくも膜下出血で亡くなり、祖母と相談して土地を売り、それを資金に小さな工場を建てた。真面目で正直な父親は人望も厚く、YKKの工場の上司たちが仕事を世話して回してくれた上、ついでだと見合い話しを持ってきた。父は学歴は無いけれど、当事としては珍しいくらい長身で顔立ちも良かったから、見合い話はとんとん拍子で進んだ。母親は京都の佃煮屋の末娘で、結婚する時、母親の実家が資金を助けて家を建ててくれた。
 工場は順調だった。バブルはとうに過ぎていたけれど、受注は安定していた。父親は自分に学歴が無い分、吉原の教育には非常に熱心だった。学歴が無いと人生はスタートから遅れを取るんだ。お前にはそういうハンディを背負わせたくない。吉原が中学校に入ってからも、とにかく一番を取れ東大に行け、と口癖のように繰り返した。吉原はそんな父親の言葉に取り立てて反発することもなく、順調に県立の進学高校に進んだ。
 そんな折り、工場で働く工員のひとりが大きな話を持って来た。その頃YKKは通信部品を作っていて、父親もその関連の金型に穴を開けるピンの製作を始めた。ハードメタルの研磨に二ミクロンの誤差も許されない超精密金型部品。ひとつのピンを作るのに一時間以上の集中力を必要とする見返りに利益は大きかった。工場でそのピンを作れるのは手先の器用な父親と、父親が育てた熟練の工員ひとりだけだ。まだ見習いだったひとりの若い工員はその過程を眺めて、社長、うちの技術はすごいですよ。いっそ金型本体を作ったらどうですか?ピンは高いったって一本十万ってところでしょ。量産となったら当然価格は叩かれる。金型だったら一台数千万ですよ。ピンでこれだけの利益なんだから金型自体をうちで作れれたらどれだけの利益が入ってくると思います?父は笑った。話は魅力的だけどそんな設備投資が出来るような金は無いし、頭下げてまで借金するのはごめんだ。うちは堅実精神でここまでやって来れたんだから。しかし若い行員は熱心だった。社長、俺、中国にコネがあるんですよ。中国に工場を作りましょう。今、中国が熱いんですよ。
 始めは相手にしなかった父親だったけれど、その工員の知り合いだという上海の実力者だという中国人に無理やり合わされて、欲が出た。その男は金沢日航ホテルのスイートルームを事務所にしていて、高級スーツを身につけ、キューバ産だという葉巻を口にくわえて、父親を今まで行ったことのないような金沢の料亭や旅館に連れまわし、連日のように接待した。社長、お宅の技術と私の大陸でのコネクションがタグを組んだら無敵だ。中国人のビジネスはまず繋がりなんです。私は中国政府の高官だって酒を飲み交わす間柄なんです。中国人は繋がりがあれば信用して惜しみなく金を出す。社長、私に任せてください。確実です。父親は有頂天になった。高級料亭の舌がとろけるような酒と料理、女体盛りの刺身。雰囲気と酒に酔った勢いであてがわれた若い女も抱いた。女の口の中で達するというのも初めてだった。若い娘に「もう社長さん以外の人じゃだめなの。」などと言われ、免疫がなかったから甘い蜜に溺れるのは容易だった。そして母親や吉原にはなんの相談も無く自宅と工場の土地を担保に銀行で億を越える額の融資を受け、賭けに出た。中国人は、事業を起すというのは多かれ少なかれ賭けなんですよ。社長、ここで男になってください。成功すれば息子さんをハーバートに留学させてMBAを取らせることだってできるんですよ。
その言葉が決め手だった。学歴の無い父親は、息子だけには自分のような出遅れた人生は歩ませたくなかった。そのことが父親の最大の強さであり、最大の弱点でもあった。
 LCを開くから絶対安心だと言われたけれど、だいたいLCの書類は銀行が発行するということすら知らなかったから、彼らにすれば蚊を潰すより容易だったろう。気がつけば金も中国人も若い工員も煙のごとく消えていた。中国人の名刺の電話番号は現在使われておりませんというテープが流れるだけ。何回も訪れたスイートルームにはどこかの観光客が泊まっていて、ホテルの人に泣きついてもお客様のプライバシーだからと取り合ってくれない。銀行の返済期日が迫る。警察に駆け込んで事情を説明したけれど、詐欺というのは仮に捕まえることが出来ても金が戻って来る可能性はほとんど無いと言われた。父親が出来ることは家族を守るために死ぬことだけだった。
今、自分が死ねば保険金が入る。工場を売却して、法人個人の保険を足せば自宅は何とか残るかもしれない。家族が路頭に迷うことは無いだろう。父親は遺書を書いた。吉原宛にはどんなに苦しくてもとにかく勉強して奨学金を得て国立大学に行ってほしい。お父さんはそのために死ぬのだから、そう書いてあった。
 父親の死体を発見したのは吉原だった。自室で首を吊っていたのを、学校から帰宅して発見した。母親は台所で夕食の支度をしていた。まず考えたのは母親にその状態を見せないこと。父親の死体を畳に降ろして汚物をふき取った。自分でも驚くほど冷静だった。父親が度々酔って帰宅したり母親に突然ブランドのハンドバッグを買ってきたりして、様子がおかしいと懸念する反面、父親のことを疑ってはいけないと思っていた。だから涙が出たのは葬式が終わって初七日の夜だった。
その夜、吉原の自室の机の中に父の日記をみつけた。父親が日記なんかつけていることすら知らなかった。そして最初のぺージに「光芳へ」と書いた紙が挟まっていた。日記は若い工員が話を持ちかけたところから始まり、死ぬ前の日で終わっていた。父親自身、最初から不安を感じていたのだろう。そして母親に見せられないような内容もあった。接待や浮気の話がこと細かく記述されていたのだ。だから父親はそっと吉原の机に忍ばせた。誰にも言えなかった自分の過ちを息子にだけは打ち明けたかったのに違いない。最後のページに、光芳が大学に入ったら一緒に酒を飲みたかったなあ、それが出来なくて父さんは本当に悔しい。人を騙しちゃいけないが騙される側には絶対なるな、と綴ってあった。吉原は読み終えてから翡翠海岸にひとりで行って、日記を燃やしながら、声を抑えて静かに泣いた。
 吉原は東大ではなく、奨学金を得て東北大学の工学部に入学した。始めはエンジニアとしての自分の将来に疑問などなかった。けれど四年になって就職活動を控え、ふと、自分がやりたいことは製品開発や集積回路の設計などではないことに気づいた。突然、刑事になりたいと言い出した吉原に、母親は猛反対した。けれど一歩も引かない吉原にそれ以上は何も言わなくなった。言えなくなったと言う方が正しいかもしれない。田舎の町で夫に自殺された妻に対して、同情の言葉とは裏腹に関わりを避ける人々の視線が、勝気で行動的な母親を打ちのめしてた。幸い両親が健在な母親は家屋を売り払い、京都の実家に戻って佃煮屋を手伝うことになった。
 理不尽だと思った。父親が何か悪いことをしたわけではない。なのにみんな父親が馬鹿だったと影で笑う。強姦されて一番傷ついているのは犯された女性なのにその女性を傷物だと責めて立ち去る男たちがいる。家族を殺された人々は被害者なのに世間がその人たちを遠巻きにする。吉原は正義感で刑事になろうと思ったわけではない。ただ、そういう理不尽な扱いをされる人々の気持ちをわかる自分が事件に関わって解決したいと思った。父のためではなく、自分が納得するために。


 瑤子は書きかけの論文の筆を止めて、ふと窓の外を眺めた。研究室の窓から見える空に入道雲が浮かぶ。青と白のコントラストに真夏の景色の思い出が重なる。海、スイカ、花火、浴衣、祭り。真美に出会ってからの自分の行動が自分でも信じられない。けれど、すべてが起こるべくして起こった。頭で考えて実行したのではなく、何かが心の中から持ち上がってきて、瑤子はただその何かに従っただけだった。そして、今、とても平和だと思った。遠い夢が実現した。これからは自分自身として自分が感じるままに暮らしていける、
そう思うと心がとても静かにそよいだ。池の水を風が揺らすように。私は心に小さな石を投げた。だから今その小さな揺れを身体に感じている。その波が収まったら本当の自分の人生が始まる。

 道家さん。

呼ばれて振り返ると、工藤が立っていた。
工藤は汗を肘で拭きながら、
「刑事だって人が瑤子さんに会いたいっていうんですけど。」
「刑事?」
瑤子は心臓が大きく跳ね上がるのを感じた。どうして刑事が私に会いに来るのだろう。
「ほら梅雨の時期、虫歯になって瑤子さんが相手をした女の子いたじゃないですか。あの時の引率の先生がなんだか失踪して、その件でその先生の様子とか聞きたいとか何とかで、僕もいろいろ聞かれたんですけど、別に変わった様子も無かったですからねえ、普通でしたよって答えましたけど。」
瑤子は微笑んだ。
「そういうことなの、わかったわ。」
瑤子は立ち上がり、刑事を応接室に通すように工藤を促した。
 瑤子が応接室のドアを開けると、若い刑事が立ち上がった。
「お忙しいところを大変失礼致します。」
 礼儀正しさに安堵して瑤子はこの若い刑事を眺めた。端正な顔立ちの、背の高い刑事だ。ちょうど丸山と同じくらいの背丈。
「本当はそんなに忙しくないの。ちょうど一休みしようかなって思っていたところですから。」
瑤子は言った。そして、
「そちらにお掛けになって待ってて下さる?今すぐ、お茶を入れて来ますから。」
そう言ってドアに向かうと、
「あ、どうぞお構いなく。」
刑事が手を振った。
瑤子はにっこり笑った。
「お気になさらないで、私が飲みたいんだから。」
そう言って部屋を出た。
 綺麗な人だな。吉原は思った。すらっとした長身、顔が小さくて、まるで女優みたいな存在感だ。後ろ姿にまで品が見える。
 ほどなく、瑤子がお盆を抱えてやってきた。
「九谷焼ですね。」
ブルーと黄色の湯飲みを見て吉原が言った。
瑤子が驚いた顔で吉原を見た。
「あら、お詳しいのね。」
「僕、富山の出身なんです。金沢は隣りですから。」
「そうだったの。」
瑤子が朱の茶たくにそっと湯飲みを置いた。
薄いピンクのマニキュアを塗った爪が短く切り添えられている。吉原はそれを眺めながら、輪島塗の美しい曲線を描く茶たくから湯飲みに手を伸ばした。ほんのり暖められた茶碗の中のお茶はふっくらと甘みがあり、ふと母親の顔を思い出す。
「とても美味しいお茶ですね。」
「八女茶。福岡のお茶よ。私は福岡の出身なの。」
瑤子はそう言って、自分もお茶を啜った。
「お茶自体もそうだけど、お茶を入れるのが上手なんですね、こんなに美味しいお茶は本当に久しぶりです。」
「お茶の味に詳しい刑事さんって、なんだか不思議な感じ。」
瑤子が微笑んだ。鼻に小さく皺が寄った。
「母がお茶に煩い人だったから。東京に来て、美味しいお茶に巡り合うことはあまりないから、嬉しいです。」
「植物を研究している身としては、お茶の持つ最大限の力を引き出してあげないと、研究者失格ですもの。」
「何を研究なさっているんですか?」
吉原が聞いた。瑤子は湯飲みに目を落とし、それから、
「父が医者なんです。だから処方箋の薬の多くの原料が植物だということに興味を持っていたんです。美味しい食べ物でもあるし、美しい花も咲かせる。病気を治したり、痛みを和らげる力も持っている。そういう植物の力をもっと知りたくなって。優雅な身分だと呆れられるわね。趣味が高じて職業になってしまったみたいなものだから。でも始めてしまったら意外なほど奥が深くて止められなくなってしまって。今ではりっぱなオタクね。」
そう言うと吉原を見て再び微笑んだ。花に魅せられた美女。印象派の絵画のタイトルみたいだと吉原は思った。
「あ、遅れましたけど、僕、吉原と申します。」
吉原は慌てて名刺を差し出した。瑤子は名刺を見て、
「あら、捜査一課って殺人とかもっと重犯罪を扱う所だと思っていたけれど、丸山先生は殺されたということなのかしら?」
そう言って、大きな瞳で興味深そうに吉原の顔を覗きこんだ。
「丸山先生の件は単なる失踪かもしれませんが、一応いろいろな可能性で調べたほうがいいと、個人的に思って。」
「個人的に思って。あらゆる可能性を考えることって、私の仕事に似てるかもしれないわね。」
吉原が頷いた。
「下川辺真美という生徒の相手をここでなさった、とお聞きしましたけれど。」
「あら、工藤君の話だと、失踪した先生の行方を捜していらっしゃると伺いましたけど。」
瑤子が言った。
「すみません。本来はそうなんですけど、ちょっとその生徒さんのことが、個人的に気になって。」
「個人的に気になって。見た目もそうだけど、あまり刑事さんらしく無い方ね。」
「よく言われるんです。もっと刑事らしくしろって。」
そして吉原が真美のことに少し触れると、
「知っています。私、真美ちゃんのことは良く知っていますから。」
瑤子が言ったので、吉原は顔を上げた。瑤子は続けた。
「真美ちゃん、最初、心に傷があるなんて信じられなかった。あの先生、丸山先生、っておっしゃったかしら、先生がうちの工藤に真美ちゃんのことを話して、工藤が私にそっと耳打ちした。それで気になって真美ちゃんと話をしたの。今でも交流はあるのよ。私、大学の時に児童心理学のゼミを取っていたし、あつかましいかもしれないけど、真美ちゃんには理解して信じられる大人のアドバイスが必要だと思った。もちろん私が真美ちゃんと話をして、とても好きになったという前提があったからなんだけれど。」
「そうだったんですか。」
「それで、丸山先生の件は警察としてはどう扱っていらっしゃるのかしら。」
「今の段階では何も言えません。丸山先生の印象はどう思われました?」
「印象とおっしゃっても、ほんの一瞬お会いしただけですわ。今時の若い男性っていう感じかしら。取り立てて変わった様子も見当たりませんでしたけど。お役に立てなくて申し訳ないけれど。」
「そうですよね、すみません。一応、失踪前の行動に関わった人すべてにお話を伺おうと思っただけで、特別な疑問があるわけでもないんです。本当、お忙しい所を失礼致しました。」
立ち上がる吉原を瑤子が止めた。
「あの。」
吉原の顔を少し見上げて、瑤子が微笑んだ。
「よろしかったら、薬草園でアサツキの花をご覧になっていらっしゃらない?」
「アサツキ?」
「そう、薬味に使うアサツキ。とても綺麗な花を咲かせるの。今、満開よ。」
吉原は瑤子に促されて並んで歩いた。
「先生はみつかりそうもないんですね。」
「むずかしいですね。人で溢れ、連日犯罪の切れ間のない東京で、教師がひとり消えたくらいじゃ事件とも呼べませんからね。血痕だとか死体でも見つからない限り、単なる蒸発で片付けられてしまう可能性は高いと思いますよ。」
「そうですか。人がひとり消えてしまったのにね。」
吉原が振り向いて瑤子の顔を見た。
「僕もあなたとまったく同じように考えたんです。人がひとり消えてしまった。それでお終いって納得出来ないんです。田舎育ちだからそんな風に考えてしまうのかもしれませんが。」
「私も同じだわ。地方育ちですもの。」
ふたりは眼を合わせて笑った。
突然吉原の目の前が一面紫色に染まった。
「うわあ、綺麗ですねえ。」
瑤子が頷く。
「アサツキがこんなに綺麗な花を咲かせるなんてご存知無かったでしょう?」
「ええ。なんだか優しい景色ですね。こうしていると、東京にいることを忘れてしまいそうです。」
ふたりは少しの間、無言でアサツキの花を眺めた。吉原は遠い昔にこんな風景を眺めたことがあるような気がした。子供の頃、家族でどこかに行って眺めた景色。同じ高さに咲く無数の花を見ていると、子供の頃遊んだ原っぱの草の感触を思い出す。無邪気に草と戯れていた頃の自分を。
「野の花は心を洗い流してくれますね。」
瑤子は吉原を見た。少し驚いた顔をして、少しの間吉原を見つめた。吉原も瑤子を見つめた。そしてまるで我に返ったように首を振り、瑤子が静かに微笑んだ。
「そうなの。だから私は花に心惹かれるの。植物は美しいだけでなく、人々の病を治し、動物の生命を守り、何より自然環境を司っているの。神様が地球に植物を植えたから私たちの営みがあるのよ。」
瑤子が花を眺めながらそう言った。吉原も花を眺めたまま頷いていた。


 吉原は電車に揺られながら瑤子のことを考えていた。会ったばかりの女性に強烈に惹かれている自分がいる。単に美しいというからでなく、彼女の凛とした立ち振る舞いと意思の強さ、彼女が吉原に伝えようとしたメッセージ。物の感じ方や考え方が吉原に驚くほど似ている、そう思った。今まで会ったどの女性にも感じたことの無い強い連帯感を感じる。花を眺めているときに、一瞬、瑤子を抱きしめたいという衝動に駆られた。そう思って、吉原はひとり苦笑いをした。とびきりの美人で育ちも良くて、俺なんか相手にするわけが無い。
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