最後の願い

文字数 19,264文字

 スター園芸はかなりの規模の園芸店で、店内は生花コーナーとインドア・プラントのコーナーに別れ、隅の方には様々なデザインの鉢が積み重ねられている。中央には所々に花を咲かせる大きな岩があって、その岩に沿って水が滝のように流れて、涼しげな音が店内に広がる。屋外のスペースは更に広く、大振りのアウトドアの苗木の鉢がぎっしり並び、その奥には背丈を越える木々もいくつかある。  
 瑤子の家の前で出会ったあの男の姿は見えない。まだ忙しく花を配達してまわっているのだろう。店長は手帳を見せると好奇心を露にした顔で、コンピューターの画面から瑤子が夾竹桃を買い求めたときの購入伝票をプリントアウトして手渡してくれた。
伝票の日付は吉原失踪の日付けの僅か二日前。これは偶然だろうか。
 店主に礼を言って店を出ると、吉原はそのまま署に向かった。彼女は植物の専門家だ。植木を買うこと自体、何の変哲も無い日常の一部に過ぎない。梅雨時に買ったのは、それが時期的にその種の樹木に適しているから買ったということも考えられる。実際、あんなに木が大きく育ってたくさんの花が咲いていたじゃないか。吉原はそう、自分に言い聞かせた。
 けれど、園芸店の男が言った穴、シャベルで格闘という言葉になんだか不吉で嫌な感情を覚えた。そして、深い穴を想像していて、あの夜の、瑤子の顔が再び頭に浮かんだ。それからはまるで連鎖反応だった。
 最近の子ってみんな染めてるでしょ。確かあの女性、珍しく黒い髪だったわ。
 戸塚絹子の言葉が蘇る。それから瑤子さんは髪を染めないなだなあ、という自分の言葉。背は普通。瑤子は長身だ。ジーンズにはミュールね。美紀の言葉。ハイヒールの女性に見慣れていたら、スニーカーを履いている女性の背は実際より低く見えるはずだ。
 俺は何を考えているんだろう。吉原は被りを振った。偶然その時期に植木を買って、たまたま彼女が黒髪だった。それだけで短絡的に彼女が関わっていると疑う自分の無謀さに呆れた。瑤子さんが丸山を殺さなければいけない理由なんてどこにもない。強いて言えば真美ちゃんが丸山を嫌っていた。そして瑤子は真美に関わっている。でもそれだけで結びつけるのは馬鹿げている。第一、物理的にあんな華奢な女性が百八十センチ近くある頑丈な大の男を誰にも知られずに殺すことは不可能だ。どの方向から見ても、論理にすらならない。けれど、丸山と歩いていた女性と瑤子は条件的には見事に一致する。身近な誰かの死とその原因。真美と瑤子。偶然で片付けるにはあまりにも奇遇な偶然だ。梅雨、深い穴、黒い髪、自殺。吉原は闇に続くこの不吉な連想を心の中で反芻した。




 瑤子を乗せたタクシーは首都高速を降りて春日通りに入った。時計を見ると午前4時。宵っ張りの若者たちも早寝早起きの老人や子供たちも皆深い眠りについている時間。鳥のさえずりも犬の遠吠えも聞こえない、街が束の間の静寂に満たされる時間。すぐにでも吉原に会いたい、でも彼も今頃は静かな寝息をたてているだろう。闇に浮かぶ顔が再び心に浮かんだ。真摯でせつないあの眼差し。
 タクシーを降り自宅に続く引き戸を開けると、慣れ親しんだ匂いを感じた。古い木と花々、東京のスモッグが混ざり合った瑤子の住む小さな世界の香り。
 玄関のドアを開けてリビングに向かい、ダッフルバッグを床に置くとソファーに身体を沈め深呼吸した。心が震えている。運命が瑤子を導く。何年もの間、土の中で命を育み、ようやく地上に出て透明な羽で空を飛ぶ蝉のように、私はようやく自分自身として羽ばたき、残された時間を透明な心になって生きる。そして真美のこと。真美ちゃんのために私が出来ること。しなくてはいけないこと。
 窓の外、カーテン越しに空が白んできた。瑤子は暑いシャワーを浴びてベッドに横たわった。そしてベッドサイドの受話器に目をとめ、受信音をミュートに切り替えた。柔らかな睡魔が瑤子を包み始めた。冷たいシーツの中で、昆虫が羽を畳むように静かに目を閉じてそのまま深い眠りに落ちた。




 真美を学校に送り出すと、真美のお母さんは朝食の洗い物を片付け、ダイニングテーブルに肘をついて、昨日発売の婦人画報のページを捲った。この秋に着るデコラティブなジャケット。キノコ尽くしの秋の献立。肌年齢が若返るチークカラーと口紅。
 身体にフィットするクチュールのジャケットを着て微笑む生活感の無いモデルの姿を眺めながら、最近服も化粧品も買っていないな、と一人呟いた。あの人が死んでしまって、私は女ではなくなってしまった。真美の母親であること以外の自分を放棄している。
 雑誌を閉じて立ち上がり、かつての夫の書斎へ向かった。真美がいる時には決していかない部屋。こうやってひとりの時間に訪れる場所。ドアを開けてチェリー素材の大きな机の上に飾られた夫の写真を見つめる。あのときからずっと同じ微笑みでこの家を守り続ける夫の姿。真美のお母さんは写真に向かって語りかけた。

どうして真美にだけ、あなたの姿が見えるの。どうして私にはあなたの声が聞こえないの。

そう写真に話しかけるときだけ、真美のお母さんは泣くことが出来た。密やかに泣くことで心が静まり、親子ふたりだけの生活の不安を紛らわすことが出来た。真美を守っていくのは自分ひとり。けれども心の中に残る、夫への想いが心細い生活を支えてくれる。時々ひとりきりの時間にここに来て、密やかに泣くことは、生きていくために必要な儀式なのだ。


どのくらい時間が過ぎたのだろう。真美のお母さんは電話の呼び出し音で我に返り、涙を手でぬぐいながら慌てて階段を降り、キッチンの壁に掛かっている受話器を取った。
「もしもし」
「下川辺でございます。」
「あ、私、お宅の真美ちゃんと親しくさせて頂いております、道家と申しますが。」
「道家さん?」
瑤子は真美とのいきさつを説明した。真美のお母さんは、あっと声を上げた。ひょっとしてカプチーノの味を真美に教えてくださった方、と受話器に向かって叫んだ。瑤子は、はい、と返事をして真美を連れていったフランス料理の店の話や、自分の職業のことなどを説明した。真美のお母さんは東大の研究員という遥子の肩書きに心を許した。瑤子は最近、箱根に旅行したことを告げて、真美のお母さんは箱根の美味しいレストランやお寿司屋さんの話をして、瑤子は冨士屋ホテルの前の食器の店のことを尋ね、それから九谷焼や伊万里焼の話に及んだ。
「お母様、お願いがあるのですが。」
ひとしきり話をした後、瑤子が切り出し、これから瑤子がしようとすることを真美のお母さんに説明した。お母さんはひどく驚いたけれど、最後まで聞くと、
「それで、真美の心を直すことが出来るのですね。」と言った。
「百パーセントではありませんけれど。」瑤子が言い、真美のお母さんが「わかりました。」と言って受話器を置いた。
 真美のお母さんはキッチンに行き、冷蔵庫からペットボトルを出してグラスに水を注いだ。それを一口飲んでテーブルに置くと、椅子を引いて座り、頬杖をついて先ほど瑤子の言ったことを反芻した。それから再び二階の夫の書斎に行き、夫の写真を眺めた。本当に真美の心を直すことが可能なのだろうか。

それを知っているのは、きっとあなただけね、
真美のお母さんはそう、写真に話しかけた。




急いで署に戻ってパソコンを立ち上げた。突然やってきて無言で机に向かった吉原に、杉浦が声を掛けた。
「今日は非番だったんじゃないか?」
杉浦はジーンズにポロシャツ姿の吉原を上から下まで眺めた。吉原はそれには答えず瑤子の名刺に綴られたウエブサイトを開いて瑤子の名を探した。
道家瑤子
東京大学理学部 付属植物園研究員
研究分野 植物生理学
サイト内に簡単な経歴と共に、瑤子の写真が載っている。いつものように髪をポニーテールにしてつるりとした額を見せているが、白黒の写真の瑤子は、何の感情も写さない瞳でこちらを眺めている。吉原はしばらくその写真を眺め、それからファイルをクリックして写真をプリントアウトすると、椅子を蹴って署を飛び出した。
「おい、吉原、どうしたんだ。」
杉浦が後を追いかけながら声を掛けた。
「いったい、何があったんだ。」
吉原が振り返って言った。
「まだ、何もわからない。だから調べているんです。」
「ひょっとして、まだあの教師の失踪の件を考えているのか。」
杉浦が言った。吉原は杉浦の言葉を無視して立ち上がり、無言のまま署を後にした。
杉浦はあっけに取られながら、そんな吉原の後ろ姿を見つめていた。



 戸塚絹子は老眼鏡越しに女性週刊誌を眺めている。表紙にはアイドルの笑顔、その横に赤い文字で芸能人の熱愛発覚、不倫疑惑等の文字が並ぶ。
「売り物なんじゃないですか?」
眼鏡を下ろした目が吉原を捕らえた。
「なんだ、刑事さん、久しぶりだね。まさか売り物を勝手に読んで逮捕ってわけじゃないよね。」
吉原は笑った。
「それじゃ職権乱用ですよ。」
「しばらくご無沙汰だから、あの件はもうギブアップしたかと思ってたわよ。」
そう言って、雑誌を元の場所に戻した。吉原はトライデントのガムをひとつ取って百円玉と十円玉を手渡した。
「相変わらず律儀だねえ。」
絹子はそう言って硬貨を受け取りレジにしまった。吉原はポケットから畳まれた白い紙を取り出た。
「この女性、あのときの女性に似ていませんか。」
「まだこだわっているんだねえ。もうだいぶたっちゃってるからお役に立てるかわからないけどね。最近物忘れが激しいって、美紀に文句言われててね。」
絹子は再び老眼鏡を掛けて写真を眺めた。
「うーん、似ているといえば似てる気がするけど。ごめんなさいね、はっきり覚えているわけじゃないし。」
そう言って写真を吉原に返した。
吉原は少し考えて、おもむろに胸ポケットからペンを取り出し店の雑誌を下敷きにして写真の髪の周りを黒髪で覆った。
「今度はどうですか。」
絹子は首を傾げ、それから吉原のペンをひったくり、写真に眼鏡を描いた。そして再び写真を見て、頷いた。
「かなり似てるかもしれない。」
そういってもう一度写真を見つめて何度も首を上下させた。
 吉原は絹子に礼を言ってプラットフォームを歩き出した。


彼女は自分と同じ記憶を共有している。初めて植物園で会ったときに感じた強い連帯感は自分が誰かの死の原因であるということ。そう思うと切なさで心がいっぱいになった。そして真美ちゃん。
でもいったいなぜ、丸山が関わってこなければならないだ。


 真美は学校から帰ると大きな声で「ただいま」と言って階段を駆け上がり、カバンを置いてキッチンに行き、手を洗った。真美のお母さんは真美を見ると微笑んで、
「ねえ、今日、瑤子さんて人から電話があったわ。」と言った。真美はうっそーっ、と言いながらテーブルの上のクッキーに手を伸ばして一口かじり、椅子を引いて座った。瑤子さん、なんて言ってた?真美のお母さんは冷蔵庫を開けて牛乳のパックを取り出し、グラスに注いで真美の前に置いた。サンキュ、真美が言って喉を鳴らして飲んだ。口の周りに牛乳が白い輪を作り、真美のお母さんは、可愛いな、と思って真美の頭を撫でた。
「自己紹介してくれた。それから真美と会ったいきさつとかを説明してくれて。」
「それでそれで。」
真美がお母さんの顔を覗き込む。
「今度一度、お食事をご一緒しようということになったの。瑤子さんとお母さんと真美と一緒に。カプチーノの美味しいフランス料理のレストランで。」
「本当?」
「本当よ。今度の土曜日。」
やった~!。真美が叫んでお母さんに抱きついた。やったやった、真美が言って両手を上げて小躍りした。真美のお母さんはそんな真美を静かに見つめた。。




 瑤子は夢を見た。
 闇の中、土の上に瑤子の身体が横たわっている。堅く目を閉じ、黒い艶やかな髪が顔のまわりから地面に扇状に広がる。その身体から白い靄が立ち上がり、ゆらゆらと揺れながら柔らかい輪郭が少しずつ現れていく。それは瑤子と正恵が背中合わせに繋がった一体の身体。ふたりはお互いの背中に誰かの存在を感じているのにひとりが振り向くともうひとりも一緒に振り向いて、お互いの姿を確認できない。申し合わせてふたりで力を込めて身体を引き剥がしていく。するとふたりの身体の間からおびただしい量の血が溢れ出して血飛沫が円を描くように空中に舞い、月光に反射して、煌きながら花火のような円をいくつもいくつも描いた。やがて赤い色は暗闇の中で少しづつ光を失い、土の上に残された魂を失った亡骸は無数の細かいモザイクになって空中に浮かび上がり、光を失った血飛沫とモザイクが混ざり合い、漆黒の闇に吸い込まれていった。

 枕元の時計は十時を少しまわったところ。一瞬それが朝なのか夜なのか、それを確認するのに多少の時間がかかった。ベッドから半身を起こすと部屋の壁に、赤い光が小刻みに反射していることに気づいた。ベッドサイドに目をやると留守電のランプが点滅している。
血の夢を見たのはこれのせいだと納得した。   
 瑤子は留守電のメッセージを聞かずに消去して、ベッドから降りてバスルームに行き、再びシャワーを浴びた。シャワーを浴びながら琢磨が今ここにやってくる可能性を考えた。
彼はプライドの高い男だ。理由を問いただすような下品なことも、懇願することもないだろう。そんなふうに考えながら、服を身につけていると玄関の呼び鈴が鳴った。瑤子はびっくりして小さな声を上げた。瑤子は大きく息を吸い込み、シャツのボタンを留めて玄関に向かった。
 立っていたのは吉原だった。瑤子は金縛りにあったようにその場に立ち尽くし、吉原も何も言わずに瑤子をみつめ、ふたりは少しの間、そうやってお互いをみつめ合った。
「上がっていらっしゃる?」
瑤子がようやく声をかけた。声がかすれる。身体の中心から熱い、激しい想いが泉のように湧き出していく。私が待っていたのはこの人。瑤子が吉原の顔に手を伸ばした。その手が届く前に、吉原が言った。
「庭の夾竹桃、綺麗ですね。」
瑤子は一瞬、息を呑んだ。
「梅雨の時期に買われた時は、あんなに大きくなかった。花も満開で、さすがプロは違いますよね。何か特別な肥料を使っていらっしゃるのですか。」
 身体が硬直して喉が渇いてゆく。吉原がそんな瑤子の様子を確認するように瑤子の顔を見つめている。険しい顔で。それだけで充分だった。
「確かめたいことがあるんです。」
「確かめたいこと?」
身体が小刻みに震える。吉原が首で頷いた。
「何を確かめたいのかしら。」
「あなたの心に住むもう一人の女性のこと。」
瑤子は少し驚いた顔で吉原を見て、それから
「お化粧を済ませてくるからちょっとだけ時間を下さる?」
そう言って、家の奥に歩き出した。
「瑤子さん。」
吉原が後を追った。そして、後ろから瑤子の肩を抱いた。瑤子は吉原の手に自分の手を重ねて、振り返らないまま、「大丈夫よ、逃げたりしないから。」
と言った。それでも吉原は瑤子を離そうとしない。瑤子は振り返って吉原の手を取って言った。
「約束する。あなたからも自分からも逃げない。」
そう言って、ドアの向こうに消えた。

 瑤子は寝室のドアをしめてベッドに腰を下ろした。そして胸に手を当てて、高鳴る心臓を押さえるようにして呼吸を整えた。思ったより早く来てしまった。大きく響く心音とは裏腹に、自分でも驚くほど冷静だった。吉原と夜を共にしてから、こうなることは予想がついていた。そしてそれは瑤子自身が選択した人生なのだ。
 瑤子はコードレス・フォンをバスルームに持っていってドアを閉め、プッシュフォンを押した。ぴぱぴぽ、という小さな電子音に思わずドアの向こうを振り返った。そして電話に向かって話し始めた。

 
 数分後、瑤子は薄化粧を施し、先ほどとは違う服を着て、吉原を縁側に続く和室に招きいれた。ノースリーブの黒いサマーニットに揃いの足首までのスカートを履いている。
 縁側のガラス戸は開け放たれ、外から晩夏の光が降り注ぐ。美しい庭園には濃い緑の木が風を受けて無数の葉を揺らす。木々の緑のせいか、外の空気は夏のものなのに、涼しい風が部屋を満たして気持ちがいい。右の塀にそって夾竹桃がピンクの花を満開に咲かせている。吉原はその下の地面を眺めた。他の部分と寸分と変わらない地面。

「瑤子さん、ご旅行にいらっしゃってらしたんじゃないですか?」
瑤子が吉原を見た。
「どこかにスパイがいるのかしら、それとも刑事はどんなことでも調べられるってこと?」
「真美ちゃんが、僕が振られて可哀想だって慰めてくれました。」
瑤子が少し笑った。
「旅行に行ったのは確か。でもあなたは振られていないわ。だってあなたのことが忘れられなくて夜中に一人で戻って来ちゃった。」
吉原は瑤子を見て
「不思議ですね。旅行でいないってわかっているのにどうしてもあなたに会いたくて、自然に足が向いて。」
「思いが通じたのかしら。」
「思いが足りていたということだと思います。誰かのことをものすごく思うと思いが通じる、そう真美ちゃんに教えたのはあなたですよ。」
「そうだったわね。」

 瑤子がキッチンで吉原にお茶を入れて、黒いの漆のお盆に入れて持ってきた。そして朱色のテーブルにお茶を置き、テーブルを挟んで吉原と差し向かいに座った。紫色の花を咲かせるエメラルドグリーンの茶器に、同じ色の緑茶が小さく揺れている。それを眺めていて、吉原は急激に泣きたくなった。けれどそれを必死に堪えて、湯飲みを手に取った。
「毒が入っているかもしれないわよ。」
瑤子がそう言って、吉原の顔を見た。吉原はそんな瑤子の顔をほんの数秒だけ眺めて、お茶を一口飲んだ。
「勇気があるのね。」
瑤子が言うと、
「勇気なんて必要ないですよ。僕たちは心が繋がっているのだから」
吉原が言って、湯飲みを茶たくに戻した。
瑤子はそんな吉原をしばらく見つめて、それから部屋の隅の桐の茶箪笥のところに歩いていって、引き出しから黄ばんだ白い封筒を持ってきて、テーブルの上に置いた。封筒にはボールペンで書いたような文字で、
 道家搖子、私のたったひとりの友だちへ
と書いてある。吉原が封筒を手に取って中の手紙を取り出して瑤子の顔を見ると、瑤子が静かに頷いた。



 道家さん。この手紙が届くころには私は天国にいると思います。私の人生は最初から決まっていました。私の人生は幸せな人生を送る新幹線の線路ではなく黒い煙を吐く貨物列車の線路が引かれていました。最初に道家さんを見たときに私はあこがれました。なんてきれいでなんていいにおいがしてなんてしゃれた服を着ているんだろうって。私だって道家さんみたいにきれいにしたい。うちはビンボウでそんなきれいな洋服は買ってもらえない。そして道家さんが本当は私が嫌いだということもすぐわかりました。ちょっとずつ机をはなしたり、私と話していていやな顔をしたり。でもみんなの前では私と仲良くしているふりをする。それって偽善っていうの。私、学校の授業は好きじゃないけど、本は図書館で読んでるから知ってる。マーク・トウエインの王子と乞食っている本、知ってますか?ある日ひょんなことから王子と乞食が入れ代わっちゃうの。でも入れ替わったおかげでお互いのことが理解できて、王子も乞食も他人の気持ちがわかるりっぱな人になれるのよ。私は道家さんと入れかわれたらいいなって思った。ほんの数日でもいい。うちの親は子供はほったらかしだけど、人はいいの。曲がったことがきらいで、あの人たちは毎日真面目に生きてるの。自分たちに余裕が無いのに、要領が悪くてずるいことが出来ないから、ずっと貧乏。そんなときに道家さんがうちに来て、私は本当に傷ついた。私、道家さんがあなたの家の子じゃなくて良かったって書いたとき、すごく不公平だと思った。何もかもいやになった。徒競走で私は一番外側にいるのに同じラインでスタートさせられるみたいに、私のこれからの人生はずっと損ばかりしていくんだと思ったら、何もかもいやになった。がんばって生きていったとしてももう何も変わらないんだ、そう一緒に書いてあるのが私にはちゃんと見えた。私、家に呼ばなくちゃいけないような友だちを作らなかった。目立たないようにひっそり生きていればみんなにばかにされることもないもの。私はグリム童話が大好きでね。シンデレラが王子さまと結婚する物語とか読んで、自分もいつかって思ったりした。でもね。シンデレラだってとびきりの美人でもともとお金持ちのお嬢様だった。育ちって顔に出るでしょう。じゃなければ、ただの灰被りの貧しい娘を王子が好きになるわけないの。白雪姫たって、眠りの森の美女だって、みんな始めからお姫様。だからもともとお金持ちでもなくて美人じゃない私の将来は変えられない。カエルの子はカエル。貧乏の子は貧乏になる。
 道家さんみたいにずるくたって、きれいでお金持ちに生まれたら新幹線みたいに、窓から手を出すこともなく約束された目的地に自動的ににたどり着く。最後に新幹線に乗らなかったことは残念だけど、新幹線に乗ったら自分の人生にまた期待して、また絶望することになるから止めた。これから何回も何回も絶望したくないから。道家さん、バラにトゲがあってもみんなバラのことをきらいにならない。きれいだからトゲは許されちゃうんだ。どうしてだろう。道家さんが毒のある花だって誰も気がつかないで近寄る。それは私も同じ。最初に会って憧れていた気持ちのまま。意地悪されても憧れは憧れのまま。そのことが私をもっと絶望的な気持ちにさせる。誰かが天国に行ったらみんな平等だって言ってました。天国にはトゲも毒も悪い人もずるい人もいません。そして私は生まれ変わって道家さんになる。いいアイデアだと思った。そしてそのことがとても楽しみになった。だから死ぬことは怖くありません。まず死なないと生まれ変われないのだから。
私の魂は生まれ変わって道家さんになります。
そのことを絶対に忘れないで。


正恵


 読み終わって吉原は手紙を封筒に戻し、瑤子の前に置いた。
「幼いあなたはこれを読んでひどいショックを受けたでしょうね。」
吉原が言うと、瑤子は、
「お葬式が終わって家に帰ると母が玄関の
ところで私に塩をまいて、それからこれ、と言ってこの封筒を私に手渡した。ポストに入っていたって。瑤子さん、何かあったの?って。私は慌てて自分の部屋に駆け上がっていって封筒を破いたの。母がドアをノックしたけど、私、絶対に開けなかった。それから手紙を見せなさいって、とてもしつこかったけれど、私、絶対にみつからないように本棚の本の間に隠した。母親はびっくりしてたわ。親に反発したり隠し事することなんてなかったから。そして寝る前にひとりになって、何回も何回も読み直した。」
「そうやっているうちに正恵さんと会話が出来るようになっていった。」
瑤子が頷いた。
「いつからかしら。手紙はもう完全に暗記してしまって取り出すことはほとんど無くなった代わりに、彼女の形見のお人形に話しかけるようになったの。」
瑤子は庭に振り向いた。そして、淋しそうに微笑んだ。
「プラスティックのお人形。今は正恵の魂と一緒に安らかに眠っているわ。」
 吉原は立って、縁側のところに歩いて行った。
芝生の右側に塀の夾竹桃、ツツジの低い緑が続き、左側には色とりどりの花を咲かせた花壇。お決まりの芝生や白いテーブルなどもなく、美しいけれど、人間が入ることを拒否するような、まるで植物だけのために存在するような庭だ、と吉原は感じた。

「見事な庭ですね。まるで兼六園の一部を切り取って来たみたいだ。」
瑤子は座ったまま、庭を眺めた。庭からの逆光に吉原の姿がシルエットになった。そのシルエットが振り返り、吉原の顔が瑤子を捉えた。
「今でも正恵さんと話をしているんですか?」
瑤子は首を横に振った。
「もう話すことは出来なくなった。」
そう言って吉原を見た。吉原は瑤子の目を、何かを探すようにみつめて、そしてこう言った。
「六月から話をしていないということですね。」
瑤子が微笑んだ。
「そんなに単純なことではないのよ。うまく説明できないけど。」
「丸山健一、真美ちゃんの先生に会いにいかれたんですね。」
瑤子が顔を上げた。そしてゆっくり立ち上がり、吉原の隣に一緒に並んだ。
「簡単だったわ。」
吉原が振り返った。
「僕には理解できないんです。なぜ殺さなくてはいけなかったか。正直言ってここに来て、あなたの反応を見るまで単なる可能性のひとつだった。というより、その可能性を消去するつもりでここに来た。でも、あなたの顔を見て確信してしまった。」
瑤子はそんな吉原の目を見た。
「何もかも話すからひとつだけお願いを聞いてほしいの。」
「お願い?」
瑤子はこくんと頷いた。
「とても大切なこと。すべて話すから、夕方まで時間を頂きたいの。」
「夕方まで。」
「ええ。以前吉原さんに話したのを覚えていらっしゃるかしら?真美ちゃんの心から飛び出してしまったお父様の姿を」
「真美ちゃんの心の中に戻す。」
吉原が続けて言った。
「今日、真美ちゃんと会う約束をしているの。それが終わったら、あなたと一緒に行くわ。」
「僕と一緒に?」
「あなたの職場に。」
「これから夕方までで、それが出来るとおっしゃるんですか?」
「確信は出来ないけど、少なくともやってみる価値はあると思う。予定変更で少し乱暴なやり方になるけど。真美ちゃんだけは私みたいになってほしくないでしょ。安心して、真美ちゃんを傷つけることは絶対無い。真美ちゃんのお母様も一緒だから。」
瑤子は吉原の顔を見上げた。
「お願い。」
吉原は瑤子の手を取った。
「約束してくれますか?必ず戻ってくると。」
瑤子は微笑んだ。
「約束する。私たちは繋がっているの。あなたに嘘は絶対つけない。それを信じて。」
吉原が頷いた。そして瑤子が庭を眺めながら、淡々と丸山の殺害方法を語った。



「ふたつ聞きたいことがあります。」
吉原が口火を切った。
「ひとつめは最初に植物園でお会いした時、どうして僕を誘ったんですか?あの時一緒に花を眺めなければ、僕はあなたに惹かれることもなく、事件は闇の向こうに葬られたはずだ。」
「私が誘ったんじゃないわ。運命が私にそうさせたのよ。」
「運命、ですか。」
「そうよ。運命って逆らえないの。正恵が運命に逆らえないことを悟って死を選んだように。」
「僕はそうは思わない。人生は自分で選択できるはずだ。それに丸山健一の運命はどうなるんですか。彼には彼の自由な人生があったはずだ。あなたにそれを断ち切る資格は無い。」
瑤子が淋しそうに微笑んだ。
「彼が真美ちゃんの担任になって、私とめぐり合ったことも彼の運命。運命を選択出来ると思うあなたは、あなた自身の運命に気づいていないだけ。」
「あなたは運命という言葉に縛られているだけだ。僕は自分の運命に気づいたとしてもその運命に拘束されて生きていくつもりは無い。」
「切り開いていけるなら運命とは呼ばないんじゃないかしら。身体が親からDNAを受け継ぐように、心は生まれたときの運命を引き継いでいく。」
「そういう風に考えるの悲しすぎます。」
「悲しくたって仕方ないのよ、少なくとも私たちの場合は。初めて本当に誰かを好きになった。もっと違う形であなたに出会えていれば、と思う。でも丸山を殺さなければ、あなたにたどり着けなかった。それ以外にあなたに巡り合う手立てはなかったはず。それでもあなたは運命を否定する?」
瑤子は手相を見るみたいに自分の掌をみつめた。まるでそこに描かれた運命の線を読むように。吉原はその問いの答えを捜した。けれどどうしてもみつからない。
「瑤子さんの心の中で、正恵さんの心はどのように共存しているのですか。」
「お互いの心がお互いを侵食し始めて、お互いがお互いを必要とする以上に邪魔になってきた。私の中の正恵が瑤子に嫉妬して、瑤子の心を追い出そうとする。私の中の正恵がだんだん大きく心を支配して私自身の居場所がなくなっていった。だって正恵は私になりたかったんだから。死んでから入れ替わる。それが彼女の激しい望みだったから。」
「わからないな。それと丸山を殺したこととどう結びつくのですか?それがふたつめの質問です。」
「魂を葬る身体が必要だった。身体が無いと空中を彷徨って、結局元の場所に戻ってきてしまう。丸山はもともと空っぽな男だったから都合が良かった。そしてお喋りで軽薄。私のいる世界に属さない男。」
「あなたの考えは。」
吉原が口を開いた。
「常軌を逸している。」
吉原がそう言うと、瑤子が遠くをみつめるように呟いた。
「瑤子が家に来て、それから心が壊れてしまった。壊れた心はもう元には戻れない。」
吉原が顔を上げた。
「瑤子が家に来たとき?」
「そう、あの時。」
吉原は瑤子の顔を数秒眺めた。
「ひとつ質問が増えた。」
瑤子が吉原の目を見返した。
「瑤子さんが丸山と一緒に葬ったのは瑤子さんの魂ですか?それとも正恵さんの魂ですか?そして今ここにいるあなたは、瑤子さんですか、正恵さんですか?」
瑤子は目を逸らして、また掌をみつめた。
「それを自分でわかっているつもりでいた。でも今はわからない。私たちはふたりでひとつなのよ。シャム双生児みたいにね。片時も離れずに一緒に育って、いろいろなものを共有していた。ひとり追い出してしまえば平和だと思っていたのに、追い出したつもりが自分の心の一部まで失ってしまった。」
「真美ちゃんの心を直そうとするあなたがどうしてご自身の心を直そうと努力なさらないんですか?」
「それは無理だわ。自分の心を直せる人なんて世界中、どこにも存在しないのよ。」
「でも、あなたは少なくともあなたの心が壊れていることを自覚している。」
「それはね。」
瑤子が吉原を見て言った。
「私の心がふたつあるから。ひとりが冷静でひとりが狂っているって、お互いがお互いを正当化させて折り合いをつけて生きているから。」
吉原はそんな瑤子を眺めた。今でも彼女のしたことが信じられない。事実として受け入れていても、実感が湧かない。まるで悪い夢を見ているみたいだと思った。そしてその悪夢が早く終わってくれればいいと、心から願った。
「丸山を殺害するための毒はご自分で作られたのですか?」
瑤子は首を振った。
「簡単だったって言ったでしょ。シアン化カリウムを使ったの。確実だから。」
吉原は瑤子の言葉を聞いて瑤子の手を取った。
「あなたを行かせるわけにはいかない。僕と一緒に来て下さい。あなたが自分の心を治せないなら、直してくれる場所に行かなくてはだめです。」
瑤子は時計を見た。
「必ず帰って来るって約束するから行かせて。」
「それは出来ないんですよ。」
「真美ちゃんを救いたくないの。あのこの心が壊れたままで、これから私みたいになっていってもいいってあなたは言えるの?」
吉原は黙って瑤子の顔を見た。その強い眼差しを。
「嘘なんかついていないわ。嘘つくくらいなら、今日だっていくらだって嘘がつけた。でも私は全部本当のことを話したわ。あなたに嘘をついたことは無いわ。信じてくれないなら、ここに電話をして。」
瑤子が声を荒げた。感情をむき出しにして。そして別の部屋からコードレスの電話を持ってきて吉原に乱暴に差し出した。
「真美ちゃんのご自宅の電話番号。これから真美ちゃんと真美ちゃんのお母様と一緒に西片のフレンチ・レストランで会うことになっているの。真美ちゃんのお父様も一緒に。」
「どういうことですか。」
「今は説明出来ない。真美ちゃんを救うために、どうしても今日だけ、時間がほしいの。心配なら私の後をつければいいじゃない。ただし、絶対に真美ちゃんにみつからないようにね。」
吉原はコードレス・フォンをテーブルに置いた。
「わかりました。でも必ず戻ってきてくれますよね。」
「約束する。」そう言って、瑤子が立ち上がった。
瑤子さん。吉原が声をかけた。
「僕はあなたの心が治るまでずっと待っていますから。」
瑤子が振り返って微笑んだ。
「有難う。その言葉を信じられるから私、全てあなたに従うことにしたの。それが私の運命なのよ。もう絶対に逃げたりしない。約束よ。」
 瑤子はそう言って、コードレスフォンを置きに行き、黒い小さなバッグを持ってきた。
そして、バッグの中の財布から、小さな名刺を取り出して吉原に渡した。光沢のある朱色の紙に「ル・リス・ラン・タ・゛バレ」という文字。その下に小さくフランス料理と並び、住所と電話番号が記されている。

「行くわ。」
搖子は言って、玄関に向かった。



 真美はベッドにありったけの服を並べて腕を組んだ。お母さんがやってきて呆れて、
「いいかげんにしなさい。」と言った。
「だって一番のお気に入りはこないだ行ったときに着ちゃったし、なんだかどれもこれも子供っぽくて、着たい服がみつからないんだもん。」
お母さんが噴出した。
「子供なんだからしかたないじゃない。」
「イマドキの子供は大人と同じデザインを着るのが主流なの。」
お母さんが笑いながらベッドの端に座って、コットンのワンピースを手に取った。ウエストまでが黒で、ウエストを境にしてスカートの部分が白い。」
「お母さんはこれが好きだな。」
真美が振り向いた。
「ドレスはいいんだけど、それだと合う靴が無い。」
「黒のエナメルのサンダルがあるでしょう。」
「エナメル自体、子供っぽいっていうの。」
「そんなことないわ。エナメルは今のトレンドなのよ。」
真美がため息をついた。次の土曜日の約束だったから、今日か明日、お母さんと一緒にデパートに買い物にいく予定だった。それなのに、今朝、瑤子さんから突然、急だけど今日にしてほしいという電話があったらしい。
「しかたないでしょう。瑤子さん、お仕事をお持ちでお忙しい方だし、また別の日にって言ったんだけど、予約キャンセルの電話をしたら、今日だったら個室が別のキャンセルで空きがあるって連絡があったんですって。せっかくのお店の好意だから、無駄にしたくないっておっしゃって。律儀な方なのね。」
真美が頷いた。瑤子さんは自分のことだけじゃなくて本当にいろいろなことを考えている。
「お母さんも気合入れてね。瑤子さんものすごい美人でファッショナブルなんだから。」
「そうだったわね。じゃあ、ママも張り切らなくちゃね。」
「真美がお母さんの服、選んであげる。」

 結局真美がコットンのドレスで「妥協」して、お母さんラベンダー色の襟なしのツイードのスーツと、その下にベージュのシルクのブラウスを合わせて、ベージュと黒のコンビの靴と、チェーンのついたキルティングのバッグを持っている。バッグをを持ち上げて、
「シャネルよ。ママが持っている一番高いバッグ。」そう言って笑った。確か昔お父さんが銀行の招待旅行でヨーロッパに行ったときにお母さんに買ってきたお土産だ。
 真美は家を出る前に、ちょっと待って、とお母さんに言ってお父さんの部屋に行こうと階段を上がっていると、お母さんが慌てて後から階段を上がって、「タクシーが来ちゃったから、いいから早くしなさい。」と真美の手を取った。



 タクシーを飛ばしてレストランに着くと、前と同じウエイターが真美とお母さんを個室に通した。お母さんは室内を見回して、
「素敵なところね。」と呟いた。
 ウエイターがぺリエと、串切りにしたライムの乗った小さなお皿を持ってきて、真美とお母さんの前に置いた。そのウエイターが立ち去るのと同時に、別のウエイターが瑤子さんを連れてやってきた。瑤子さんはいつものポニーテールではなく、髪をストレートにおろし、細い袖無しのニットとお揃いのロングスカートに、光る石が並んだハイヒールサンダルを履いている。
黒いニットは近くで見ると光沢があって、細いジグザグの模様を描いている。
 お母さんが立ち上がってお辞儀をした。真美がお世話になりまして。お母さんがそう言うと、瑤子さんが微笑んで、こちらこそ、とお辞儀を返した。真美から話には聞いていたけれど、予想以上に綺麗な人だと思った。大学の研究員と聞いていたから、もっと地味な人を想像していたのだ。女優さんみたいだ、お母さんは思った。
 ウエイターがメニューを説明する。お母さんは、瑤子さんにお任せしたい、と言った。瑤子さんが嫌いなものや好みを聞いて、ウエイターと相談しながら選んだ。冷たいライマ・ビーンズのクリームスープ、ピンク・グレープフルーツとチコリのサラダ、平目のブラックビーン・ソース、マンゴサルサ添え。デザートはイチゴのムース、ホワイト・チョコレートソース。
 お母さんは最初のうちは遠慮して、瑤子さんの話に相槌を打つ程度だったけれど、瑤子さんは話を引き出すことがとても上手で、メインの平目が運ばれてくるあたりから、自分からいろいろ話を持ち出すようになった。
「真美がね。最初に瑤子さんがお入れになったお茶がとても美味しかったって。ここのお料理もとても美味しい。食にこだわる方なんですね。」
「ファッションもね。」
真美が口を出した。
 それから、しばしお母さんと瑤子さんがファッション談義に華を咲かせた。お母さんによると、今日の瑤子さんのニットのセットアップはミッソーニというイタリアのブランドのもので、身体のラインをしっかり見せるから、瑤子さんのように背が高くて、しかも細くないと着こなせないのだそうだ。瑤子さんは長身だから、イタリアものだとサイズがぴったりあって気持ちがいいと言い、お母さんは小柄だから体型を綺麗に見せてくれる、日本のジュン・アシダやフォクシーのものなんかが好きだと言った。お母さんが今日来ているのもフォクシーのものなのだと言う。瑤子さんがご自分にお似合いのものをよくご存知なんですね、と褒めたたえ、お母さんはとても喜んだ。そして料理が運ばれてくると、今度は料理の話で盛り上がった。真美のお母さんがイタリア料理のカルパッチョや四つのチーズをトッピングした薄いピザ、クアトロ・フロマージュが美味しいと言い、瑤子さんが同意して、トマトソースや魚介類を多く使う南イタリアの料理より、肉やお米を使う、北イタリアの料理が好きだと言い、ミルクとにんにくで作ったソースでそのまま野菜を食べるバーニャ・カウダの話とか、ポルチーニというキノコをたっぷり使ったリゾット、牛の胃袋を煮込んだトリッパなどの話をした。お母さんが、細いのに本当にいろいろ召し上がるんですね、と舌を巻いた。質の良い材料で味のはっきりしたものを、少量ずつ食べるのが自分のスタイルだから、と瑤子さんが説明した。
「こだわっているわけじゃないんです。ただ、手を抜くのが嫌いというか、そういうプロセスが好きなんです。そんなだから、君といると息苦しいって振られたこともあります。」
真美もお母さんも笑った。
「瑤子さんでも振られたこと、あるんだ。」
真美が言った。
「もちろん、あるわよ。」
「こんな綺麗な人を振るなんて、信じられないわ。」
お母さんが言うと、
「でも、瑤子さん、最近、とってもハンサムな刑事さんを振ったばかりじゃない。」
と真美が言った。お母さんが、刑事さん?と
ちょっと怪訝な顔をした。
「ほら、丸山先生がいなくなって、刑事さんが聞き込みに来て。」
真美が言うと、お母さんはああ、と納得して、
「本当に丸山先生はどこに消えてしまったんでしょうねえ。」と顎に手を当てた。
「どうでもいいじゃない。真美はもともとあの先生、嫌いだったし。」
真美がそう言って、デザートのイチゴのムースをスプーンですくった。
「ふわふわで雲を食べてるみたい。美味しい。」
三人でカプチーノを飲みながら、真美のお母さんは瑤子の顔を眺めた。生活観が無い。婦人画報のモデルの方がまだ生活観があるくらいだ。透明で、陶器で出来たお人形のような人だな、と思った。独身と聞いて妙に納得してしまう。確かにこの人を主婦にさせたいなんていう男の人はあまりいないだろう、こんな完璧すぎる人と暮らしたら、自分を野良猫みたいに卑下したくなって、気がめいってしまうかもしれない。
 突然、ドアが開いた。ウエイターが立っている。
「お連れ様がいらっしゃいました。」
そう言って手を伸ばして後ろを振り返った。
車椅子が置いてある。
瑤子さんが後ろを振り返り、お母さんが慌てて立ち上がった。
「あら、どうなさったの?」
真美ちゃんのお母さんが言った。瑤子さんがウエイターの後ろに向かって会釈をした。
「びっくりしたわ、あなた。身体は大丈夫なの?」
「え?」
真美がお母さんの顔を見て、ドアの向こうに視線を向けた。ウエイターがいなくなったあとの広い廊下は少し薄暗い。真美は目を凝らしてみたけれど、誰もいない。斜めにさす陽の光のところに小さな埃の帯が出来ているだけ。
「どうしたの。」お母さんが不思議そうに真美の顔を覗きこんだ。
「お父さん来てくれて、嬉しくないの?」
お父さん?真美は驚いて口を開けた。瑤子さんが立って、お辞儀をしている。お母さんが廊下に出て、前かがみに何かを支えるようにして、再び部屋に入って来た。
そのとき、お父さんが突然現れて、真美に言った。真美、驚かせてごめん。今日は体調が比較的いいんだ。それで美人の瑤子さんにどうしても会いたくなったから。真美はほっとしてお父さんに笑いかけた。いつもの笑顔。
「お父さん、今日は張り切っちゃってスーツなんか着て、真美、お父さんのスーツ姿なんて久しぶりでしょう。」
お母さんが言った。そのとき、真美の前にいた着物姿のお父さんの姿がすーっと消えた。そして、古いスーツを着たお父さんに変わる。真美は混乱した。そんな真美の様子を見て、瑤子さんが言った。
「真美ちゃん、なんだか変だわ。」
真美のお母さんは電話で瑤子が言ったことを反芻した。真美ちゃんにはお父様の姿が見える。お父様の姿は真美ちゃんの心が作り出した真美ちゃんの心の一部。だから真美ちゃんが会いたいときにお父様が現れる。けれど、
他の人が突然、お父様を真美ちゃんの前に連れてきたら、真美ちゃんの心はどうするかしら。慌ててお父様の姿を作り上げようとするかもしれない。でも他人の作り上げた幻と真美ちゃんの心の中のお父様は一致しないから、真美ちゃんはきっと混乱する。真美ちゃんが混乱しても取り乱しても、私たちはお父様の姿と話を続けるの。具合的にお父様がどんな服を着て、どんなことを言っているか。真美ちゃんの混乱はやがて怒りに変わる。真美ちゃんの怒りがお父様に向いたら、お父様と話が出来ない。心が混乱すればするほどお父様も姿は曖昧になっていく。他人の作り上げたお父様が真美ちゃんの心に隙間を作る。その隙間を広げていくのが私たちの仕事。

真美、どうしたんだ。お父さんが真美に話しかける。せっかくのランチなのに。
「せっかくのランチなのに。」
瑤子さんが言った。
「お父さん。いつ家を出たの?」
真美がお母さんに言った。
「何よ、真美ったら。直接お父さんと話せばいいのに。」
瑤子さんが言った。
「そうだったんですか?最初からお父様とご一緒のランチにしておけばよかったわ。」
真美は瑤子さんを見た。
「だって、この身体じゃなかな外出はむずかしいし。」
お母さんが言った。この身体?真美はお父さんを見た。
「お父様、ネクタイとお母様のスーツがさりげなく同じ色で素敵だわ。」
瑤子が言うと、真美の前からまたお父さんが消えた。
「こんな風に身体が不自由になって、めったに一緒に出かけなくなったから、今日は特別。」
お母さんが言った。真美の頭の中で、一瞬、ブルーのビニールシートが現れた。それが何を意味するのか真美にはわからない。
「大変な事故に会われたのですね。」
「ええ、片手と片足を失ってしまって。」
着物を着たお父さんがまた現れる。真美がお父さんの椅子のところに言って膝に手を置くと、手が滑り落ちた。片方の足が無い。
真美はお父さんにしがみついた。着物の袖の片方が空っぽだ。一瞬、風の音が聞こえた。目を閉じて再び開けると、瑤子さんとお母さんが微笑んでいる。真美は両手で耳を押さえた。助けて。お願い。強い風が真美を包んだ。少しべとついて、磯の香りがする。ブルーのビニールシート。大きな波。生暖かい風に水滴が混ざる。お父さんのズボンとシャツ。
 お母さんが慌てて真美を抱きしめた。瑤子さんが堅い顔でお母さんと真美をみつめた。
「真美ちゃん、いったいどうしちゃったの?」
「家に帰りたい。」
真美が言った。
「どういうこと?」
お母さんが真美の顔を覗き込んだ。
「家に帰りたい。」
真美が繰り返した。お父さんが真美に言った。
家に帰ろう。お父さんはちょっと疲れたから。
お母さんが当惑した顔で真美を見つめる。
瑤子さんが真美ちゃんのところに歩いていって真美ちゃんの前に屈みこんだ。
「真美ちゃんらしくないなあ。」
そう言って真美の頭の上に掌を置いた。
「お父さんが帰りたいって言ってるし。」
「お父様が?私には聞こえなかったわ。」
真美のお母さんが言った。
「あなた、帰りましょう。真美、せっかくだから瑤子さんとふたりでお食事して行きなさい。」
瑤子が立ち上がって、お父さんの椅子を引いた。
「お母様、どうぞハイヤーをお使いになって。
私は歩いて帰れる距離だから。」
真美も立ち上がった。
「私も帰る。」
「瑤子さんに失礼でしょう。」
そう言って瑤子の顔を見た。瑤子は頷いて、
「お父様をお送りします。」
そう言って、車椅子を押してドアの外に消えた。
「お母さん。私も帰る。」
真美が言うと、お母さんが低い声で言った。
「ここで、待ってなさい。」
「お見送り致しますわ。」
瑤子さんが掌を真美の頭に置いて言った。
「ここで待ってなさい。」
真美を残してみんなが外に出た。真美は慌てて後を追ったけれど、ドアが開かない。波の音が聞こえる。ここで待ってなさい。お母さんと瑤子さんの声がお父さんの声に変わって部屋中にエコーの渦のように広がっていく。頭にお父さんの手を感じた。大きくて暖かいお父さんの手。

ここで待ってなさい。
ここで待ってなさい。
ここで待ってなさい。
ここで待ってなさい。
ここで待ってなさい。

青いシートがめくれる。むくんで晴れ上がったお父さんの顔。白くふやけた皮膚、腕の付け根に見えるピンク色の肉片と骨。千切れて枝分かれする血管。太ももだけの足。硬く閉ざされた青い唇。

真美は泣き始めた。海の水が防波堤に砕けるように、心の中にため続けた悲しみを吐き出すように、大量の涙を流しながらなき続けた。
ドアを開けて瑤子さんとお母さんが入ってきて、暴れる真美を取り押さえた。お母さんが真美をきつく抱きしめた。お母さんも泣いている。
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