再会

文字数 23,108文字

 瑤子は研究室に戻り、今会ったばかりの刑事のことを思った。一緒にいてなんだか穏やかな気持ちになれる自分に驚いている。なぜだろう。気持ちが通じ合ったように思えた。まるで遠い昔、一緒に遊んでいた幼馴染みに出会ったみたいに、心が素直になれる。そしてあの瞬間、花を眺めているときに心と身体が突然反応した。なぜかこの刑事に抱かれている自分が目に浮かんだのだ。激しい性欲。このまま抱かれたい、激しく抱かれたいと感じた。瑤子は首を振る。私は何を考えているのだろう。そして琢磨にメールを送った。久しぶりに琢磨に会って美味しいものを食べて、そしていつものように優しく抱かれよう。きっと身体のバイオリズムが欲しているのだ。久しぶりに和食も悪くないな、と思った。私には琢磨がいる。完璧な恋人が。



 真美は畳の部屋でお母さんと布団を並べて寝ている。風が頬を撫でた。東京より気温の低い山の風が気持ちいいからと、窓を開けたままにしてある。窓の外の木々の緑はシルエットになって、星空に影絵を描いている。昼間は木立の影に朱色に輝く隣りの大きな中華料理屋の建物も、今は闇の奥で眠りについている。
 真美は実験を続けている。何かに感動したり嬉しかったりするたびに心の中でお父さんに話しかける。そして真美は驚いた。お父さんはちゃんと真美の心に語りかけてくる。瑤子さんの言った通りだ。お母さんには聞こえない。でもお母さんだってひょっとしたら、真美には聞こえないけれどお父さんと心で話をしているのかもしれない。そう思うと、お母さんと真美の心も繋がっているように思えてきた。真美は布団から手を出してお母さんの手を握った。お母さんが振り向いて真美を見た。
「どうしたの?」
「ううん。お母さんとこうして一緒に寝るのって久しぶりだから、なんだか嬉しくて。」
お母さんが真美の手を握り返した。
「お母さんもすごく嬉しい。」
「お休みなさい。」
「お休み。」
お母さんが真美を見て微笑んだ。
 何かが真美を変えた。初恋?真美の心の変化を、お母さんは感じていた。いったい何があったのだろう。そして首を振った。理由なんかどうでもいい。真美の変化が嬉しい。お母さんは真美の小さな手をしっかり握り締めた。


 吉原の携帯にメール着信のメロディーが響いた。短いシグナルのピピ、ピピ、ピピ、という音から画面をフリップすると、戸塚絹子の娘、美紀からだった。

その後何か進展ありますか?

短いメール。吉原は美紀の顔を思い浮かべた。どこにでもいそうな女子大生。まるで円形の阿弥陀クジだと思った。どの線をたどっても袋小路。吉原はため息をついた。だめ元でもう一度戸塚絹子に会ってみるか。何と言っても彼女が丸山を最後に見た目撃者なんだから。
椅子を引いて席を立とうすると、
「出かけるの?今ちょうどお茶を入れたところだから飲んでいって。」
振り返ると弥生がお盆を抱えて立っている。
「サンキュ。」
吉原は礼を言って茶を受け取った。
「ため息ついてたでしょ。ため息はお茶で飲み込まないとますます消化不良になるわよ。猫舌の吉原さんにはぬる目のお茶入れといたから。」
弥生が言い、杉浦には、
「焼けどしそうなのがお好きな杉浦さん、気をつけてね。」
そう言って茶を渡した。
「よう弥生ちゃん、ようやく美容院に行ってきたか?ペッピンになったぞ。」
杉浦が言った。弥生はにっこり笑って髪を指で透かしながら、
「最近、事件らしい事件も無いし、平和っていいですね。美容院にもいけるし、上司の老眼鏡も磨かれてちゃんと普通に物が見えるようになる。」
そう言った。吉原が弥生に目をやると、少し明るめにした栗色の髪をややショートにカットして、なんだか雰囲気が今までと違う。吉原は弥生を見た。
「似合うよ。その髪。」
弥生が嬉しそうに笑った。
「顔は変えられないけど、髪型は自由に変えられるもん。これでもうちょっと痩せたら、そうとういい女だと思わない?吉原さん、デートする?」
「そのうちにね。」
吉原が苦笑した。
「弥生ちゃん、言っとくけど吉原は、近いうち、どっかの署長になるか桜田門行きだ。イケメン刑事とツルんで事件解決したいなら、違う相手を探した方がいい。」
「大丈夫、私もがんばって警視庁に行く。若いから暗記に強いし、愛のためなら数十倍の昇格試験もへっちゃらよ。第一こんなのどかな場所で一生を終える気、無いもん。」
「のどかで悪かったな、そののどかのお陰で美容院に行く時間があるってこと、肝に銘じるんだな。」
杉浦が言った。弥生があかんべえをした。
「女はいいよなあ、化粧と髪型でいくらでもごまかせるもんな、そこいくと男は素顔で勝負するしかないもんな。そうそうアイシスのテロリストたち、みんな同じ髪型で髭生やして、俺たちからみたらどれも同じ顔にしか見えなかったよなあ。」
山崎が言った。
「あら、テロリストは知り合いにいないからわからないけど、近頃は男性だって髪を染めたりするし、エステにも行くらしいわよ。山崎さんもいかが?自己投資よ。」
「男がエステか。俺はあいにく血の滴るステーキが好きなんだ。草食にはなれねえ。そんな金あったら、アイダホの自然の中で瞑想でもするね。」
そう言って腕を頭の後ろで組んで目を閉じた。
「瞑想っていうより、そのまま昼寝でもしそうなポジションね。」
弥生が笑う。
「平和はいいことだ、旅行ねえ。お盆も近いし、今年はうちのガキどもを近場の海にでも連れて行くか。」
杉浦が言い、吉原も、やはり今年こそは久しぶりに母親を訪ねようと思っていた。



 吉原は売店でトライデントと百円玉をふたつ差し出した。戸塚絹子は雑誌に目を落としたまま、つり銭を渡そうとして笑った。
「やだ刑事さんったら、何にも言わないから。」
「突然の営業妨害失礼致します。」
「りっぱなお客さんですよ、ちゃんと買ってくれているんですから。」
絹子がコインをレジに仕舞いながら言った。
「やっぱりみつからないんだねえ。」
「何度も同じことを聞いて申し訳ないんですけど、本当にどんな些細なことでもいいんです。丸山先生のいつもと変わった様子とか、何かその女性の特長とか何でもいいんです。何か思い出せませんか?」
絹子はため息をついた。
「うーん。特徴と言ってもねえ。眼鏡かけてGパン履いてて普通の感じだったしねえ。」
絹子が申し訳なさそうに言った。吉原は礼を言ってホームを歩き始めた。プロの警察が捜査を取りやめるにはそれなりの理由があるのだ。丸山の両親や恋人の気持ちを思うと胸が痛んだ。手塩にかけて育ててようやく一人立ちした息子や、結婚の約束を交わした恋人が突然消えてしまって、単なる失踪と片付けられるのはたまらないだろう。
 吉原は携帯を開いて美紀にメールを送った。

進展無し。普通の女子大生が多すぎてお手上げです。

送信して携帯を閉じるとすぐに着信音が鳴った。

っていうか刑事さん、普通の女子大生の特徴
知ってる?

吉原は返信を送った。

髪が長くて細くてジーンズにブランドのバッグ持ってる。

着信。
刑事らしく細かく行きましょう。ジーンズはスキニー(細身)、素足に高めヒールのミュールがお約束で、イマドキ髪は栗色が常識。唇はグロスで光らせる。ちょっぴりセクシー系でね。

吉原は笑った。
貴重な情報有難うございます。

そう返信して、ふと思い立ちキヨスクに戻った。

「まるで刑事コロンボだね。帰りかけて戻って来た。」
絹子が言った。吉原がのど飴を手にとって渡そうとすると、
「いちいち気を使ってくれなくていいのよ。」と制した。
「いいんです。署に煙草を止められない濁声の親父がいるのでいい土産になります。」
そう言って小銭を渡した。
「どこまでも律儀な刑事さんだね。」
絹子が呆れた。吉原は携帯を開いて、
「例の女性にこれに当てはまらない部分ありますか?」
「何、これ。」
絹子が携帯を覗き込んだ。
「美紀さんが最近の女子大生の動向にさっぱり無知な僕のために送って下さいました。」
絹子が噴出した。
「あの子の思い込みをいちいち真に受けていたら事件があさっての方向に行っちゃうと思うけど。」
そう言いながら、老眼鏡を拭いてメールを読んだ。
「単に自分のことを書いてるだけだよ、あの子ったら。」
そう言ってから、あっと声を上げた。
「刑事さん、髪の毛。」
そして売店に並んでいる雑誌を指差した。
「ほら、美紀もそうだけどね、最近の子ってみんな染めてるでしょ。確かあの女性、珍しく黒い髪だったわ。」
「黒髪ですか。」
「そう。それに言ったようにスニーカー。化粧の状態までは遠かったからわからないけどね。」
 吉原はつられて、並んでいる雑誌の表紙を眺めた。そう言えば最近のカバーガールはみんな判で押したように髪が茶色い。ふと弥生の顔が浮かんだ。髪を染め直して嬉しそうにしていた。刑事も茶髪という時代、黒髪は今どき難しいということなんだ。決め手と呼べるほどのものではない。確かに黒髪の子は少なくなった。けれど特別は特徴と呼べるほどのことでもない。吉原は大きくため息をついた。



 箱根から帰って来て、真美はさっそく瑤子さんにメールを送った。

 瑤子さん、お元気ですか。今日、箱根から帰って来ました。母と二人、景色を楽しんでゆっくりしてきました。朝積みサラダもちゃんと食べて来ましたよ。それと今回は富士屋ホテルでフランス料理を食べて、カプチーノも飲みました。カプチーノにはウエイターさんにお願いして、ディキャフにしてホイップクリームを入れてもらいました。お母さんはびっくりしていました。でも美味しいって大げさに感動してましたよ。瑤子さんが忙しくないとき、一度家に遊びに来てください。お父さんも(美人の瑤子さんに)会いたいって言っているし。
 お母さんは「カプチーノ記念日」だと言って、富士屋ホテルの近くの瀬戸物屋さんで、伊万里焼きの大きめのコーヒーカップを買ってくれました。久谷焼きを探したけれど、箱根には売っていませんでした。でも伊万里もとてもきれいで、私はキョウチクトウみたいなピンクの花の模様が描かれているものを選びました。母は自分用と父の分だと言って、父が好きなツツジの模様のものを買いました。
明日デパートに行ってカプチーノを作る機械を買うって張り切っています。
 そうそう、本題。瑤子さんの言ってた通り。お父さんに心で話しかけたらちゃんと返事が来ました。ものすごく必要とすると魂が心に住んでくれる。本当なんですね。今日、家に帰ってお父さんにそのことを報告したらお父さんも喜んでくれました。
 ねえ、瑤子さん。箱根でフランス料理を食べながら、お母さんは昔、家族で飼っていたジャックと言う名前の犬のことを話しました。昔、千葉に家があって、ジャックはそこで台風の日に波にさらわれて溺れたんだそうです。真美はそれを聞いて、ふと、ジャックの顔が心に浮かんだんです。私は小さい頃の記憶が少し飛んでいるのだと、お母さんは言いました。とても悲しいことがあるとそういうことは誰にでもあるんだと言うんです。ジャックの死に私がショックを受けたせいもあるのではないかって思いました。瑤子さんもそう思いますか?
 私は思うんです。そのジャックを真美はものすごく可愛がっていて、だから死んだことがショックだった。でも今、ジャックの顔が浮かんだというのは、私が求めたからジャックの魂が私の心に入ってきたんだと思うんです。犬は喋れないから話しかけてはこないけど、私に姿を見せてくれた。
 私、海を見ると不安になるんです。それは多分ジャックのことがあったから。水泳教室の前に熱を出したのもジャックのことがあったから、そう思うとツジツマが合うと思いません。お母さんは真美が少しずつ大人になる過程で、小さい頃かかえきれなかったショックを思い出す準備を心が始めたんだって言うんです。大人になるともっともっといろいろなことが起こるから、もっとタフな心を持つ準備なんだそうです。
 こないだの瑤子さんの話とお母さんの話はどちらもむずかしい。でもふたりの話は同じ方向に向かっているような気がします。真美が大人になるためのトレーニング。瑤子さん、また近いうちに会えたらいいな。      真美


 吉原は池袋駅の構内を歩きながら、また植物園に行きたいという衝動と戦っていた。刑事としてではなく、ただもう一度道家瑤子に会いたかった。もう少し詳しい話を、と言い訳をすることも出来るけれど。それじゃあ職権乱用もいいところだ。さっきからJRの切符売り場を行ったり来たりしている。俺は動物園のゴリラか、と自嘲しながら、まわりを眺めた。確かに最近の若い女の子はみんな茶パツだな、と思う。黒髪の女の子もちらほらいるけれど、そういう子は真面目そうだったり地味な印象を受ける。戸塚絹子の「よくいる女子大生」風とはちょっと違う感じがしないでもない。吉原はもう一度、美紀の送ったメールを開いた。そしてもう一度、近くを歩く女性たちを見る。
黒髪の子たちはブランドのバッグを持っている子があまりいない。それに引き換え茶パツの子たちはみんな判で押したみたいに、なんらかのブランドのバッグを下げている。
 突然、女子大生というより女子高生みたいなグループが吉原に近づいてきた。
「ねえ、何物色してんのよ。」
「物色?」
茶色というより金髪に近い女の子が三人、吉原の全身を、目を上下させて見つめる。
「お兄さん、真面目な顔して、やらせる女、捜してるでしょ。」
「は?」
「さっきから若い子ばっか眺めてさ、私たちにちょっとお小遣いくれたら相手してもいいよ。」
吉原は驚いて女子高生たちを眺めた。
「君たち、それはりっぱな売春行為だって
わかって言っているのか。」
「なんだよ、カッコつけて。ナンパしてタダでやれる子探してるってわけ?ちょっとルックスがいいってったって、若い子はあんなみたいなオジンとタダでやらないって。」
吉原は苦笑して、ポケットから警察手帳を見せた。
「いいこでお家に帰って宿題するって約束したら、逮捕はしないから。」
女の子たちは、やばいとか、ついてねえ、とか言いながら歩き出した。そのうちのひとりが振り返って吉原に歩み寄り、
「そんくらいで逮捕してたら女子高生、みんないなくなっちゃうよ。そんな暇があったら、もっとまともな事件を解決しろよ。虐められたり恐喝されたり女教師を集団でまわしてる奴らだっている。兄弟にレイプされることだってあるんだ。あんたたちが知らないだけでね。」
そう言って吉原を睨みつけ、立ち去った。吉原はその後姿を目で追った。その女子高生の目が潤んでいたのだ。彼女も過去に、何かあったのかもしれない。真美のことがまた頭に浮かんだ。丸山の失踪、真美の過去。何かのきっかけでネジが抜けて外れてしまって心が弾けると人は思いがけない行動を取ったり、自分を守るために殻を作ってしまったりする。丸山にもそんな過去があったのだろうか。あの女子高生は何かに心を汚されて、身体を汚すことで自分を隠しているのかもしれない。傷つけられるより、傷つける側について安心する。あの涙。彼女はまだ純粋な自分を完全に失ってはいないはずだ。吉原は追いかけていって、少女に何か言いたいと思った。でも何を言ったらいいのだろうか。僕も理不尽な過去を持っているんだ。だからがんばれ、とでも言うのか。吉原は首を振った。無力だと思った。事件を解決するどころか、刑事になってそういう理不尽なことに対決していこうと思っていた自分が笑える。それこそ、工場に就職して設計図を引いていたほうがよほど生産性がある。
 そんな風に考てふと気がつくと、無意識に切符を買っていた。道家瑤子に会いたい。その想いに心より、身体が先に反応していたのだ。


 植物園の構内を歩き木々を眺めた。プラタナスが濃い緑色の葉を勢い良く広げる。都会に緑が少ないのは環境のせいではなく、アスファルトやビルを作るために人間が抜きとってしまったためだということに気づいた。都会の真ん中でも木々がぐんぐんと枝を伸ばし、花々が花弁を太陽に向ける。先ほどの少女の目を思い出す。子供の犯罪が増えたのは社会のせいだとか、環境のせいだとかいろいろ言われるけれど、どんな環境下でも元気に育つ植物もあれば、普通に大人になる子供たちもいる。
「何を考えていらっしゃるの?」
顔を上げると瑤子の大きな目が少し微笑んでこちらを見つめている。
「やあ。」
なんと言っていいかわからず、ただ一言、そう言った。
「また、聞き込み?」
瑤子が吉原の顔を覗き込んだ。
「いえ、そんなんじゃないんです。こないだ来た時、ここがあんまり気持ち良かったからちょっと寄ってみようかなあって。」
「そう。」
瑤子は言って、吉原の見上げるプラタナスを一緒に見上げた。
「本当言うと行き詰っちゃって。」
吉原が上を向いたままぽつりと呟いた。
瑤子は何も言わず木を眺めた。またあの時と同じ「繋がり」を感じる。数日前、琢磨に抱かれたばかりなのに、また身体の中心がずきんと疼いた。いつもになく積極的な瑤子に琢磨は驚きながら、いつも以上に優しく丁寧に瑤子の体を慈しんだ。そしていつものように決して達することはないまま、瑤子は琢磨の腕の中で安らいだ。
「道家さん。」
吉原が口を開いた。
「あの、よかったらちょっとコーヒーでも付き合ってもらえませんか。刑事としてではなく、吉原光芳という個人としてお願いしているんですけど。」
「どういうことかしら。」
「たった一度お会いしただけのあなたに変な話かもしれないけど、いろいろ聞いてほしいことがあるんです。事件のこともあるけど、正直言って真美ちゃんのことも気になる。いろいろなことが頭の中でこんがらがっていて、なんて言うか、あなたにならわかってもらえる、そんな気がしてならないんです。変な奴だと思われたり、関わりたくないとおっしゃるなら無視して下さってけっこうです。あ、それに今日じゃなくてもいいんです。お時間が取れるときで。」
瑤子は空を見上げた。木々の緑の隙間から、少し和らいだ夕暮れ間近の陽の光が白い筋になって降りてくる。まるで光の矢が瑤子の胸を照らして中身を透かして見ているみたいに。
「私も、あなたと話をしたいって思っていたの。」
瑤子は微笑んだ。



 ふたりは地下鉄に乗り大手町まで足を伸ばした。植物園を歩くのはさすがに蒸し暑いし、応接室で話をしたくなかった。かといって近所のスターバックスでは落ち着かない。パレスホテルのラウンジにしましょう。ガラス越しの皇居の緑が綺麗だし、ゆっくり話ができるわ、そう瑤子が提案した。
 瑤子はホテルのコーヒーショップが好きだ。広くて席もゆったりしているから、小さな喫茶店と違って人のプライバシーに触れることが無い。旅行者やビジネスマンは忙しいし、近所のマダムたちは自分たちの話題で精一杯なのだ。その上ウエイターたちはよく教育が行き届いていて、呼べば即座に反応し、用が終わればすっと立ち去ってくれる。だから瑤子は時々ひとりでやってきて、ゆっくりと紅茶を飲み、本を読んだり書き物をしたりする。社会に属していることを実感しながらひとりになれる場所は貴重だ。数時間過ごしても嫌な顔ひとつされないところもよかった。
 そういう場所で会ったばかりの刑事とこうして向かい合っている。そのことが可笑しくて瑤子はちょっと微笑んだ。
「何か?」
瑤子は首を振った。
「若い刑事と向かいあってこういう場所で紅茶を飲む自分なんて想像してなかったわ。」
「だから今日は刑事という肩書きは無しです。」
「そうだったわね。」
瑤子が言ってガラスの外を眺めた。
「今は葉桜だけど、春にはこのガラスの向こうがピンク色に染まるのよ。」
吉原もつられて外に目をやった。
瑤子は外を眺めている。緑を眺めているのか、道行く人を眺めているのかは吉原にはわからない。白く長い首筋にポニーテールの黒く艶やかな髪が流れる。瑤子さんは髪を染めないんだ、ふと思った。そして彼女なら大学生の時も綺麗な黒髪だったんだろうなあ、などと想像した。
「瑤子さんはどんな女子大生だったんですか?」
 吉原の唐突な質問に瑤子が窓から視線を外した。
「なあに。突然。」
「別に特別なことではないんです。最近の捜査で今時の女子大生について調べることがあったんで。」
あはは。瑤子は噴出した。
「なんだか楽しそうな捜査ね。」
「楽しくなんか無いですよ。僕なんて田舎の大学の理工学部だったし、接点無いから、さっぱりわからなくて。」
瑤子がもう一度笑った。吉原は学生時代の話を少しした。ついでに刑事になりたいと言って振られた話もした。
「ノーベル賞を排出した大学の工学部に行ったあなたがどうして、刑事になろうと思ったりしたのかしら?」
瑤子が尋ねると、吉原はちょっと迷ってから、父親の話に少し触れた。
「事業に失敗したのは確かに親父の責任だけれど、騙されたほうが後ろ指されることに納得できないっていうか、それは本末転倒なんじゃないかと。で、考えて見れば被害者が理不尽な扱いを受けることが実は非常に多い事に気づいた。正義なんていうカッコいいものじゃないんです。断じて。ただ、そうすることで親父を供養したいっていうか、その場の勢いもあるけれど、まあ言ってみれば僕の自己満足です。」
瑤子は下を向いて紅茶のソーサーを指でなぞった。長い睫が午後の陽射しを受けて頬に影を作る。
「変な話をしてすみません。道家さんには関係ないことですよね。」
吉原が言うと、瑤子はとても真剣な顔で、
「関係あるかどうかは私が決めること。」
と言った。
 そして吉原が驚いて瑤子を見ると、瑤子はまるで我に返ったように、なあんてね、と笑い、
「ねえ、女子大生の話だったわよね。私の学生時代ね。ごくごく普通の女子大生だったわ。まあ、ちょっと普通より恵まれていたかもしれない。親に仕送りしてもらって、その頃は賃貸のマンションに住んでいて、学校の帰りに時々友達とケーキを食べに行ったり、コンサートを聴きに行ったり。」
 吉原は瑤子が隣りの椅子に置いた黒いバッグをちらっと見た。ロゴの無いシンプルな
形。中央にシルバーの四角い小さなパドロックがぶら下がっている。
「ブランドのバッグとか買ったりして?」
瑤子も自分のバッグに視線を落とした。
「買った買った。でも私はこう見えても頑固なの。右にならって流行を追うということにあまり興味が無かった。自分が一目惚れしたものを買うけれど、むしろみんなと同じものは持ちたくなかった。高慢なのかな。」
「ご自分の美意識を持っていらっしゃるからじゃないですか?」
瑤子は真美との会話を思い出してした。どうしてテイバンのカッコウをしないんですか?ジーンズとスニーカーが嫌いだから。
「真美ちゃんにも同じようなことを言われたわ。」
「真美ちゃんに?」
「植物園で働いているのにタイトスカートにハイヒールだから。人と馴染むことが得意では無いのかもしれない。だから厳密に言えば楽しい捜査のお役に立てるかどうかわからないわね。」
 吉原は丸山失踪間際に女子大生らしき女性と一緒にいたということを話し、それから美紀のテキストメッセージを見せた。瑤子は興味深そうにそれをみつめた。
「じゃあ、その女性が先生の失踪となんらかの関係があるっていうことなんですね。」
「・・・だろうと見ているんですけど、わからないです。事件性があるかどうかも疑問ですから。それより、僕は下川辺真美のことがひどく気になって。彼女はカウンセリングとかちゃんと受けているんでしょうか。」
 瑤子は吉原を見て、ちょっと寂しそうに微笑んだ。
「詳しいことはわからないけれど、それなりの治療を受けていたらしい。でもうまくいかなかったみたいね。幼い子供にはショックが大きすぎたんだと思う。」
そうですか。
吉原はコーヒーをひとくち飲んで頷いた。
「私はね、真美ちゃんに必要なのは、真美ちゃんの気持ちを理解してあげる誰かの存在だと思う。治療のために心をかき回されることは、彼女には負担が重過ぎるわ。」
「真美ちゃんのお母さんは真美ちゃんがお父さんと話をするとき、どう対応なさっているんでしょうか?」
「お会いしたことが無いからなんとも言えないけど、母親って意外と無力なものよ。我が子が可愛いからこそ、そっと見守るしかできない。そういうものだと思う。ましてひとりっこで、家族が母親と娘ふたりきりという状況ではなおさらさわ。お母様自身がそのことに触れたくないだろうし。」
「瑤子さんは、真美ちゃんをどうやって救おうとしているんですか?」
 瑤子は吉原の目を見て、ちょっと考えるようなしぐさをした。そして口を開いた。
「救おうとか、心を開かせようと言うより、真美ちゃんの作り上げたお父様の姿を、真美ちゃんの心の中に戻してあげようとしているの。」
「心の中に戻す?」
「そう。真美ちゃんの心の中から飛び出してしまったお父様の魂をもう一度真美ちゃんの心に返してあげるの。そうすれば真美ちゃんはもう二度とお父様を失うことがない。」
「よくわからないな。」
「人が神様を信じるのは、心の中に神様がいるから。でも神様の存在を信じていても、神様がフィギュアとして実在するとは誰も思わないわ。神様は、なんていうか、ハードじゃなくて、ソフトでしょう。現実に街を歩いているわけじゃない。だから真美ちゃんが生きていると思い込んでいるお父様を、神様を信じるみたいに、心の中で語りかける存在にすることができれば、真美ちゃんを傷つけずに、他人からも中傷されずに普通に生活できる。お父様は死んでしまったのだと頭から否定することは今の真美ちゃんの精神状態では危険だし、反発するだけ。彼女にはお父様が実際にちゃんと見えているのだから。でも心の中のお父様に話しかけていれば、いずれわかる日が来ると思う。時間はかかるかもしれないけど。」
「いったいどうやったらそんなことが出来るんですか?」
「やってみなければわからないわ。うまく説明できないけど、百パーセント不可能ではないと、私は思う。」
「あなたはすごい人だなあ。」
吉原はため息をついた。
「すごくなんかないのよ。私も実は子供の頃、ショッキングな事件があったの。誰にも言えずにひとりで抱え込んで苦しんだ。だから人事じゃないの。」
吉原が顔を上げた。
「どんなことがあったんですか?」
瑤子はそれには答えず再び窓の外に視線を向けた。そしてまるで道を行く誰かに話しかけるように言った。
「それはね、もう終わったこと。遠い昔の出来事だもの。もう誰にも話す必要の無いこと。」
瑤子は笑顔を作っていたけれど、その横顔がとても寂しそうだと、吉原は思った。



 真美はノートをカバンに入れて図書館に向かった。夏休みの課題に昆虫の観察というのがある。お母さんは昆虫と名のつくものはすべてゴキブリかカマキリのどちらかに分類され、コオロギを見ただけで家中に響くような悲鳴を上げる。真美はお母さんほどではないけれど、虫は苦手だ。遺伝かもしれない。それに生きてるうちはともかく、死んでしまって死体を片付けるのはもっと気持ち悪い。だから図書館で昆虫の飼育に関する本を探して適当に作ってしまおうと決めた。そのことをお母さんに告げると、「本当はだめって言わなきゃ母親失格なんだけど。」
と言いながらもほっとした顔をしていた。
 路地を曲がったところで、背の高いお兄さんが真美を見て立ち止まった。
「真美ちゃん?」
真美は驚いてお兄さんの顔を見上げた。
「どうして私の名前を知っているんですか?」
吉原は自分でも驚いていた。真美の母親に会って話を聞くつもりで、家に向かう途中だった。彼女を見た途端、意志の強そうな目に、なぜか真美だと直感した。
「的中だな。」
真美は警戒を隠さない顔で吉原を睨んだ。
「母が知らない人と口を利いてはいけないって言っていますから、失礼します。」
真美は小さくお辞儀をして、走り出した。
「待って。」
吉原は後を追った。そして背広のポケットから警察手帳を出して真美に見せた。
「刑事さん?」
真美が立ち止まって吉原の顔を見上げた。
「うん。あんまり刑事っぽく見えないらしいけどね、そうなんだ。」
「刑事さんが私に用ってひょっとして丸山先生のこと?」
「大当たり。」
「どんな嫌な奴だったか、教えてもらえば失踪のヒントになるかもしれないからね。」
真美は何かを確かめるように吉原の顔をみつめた。それから、
「今から図書館に行って夏休みの課題を片付けなくちゃいけないんです。一緒に歩いてくれれば、ちょっとくらい話してもいいけど。」
そう言って歩き出した。
「夏休みの課題?」
吉原は真美に追いついて、歩きながら尋ねた。真美が昆虫の飼育日記のことを話すと吉原は、
「それなら、図書館より僕の方が頼りになるかもしれないな。田舎育ちで昆虫はとても詳しいんだ。カブトムシ、クワガタ、鈴虫、バッタ、カマキリ、選り取りみどり、好きなのを選んでくれれば完璧な飼育日誌を提供してあげられる。」
「それって、情報提供に対するトレードの条件?」
吉原は呆れた顔で真美を見た。
「ずいぶんむずかしい言葉を知っているんだね。」
「ニュースでよく聞くから。」
「君は頭がいいんだなあ。」
「丸山先生は、私は頭がいいんじゃなくて、頭がオカシイって思ってたけど。」
吉原は立ち止まった。
「君の頭がオカシイ?ひょっとしたらアタマがオカしいのは丸山先生の方かもしれないな。」
真美も立ち止まった。
「ねえ刑事さん、先に昆虫のほうを片付けてくれない?そうしたら話に付き合ってあげてもいいから。」
「取引成立ってことかな?」
「そういうこと。」



 吉原は真美を図書館ではなく、近所のデニーズに連れていった。午前十時。中途半端な時間のせいか、客はほとんどいない。奥の席で遅い朝食を取っている作業服を着た男性、中央でパソコンを広げてコーヒーを飲んでいるスーツの若い男。そして学生風の男女が窓際の席でお喋りに興じている。
「お腹は空いてない?」
「遅い朝ご飯食べてきたから。でもパフェか
ケーキなら食べられるかも。」
「そうだな。女の子にとって甘いものは別腹だもんな。」
「ベツバラ?」
「女の子ってさ、どんなにお腹いっぱいでも甘いものは別の胃袋に収まっちゃうらしい。」
 真美がへえ、と言ってベツバラ、と小さく呟いた。
 ウエイトレスが来てにこやかに注文を取り、
吉原はコーヒーを、真美にはチーズケーキを頼んだ。」
「カプチーノ、ありますか?」
真美がウエイトレスに尋ねた。
「ございます。」
「じゃあ、デキャフェでホイップクリームを入れてもらえますか?」
ウエイトレスが怪訝な顔をして、申し訳ございませんが出来ません、と言った。
吉原は真美をみつめ、それからウエイトレスに、いいからココアにホイップクリーム大盛りで持ってきて、と言った。真美はアイスココアにしてください、と言い、ウエイトレスはかしこまりましたと言って立ち去った。
「君がどんなお嬢様か知らないけど、デニーズはファミレスなんだ。マニュアルに載っていないような注文をして、せっかくの夏休みにアルバイトをしている真面目なお姉さんを虐めちゃいけないな。」
「最近カプチーノにハマってて、でもカフェインは成長が止まるからだめでしょ。」
そう言って、椅子の下で足をぶらぶらさせた。
大人のような口を利いても、足が床につかない。そのアンバランスがなんだか可笑しい。
「何が可笑しいの?」
吉原は笑うのを止めて、咳払いをした。
「いや、なんだか小学生との会話じゃないなって思ってさ。」
真美は鼻を上に向けて嬉しそうな顔をしている。
「ねえ、丸山先生の何を知りたいの?」
「先に昆虫の飼育日誌を片付けるんじゃなかったっけ。」
真美は腕を組んで考える仕草をした。
「気が変わったわ。」そう言ってまた足をぶらぶらさせた。
「身に余る光栄でございます。」
吉原はおどけて胸に手を当ててお辞儀をした。
真美はストローで水を飲んで、満足そうに頷いた。
「丸山先生ってどんな先生かな。」
「私にとっては嫌な奴。いなくなって本当はすごく嬉しい。」
真美は吉原を見たまま、はっきりと言った。
「どうして嫌な奴なのかな?」
「なんとなく嫌な感じ。大人なんだから生徒より知ってて当たり前なのに、さも自分は頭が良くてえらいみたいな感じで喋る。」
「でも生徒に人気があったと言う話だぜ。」
「そうみたい。冗談言って笑わせたり、若くてルックスいいし。」
「真美ちゃんはそうは思わない。」
「丸山先生は私のことが嫌いだもの。それにあの先生は表向きはいい先生みたいに振舞ってて、でも本当は自分のことばっかり。本気で子供を理解しようとなんてしてない。」
「どうしてそんな風に思うの?」
「自分の出世のことしか考えてないよ、あの先生。調子いいけどズルイんだよね。例えばね、校長先生が来ると声のトーンが上がったり。そういうのって嫌らしいと思う。」
 吉原が噴出した。
「そう言う奴ってどこにでもいるんだよなあ。」
 ウエイトレスが吉原にコーヒーを、真美にケーキとアイスココアを運んできた。アイスココアには驚くほどホイップクリームが盛り上がり、真美が飛び切りの笑顔を作ってウエイトレスにお礼を言った。ウエイストレスもどういたしまして、と微笑んだ。真美はホイップクリームをスプーンですくって、唇に付かないように注意深く口に入れた。
「最初に会ったときからなんか嫌な感じがした。最初から何かされたというんじゃないけど、初めて会って本当に、あ、嫌だって思った。それで後になっていろいろ嫌なことがあって、やっぱりって思った。でもそういうのってあるんです。会った途端に嫌だって思う人と会った瞬間に好きだなって思う人っていません?」
 真美は瑤子さんの言葉を思い出していた。吉原もまた瑤子の顔を思い出した。会った瞬間に、まるで心臓を素手で掴まれたみたいに強く揺さぶられた。
「わかるよ。そう言うの。嫌な奴は誰がなんて言おうと嫌な奴だもんな。」
「でしょう。でもさ、丸山先生はどこに消えちゃったんだろう。」
「さあ。何かの事件に巻き込まれたか、どこかに連れ去られたか、自分で消えちゃったか、今のところはなんとも言えないなあ。」
吉原が言った。そして、
「ねえ真美ちゃん、瑤子さんと友達なんだって?」
「どうして知っているの?」
「瑤子さんに会ってきた。一応丸山先生がいなくなる前に会った人、全部に聞いてまわっているからね。」
真美はちょっとむっとした。
「瑤子さん、秘密の友達だっていってたのに。」
吉原は慌てて、
「警察が聞き込みに行ったらなんでも話すのが市民の義務なんだ。それに、実は僕、会った瞬間に瑤子さんが好きになった。」
「瑤子さん、美人だもんね。一目惚れ?」
「ははは。確かにすごい美人だけど、そんなんじゃないんだ。もっと心の奥にあるものに共感したっていうか。」
「それって一目惚れだよ。」
ストローを口で遊びながらあっさり言う。
「こら、大人をからかうもんじゃない。」
「でも、わかるなあ。私が大人の男だったとしても、百パーセント瑤子さんに一目惚れすると思う。」
「僕は真美ちゃんも、会った瞬間から好きになった。」
真美が目を見開いた。
「どうして?」
「わからない。直感かな。」
吉原は言った。そして心の中で思った。真美も自分も予期せぬ父親の死を目撃している。そういう少女と出合ったことが何か特別な気がしてならなかった。
「じゃあ、真美ちゃんはどうして瑤子さんを好きになったのかな?」
真美は残り少ないココアをストローで飲み干した。飲み終わる寸前のずずっと言う小さな音が響いて、真美は吉原をチラッと盗み見た。
「似たものどうしだから。」
ココアを飲み干して真美が言った。
「似たものどうし?」
「私たちは大切な人を心に持って話しかけることができるの。」
「どういうことかな。」
「それはまだ言えない。真美はまだトレーニング中だし、刑事さんには会ったばかりだから。」
そう言って、カバンからノートを出した。
「ねえ、約束の飼育日誌。」
「ああ、ごめん、よし、まず好みの昆虫を選んでくれるかな。」
「てんとう虫。」
「てんとう虫?それはちょっと経験無いなあ。」
「なあんだ。何でもいいって言ったくせに。じゃあ、刑事さんが選んでよ。」
「てんとう虫は男の子に人気無いんだ。カブトムシで妥協してくれないかな。」
真美が腕を組んだ。
「ま、いいか。母がビートルズのファンなんです。だからカブトムシで許してあげることにする。」
真美が言った。




瑤子は琢磨とを向かい合っている。
愛宕の精進料理の店。
「夏バテ対策にはステーキより野菜のビタミンが利くからね。」
と、琢磨が瑤子を誘った。
湯葉の刺身、胡麻豆腐、八寸に盛られた美しい野菜の鮮やかな色。黒に近いダークグレイのブリオーニのスーツのジャケットを脱ぎ、あぐらを掻いて寛ぐ琢磨の背中の向こうに、利休の描かれた墨絵の掛け軸が掛かっている。
「あなたからそんな風に言われるのって、なんだか不思議。」
「君に感化されたのかもしれないな。植物の恐るべき効用を散々聞かされてきたからね」
「退屈だったかしら。」
「とんでもない。君といて退屈したことなんて一度だってないよ。知らない世界を知ることには知的興味をそそられるからね。美しくて聡明な恋人を持った僕は幸せ者だ。」
そう言って笑顔を見せた。涼しくて上品な笑顔。この人は食べ物を口に運ぶときも、セックスで達するときでさえ涼しげな顔をしている。そしていつも完璧だ。せっかくの美しい料理と美しい恋人との逢瀬を、「接待系の親父の声やアメリカ人のオーバーな感嘆詞に邪魔されたくないから」と言って今夜も個室を取ってくれた。瑤子は琢磨がプレゼントしてくれた華やかなエミリオ・プッチのドレスを着ている。琢磨は時々、君に似合いそうだからという理由だけで服を買ってくる。そしてそれがドレスであってもジャケットであっても、いつも驚くほど瑤子の身体にぴったりとフィットする。
 ふと吉原の顔が心に浮かんだ。行き詰っちゃって、と言ったときの無防備な横顔。アサツキの花を見たときの子供のような笑顔。
「どうしたの?」
琢磨が瑤子の顔を覗き込んだ。
「いいえ、何でもないのよ。ちょっと考え事。」
「また研究のこと?茄子を食べながら成分のビタミンPについて分析していたりして。」
瑤子は笑った。
「そんなことはないわ。」
「高血圧防止の他にシミ防止作用があるって前言ってただろう。瑤子がスーパーの野菜売り場に立って、このようにシミに効きますって言ったら説得力倍増だよな。」
瑤子が噴出した。
「アルバイトしようかな。」
琢磨は今度の週末、遠出をしようと提案してきた。強羅のハイアットがとても良さそうなんだ、金曜の夕方出て二泊、たまには温泉でのんびりするのも悪くないだろう。お盆が終わって箱根の喧騒も一段落した頃だろうし。
 箱根と聞いて真美の顔が浮かんだ。

 プリンスホテルの朝積みサラダ。
 富士屋ホテルの前の和食器屋さん。

「素敵な提案ね。」
瑤子は答え、美しい山の景色や芦ノ湖の湖畔のレストランを思い浮かべた。爽やかな風景で寛ぐ琢磨と瑤子。突然、琢磨の顔に吉原の顔が重なり、吉原と激しく抱き合う自分の姿が浮かんだ。瑤子は慌てて、江戸切子の冷酒を少しこぼしてしまった。琢磨が咄嗟に立ち上がり、瑤子の側に来て、テーブルにこぼれた冷酒を拭き取りドレスの雫を払った。
「大丈夫??」
「ごめんなさい。ちょっとぼーっとしてしまったわ。」
「だから言っただろう、働きすぎた。ストレス溜まってるんだよ。仕事熱心はいいけど、最近の瑤子は飽和状態なんだよ。よし、決まりだ。ホテルを予約しておくから、週末しっかり空けておくこと。向こうについたら何もしないでぼーっとしていればいい。」
そう言って、瑤子の肩を優しく抱いた。

 琢磨の腕の中で瑤子はそっと目を開けた。暗闇に目が慣れると壁のリトグラフのシルエットに色が蘇る。ピーターマックスのモンドリアン・レディー。パステルカラーの線タッチで描かれた同じ横顔のふたりの女性が、重なって同じ方向を向いている。まるで少し前の私の姿だ。そして今はひとりになれた。ひとりの人生でひとりの人を愛することが出来る。それは琢磨のはずだった。なぜ、あの刑事が心を乱すのだろうか。目を閉じると吉原の顔が心にくっきり浮かぶ。その顔を琢磨の顔に置き換えようとすると、琢磨の顔の輪郭が曖昧に消えていく。
 瑤子は振り返り、琢磨の顔をそっと見た。
「眠れない?」
琢磨が目を開けた。
「また考え事かい。大好きな花に囲まれた専業主婦という選択が用意されていても聞く耳を持たないんだから。でもまあ、君ほど主婦という言葉の似合わない人もいないからしかたないけれどね。」
そう言って瑤子を引き寄せ、優しく髪を撫でた。
 糊の利いた800スレッドカウントの、清潔で滑らかなシーツ。静かな部屋。琢磨の部屋では全てがあるべき場所に収まり、余分なものが無い。クローゼットのシャツのグラデーション、コーヒーテーブルの上のデュフィーのアートブック。キッチンの戸棚のディチェコのパスタやハインズのケチャップまでが整然と美しく並ぶ。
 約束された平和な未来。
 けれど、瑤子の心に突然割って入ってきた若い男。瑤子の犯した罪をみつけようとしている刑事。吉原に関われば、全てを失うことになるだろう。瑤子は目を閉じたまま苦笑した。小学生にだってわかる簡単な方程式。これ以上吉原に会ってはいけない。
 真美のことを思った。父親を死なせた小さな少女。そこから全てが始まった。いや、始まりは遠い昔。小学校の教室に並んだふたつの机。真美はその延長線に現れた。
 ふいに吉原の言葉が蘇る。

 騙されて、結局父は自殺したんです。

 これは偶然だろうか。まるで彼方の星と星を線で結んで星座が出来るみたいに、離れた場所で心に傷を受けた三人の点と点が繋がって関わりあっていく。真美との出会いが遠い昔から決められていたように、吉原との出会いも遠い昔から約束されていたのだろうか。会った瞬間に覚えた懐かしさはそういうことだったのだろうか。だとしたらそれはとても悲しいことだと瑤子は思った。
 私は永遠に許されないのだろうか。
瑤子は目を閉じた。そして琢磨の滑らかな肩にそっと唇で触れて心で呟いた。
 大丈夫、私は負けない。もう後戻りは出来ないのだから。




 真美は自宅の部屋で吉原の協力で作成したカブトムシの飼育日誌の最後の仕上げをしている。絵を描くことが好きな真美は各ページごとに図柄を入れて絵日誌仕立てにしようと決めて、百科事典を見ながらカブトムシをリアルに描き、土やガラスのケース、餌のスイカやキュウリにも色を塗った。
 もうすぐ夏休みも終わりだなあ。真美は思った。丸山先生がいなくなって、学校へ行くことがあまり苦ではなくなった。足立先生は厳しいけれど、生徒を頭ごなしに叱ったりしない。むしろ褒めることでやる気を起させるタイプだ。真美は叱られたりすると一気にやる気が無くなる。褒めらて持ち上げられると、よ~しもっとがんばろうという気分になるのだ。そのことをお母さんに言ったら、真美は甘えん坊だから、と笑った。真美はお父さんに心で話しかけた。
違うんだよね。お父さん、北風と太陽の話。人に何かをさせようと思ったら無理強いするより暖かく接した方が効き目があるんだよね、と言った。お父さんもそうだそうだと頷いている。
 最後のページの色付けを終わって、色鉛筆を置いて伸びをした。瑤子さんと吉原刑事の顔を思い浮かべる。けっこうお似合いかもしれないな、などと思って楽しくなった。ここは真美がちょっとお膳立てをしちゃおうかな。
真美はそう思ってパソコンを開いた。

 瑤子さん、お元気ですか?
夏休みも来週でお終い。もう好きな時間に起き出したり、一日に何回も冷蔵庫を開けてつまみ食いしたり出来なくなります。でも本当は私よりお母さんの方が残念がっているんじゃないかな。だって、また毎朝早起きしてご飯を作らなくちゃならないでしょ。夏休みの間、面倒くさいときは、朝は牛乳とパンかシリアルだけで済ませて、早めに池袋に出て西武や東武デパートの食堂で朝昼兼用で食べちゃったりすることも多かったから。
 ところで瑤子さん、今週末ひまですか?どうしても瑤子さんに会ってほしい人がいるんです。瑤子さんも絶対気に入る。ランチが無理ならカプチーノだけでもいい。だめですか?



 真美ちゃんへ。
 今週末はちょっと予定があってね。週末小旅行に行くの。最近仕事がちょっと忙しかったのよ。だから骨休め。
 私の仕事はOLみたいに九時五時でタイムカードを押すようなものではないから、時間はやりくり出来るの。いつでもいいから連絡ください。

 吉原刑事さん。真美です。とても大事なことがあって、どうしても刑事さんに相談したいことがあります。なんとか時間とってもらえませんか?

 真美ちゃん。吉原です。真美ちゃんのためならすぐ駆けつけてあげるけれど、大丈夫?なんなら真美ちゃんの家まで行こうか?

 瑤子さん。真美です。いつなら時間取れます?

 真美ちゃん、瑤子です。それでは明日ちょっと植物園を抜け出して真美ちゃんを迎えに行くわ。そうね、お昼過ぎがいいかしら。

 吉原刑事様。真美です。そしたら明日お昼過ぎ、十二時半。どこに行けばいいですか?

 真美ちゃん、吉原です。僕が迎えに行くから待ってて。

 瑤子さん、真美です。十二時半に迎えに来てもらっていいですか?

 真美ちゃん、瑤子です。わかりました。十二時半にお迎えに行きます。

 瑤子は顕微鏡を片付けて席を立った。時計を見ると正午過ぎ。ちょっと出かけてきます。同僚に声をかけて植物園を出た。
 真美が会わせたい人ってひょっとしてお父様?それとも真美は何かのメッセージを私に伝えようとしているのだろうか。瑤子は電車に揺られ考えた。ランチタイムのせいか電車は比較的空いていて、瑤子は座って窓の景色を眺めた。植物園と家を往復しているだけでは見えない風景が流れる。線路沿いに並ぶ排気ガスですすけた雑居ビル、街金融の赤い派手な広告、古びたアパート。その窓の外に小さなベランダが続き、色の褪せた洗濯物と洗濯機、部屋に置ききれないダンボールやガラクタ、子供の三輪車、そして埃にまみれたクーラーの室外機。その景色は幼い心に刻まれた正恵の家を連想させる。
あの窓の向こうの部屋も多分、同じ。些細なことで兄弟が喧嘩をしたり、母親は朝食の食器を台所に下げて、そのまま慌ててパートに出る。瑤子は眉をひそめた。自分はそういう暮らしには無縁のところにいる。美しい暮らしをひとりきりの自分が独占している。それなのに本当にひとりぼっちになると、時々どうしようもない不安が襲ってくる。琢磨がいてくれるのに琢磨だけではその不安が消えることはない。大切なのは心の繋がり。私の心が繋がっているのは琢磨ではないことに自分はとっくに気付いている。でも。瑤子は思った。あの壁の向こうの生活には戻れない。琢磨との生活を受け入れてしまえば、清潔で美しい暮らしが永遠に続くのだ。ずっと夢見ていた暮らし。
 瑤子は石神井公園駅で下車し、真美の家へ向かった。もうひとつだけ、真美のためにしなければならないことがある。それが終わったら、私はあの家で好きな花に囲まれて琢磨と静かに暮らすのだ。そうだ。琢磨好みに家の中を改装しよう。座敷をモダンなリビングに変えて、コルビジェの椅子を買う。縁側をテラスにして椅子とテーブルを置き、日曜日にふたりで花を眺めながらシャンパンを楽しむ。バラをたくさん植えて、芝生を敷き詰めて、犬を飼ってもいい。吉原のことは忘れ
る。激しい想いは束の間。情熱はやがて冷める。そしてその後に残るものは後悔だけだ。過去は全てあの深い穴に沈めたはずなのだから。

道家さん。

 真美の家へ向かう道を歩いているといきなり後ろから声を掛けられた。瑤子が振り返ると吉原が立っている。
驚いて言葉を失った。
「瑤子さんも真美ちゃんに呼ばれていたんですか。」
真美の家の方向に振り返ると、道の向こうから真美が走ってくる。
 真美ちゃん。
真美はスピードを緩めず走って瑤子の胸に飛び込んだ。
瑤子の腕の中で呼吸を整えて、真美が言った。
「あのね、本当に悪いけど、お母さんがどうしてもデパートの買い物に付き合えっていうの。ごめんなさい。我がまま娘もたまには親孝行しないと。でもせっかくだからふたりでデートでもしてください。」
ふたりにそう言って、それから吉原を見て、じゃあね、とにやけた顔をして、瑤子に向かって「身長といいルックスといい、ふたりがそうやって立っているとビジュアル的にぴったりお似合い。」そう言って家の方向に走って行く。
「いったい、何なんだ、あの子は。」
やれやれ。吉原がため息をついた。
 会わないと決めたはずの男が目の前に立っている。けれど会うとまた心が動き出す。言葉に出来ない強い磁気を含んだ空気の流れ。吉原はちょっと怒ったような顔をして、それから咳払いをした。
「瑤子さん、何か召し上がりたいものありますか?」
瑤子は吉原の顔を見た。もう一度だけ。これを最後に自分の中で納得すればいい。



 吉原は迷って、結局瑤子をパレスホテルに連れて行った。池袋の定食屋という雰囲気の人ではないし、かといって気の効いた店なんて知っているわけもない。
 ふたりはまた窓際の席で向かい合った。ウエイターが注文を取りに来て、立ち去るのを見計らって瑤子が口を開いた。
「丸山先生の事件はその後どうなっているのかしら。」
「もう、お手上げです。始めから僕の管轄では無かったし、ひょっとしたら本当に単なる失踪かもしれないし。新米の刑事がちょっと張り切りすぎたんだって同僚に肩を小突かれました。」
「そう。」
「もう次々事件は向こうからやってくるし、どうしてこんなに犯罪が多いんだろうって、驚いちゃいますよね。普通に暮らしていたら、窃盗とかの些細な犯罪にさえめったに遭遇しないでしょう。刑事になって本当に驚きました。強盗だけじゃない、家庭内暴力、酔っ払いの喧嘩。そんなの毎日ですから。そしてありとあらゆる理由で人が人を殺す。」
「人が増えすぎて、社会に収まりきれない人が暴走するのかもしれない。人間が自然からはみ出して、本来のエコシステムが全く機能しなくなってしまった。だから歪が生じるのかもしれない。」
吉原が頷いた。
「そういうことなのかもしれませんね。でも例えば小さな家に溢れそうな大家族がわいわいやりながらうまく機能して、核家族の方が家の中で個々ばらばらで問題が生じることもある。なんなんだろうって思いますよ。僕なんかから見たら、狭い家の自分の部屋で引きこもったって、何の意味があるんだって言いたくなります。本当にひとりになりたいなら家を出て行けばいい。でも親のスネはかじりたいってことですかね。」
「それは、どうかしら。家族を愛するのと憎むのって表裏一体でしょう。無視するっていうのはそれをわかってもらいたいっていう主張でもあるわけだから。みんな寂しいんじゃないかな。寂しいっていう気持ちをどう表現したらいいかわからない。自分の属する場所がみつからないのよ、きっと。」
「よくわからないです。ただ言えるのは、そういう飽和状態の中で、はけ口のみつからない人たちが増えているのだけは確かだと思います。そういうジレンマを抱えた人々は、他人を傷つけるか自分を傷つけるか、どちらにしてもその時点ですでに精神が病んでいる。りっぱな職業を持った人が、衝動的に人生に失望して蒸発したくなることだってある。そういう心の葛藤は他人どころか、家族にだってわからなかったりする。」
「わかりますわ。それで、丸山先生の件は捜査打ち切りということなのかしら。」
「仕方ないです。彼の場合、そんな風にストレスが溜まっているとは考えにくいんですけど、でも言った様に本人の気持ちは本人にしかわからないし、ご家族の方には申し訳ないけど、正直言ってお手上げです。」
「でも吉原さんはやるだけおやりになったんだから。」
「下品な例えで申し訳ないんですけど、なんだか食事を終えてもまだ何かが歯に何かひっかかっているみたいな感じで気持ち悪い。」
「どちらにしても刑事って事件を解決できてもできなくてもハッピーエンドではないわけよね。大変なお仕事だわ。」
「本当にそうです。起こってしまったものは例え事実が立証されても元に戻せない。犯罪者を逮捕して罰して、家族や恋人を失った人の怒りが仮に治まったとしても、悲しみは消えない。失った人が戻ってくることはないわけですから。それが日常です。」
「吉原さんもそのうちにそういうことに慣れていくのかしら。」
「慣れませんよ、絶対。」
吉原はきっぱり言った。殺された場合はなおさら、死体からもそのまわりの関係者からも無念さが伝わってきて、やりきれない気持ちになる。
「瑤子さん、前から気になっていたんですけど、小さい頃にあったショックな出来事って聞かせてもらえませんか?」
瑤子が顔を上げた。そして微笑んで、
「そんな、大したことじゃないの。クラスメートが突然亡くなってしまったんだけど、仲良かったからびっくりして。」
「真美ちゃんが言ってたんです。瑤子さんも真美ちゃんも心で語りかけられる人がいるって。」
瑤子は窓の外に顔を向けた。この窓から見えるのは電車の窓からの猥雑な景色ではなく、整然とした景色。美しい街路樹とスーツを来た人々。アスファルトを行く、背筋の伸びたピンヒールの女性。私が属してる世界はこの場所にある。
「吉原さんはどうして真美ちゃんが気になるのかしら。」
吉原が腕を組んだ。
「なんていうか、直感かな。一目見て、ひと言口を聞いて、心にぴんと来たんですよ。この子好きだなって。」
瑤子が静かに頷いた。
「でも、本当言うと、っていうか、後になって考えたら、僕と真美ちゃんには絶対的な共通点があったんですよね。」
「絶対的な共通点?」
「はい。正確にいうと他の人とは分け合えない同じ場面を目撃している。真美ちゃんは、もちろん気付いていないけれど。」
 瑤子は首を傾げた。
「父親の死を目撃している。」
「吉原さんも?」
「ええ。真美ちゃんがショックで記憶が無くなったり、父親の死を受け入れられないというのがとてもよくわかるんです。僕の場合も、父親の死体をみつけたのは僕だったから。」
「お父様の亡くなった姿を、吉原さんが?」
吉原は頷いた。
「もう高校生だったから、ショックを事実として冷静に受け入れられたんだと思います。でもあれが小学生だったら、きっと同じように心が壊れたと思う。」
「そうだったの。」
吉原は少しの間沈黙した。ふたりとも運ばれて来た料理にほとんど手をつけていない。瑤子のクラブハウスサンドと吉原の魚介類のクリーム・スパゲティーが冷めたまま向かい合っている。吉原は皿のスパゲティーを見つめるように下を向いたまま口を開いた。
「学校から帰って、母にただいまって声をかけて、階段を上がって、父の部屋の襖を見たとき、背筋が寒くなるような、なんだかものすごく不吉な感じがした。なんだろうって気になって、鞄を床に置いて襖を開けた。そしたら父が首を垂れていたんです。天井に近いところで。頭と腕が、身体の前に力なく垂れ下がっていた。あの姿は今でも絶対忘れません。だから真美ちゃんのショックは他人事ではないんです。」
 天井に近い所で首を垂れて。その首の上に正恵の顔が重る。鴨居に引っ掛けたハンガーと洗濯物の透明な紐。それを見上げる正恵の顔には絶望のボーダーラインを超えた諦めと安堵の微笑みが浮かんでいる。色褪せた畳。机の上の本。図書館の貸し出しカード。王子と乞食。ランドセルの赤い色。紐を首にかける。もう振りかえらない。最後にさようなら、と声に出して言う。大きく息を吸って小さな椅子を蹴る。瑤子は立ち上がろうとした。椅子を蹴るように立ち上がって、手でその光景を払い落とそうと手を動かした。

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