証人

文字数 9,297文字

 真美は学校から帰ってお母さんにただいまを言ってすぐに父の部屋に向かった。
「お父さん、今日も丸山先生がお休みだったの。でも、なんだか様子が変なのよ。風邪とかそういうんじゃなくて、無断欠勤らしいってクラスの誰かが言ってた。でも真美はちょっと嬉しかった。代わりに来た斉藤先生はとてもいい先生。本当は五年生の先生なんだけど、なんだかラッキーって思った。
 
 丸山健一は消えてしまった。真美の学校ではちょっとした騒ぎにになっていた。蒸発したとか何らかの事件に巻き込まれたとかいくつかの憶測が飛び交い、丸山の恋人だという女性が学校にやってきたり、両親だろう、年配の夫婦が尋ねてきたりした。警察もやってきた。けれど、丸山先生に悩みがあるとか、人に恨まれるとかそういう要素は何もみつからない。悩みどころか自分に自信があってどちらかと言うと自分勝手なくらいだから、思いつめるなんて有り得ない、絶対彼の身に何かが起こっていると恋人は主張した。結婚を約束してたんだから。それに、あの夜、突然携帯の電源が切られたのよ。本当よ。警察は事件性も否定できないということで、付近で聞き込みをしたり、丸山健一のマンション周辺で情報を探した。しかし、学生街で一人暮らしの男性に注意を払うものなどいない。コンビニの店員が、写真を見て、よく見かけますよ、というような情報はあったけれど、その程度では何の役にも立たない。おまけに若い男たちは近所付き合いというものをいっさいしないから、丸山を知っているという人物すら見つからないというのが現状だった。
 ひとりだけ目撃者が現れた。丸山が毎週コミック雑誌を買うキヨスクのおばさんが、丸山が女性と歩いているのを見たような気がすると言った。女子大生みたいな髪の長い女の子と楽しそうに歩いていたそうだ。今風の女の子だったと思うわ。Gパンにブランドっぽいバッグを下げてたような。でも人違いかもしれない。
 警察は念のためその女性の詳細を尋ねたけれど、どこにでもいるタイプの子でよく覚えていない、髪が長くてダイエットしてるのか細くてちょっときれいな顔してて。確か眼鏡かけてたと思うけど、それくらいかな。ほら、今どきの娘ってみんなダイエットしてるし、髪をこう長くして必要なときだけかきあげるでしょう。顔がみんな同じに見えるのよね。バッグもグッチだかプラダだか、みんな同じ。化粧が上手いからみんな可愛く見えるし。うちの娘は短大生なんだけど、やっぱり髪をこう長くしてね、バイトしてブランドのバッグ買ったりしててね、眼鏡かけてたから余計に顔立ちが思い出せないのかもしれないけど、
その眼鏡だってみんな黒ぶちの細長いのを掛けてるでしょ。うちの娘がコンタクトが染みるときにたまに掛けるやつに似てる。わからないわね。それに男の方だってひょっとしたら人違いかもしれない。最近は若い男の子もみんな背が高くて小奇麗で同じような顔をしてるし。
 池袋方面のホームに向かったというおばさんの情報で捜査は絶望的になった。江古田の目撃者でこんな程度では、池袋で聞き込みをして、夕方の混み合う時間帯でいったい何人の人がちょっとルックスのいい若いカップルの行方を知っているというのだろう。捜査は曖昧に打ち切られた。両親や恋人は殺人の可能性もあると、警察に捜査の続行を懇願したけれど、死体があがったわけでもないし、みつからないというだけで捜査を続行することは不可能だった。
 ひとりだけ、吉原という捜査一課の二十代の刑事だけが、納得できないと主張した。人が一人消えたんですよ。それも何の問題も無く、女性関係にも経済的にもこれと言った問題が無いのだから、なんらかの事件に巻き込まれている確立は高いはずです。
 しかし彼の主張に対して一課の出る幕じゃないと一笑に付された。「確率だのなんだのって数学の論理を持ち出されても困るんだよね。現場を知らないからそんな風に考えられるんだ。」と皮肉まで言われた。単に消えたというのは、確かに一課の仕事では無い。吉原は考えた。勤務する小学校で他の教師たちの評判も良好で、若くて長身の丸山は生徒たちにも好かれている。仮に彼を嫌っている生徒がいたとしても、まさか十歳そこらの子供が百八十の長身、おまけに学生時代サッカーをやっていたという健康な若い教師を殺して死体を隠せるわけがない。女性関係に関して言えば、付き合っているという女性はありふれた派遣社員で、事件だ事件だと騒ぐ彼女が事件に絡んでいる可能性はあまり期待できない。だから事件の可能性があるとすれば行きずりの反抗以外にはありえない状況だった。そして単なる行きずりだとすれば、迷宮入りするのは明白だ。なんと言っても動機どころか生きているか死んでいるかもわからないのだから、手がかりになるようなものが見つかるはずもない。


 瑤子さんへ
 不思議なことがおきました。丸山先生がいなくなってしまいました。もう一ヶ月近くになるけれど誰も行方がわからないみたいです。今週から臨時の斉藤先生ではなく、新しい足立先生がやってきました。少し歳をとった女の先生。眼鏡をかけていて勉強に関しては厳しいけれど、穏やかでいい先生みたいです。国語が専門で私は国語が得意だから得した気分。それにしても人が一人消えてしまうって不思議です。生徒の間ではやくざに絡まれて殺されたとか、宇宙人が連れて行ったとか、三次元の世界に迷い込んだとか、勝手に話をこしらえてます。けっこう人気はあったから、残念だっていう子もいるし、そのうち、ひょっこり帰ってくるに決まっているなんて言ったりしてましたけど、最近ではそんな話もあんまりしなくなってしまった。お父さんが「人の噂も四十五日」っていうんだって。何かあるとお父さんはいつもそう言うんです。だから後ろを振り返らず前を歩きなさいって。真美は丸山先生が嫌いだったから、振り返るも何もどうでもいいって感じ。それでもやっぱり不思議だなあ。
 瑤子さんはどうしていますか?来週から夏休みです。お母さんは箱根に行こうって言ってます。うちは箱根に小さなリゾート・マンションを持っているんです。昔は海辺に家を持ってたんですけど、父の具合が悪くなって箱根に買い換えたんです。仙石原なんですけど、近くの仙石原プリンスホテルのレストランが母のお気に入りです。こじんまりしていて静かで、ちょっとフランス料理っぽくて美味しいんです。冨士屋ホテルの前のお店で和食器を買うのも母の楽しみ。母は車の運転が出来ないから新宿から小田急ロマンスカーで行きます。私たちはまだアジサイが見られるかしらって心配してます。梅雨の時期は箱根に向かうロマンスカーの窓から本当にきれいなアジサイが見えるんです。もう終わっちゃってるかなあ。これから毎日が日曜日になるから、瑤子さん一度真美とデートしてくれませんか?





 瑤子は縁側に座って花を眺めている。七月も半ばに入り、庭の夾竹桃はますます枝いっぱいにピンクの花を咲かせている。木々の背丈もかなり伸びて、塀の高さを追い越しそうだ。
 そろそろ真美とコンタクトを取っていいだろうと考えた。あの日植物園で会って以来、真美とはメールを一回交わしただけだった。
瑤子はいったん閉じたラップトップを再び開けると、小さなキーボードを叩き始めた。

 真美ちゃんへ

すっかりご無沙汰してしまってごめんなさい。露の時期って何もかもジメジメして、なんだか出不精になってしまうのよね。梅雨明け宣言も過ぎて、太陽と一緒に私もそろそろ活動開始しようかな、って考えていたところ。丸山先生のことは本当に不思議だけれど、神様が真美ちゃんに味方したのかもしれない。宇宙人が連れていったのだったら丸山先生が地球に住む人間のサンプルってことになるわけね。丸山先生が地球代表っていうのもちょっと問題かな、なんて思ったりしてね。
とにかく真美ちゃんのお父様の言うとおり。  
過去を振り返っても何も変わらないわ。真美ちゃんには無制限の未来が広がっているのだから、嫌いだった先生のことは忘れて素敵な大人になる準備を始めましょう。
まずは私とフランス料理のランチ。真美ちゃんのお家の方まで車でお迎えに行ってもいいのよ。安心して。これでも運転には自信があるの。できれば箱根に行く前に会いたいな。連絡待ってます。  


 練馬警察署の館内はちょっとした騒ぎになっていた。桜台二丁目の住宅に白昼強盗が侵入して。家政婦を縛り上げて会社経営の夫人の貴金属等を奪って逃走したという通報が入って、現場を確認して来たばかりだった。主人の五島幹夫は会社、妻は友人とショッピングに出掛けていて、二人の娘は学校、家政婦ひとりが留守番をしていた。鉄筋コンクリート三階建ての瀟洒な住宅にはもちろん警報システムが備え付けてあったけれど、昼間だということと家政婦がいたことで解除されていた。
 近所の住人が五島宅の前に白いワゴンが止まっていたのを目撃している。家政婦によると宅配を装って玄関のベルを鳴らして、ドアを開けたらいきなりナイフを突きつけてきたという。調べたらなんのことはない。前があった。と言っても前科ではない。近くの練馬少年鑑別所の「卒業生」だった。新田幹也、当時の少年Aは友人数人と、遊ぶ金ほしさに帰宅途中のサラリーマンを襲っては財布を奪い、深夜に待ち伏せて、歩いているOLを強姦したりを繰り返して逮捕され、この春出所したばかりだった。自宅のアパートを張っているとまるでコンビニから帰ってきたみたいに、戦利品を入れたビニールの袋を抱えて帰ってきた。
「反省の色、ゼロって感じですね。家政婦が無傷なのが幸いだったなと言ったら、ばばあだったから抜く気にもならなかったなんて言ってましたよ。」
吉原が言った。
「金に困って咄嗟にやっちまったって感じだろうな。何も考えてないよ。」
杉浦警部補が煙草を灰皿に置きながら言った。家族にも同僚にも散々言われているのに、今だに煙草が止められない。
「金庫をさ、大した大きさでもないのに、持ち上げようとして諦めたって感じだな。金庫全体見事なほどべたべたと指紋を残して行きやがった。」
「杉浦さん、また置き煙草。吸うなら吸う、吸わないなら消して下さい。まわりの迷惑になります。」
お茶を置きながら牧原弥生が眉をしかめた。
「私が歳をとって皺くちゃになったら杉浦さんの責任ですよ。これから置き煙草するたびに将来のフェイスリフト整形の積立金を徴収します。」
そう言って杉浦に手のひらを差し出した。
「一回につき百円。」
杉浦はその掌に三百円握らせて
「ハイライト、買ってきて。」
と言った。
弥生はぷいっとむくれて
「おつりは頂きます。」と自販のところに歩いていった。
「最近の若い女はしおらしさってものが無いからなあ。」
杉浦が音をたててお茶を啜りながらいった。
「弥生ちゃんはしおらしいほうですよ。なんだかんだ言いながらちゃんと言うことを聞いてくれるんだから。普通の最近の若い子だったら三百円を杉浦さんの顔に叩きつけてますよ。第一お茶なんか入れてくれませんよ。」
吉原が笑った。
「昔は良かったなあ。女の子がお茶を入れるということに疑問をもつやつなんかいなかったもんなあ。」
「アメリカじゃ、トイレに男女のサインも禁止らしいですよ。女になりたいオトコの性転換手術は三年待ちだとか。その波が津波になって、今度は肉食女子と来た。これからはお茶どころか男も育児休暇が当然になるかもしれませんよ。そのうちに給湯室は男の憩いの場所になったりして。」
 山崎が言った。彼は高校の時にインディアナ州に交換留学を経験して、何かというとアメリカの話を持ち出す。
「勘弁してくれよ。」
杉浦が手のひらを振った。
「はい、煙草。」
弥生が杉浦のデスクに煙草とおつりをおいた。
「釣りは返さないんじゃなかったのか。」
杉浦は椅子を回して座ったまま弥生を見上げた。
「数十円ぽっちで恩を売られたらかないませんからね。今度カツどんでも奢ってもらいます。」
「ダイエットしてるんじゃなかったか?」
「ダイエットもたまには息抜きが必要なんです。無理なダイエットは長続きしませんからね。」
「ダイエットもいいが、その髪なんとかしろ、
染めるのは勝手だが根元だけ黒いのは興ざめだぞ。」
「人をこき使って定期的に休みをくれない署長に言ってもらえません?美容院って前もって予約しないと行けないんですから。」
「じゃあ、いちいち染めなきゃいいだろう。」
弥生がむくれた顔をして杉浦の財布をひったくると、千円札を抜き取った。
「部下に煙草を買いに行かせたのは職権乱用、ヘアスタイルにコメントするのはセクシャルハラスメント、これは示談金です。安いと思いません?先輩のアドバイスに従い、私はカツどんは止めてダイエットに良いすし屋でチラシ食べてきます。署長に言っといてください。」
そう言って、ハンドバッグを掴むとドアをばたんと閉めて行ってしまった。
「あれでも四大卒、成績優秀で昇格試験、クリアしていっぱしの刑事だっていうんだから、呆れるよなあ。」
杉浦が言って山崎は笑った。
「テレビとかでヒーローみたいにイケメン刑事がいて、他の刑事はだいたいさえなくて、美形の女刑事がイケメンと事件を解決していくってパターンあるじゃないですか。弥生はそれを目指してるんだそうです。可愛いじゃないですか。」
「美形というには心持ち太めだけどな。」
杉浦が言った。
「それを言ったら完璧なセクハラ。千円くらいじゃすみませんよ。」
杉浦がやれやれ、古き良き日本は何処にいったんだ。最近じゃ、電車に乗ったって痴漢と間違えられないように腕を組まないきゃ誤解される時代だ。俺はもう若い女とは関わらないことにする。そう言って煙草を手にしたまま椅子の背にもたれて目を閉じた。

 吉原はまだ丸山失踪のことにこだわっていた。恋人の麻由美によるともう一ヶ月以上、なんの音沙汰もないという。アパートには旅行に出かけたような形跡もない。独身の一人暮らしのわりにきちんと片付いていて、掃除も行き届いていた。麻由美が合鍵を持っていて時々掃除をしていると言っていたのを思い出した。吉原は席を立った。
「ちょっと出かけてきます。」
「どこへ行くんだ。」
杉浦が声を掛けた。
「例の丸山健一失踪の件、ちょっと気になることがあって。」
「おいおい、あの件は管轄外だ。それにどっちにしろ捜査打ち切りだろう。」
吉原はジャケットを肩にかけると振り向いた。
「人がひとり完全に消えて、遺族や恋人から捜査願いが出ているんです。強盗事件も簡単に片付いたわけだし、少しくらい調べさせてもらってもいいでしょう。何かの事件に巻き込まれた可能性もあるわけですから。」
ドア越しにそう言って署を後にした。

 戸塚絹子は板橋区小竹向原四丁目に住んでいる。偶然、丸山の住んでいた江古田の駅から徒歩で十分足らずだ。
住所の番地の道へ入ると、全く同じ作りの建売住宅が、窓から手を伸ばすと届きそうな間隔で続いていた。小さくて四角い家の連続は、モノポリーのプラスティックの家に似ている。
戸塚絹子の家がはそんな一角に建っていた。低い塀の上、二階のベランダには洗濯物が掛けられ、カラフルなTシャツやジーンズが風に揺れている。
 小さな鉄の門を開けて玄関のベルを鳴らすと若い女性がドアチェーン越しに顔を出した。
短大生だという娘だろう。
「何でしょうか?」
大きな目をくりくりさせて吉原を見る。長い栗色の髪、アイラインを施し唇も艶っぽく光らせているけれど、頬に大きなニキビがひとつあって、ヘアスタイルと化粧がなければ高校生に間違えそうなあどけない顔だ。もっとも最近では中学生でも化粧をするそうだから、女性の年齢はますますわかりにくくなってきたもんだ、と吉原は思った。吉原は警察手帳を見せながら、
「お母さんはいらっしゃいますか?」
と聞いた。キヨスクに行ったら今日は休みだと聞いていたのだ。手帳を見せると娘は興味津々、吉原と手帳を見比べながら嬉しそうに奥に向かって、大きな声で母親を呼んだ。
「お母さん、ケイジさんが来たよ。」

 戸塚絹子はお茶を入れて、煎餅の入った赤いボールと一緒にキッチンのテーブルに並べた。娘が絹子の隣に座り、自分で入れたお茶を飲みながら煎餅に手を出した。クーラーの音だけの部屋に煎餅を噛み砕く音が響く。
「そうですか。まだみつからないんですか。あれからあの男の子、本当に消えちゃったんですね。やっぱりあの子だったんだろうって今は確信してますよ。だってあれから全く姿を見なくなったからね。別に口聞いたわけじゃないけどね、黙ってお金出して雑誌受け取って、たまにガムとか買うことがあると、「これも」って一言。感じがいいとか悪いとかっていうほど話してないし、まあたまにはにっこりしたり、こんにちは、くらいのことは言ってたかな。背が高くてちゃんとした身なりだし、うちの娘が好きなタイプだなって思ったから知っているっていう程度。」
「かっこいいの?」
娘が身を乗り出した。
「背が高くてすらっとしてて、けっこうあんた好みだと思うよ。ジャニーズ系っていうの?顔が小さくて眉毛が太くて。」
「へえ、ねえ刑事さん、その丸山さんって人の写真ある?」
吉原は丸山健一の写真を娘に見せた。
「ふ~ん、確かにジャニーズ卒業生って感じ。ちょっと生意気そうだけど。でも刑事さんもけっこうかっこいいよ。ジャニーズ系じゃないけどメンズノンノ風。刑事っていうより銀行マンって感じかな。刑事さんのほうが私の好みに近いかも。」
「それはどうも。」
母親が娘の手を叩いて、
「大人をからかうもんじゃありません。」
と言い、娘が舌を出した。吉原は苦笑いして、ハンカチで汗を拭った。クーラーは音ばかり大きくて、三人でお茶を飲んでいると部屋は瞬く間に暑くなってきた。
「やっぱり何か事件に巻き込まれたんでしょうか?」
娘が聞いた。
「いや、まだ事件と決まったわけではないんですけど、行方不明なのは事実ですから、最後に丸山さんと目撃したお母さんにもう一度話をお聞きしようと思って。」
吉原はそう言ってお茶を啜ろうとして慌てて湯飲みから口を離した。
「あら、熱かったかしら。」
戸塚絹子が言って、吉原は
「いえ、僕は猫舌なんで。」と言って口元をハンカチで拭った。
「お母さん、ものすごーく熱いお茶が好きでね、いつも焼けどしそうなのを入れるのよ。それより捜査一課って殺人とかの重犯罪を扱うところでしょう?やっぱり殺されたってこと?」
「いえ、今のところ僕の管轄ではないんですけど、何だか個人的に気になって。それでお母さんにお話を聞こうと思っただけです。」
戸塚絹子は湯飲みを置いて頬杖をついた。
「思い出せって言われても、お相手の顔をはっきり覚えているわけじゃないしねえ。」
「その女性の特徴、なんでもいいんですけど思い出せませんか?持ち物とか服装とかでもいいんですけど。」
戸塚絹子はうーんと言って腕を組んだ。
「綺麗な女の子だと思ったのは確か。あ、綺麗な子連れてるなって思ったのよ。細くてスタイルが良くて。背丈とかは普通かなあ。男の子が背の高い子だからねえ。そうねえ。なんだかブランドみたいなバッグを持ってた。こう斜めがけするやつだったと思う。」
「メッセンジャーバッグっていうのよ。」
娘が口を出した。
「美紀ちゃんもおんなじようなの、持ってなかったっけ。」
絹子が娘の方を向いた。ミキという名前らしい。
「私の持ってるブランドってグッチと、シャネルのトラベルラインのふたつだけだもん。なんなら今、持ってきてあげるよ。」
「何、そのトラベルラインって。」
絹子が尋ねると、
「シャネルが作ってるマイクロファイバーのバッグのシリーズ。皮製のは死ぬほど高いけど、これなら父親も別のパパもいない私でもバイトがんばれば買えるってこと。ものすごい人気なんだから。」
そう言って美紀がドアの向こうに走った。母子家庭なんだな。どうりで男物の洗濯物が干してなかったわけだ。
 階段を上がる音と階段を駆け下りる音がほとんど時差無く聞こえてドアがまた開いた。美紀が手にベージュのバッグと黒いバッグを持っている。どちらも布にロゴのデザインが浮かんでいる。
「これがグッチ、こっちがシャネル。」
美紀が嬉しそうにバッグをテーブルに置くと、
絹子がグッチのバッグを指差して言った。
「ああ、これこれ、こんな感じだったと思う。こんな感じでタスキ掛けしてたと思うけど。」
「見たのが私だったら一発でわかるんだけどなあ。お母さんから見たらグッチとフェンディーの違いもわからないだろうし、シャネルは単なる黒いビニールバッグに見えちゃう
かもねえ。どっちもすごく高いんだけど。」
「そんなに高いんですか?」
「グッチは十五万ちょっと。シャネルのは二十万以上するから、これはメルカリでセカンドハンド見つけたんだけどね。」
吉原は目を丸くして言った。
「二十万円。」
「ねえ、信じられないでしょう、こんなビニールみたいなのがねえ。ブランドの名前だけでお金取ってるようなもんだよねえ。原価なんか二束三文だってのにねえ。」
絹子が呆れ顔で言った。
「でもほしいものはほしいのよ。みんな持ってるんだから。男の子だって、最近は貧乏臭い子とは付き合いたくないのが常識。ひとつも持ってなかったら合コンで声かけてもらうチャンスはゼロなのよね。」
「そんなもんですかねえ。」
「そんなもんなの。刑事さんって若いのにけっこう知らないのねえ。」
「あんたと違って真面目なんだよ。この刑事さんは。」
吉原は咳払いをした。
「とにかく、つまり高級品と言ってもこういうバッグは誰でも持ってるってことなんですね。」
「ピンポーン。ブランドじゃないほうが返って目立つくらいなんだから。」
はあ、と言って吉原は考えた。その女性はありふれたブランドのバッグを持っていた髪の長い女子大生。
「お母さん、髪の長いブランドバッグを持った細くて綺麗な女子大生っていうだけじゃ、
この近所だけでも、武蔵野音大、日芸、武蔵大、池袋を入れれば立教、山手線沿線まで入れたら可能性は無限大だわね。手がかりになんてならないよ。」
美紀が吉原の心中を察して言った。
「お母さん、何か他に思い出せない?」
絹子は首を振った。
「思い出そうとしてるんだけど、さっぱりだめなのよねえ。いちいち事件が起こるかもしれないと思って人を見てるわけじゃないしねえ。」
吉原は絹子と美紀に礼を言って腰を上げた。石神井東小に行ってみるか、自分が納得するまではとにかく続けよう、そう思った。

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