瑤子の過去

文字数 18,029文字

朝食の時の牛乳に沁みた虫歯が今になってじくじく痛み出した。ついてないな、頬を押さえながら真美はそっと呟いた。今日は課外学習の日で、真美の通う練馬区石神井の区立小学校からみんなでバスに乗って小石川植物園までやってきた。
 どうしてこんな日に限って虫歯が疼いたりするのだろう。夏の水泳教室の時にお腹が痛くなって、丸山先生に「泳げないから仮病だろう」と言われたことがとても悔しかった。悔しいから意地になって参加したら高熱が出て、お父さんが学校にやってきて丸山先生に抗議したのだから。
 朝、家を出るときにすでに雲行きが怪しかった空は雨に変わり、午前中だというのに夕方みたいに暗い。植物園は区画整理されていたり花壇があったりするのではなく、植物が好き勝手に育っている。所々、木々や花たちに思い出したように名札がついていなければ、どこかに遠足に来ている気分になりそうだ。でも遠足と違って、外を歩くけれど雨天延期ということにはならなかった。案内係りの男の人が先頭になって、次に丸山先生、そして生徒が一列に並んで植物園を回り、ここの歴史や植物の由来なんかの説明を聞く。
 案内の人がここは日本最古の植物園だと説明している。その歴史を感じさせる大木の向こうにクチナシやハナキササゲ(係りの人がそう言った)が木の枝にびっしりと花を咲かせている。雨を通してもクチナシの甘い香りが辺りに濃厚に漂い、皆でいっせいに鼻を上に向けて香りを確かめあった。良い香りに小さな歓声が広がる。本物を接木したという、ニュートンの林檎の木とかメンデルの葡萄の木なんていうのもあって、丸山先生がそれぞれ万有引力とか遺伝子の法則だとかを得意気に大きな声で話している。大声は虫歯に響くのにな、と真美は顔をしかめた。
 敷地内には日本庭園があって重そうな花をつけたアジサイが池のほとりに並び、すっと背筋の伸びた黄色や紫色のハナショウブが雨を受けて気持ち良さそうに揺れている。池のすぐ近くに赤と白のクラシックな感じの建物が見えた。昔は医学学校だったと言う洋風の建物に、ふと歴史の教科書に載っていた鹿鳴館というフレーズが頭に浮かんだ。
 真美はアジサイの葉の上にかたつむりを見つけた。かたつむりはじっとしてそこに留まっていたけれど、よく見ると触角だけをせわしなく動かしている。かたつむりは何処で殻をみつけるのだろう。ヤドカリだったらそこら辺に落ちているのをちゃっかりもらっちゃえばいいのだ。でも土の上にそう都合良く貝殻は落ちていない。家に帰ったらお父さんに聞いてみよう。
「何ぼーっとしているんだ。」
 丸山先生が真美の頭を軽く叩いた。真美は頬を押さえたまま、
「虫歯が痛いんです。」
と言った。丸山先生は真美の顔を見て、
「そうか、雨降ってるしな。」
と、あからさまの疑いの目を向けてにやにやと笑った。真美は丸山先生が好きではなかった。三年生になって丸山先生が担任の先生になってすぐに、左利きの真美を「ぎっちょ、ぎっちょ」とからかった同級生がいて、丸山先生は嗜めるかわりに、言われるのが嫌なら直せばいいんだと言った。そんなに簡単に直せるならとっくに直している、と思った。でも直そうとするとご飯はぼろぼろこぼれるし、文字はミミズみたいに震えて、漢字なんて倍の大きさになってしまう。三年生にもなってもう一度一年生のひらがなから書き取り練習するなんて真っ平だと思った。それにお父さんが、左利きは単に左手を使うということではなくて、脳がそういう風に作られているのだから変えるべきではないんだと言っていた。真美はそんなお父さんを尊敬している。丸山先生なんかよりずっといろいろなことを知っていて、優しくて、どんな質問にもきちんと答えてくれる。
 虫歯の痛みはひとつの歯に留まらず頬全体に広がって耳まで痛くなってきた。真美は列を抜け出して、丸山先生のところに走っていった。
「もう我慢できないのでどこかで座って待っててもいいですか?」
 丸山先生は大きくため息をついた。それから植物園の人に何か耳打ちして、一緒に赤と白の建物の中に私を連れていった。
建物の内部は、ダークブラウンのフローリングの床も、木の枠の薄いガラス窓も古めかしいけれど、とても綺麗に磨き上げられていて一点の曇りもない。手入れが行き届いた古い建物というのは、何回も袖を通したお母さんのお気に入りのセーターみたいになつかしい匂いがする。植物園の人は真美を小さな応接室に招きいれた。ジャガード織りの花柄のソファーと上の部分がガラスで出来た小ぶりのコーヒー・テーブル。片方の壁の上の部分がハメ殺しのガラス窓になっていてキョウチクトウの小さなピンクの花が雨に濡れて咲いているのが見える。
 ひとりぼっちでちょっと黴臭いソファーに座っていて、真美は二年生の時に行った課外授業の時のことを思い出した。
チョコレート工場の見学。ベルト・コンべアで次々チョコレートのパッケージが作られていく。植物園と同じように工場の人と先生が先頭になって製造過程を説明していく中、どろどろのチョコレートがあっというまに板チョコに変わってアルミホイルに包まれていく過程に魅せられてしまった真美は、次のベルトに移動していく列からそっと離れて、板チョコのベルトに戻った。液体のチョコレートが冷却されて平たい板になり、きらきら光るアルミの薄い紙に次々と包まれていく。どうして機械であんな風にきれいに包むことができるのか、不思議で不思議でたまらなくて、しばらくじっくり見ていた。
 どのくらい見ていたのだろう。気がついたら陽が翳り、薄暗い広い工場の無人のクリーンルームで、真美はひとりきりで立っていた。機械の無機質な音が不安で大きくなった心臓の鼓動に共鳴する。景色が一瞬にして白黒になってしまったような恐怖。機械から伸びた腕が一定のリズムで同じパッケージを繰り返し繰り返し生産する。冷たく光るステンレスの機械、白い壁、リノリウムの床、アルミホイル、茶色いチョコレート。早まっていく自分自身の呼吸だけが規則を乱す空間で、真美は慌てて駆け出していた。
 あの時は担任の野田先生がとてもいい先生だったから、はぐれた理由を正直に話したら真美を叱るどころか、何かに夢中になるのはとても大切なことなんだと言ってくれた。真美は野田先生が大好きだった。野田先生はお父さんと同じように真美の左ききを治す必要は無いと言っていた。野田先生が今でも真美の担任の先生だったら良かったのにと思う。でも野田先生はどこかの有名私立の小学校の先生に「ばってき」されて真美の区立の学校からいなくなってしまった。三年生になって新しい教室に入って丸山先生の挨拶を聞いて、始めからなんか嫌な感じがした。なぜかと聞かれて答えられるような理由があったわけじゃない。なんとなく「感じた」のだ。その後に続くぎっちょの件や水泳教室のことで、「感じた」ことは「確信」に変わった。だから四年生になっても引き続き丸山先生が担任だとわかると、真美はひどくがっかりした。
 ひとりで少し肌寒い部屋でキョウチクトウを眺めていると、とても綺麗な女の人が入って来た。
「虫歯が痛いんですって?」
女の人は真美を見てにっこり笑った。笑うと鼻のところにちょっとだけ皺が寄ってきれいに揃った小粒の白い歯が見えた。艶のあるまっすぐな黒髪をポニーテールにして、つるんとしたおでこが蛍光灯に照らされて少し光っている。黒い丸首の薄い生地のセーターにベージュのタイトスカート、セーターとお揃いのカーディガンには真珠みたいなボタンが並んでいる。女の人が真美の顔を覗き込んで、
「お茶、飲む?」と聞いた。真美が、虫歯が痛いから何も飲めないと言うと、
「緑茶にはカテキンと言う成分が含まれていてね、あまり強そうな名前ではないけれど実は虫歯の宿敵なのよ。」
そう言ってもう一度鼻に皺を寄せた。
真美が本当ですか?と聞くと、
「本当の本当。だけどここのお茶はあまり美味しくないのよ。ここだけの話だけどね、だから私専用の美味しいのを特別入れてあげるわ。」
  そう言って立ち上がって、扉を開けて出て行った。後ろ姿の細い腰と丸いお尻から形の良い足がすらっと伸びて、真美は将来あんなお姉さんになれたらいいなと思った。きゅっと引き締まったカッコイイお尻で素敵にタイトスカートをはきこなしてさっそうと歩く大人の真美。
 お姉さんはお盆を抱えてすぐに戻ってきた。器用に片手でお盆を支えて片手でドアを開け背中でドアを閉めて、ガラスのテーブルに朱色の茶たくに乗った、黄色にブルーの花があしらわれた湯飲みをふたつ置いた。綺麗なお茶碗ですねと真美が言うと、九谷焼っていうの、これも私と私のゲスト専用、と言ってまた笑った。真美は大人に言うようにゲストと言ってもらえたことがとても嬉しくて一緒に笑った。
 お姉さんの入れてくれたお茶は緑色をしていて甘みがあってとても美味しかった。
「本当に虫歯が楽になった感じ。」と真美が言うと、
「言ったとおりでしょ。」と言って自分も一口飲んで、ああ美味しい、と言った。
「美味しいでしょ。八女茶よ。八つの女って書くの。福岡県八女郡のお茶。私は福岡の出身だからこれしか飲まないの。」
「ここの植物園で働いているんですか?」
真美は言ってしまってからまぬけな質問だな、と照れ笑いをして、それを告げると、
「本当ね。賢そうな顔をしているのに。」そう言ってまた笑った。
「でも確かに私ってあんまり植物園風のカッコしてないものね。」
「植物園風ってどんな感じですか?」
「うーん、花屋さんみたいな感じ?ジーパンにぺったんこのスニーカーっていうのが定番でしょう、多分。」
「じゃあ、どうしてテイバンの格好をしないんですか?」
「定番のかっこうが嫌いだから。定番が嫌いなんじゃなくてそういうファッションが嫌いなの。」
「そういうファッション?」
「うん、肌触りの悪いごわごわしたジーパンや紐をいちいち結ばなくちゃいけないスニーカーって私の趣味じゃないの。スニーカーを結ぶ姿って本来、男のものだと思う。」
「じゃあ、今日みたいなタイトスカートがお姉さん的な定番。」
「お姉さん的定番。そうね、ポニーテールとタイトスカートと細いヒールのパンプスは私的定番だわね。」
「そういうファッションが好きだから?」
「自分らしいと思うから。」
「植物園の定番が嫌いでどうして植物園で働いているんですか?」
真美が聞くと、お姉さんは片方の肘を手で押さえて指を口元に持っていって、
「いい質問ね。」
そう言ってから真顔になった。そして
「どうしてだと思う?」と真美に問いかけた。
真美はお姉さんを見て少し考えて
「花が好きだから、文化的だから、静かだから。」と言った。するとお姉さんは真顔のまま、
 「植物は言っちゃいけないことを言ったり聞いたりしないから。」
そう言って私を見た。それから窓の所まで歩いていった。フローリングの床に細いハイヒールの音がこつこつと響いた。
「キョウチクトウって毒があるって知ってた?」
「え?」
真美はつられて窓の外を見た。
「オレアンドリンと言ってね、子犬や子供くらいなら簡単に殺せるくらいの毒。」
真美はぎょっとしてお姉さんを見た。お姉さんは笑って、
「大丈夫よ。あなたはお菓子の家に迷い込んだグレーテルじゃないわ。取って食ったりしないし、そのお茶にも毒は入っていないから安心していいのよ。」
真美はちょっとぎこちなく笑った。
「私はね、ここで植物生理学、簡単に言うと植物の持つパワーを研究をしているの。」
「へえ、なんかむずかしそうですね。」
「むずかしいことではないわ。植物はね、例えばアスファルトの隙間、サバンナのサボテン、どんな場所でも僅かな水で生き延びる。地球上で最も強い生物なのよ。焼け野原に最初に育つのが植物、その植物によって小さな虫が育って、鳥や小動物が虫を食て、そうやって順番に地球の環境が整っていく。チェーン・リアクション。死んだ動物は土に帰り、それを養分に新たな植物が育っていく。」
真美が頷いた。
「そしてね、植物の強さは生命力だけでなく、
様々な毒を生み出す。そしてなぜか美しい花に毒が多いのよね。」
真美は驚いて顔を上げた。
「そんな怖い顔をされるとまいっちゃうなあ。」
すみません。真美は言って頭を下げた。お姉さんがいたずらっぽく真美の顔を覗き込んだ。
「美しい花に毒があったり棘があったりするのって不思議だと思わない?」
「それと花が口を利かないことと関係あるんですか?」
「それが大有りなのよ。」
お姉さんが真美の顔をまっすぐ見つめた。
「あなた名前はなんていうの?」
「下川辺真美です。」
「そう、真美ちゃんか。私は道家瑤子っていうの。」
「改めてはじめまして。」
真美が言うと、
「はじめまして真美ちゃん。」
鼻に皺を寄せて瑤子さんも言った。
「池の淵に咲いてるアジサイ、見た?」
「はい、重そうに咲いてました。」
「アジサイはシアン化水素、つまり青酸を持っているから猛毒なのよ。」
真美は目を丸くした。瑤子さんが続ける。
「アヤメ、ヒヤシンス、シクラメン、カーネーション、スズラン、ツツジ、チューリップ、スミレ、朝顔。数えだしたらキリがないけど、みんな毒を持っている花だわ。インテリアに好まれるポトスなんかもそうだわ。」
うそー。真美は瑤子さんを見た。

「ヒヤシンスはクラスで育てているけれど、先生はそんなことひとことも言ってくれなかった。」
「無知な教師はたくさんいるわ。」
真美は丸山先生はやっぱり無知だったとちょっと嬉しくなった。このこともお父さんに報告しようと思った。
「でもね、そういう毒性の強い植物は薬草でもあるの。植物って食べ物にもなるし薬にもなるし、例えばキョウチクトウの毒は強心剤や利尿剤としても使用されるの。」
「キョウシンザイやリニョウザイ?」
「心臓を強くしたり、おしっこを出す薬。心臓や腎臓の病気を持った人をたくさん助けられるのよ。でも間違った使い方をすれば、ほらあの有名な事件のトリカブトみたいに人殺しの凶器にもなるってことなの。」
「花ってすごい力を持っているんですね。」
瑤子さんは頷いて、キョウチクトウの花を静かに眺めた。
「自然にあるものはみんな限りない力を持っているのよ。」
「みんな、とても綺麗で可愛い花ばかりなのに。」
真美も立って瑤子さんの隣に立って花を眺めた。瑤子さんは真美を見て、虫歯は大丈夫?と聞いた。真美はもちろん痛いですと言い、瑤子さんは可哀想に、と真美の頭を撫でた。
「花たちにしてみれば毒だとか言われるのは名誉棄損だって憮然とするかもしれない。花は人間や他の動物の都合で生きているわけじゃないから。人間の方が地球上の人間以外のすべての動物よりずっと毒性があるかもしれない。人間はどんな毒だって調合して作ってしまう知能を持っているから。そして人間が最悪なのは、言葉だけで別の人間を壊してしまう。」
「壊す?」
「そう、人間を壊すことはね、単純に殺す以上に残酷なことなの。殺すということは身体から命を奪うこと、でも壊すというのは魂を身体から抜き取ってしまうこと。」
瑤子さんはそう言ってポケットから色の褪せた小さなプラスティックの人形を出した。二センチくらいのピンクの服を着た女の子の人形で、黒い髪に同じピンクのリボンがついている。
「これは私の大切な友達の形見。」
瑤子さんが私を見て言った。

「私はね、子供の頃人をひとり壊して、あげくに殺してしまったの。」
真美は驚いて瑤子さんの顔を見た。
「取り合えずお茶のお代わりを持ってくるわ。」
そう言うと、瑤子さんは空になった湯飲みをお盆に入れて出て行った。
 真美は少し不安になった。時計が無いからどのくらい経ったかわからないけれど、みんなはどうしているのだろう。瑤子さんがいない隙に逃げてしまいたい衝動にかられる。それと瑤子さんの話を聞きたいという衝動が真美の小さな胸の中で渦を巻いて綱引きみたいに引っ張り合っている。
 けれど瑤子さんはすぐに戻ってきた。
「本当は美味しい和菓子もあるんだけど、虫歯の真美ちゃんのために今日はお預けにしておくわ。」
瑤子さんはお茶をひとくち、静かに啜ると、遠くをみつめるようにして、静かに話を始めた。

 私はね、自分で言うのも変だけどお人形さんみたいに可愛かった。成績も良くて、バレエを習ってたから運動も出来た。父は開業医だったから経済的にも恵まれていたし、優秀でスポーツ万能で背の高い兄がいて、私は兄が自慢で兄は妹が自慢だった。先生にも生徒にも好かれて、いつも何をしても中心にいる子。
 私のクラスに目立たない女の子がいたの。いつも同じ服を着ていつも髪を三つ編みにしているんだけど、勉強も運動もぱっとしない。三つ編みを縛るゴムだって黒い髪の毛用のじゃなくて黄色い輪ゴムでね。彼女は虐められているわけじゃない。誰も彼女に話しかけたりしないけど、彼女が輪の中に入ってきても席を立ったりという露骨なことはなかった。不器用でシャイで怖くて自分から声をかけられない、わからなくても先生に質問できない、そんな感じ。でも私は表面では優しくしながら心の中で彼女を嫌っていた。彼女は三村、私は道家だったから席が隣どうしで、彼女の机と私の机はくっついて並んでいた。それがだんだん苦痛になってきたのよ。肩にフケが落ちていたりして、ちょっと不潔だったから。私は椅子をなるべく離してすわったり、誰にも気づかれない範囲で彼女と皮膚が触れ合わないようにした。でも彼女は本当はそういうことに気づいていたのよ。そのうちに私にもあんまり話をしなくなって、給食もひとりでもくもくと食べるようになって。
 ある日、彼女が風邪で三日間学校を休んだ。彼女には親しい友達もいないから宿題やノートを届けることにしたの。学級委員だったし、席が隣りだったから、先生に自分から言い出してね。私は家に帰ってお母さんが作ったマドレーヌを持って彼女の家に行った。
 彼女の家には白地に赤で「カバン靴修理、ていねい、格安、早い」っていう看板がかかっていてね、ガラス扉を開けるとものすごく小さいカウンターがあって、小柄で小太りなお母さんが店番をしていて、その後ろでお父さんがカバンを修理していてた。私を見ると眼鏡を下にずらしてぎょろっとした目で私を睨んだ。ノートとマドレーヌを渡したら、お母さんが「大したことないから、今たたき起こしてくる」って立ち上がったの。私は慌てて帰ろうとして、ふと見たら正恵が立っていた。お母さんが、こんなところだけどせっかくだから上がっていってくださいな。友だちなんか一度も連れてきたことがないんだから、と私の手を引いた。
 正恵の家は本当に狭くて、一階はお勝手とお茶の間だけ、木の小さくて急な階段が二階に続いていた。お茶の間には新聞やら座布団やら誰かの靴下やらお煎餅の袋やらがそこら辺に散らばっていて、卓袱台の上も同様に飲みかけの湯飲みや汁の残ったカップヌードル、耳掻きまで置きっぱなし。正恵のお母さんが今片付けるからと言ってそこらのものをかき集めて隅に追いやり、卓袱台のものをお台所に下げて、耳掻きをたんすの上にぽいっと放り投げて、それからお茶を入れにいった。正恵がマドレーヌの包みを開けて言ったの。何これ。マドレーヌ。母が作ったの。正恵はひとくち食べて、わあ美味しいって、ようやく笑った。お見舞いの定番はメロンなんだけど、喜んでくれてよかった。メロン、食べたことない。メロンって美味しいの?道家さんはいつもこういうものを食べているの?まあね。ちょうどそのときお母さんがお茶を持ってきて一緒に食べましょうって言った。私が手を洗いたいと言うと、ああ台所で洗ってと言われた。お勝手はとても暗くてね。電気をつけたら流しで大きなゴキブリが何匹か慌てて走っていくのが見えて、私は小さな声をあげた。お母さんがやってきた。どうしたの?ゴキブリ。ああ、また出た?電気をつけたら出てこないから大丈夫だよ。流しのところには布巾が掛かっていたれど、どれも汚れて灰色をしていて、石鹸には黒いひびがいくつも入ってて、その脇に家族の歯磨き粉と歯ブラシが置いてあった。ここのひとたちはお台所で歯を磨いたり顔を洗ったりするんだって驚いたわ。
 正恵のお母さんが一緒に座った。道家さんの家はお医者さんだって?お金持ちなんだね。本当にお姫様みたいな顔して、綺麗だねえ。正恵が言った。お母さん、今度メロン買ってって。無理無理、世界が違うんだよ、あんたは道家さんみたいなお嬢さんじゃないんだから。文句言うならお父さんに言って。頑固でバカがつくくらいお人良し、金儲けの才能ゼロ。そう言って大声で笑いながら、店番があるから、と表に出ていった。それが正恵の日常だったのよ。
 次の日、正恵が学校に出てきてね。普通に授業をして、帰り道他の子と歩いていたら、正恵がやってきて、ねえちょっと話していい?って聞くの。他の子たちは顔を見合わせて申し合わせたみたいにすーっといなくなって、私は正恵と肩を並べて歩いた。昨日は有難う。マドリーナ美味しかった。私はマドレーヌっていうのよ、って訂正した。そうしたら正恵が、道家さん、本当は私が嫌いでしょって言ったのね。私はえ?って言って正恵の顔を見たの。正恵がもう一度はっきり言ったの。本当は嫌いなんでしょって。私は驚いて立ち止まった。嫌いなくせにどうして私の家に来たの?学級委員だから?貧乏な家が珍しいから?でも行ってみたら汚くて気持ち悪くて、お茶にも手をつけなかった。正恵は怒っていた。何かが弾けたみたいに今まで言えなかったことをすべて吐き出すみたいに。道家さんは綺麗で優しくて頭もいい。だけど心は嘘っぱち。本当は意地悪なくせにいいこぶって、お姫様で、でもそういうのが一番悪い人なんだよね。嫌いなら家に来なければいい。他の子の方がずっと正直だよ。道家さんがどうしてうちに来たか教えてあげようか。私が心配なんじゃなくて優等生でいるためにうちに来たんだよね。道家は天使の顔してて悪魔の心を持っている。それを隠しているけれど本当は他のみんなよりずっと自分勝手でずる賢いんだよね。
 正恵はそう言ってすたすた歩いていった。私はその場で泣き出してしまった。ものすごくショックだったの。あんな風に言われたことなんて一度もなかったから。遠巻きにしてたみんなが寄ってきてどうしたのって聞いても、私は答えられずにただ泣いていた。
 正恵は次の日はべつに何もなかったみたいにお早うと言って席についた。給食が終わって昼休みになると他の子たちが私を呼んで、昨日の正恵の話ってなんだったの?って聞いてきた。私は正恵をちらっと見たの、そしたら彼女、無言でピースサインを送ってきた。そのとき、正恵は最初から私を妬んでいて、私を傷つける機会を狙っていたんだって思った。そのとき私の中に残酷な思いが芽生えた。ねえ、聞いて。テーブルに耳掻きが置きっぱなしで、お野菜も顔も同じ布巾で拭くのよ。ゴキブリだらけのお台所は汚れた歯ブラシが流しの横に置いてあって、そこで料理するの、気持ち悪~い。やだ汚~い。それで正恵ったらマドレーヌをマドリーナなんて言ってね。それでみんな大爆笑。
 それからなの。正恵に対する本格的な虐めが始まったのは。正恵をマドリーナって呼ぶ。彼女の机の引き出しにゴキブリの玩具を入れてペットって書いた紙を添えたり。私はみんなと一緒にそういうことをしたりはしなかった。でも内心、生意気な娘が私を傷つけようとしたからこういうことになるのよって心で笑っていた。そういう一連の虐めに対して正恵は無抵抗だった。
 無抵抗だからこそ、虐めはエスカレートしていく。そういうものなのよね。彼女が給食当番の時に彼女が触ったものは誰も食べようとしない。彼女の机に他の子の教科書とかを置くと、教科書にばい菌がついたと大騒ぎする。間違って正恵の机に触った子はエンガチョの対象になる。休み時間に正恵がくしゃみをするとゴキブリの子供がたくさん見えたとか言って逃げ回ったりする。でもみな巧みで、先生がいるときには絶対そういうことはしなかった。
 そんなことが続いても正恵は普通に学校に来て普通に授業を受けて普通に給食を食べていた。それどころか、先生の質問に手を上げて答えるようにまでなった。そういう正恵をみんなが気持ち悪がって、虐めは徹底的な無視に変わった。でも先生は全く気づかなかった。私だけが正恵が何を考えているか、さっぱりわからなくて不気味に思っていた。
 秋の修学旅行のシーズンになって、私たちは新幹線で京都奈良に行くことになったの。それで学級会で修学旅行の研究テーマとかグループ分けとか初めての遠出の注意事項とかを話し合ったの。みんなで新幹線に乗るんだ。車内で気をつけることはなんだ?誰かが手をあげて「車内を走り回ったり騒いだりすると他の人の迷惑になります。」と言った。別の子が手をあげて「停車駅で外に出ない。」「勝手にアイスクリームやお菓子を買ってはいけない。」突然正恵が手を上げた。正恵は「窓から手を出したりしたら危険だと思います。」みんなが一瞬沈黙した。多分数秒。それからみんな大爆笑ね。先生も「残念だな、三村、新幹線の車両の窓は開かないようになっているんだ。」と言って一緒に笑った。正恵は小さな声で新幹線なんて乗ったことないから、と言い訳した。私は隣の正恵の顔をそっと覗いた。顔がほてって赤くなっている。そしたら突然、私の耳元で、いい気味って思っているんでしょって言った。私は、誰にも聞かれないように、ノートの端にそっと、あなたの家の子に生まれなくて良かったって書いた。正恵はそのとき、ふと空中を見るようなうつろな眼をして、それから私を見て、あなたの家の子に生まれたかった、私の文字の隣りにそう書いて、目に涙を溜めたの。そのとき、多分彼女の中で何かが崩れてしまったんだと思う。それから正恵は学校に出てこなくなった。
 結局正恵は修学旅行にも来なかったの。そして私たちが修学旅行から帰った次の日、先生から彼女が死んだことを知らされた。自分の部屋で首を吊って。遺書も何もなかったって。
家族の人は突然でどうしてこんなことになったかわからない、ただ死ぬ前の日に、メロンを買ってほしいって、かなりしつこく言ったと話していた。最後に買ってあげれば良かったって正恵のお母さん、泣いてた。お通夜と告別式に出席したけれどみな、とても嫌な気持ちだったと思うわ。みんなが犯罪者みたいな気分だった。私はショックで涙も出なかった。私が正恵の何かを壊してしまったことだけは確信していたから。
 小学生の自殺だからマスコミもいっぱい来た。でも遺書らしいものは何も無かったし、私たち小学生とは思えないくらい巧みに虐めたから先生たちは気づいてすらいなかったと思う。第一、学校側は虐めがあったなんて公にしたくないから調査なんて何もしない。お決まりの校長先生の緊急朝礼があって、みんなで黙祷して、お葬式のお手伝いとか割り当てて、それでお終い。マスコミは執拗だったけれど、正恵のご両親がそっとしておいて下さいっていうから何も出来なかったと思う。私は内心ほっとしてた。自分が加害者になってマスコミに少女Aなんて書かれるんじゃないかって本当はびくびくしてたのよね。

 話し終わると、瑤子さんは真美の顔を見て
淋しそうに微笑んだ。
 「遠い昔のことなんだけど、絶対に忘れられない。その後の私の人生にどんなことが起きても、誰と友だちになっても誰を好きになっても、私の頭の中でその事実を奥から掴んで引っ張り出して一番前に持ってきてしまう。だからそのことはいつになっても昨日あった出来事みたいに思い出してしまう。きっと死ぬ瞬間までそうやって頭の中で順番が入れ替わり続けるんだと思うわ。」
 「でも、道家さんが一方的に悪いわけじゃない。正恵さんが瑤子さんを攻撃しなかったら瑤子さんだって意地悪しなかった。」
瑤子さんがプラスティックのお人形を手のひらでそっと包んで、真美を見て言った。
「違うのよ。本当に彼女の言うとおりなの。私はいつも他人に好かれるように、目立つように、そんなことばかり気にするような子だった。彼女の家に行ったのも、先生やみんなに対するパフォーマンス。それでうちの母なんかは、彼女の家は、なんていうか普通の血じゃないから親しくしないでね、なんて言ってた。そしてね、今だって私はちっとも変わらない。みんなと同じジーンズやスニーカーを履いたりしない。みんなと同じお茶を飲まない。自分だけは特別。」
「瑤子さんは、もし正恵さんがあんな風に瑤子さんを傷つけなかったら、正恵さんの家のこと誰にも言わなかった?」
瑤子さんはちょっと苦笑いを浮かべて言った。
「それはわからない。親には言ったかもしれないし、親から誰かに広がることもある。袋に空いた目に見えないような小さな穴からも、水は徐々に漏れ出すもの。正恵は少しずつ噂が広まったりしてゆっくり傷つけられるより、自分から自分を傷つけるほうを選んだんだと思う。」
「どうして?」
「正恵にしてみれば私が知ってしまったことだけで充分だった。それが正恵の持っているプライドだったのよ。傷つけれらる前に傷ついてしまう。子供って残酷だから、太ってたり、貧乏だったり、走るのが遅かったり、日本人じゃなかったり、たまたまお父さんの仕事の都合で学校を変わらなくちゃいけなかったり、そういう些細なことが差別や攻撃の材料になっちゃうのよ。わかるかな。」
「わかります。私、ぎっちょだから。」
「左利き?」
「はい。みんなによくぎっちょってからかわれる。」
「あら、左利きは逆にかっこいいと思うけど。」
「でも、丸山先生、あの担任の先生なんですけど、先生もぎっちょは直せって言うんです。」
「先生も?」
「はい。先生、私のことあまり好きじゃないのだと思います。」
「どうしてそう思うの?」
「私もそう思うから。嫌いな気持ちってなんとなく伝わるものじゃないですか。」
瑤子さんは真美を見て微笑んだ。
「そうかもしれないわね。」
そして瑤子さんが頷いて、話を続けた。
「お葬式の後、私ショックで三日くらい学校を休んで、それから母に連れられて学校に行ったの。でも私は正恵の虐めのきっかけを作ったのが私だったことは決して誰にも言わなかった。」
瑤子さんが掌の人形を見下ろした。
「お葬式が終わってしばらくして、家族にもみんなにも内緒で正恵の家に行ったの。どうしていいかわからなかったから。正恵のお母さん、とても喜んでくれた。そしてこのお人形を見せてくれた。そのとき流行のお菓子のおまけで、お菓子の箱の中からこれをみつけてとても嬉しそうだったって。私も覚えているけれど、お人形の出る確率はそんなに大きくはなかったと思う。正恵のお母さんは、リカちゃんとかバービーは買えなくても、今回は神様が平等にチャンスをくれたからって、あのこ、なんだか訳わからないこと言ってたわね。時々そういうむずかしいこと言ったりするのよ。図書館に行ってばかりいるからね。学校の勉強はさっぱりのくせして、変なことに詳しかったりするのよ。勉強より空想が好きな子だったんだね。現実から逃げたかったのかもしれない。そう言って正恵のお母さんは私の手にお人形を両手で包むみたいに押し付けて、道家さんが持っていて下さいって泣き出してしまった。私はお人形を手にしたまま家に帰った。そして自分の部屋に行って、お人形を見て私も泣いたの。人殺し。自分のせいで正恵が死んだ。私が正恵を壊してしまったように、私も自分が壊れてしまったように感じた。彼女が学校で発言するようになったのは、きっと開き直ったからだったの。そのときに彼女はもう壊れ始めていた。わかるかな、自分を守る殻を開放して、傷つくことに無防備になってしまったから。ひどい火傷で皮膚がむき出しになるようにね。そして、何より、私と正恵は実はとても似たものどうしだったってことに気づいたの。恵まれ過ぎて人間性が欠けいる私と、恵まれていないために常に何かが欠けている正恵。私はそれから、このお人形無しには出かけることもできなくなってしまった。このお人形に監視してもらわないとまた誰かを殺してしまいそうで。私ってあんなことがあってもちっとも変わらないんだもの。小学校を卒業して地元の中高一貫教育の私立の女子校に入って、まわりは私と同じような境遇の子ばかりになったけど、相変わらず優等生で。でも心の中で正恵の言ったことはいつも一番手前にあって、不思議なことに、何かあるたびにひとりでそっと正恵に報告するようになったの。そうすると心がとても落ち着いてね。そして高校生になって初めて気づいたの。私は今まで誰にも心を許したことが無いのだということを。学校でも家でも優等生で、何だか私って心から気を休める場所がない。そして、ひとりになって自分の部屋で正恵に話しかけるときだけ、すーっと心が解放される。そうやって、私のために死んでしまった正恵だけが、私の一番の友達になっていたのよ。」
「瑤子さん。」
真美は言った。
「どうしてその私に話をしようと思ったんですか?」
瑤子さんはお人形をしまって、私の手を取った。
「あなたと友達になりたいと思ったから。」
「ともだち?」
「多分、直感。あなたには本当のことが言えると思った。秘密を共有できるって思ったの。誰にも言えない秘密を。」
「私は子供で瑤子さんは大人なのに?」
瑤子さんは私に名刺をくれて、そこにとても綺麗な文字で携帯と自宅の住所、それに電話番号も書き添えてくれた。
自宅は文京区西片となっていた。
「年齢は関係ないわ。会った途端に嫌だなって思うことがあるように、会った瞬間に好きだという気持ちになることってあるでしょう。」
真美はまだ不思議そうに瑤子さんを眺めている。
「そういう直感てね、だいたい当たるものなの。徐々に好きになったり嫌いになったりっていうのもあるけど、直感で好きになった人はずっと好きでいられる。ねえ、真美ちゃんはメールできる?」
瑤子さんが尋ねた。
「はい。出来ます。」
「じゃあ、メールで文通してもいいな。誰も知らない秘密の友達にならない?。うちに遊びに来てもいいのよ。古い家だけど庭が広いの。私、地方出身のせいか、職業柄か、なんだかマンションに住む気になれなくて。そうそう、近くにとても美味しい知る人ぞ知るっていう私好みのお洒落なフレンチ・レストランもあるのよ。今度連れていってあげるわ。」
 ドアがノックされて、丸山先生が入って来た。瑤子さんを見て、一瞬はっとしたような顔をして、それからうちの生徒がお世話かけましたか?と言った。瑤子さんは、私のほうがお世話になりました。ちょっと退屈してたし、とても素晴らしい生徒さんで、先生は幸せですね、と言い、驚いている丸山先生に背を向けて、私にウインクして見せた。
「虫歯は大丈夫か?」
丸山先生が瑤子さんの顔をちらちら見ながら恐ろしく優しい声で聞いたので、真美は、ちょっと意地悪な気持ちになって、
「瑤子さんがお茶をくれて、少し楽になりました。お茶にはカテキンっていう正義の見方がいて、虫歯をやっつけてくれるんです。丸山先生はカテキンのことはもちろん知ってますよね。」
真美が言うと、丸山先生が変な顔をした。
「せっかくの課外授業だから、ここで少しお勉強させておきました。」
瑤子さんが言った。
丸山先生は、瑤子さんの顔を振り返りながら、お世話になりました、と言って、真美の手をひっぱって連れていった。


 家に帰ると、お母さんが、
「虫歯どう?」と聞いた。学校から連絡があったのだろう。
「まだ、少し痛いけど朝ほどじゃない。」
「予約したから明日、歯医者さんに行きましょう。丸山先生にはもう話しておいたから。」
真美は歯医者は嫌だなあと思いながら、学校を休めるのはちょっと嬉しいと思った。
 母は植木に水をやってくると行って屋上に上がっていった。真美はお父さんに今日のことを報告しようと思って、父の部屋に行った。
こげ茶のドアを開けると、ドアと同じ色の本棚を背にして、お父さんがいつものように座って真美に微笑んでいる。机に大好きな谷崎潤一郎の細雪を開いて、紺色の着物を着て、白髪の多い髪は油できちんと分けてある。ポマードの香りはお父さんのにおいだ。真美はドアの横の、緑色の二人掛けソファに座った。
「とても不思議なことがあったの。瑤子さんと言う、とても綺麗な人と友達になって。」
真美が話し出すと、父は静かに黙って話を聞いた。一通り話し終えて書斎を出ると、ドアの向こうにお母さんが立っていた。
「やだ、お母さん、びっくりするでしょ。」
真美が言うを、お母さんはちょっと当惑した顔で、でもすぐ笑顔を作って、
「さあ、夕飯たべよう。」と真美の背中を押した。
 夕食は、海老のドリアと野菜を柔らかく煮込んだスープ、卵とピクルスが入ったポテトサラダ。噛まないでいいメニューが並ぶ。お母さん、真美のこと愛してるんだね、真美がそういうと、お母さんは、今から痛み出して歯医者に連れて行けって言われても困るから、と笑った。真美はご飯を食べながら、そうだ、かたつむりの殻の謎を聞き忘れた、と思い出していた。後で聞きに行こう。お母さんには瑤子さんの話はしないことにした。秘密の友だち。瑤子さんのいたずらっぽい声が蘇る。きれいな大人の女の人と秘密の友だちになれるなんてカッコイイな、と思った。
 ご飯を食べ終わり、また父のところへ行こうとするとお母さんが、「夜、お父さんの部屋に行ってはいけないって言ってるでしょう。」と真美を止めた。
「お父さんは具合があまり良くないことを知っているでしょ、第一もう寝ているはずだから起さないで。」
母はそう言って、とても悲しそうな顔をした。母をまた泣かしちゃいけないから、真美は言われたとおり、自分の部屋に戻った。ベッドに横になっていて、真美はもっと小さい頃、母を思いっきり泣かしたことがあったことを考えた。理由はなんだかよく覚えていない。でも母が真美の身体に抱きついて声を出して泣いたのを今でも覚えている。真美はもちろんお母さんが大好きだけど、そのことがあって、真美がお母さんを守ってあげなくちゃいけないんだと思っている。お母さんを二度と傷つけちゃいけない。

 人殺し。

いきなり、瑤子さんの言葉が蘇った。そしてその声が母の声に重なる。人殺し。どうして瑤子さんの声が母の声に変わるんだろう。真美はちょっと混乱した。ベッドの上の天井に人殺しの声が渦になってこだました。瑤子さんの声が消えてお母さんの声だけになる。


真美は夜中に目を覚まして、キッチンに行き、水を飲んだ。怖い夢を見た。真美は時々怖い夢を見る。いつも同じ夢で、真美が溺れてお父さんが助けてくれるけど、岸に上がるとお父さんがいなくなっている。そして真美は自分の泣き声で目を醒ますと、まるで本当に溺れたみたいに身体がぐっしょりと濡れている。
 毒のある花。子供の自殺。ヘンデルとグレーテル。瑤子さんとの不思議な出会い。
 真美は父の部屋にそっと向かった。
 父は昼間と同じ姿勢で真美に微笑んだ。
「お父さん、怖い夢を見たの。」
「また溺れる夢を見たのかい?」
「うん。」
お父さんは真美の頭を撫でて微笑んだ。
「大丈夫だよ。夢の中で真美が何回溺れても、お父さんが何回でも助けてあげるし、絶対真美のそばからいなくなったりしないから。お父さんはいつも真美と一緒にいたいんだから。」
真美は安心して笑った。
「お父さん、ねえ、カタツムリはどうやって殻を捜してくるの?」
お父さんも笑った。
「お父さんもそれはよくわからないなあ。今度調べておこう。そうだ、今日知り合った瑤子さんに聞いてごらん。植物の専門なんだから、虫のこともきっと詳しいと思うよ。」
そう言って、昼間と同じ微笑で真美を包んだ。
 真美はお父さんにお休みなさいと言って、ドアをそっと閉めた。

 瑤子さんへ

本当にメールを送っちゃいます。今日学校を休んで歯医者さんに行ってきました。麻すいの注射はいたかったけれど、虫歯をけずってつめものをして、いたみ止めももらってずい分楽になりました。近所の歯医者さんだからひとりで行けるって言ったのに、真美はすぐどっかにいなくなっちゃうからと言って母がついてきました。母は心配性なんです。でも私は母と取引しました。いっしょに行く代わりに帰りに本屋さんに行って真美の好きな本を一冊買ってくれること。母は、それじゃお母さんは本屋さんのカフェであんみつを食べる、虫歯の真美にはかわいそうだけど、って私の顔をのぞきこみました。母ってちょっと子供っぽいところがあるんです。昔は日曜日に父が必ず私を本屋さんに連れていってくれて、長靴下のピッピとかナルニア国物語とかたくさん買ってくれたんですけど、最近父はあまり具合が良くなくて書さいにこもってばかりいて心配です。私は学校から帰るとまず父の部屋に行って一日のことを報告します。瑤子さんのことも父にだけは打ち明けました。秘密の友だち。父は楽しそうだなあ、そんなにきれいな人ならお父さんもお母さんにないしょで秘密の友だちになりたいなあ、なんてジョウダン言ってました。父はきれいな人が大好きなんです。昔のハリウッドの女優さん、グレース・ケリーとかイングリット・バークマンとか大好きです。真美はオードリーヘップバーンにあこがれています。
ところで質問なんですけど、植物園でカタツムリをみつけました。カタツムリってどこでカラをみつけるんですか?土の地面には浜辺みたいにカラは落ちてないし、不思議です。もし知ってたら教えてください。

真美


 真美ちゃんへ
 お父様もお母様も素敵な方ね。私も昔のハリウッド映画は大好きだわ。真美ちゃんと同じでオードリー・へプバーンは大好き。彼女の、「ティファニーで朝食を」と言う映画で彼女が歌う「ムーン・リバー」は私の一番のお気に入りなの。そして私も小さいとき、ナルニア国物語を読んで、クローゼットの中に入って真剣に別の国を探したりしたわ。そういうことを想像するのって本当に楽しい。
 さて、かたつむりの殻はヤドカリと違って、身体の一部です。ヤドカリは「宿借り」が由来であるように、死んでしまった貝のお家の中に住んでいるの。成長に合わせてサイズにあったお家を捜してお引越しをするのよ。でもかたつむりはちゃんと殻がついて生まれてくるの。赤ちゃんかたつむりの殻は透き通っててとても可愛い殻なのよ。だから、かたつむりの殻はカニの甲羅と一緒で柔らかい身体を外敵から守る堅い皮膚のようなもの。犬や猫には毛皮があって、鳥には羽毛がある。私たち人間は洋服を着て陽射しや寒さから身を守る。人間だけは裸では生活できない。人間は自分たちでなんでも作れる知恵を持っているからね。人間は悪いことばかりするわけではないわ。見た目の綺麗なドレスや美味しいお料理は私たちを幸せにしてくれるから。今度うちの近くのフレンチに行きましょう。本当にうっとりするくらい美しくて美味しいものを出してくれるの。虫歯が良くなったら知らせてね。

それじゃ、学校がんばってね。丸山先生って言ったっけ。私はちょっと苦手だけど、私の嫌いな人は違う人がちゃんと引き取って好きになってくれる。そうやって社会がバランスを保っているわけ。みんながみんないい人だったら戦争は起こらないし、人口が増え過ぎれば生きるためにいい人が悪い人にならなくちゃならないときもあるの。ライオンがシマウマを襲ったり、猫がネズミを食べるみたいにね。

瑤子

 真美はくすっと笑った。瑤子さんらしいメールだな、と思った。カタツムリの殻の謎がわかったのも嬉しいけれど、瑤子さんもオードリー・へプバーンやナルニア国物語が好きなのはヒットだと思った。しかも丸山先生が苦手だと聞いて、真美はますます瑤子さんが好きになっていた。
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