真美の過去

文字数 15,448文字

瑤子は庭のツツジの枝を整えて、縁側でお茶を飲んでいた。ツツジの花はすっかり散っていたけれど、緑が濃くなって小さな葉が肉厚を増して夏の太陽をいっせいに吸い込んでいる。
 お茶を飲んで真美のことを少し考えた。あの日、植物園の研究室から出て、小雨の園内を少し散歩していて足を止めた。瑤子は霧雨が好きだった。本格的な雨は苦手だったけれど、霧雨は植物を元気にしてくれる。そして瑤子自身の肌や髪を美しくしてくれる。瑤子は霧雨に肌をさらした後鏡を見るのが好きだった。水分を含んだ肌は内側から輝いて、幸せな気持ちになる。だから霧雨の日の夜は必ず恋人の琢磨を家に呼びたくなる。フランス料理を一緒に食べて、ワインも少し飲んで
そして肌を合わせる。燃えるように愛しているわけではないけれど、ハンサムで頭が良く、話題が豊富で、瑤子に美しい時間を与えてくれる。でも琢磨には瑤子の秘密は話していない。本当のことは誰にも言えないと思っている。
 植物園を散歩していたら、背の高い若い男が黄色い帽子を被った女の子の前を歩いていた。その隣りに、工藤君がいて、女の子は頬を押さえてつらそうな顔をしていた。虫歯かな、と瑤子は察した。せっかくの課外事業で可哀想に、そう思いながら研究室に戻ろうと歩いた。建物に入ると、業者や大学関係の人々を通す、小さな応接室の廊下の奥で良く通る男性の声が聞こえてきた。すみませんねえ、宜しくお願いします。誰かアテンドさせたほうがいいですか?工藤君の声だ。いや、小学生と言ってももう四年生ですから大丈夫ですよ。お話したようにちょっと問題があるけど、頭はいいこですから。
 背の高い男性は多分担任教師だ。工藤君が廊下を歩いてきた。虫歯?瑤子が聞くと、工藤は笑って、そうみたいですね、もっともあの先生はハナッから信じちゃいないけれど。仮病?なんだか嫌な授業とかで急にお腹が痛くなったりよくあるらしいんですよ。それにね。工藤が瑤子に小さな声で耳打ちした。あのこ一昨年父親を事故で亡くしたそうなんですけど、それでその父親の事故の現場にあのこもいたらしくて、ショックで二週間ほど意識が戻らなかったんだそうです。それからちょっと、なんていうか、父親の死を受け入れられずに、いまだに父親が生きているって信じていて、なんでも姿の無い父親に話しかけたりしているらしいですよ、マジで。
 瑤子は足を止めた。あのこと話したい。雛人形を思わせる真美は一見どこにも問題があるようには思えない。まるで私と同じだ。父親の死でどこかが欠けてしまった少女。心の中にもうひとりの人間を持っている。私たちはふたりとも心に余分な魂を抱いて生きている。あの教師。他人に生徒の個人的な問題を面白がってぺらぺら喋るようなお喋りな奴。空っぽな男だ。瑤子はポケットの中の人形を硬く握り締めた。


 琢磨の腕の中で瑤子は小さな吐息を漏らした。琢磨は達するとき、いつも身体を瑤子の身体に押し付けて頬と頬を合わせるので、彼が達する瞬間の短い吐息が耳に直接伝わってくる。瑤子はそれを聞くと安心して身体が満たされるのを感じた。瑤子自身はセックスでオルガズムに達したことが一度もなかった。何人かの恋人を作ったけれど、何をしてもだめだった。自分で自分を慰めるときだけ、確実に達することが出来る。不感症というわけではない。セックスはそれなりに好きだし、挿入の気持ち良さも知っている。けれど達しない分、いつも物足りなくて、恋人が帰った後ひとりで達するのが習慣になった。だから恋人とのセックスは瑤子にとって快楽というより、身の置き所のようなものだった。
 琢磨はまるでそうするのが当たり前のように、果てた後、瑤子を抱きしめ唇を押し付けて、髪を撫でて言う。いったいいつになったらイエスと言ってくれるのかな。瑤子はそれには答えず、ただ琢磨を抱きしめて微笑んだ。琢磨は人生を共にするのに申し分のない相手だ。彼の父親は海産物を中心とした大手総合食品会社の社長を務める。彼自身は現在、三菱商事の食品本部に勤務しているが、創業者一族が継承する自社にいずれ迎えられるのだろう。育ちの良さを絵に描いたようなすっきりとした容姿と性格、瑤子の仕事に理解を示し、上品で無意味な嫉妬とは無縁、低く静かな声は瑤子を安心させる。けれどそれは愛と呼ぶにはあまりにも穏やかな感情だった。胸の手前にある正恵の存在が、他者の侵入をブロックして本当の自分を閉じ込める。琢磨に全てを打ち明ける。いや、それは不可能だ。琢磨は瑤子の重い過去を聞かせる相手ではない。汚れた世界を知らずに育った琢磨には汚れた過去に対する免疫が無い。何かの形で正恵のことにけりをつけないと彼との家族を持つべきではないのだ。だからといって何らかの解決策があった訳でもない。しかし今日真美にめぐり合ったことで唐突に正恵を供養する方法を思いついた。それは素晴らしいアイデアだった。それを実行するためのいくつかのことを、瑤子は琢磨の腕の中でじっくり考えていた。


 真美のお父さんは両親をまだ物心がつかないころに立て続けに亡くしていた。昔は孤児院なんてなくて、お父さんは親戚をたらいまわしにされて、育ち盛りにあまりちゃんと食べさせてもらえなかったから、とても背が低かった。自分が苦労した分、お父さんにとって初めて持つかけがえのない家族を心から愛した。お母さんはお父さんより十五歳も若く美しかった代わりに、華奢で身体が弱く、初めて授かった真美も流産の危機を何度も乗り越えて、一ヶ月早産で産んだ。一人娘の真美をお父さんはそれはそれは可愛がった。低血圧のお母さんの代わりにお父さんが早起きして、真美のためにふわふわのオムレツを焼き、分厚いイングリッシュ・トーストには小岩井牧場のバターをパンが重くなるくらいたっぷり塗って、ホットミルクにはインスタント・コーヒーをほんの少し混ぜて特性のカフェオレを作ってくれる。日曜日はお母さんの定休日だと言ってお父さんは家族のために自慢の中華料理を作ってくれた。
 真美が幼稚園に入ると、房総の海辺に小さな家を買い、お母さんと真美はひと夏そこでゆっくり過ごした。お父さんは仕事があるから金曜日から週末にかけてだけやってくる。お父さんは工具屋を経営していた。ドリルやネジ、工具や雑貨を大きな工場に卸す。新橋にあった会社は猫の額のように小さく、社員も五人だけだったけど、安定した得意先を得て、毎週金曜日には家族で銀座に出て外食して、夏休みに家族で過ごすための海辺の小さな別荘を買うくらい余裕のある暮らしが出来た。
 真美が小学校に入学すると、海辺の家は時々真美の友達を招いたりして賑やかになった。お父さんは真美の友だちなら男の子でも女の子でも、みんな自分の子供みたいに可愛がったし、地理や歴史に詳しくて、夜、砂浜で花火をしながら、いろいろな話を子供たちに聞かせて、優しくて物知りなお父さんだと、子供からもその家族からも、とても評判が良かった。
 あれは台風が上陸するかもしれない、というニュースの後のせいか、珍しく家族だけで過ごしているときだった。真美は二年生になっていた。
母が夕食の買い物に行っている間、お父さんと真美は飼っていた柴犬のジャックと防波堤のところにいって、一メートル以上も上がる波を見ていた。すごいね。台風がここに来るかもしれない。夕飯が終わったら花火は無しで、窓を閉めて家の中で過ごそう。そう言ってお父さんは真美の頭を撫でた。真美は防波堤に当たって垂直に上がる水しぶきが珍しくて、飽きずにずっと眺めていた。近くに同じように眺めている地元の子供たちもいて、大きな波が来るたびに歓声が上がった。男の子たちが面白がって防波堤の先端まで行って波に触るというゲームをしていた。真美のお父さんや近所の人々が、危ないからだめだよ、なんて声をかける。でも叱ったりというのではなく、みんなのんびりしていた。風もあまり強くなくて、太陽も完全に隠れていたわけじゃないから、まだ人々の気持ちに余裕があった。お転婆な真美は男のこに混じって波の近くまで行ってはきゃっきゃ言いながら走って逃げた。そんなことを何回か繰り返しはしゃいでいるときに、走っている真美に男のこの一人がぶつかって真美が倒れた。その時だった。突然二メートルくらいの波が来て、真美を海の中にさらっていった。お父さんは服を着たまま走って海に飛び込み、真美を捕まえて防波堤のところまで泳いだ。近所の人が真美の手を引っ張り上げ、お父さんは波の勢いを利用して防波堤に上がった。台風のせいで水位が上がっていたのだ。みんなが拍手した後、危ないからと三々五々家路に急いだ。風が少し強く吹いて来た。台風は今晩上陸するかもしれないな、とお父さんが真美の頭を撫でた。そのとき真美ははっとして叫んだ。ジャックがいない。お父さん、ジャックは?お父さん、ジャックがいない。真美はジャックの名前を呼んだ。お父さんも辺りを歩きながらジャック、ジャックと叫んだ。ジャックは声を聞けば必ず走ってくる。潮風で喉が渇いて家に行ったのかもしれない、お父さんはそう言って、携帯で家に電話をしたけれど、お母さんがジャックは帰ってないと言った。真美は泣きながらジャックを捜した。海に落ちたんだ。私が落ちたとき、助けようと飛び込んだのかもしれない。そうやって防波堤から海を眺めていると波間にジャックが見えた。目を大きく開けて必死に泳いでいるけれど、小さなジャックは波に翻弄されて浮いたり沈んだりしていた。真美はお父さんにすがった。ねえ、お父さん、ジャックを助けて。真美はお父さんの手をひっぱって、泣きながら何度も何度も言った。お父さんはそんな真美を抱きしめて、今度は服を脱いでパンツ一枚になった。服を着てると泳ぐのが大変なんだ。お父さんは真美の頭を撫でて、大丈夫、ジャックはお父さんがちゃんと助けてあげる。ここで待ってなさい。そう言って海に飛び込んだ。

 それが真美が最後に聞いたお父さんの言葉だった。お父さんがジャックを抱き抱えたちょうどその時、ものすごく大きな波がお父さんもジャックも飲みこんで、二度と水面に上がることはなかった。すっかり日が暮れて、風がびゅんびゅんと唸り声を上げ始めた。お母さんがお父さんの携帯に電話をしたけれど、呼び出し音はすぐ留守電になった。不安になったお母さんが小走りで防波堤に来ると、真美はお父さんの服を抱いて、防波堤の波と降り出した雨ででずぶぬれになったまま、放心して座り込んでいた。話しかけても無反応だった。警察に連絡をしたけれど、その夜は台風が上陸して捜査が出来る状態ではなかっ
た。  
 ジャックの遺体は、次の日に浜辺に打ち上げられていたのを救助隊の人が発見したけれど、お父さんの遺体はみつからなかった。それから自衛隊のダイバーがたくさんやってきて、さらに次の日、変わり果てたお父さんの遺体があがった。お父さんは波の勢いで防波堤の向こうのテトラポットのところに身体を持っていかれ、中で死んでいたらしい。手と足が片方ずつ無くなっていた。テトラポットの内部はいったん入ってしまったら複雑な迷路みたいなもので、息を止めたまま出口を捜すのは不可能なのだ。プロのダイバーたちも、テトラポットの中を捜すのは命がけだという。潮流が複雑で、方向感覚を失い、コンパスも全く利かない。              
 真美はお父さんを殺してしまったと言った。お母さんは肯定も否定も出来る状態ではなかったから、海に向かって人殺しと何度も言って泣き崩れた。真美はお母さんが真美に言っているんだと思った。変わり果てたお父さんの遺体は真美から離れた場所で、大人たちが保護していた。けれど、真美は大人たちがお母さんをなだめている隙を狙って、ビニールシートを剥がして見てしまった。真美はその場で気を失い、二週間無意識の闇を彷徨った。

 一面の菜の花畑。空に太陽は無いのに菜の花の黄色がとても鮮明に広がる。それなのに他の部分は白黒。白黒の空があり、白黒の川があり、その川の向こう岸にやはり白黒の父がいた。真美は父に会いたくて川を渡ろうとするけれど、父が向こう岸で言った。
 来ちゃだめだよ。帰りなさい。
 真美は父に拒否されたことが悲しくて何度も父を呼んだけれど、父はとても悲しそうな顔をして繰りかえす。
 来ちゃだめだよ。いいこだから言うことを聞いて、家に帰りなさい。大丈夫、お父さんも一緒に帰るから。

瑤子は今日はテイバンの格好をしていない。昨日、日本橋の高島屋に行き、生地の薄いストレッチタイプのジーンズと、白いヨットパーカー、ニューバランスの白いテニス・シューズを購入し、学生時代に付き合っていた男性からプレゼントされて、一度も使ったことの無いグッチのメッセンジャーバッグを引っ張り出して、今日はそれを身につけている。華奢な瑤子がそういう服装をすると、まるで学生みたいに見える。瑤子は昨年三十二歳になった。整った顔の瑤子は、子供の頃からいつも実際の歳より大人に見られていたのに、二十五を境に逆に少しづつ、年齢より若く見られるようになってきたから不思議だ。髪を丁寧にブラッシングして、真ん中で分けると卵形の小さな顔の輪郭が隠れて、イメージがかなり変わる。
 玄関の鏡の前で服装を点検して、仕上げに黒いフレームのメガネをかけて玄関を出た。駅に向かって歩いていると、近くにあるお茶の水女子大の学生たちが数人、道で花を咲かせるようにお喋りに興じていた。その後ろを歩くと、瑤子はグループの一員としてすんなり景色に溶け込んだ。もっとも、瑤子は以前、本当にそこの学生だった。大学院は生物学科がなかったので東京大学に行き、そのまま付属である植物園で研究を続けることになったのだ。
 週末に園芸店で買い求めて配達してもらった夾竹桃が三本並んでいる。縁側から右側に広がるツツジの隣りにジンチョウゲが並ぶ、
その左側に夾竹桃を植えようと決めて、昔からある椿を抜いた。もともと椿はあまり好きではなかった。椿は美しいけれど不吉な花だ。花の落ち方が、まるで首が落ちるみたいで死を連想させる。  
 配達にやってきた馴染みの若い店員は、大振りな夾竹桃を一本ずつ注意深く運びながら、そんなに細くて白い腕でシャベルを振り回す道家さんなんて想像できないですよ。力仕事は若い男にさせるもんです、ここらへんでいいですか?などと声をかけながら夾竹桃のスペースに大きな穴を掘っていく。助かるわ、出来ればなるべく深く掘ってね、浅いと根付きが悪くて枯れることがあるの。瑤子が言うと、まかしといてください、そう言ってシャベルを動かした。かなり深く大きな穴が開いても掘り続ける男に、瑤子は、それだけして下さったらもう十分だわと、微笑み返した。男が夾竹桃を鉢から取り出そうとすると、植えるのは、待って下さる?肥料を混ぜて土をミックスするから。こう見えても私はプロだから、と男を制した。店員は瑤子が植物園で研究職についていることを知っている。そうですよね。僕なんかよりずっと専門的ですもんね、そう言いながら瑤子に、おまけ、と言ってカサブランカの花を数本渡した。瑤子がよくカサブランカを買い求めるのを知っているのだ。ベージュの野球帽を取って、額の汗を肘で拭って、毎度有難うございます、男が頭を下げた。瑤子は有難う、と言って男のトラックが角を曲がるまで見送った。
 カサブランカをラリック・クリスタルの花瓶に入れてすでに開いている花のおしべの、オレンジ色の花粉をティッシュでつまんで抜いた。ユリの芳香が部屋中に広がる。ユリは硬く無機質な花弁が好きだ。人間のように皺が寄り始めて静かに枯れていく。バラやチューリップのように花びらがまばらに落ちてテーブルを汚すこともない。瑤子は山羊のチーズのサラダとフィレ肉のステーキを少し食べて、ワインを飲んでソファーで寛いだ。そしてこれからしなくてないけないことをゆっくり順序立てて反芻した。真美を救うためにしなくてはいけないことを。そして自分自身のために。

 植物園の業務日誌で真美の学校が石神井東小学校であることを確かめ、予め地図で場所を確認していた。担任教師の名前は丸山健一。
 少し早めに出掛けて、石神井公園で睡蓮を眺めた。この公園は大きな池がふたつあってその周りには犬を散歩をさせる人々、ベビーカーの若いママどうしがお喋りを楽しんだり、緑色のネットの向こうで子供たちが高い声をかけながら野球をしていたり、かなり賑やかだ。
 小型のプードルが瑤子の座るベンチに向かって吼えた。飼い主の若い女性が綱を引いてたしなめた。
 ごめんなんなさいねえ、うちのこ、すぐほえるから。
 いえ、いいんですよ。可愛いですね。お名前は?
あんずって言うんです。アプリコット・プードルだから。
 犬はまだ吼えている。
 敵意を持っているわけじゃないんです。ほら尻尾振っているでしょう。興味を持っているんです。
 触っても大丈夫ですか?
 大丈夫です。このこ絶対噛まないから。
 瑤子はあんずちゃん、と呼んでそっとプードルを撫でた。犬は嫌いではない。実家にいるときはシーザーという名前のボルゾイを飼っていた。その頃は散歩させたり抱きしめたり、夢中で可愛がった。家族の一員だった。けれど瑤子が高校生の時、老衰で死んで、みんなで大泣きした涙も乾かないうちに、母は一ヶ月足らずで鼠くらいの大きさのヨークシャーテリアを買ってきてルイという名前をつけて夢中になり、シーザーの話なんて誰もしなくなった。瑤子はなんだか納得出来なかった。玩具みたいに壊れたから取り替える。この人たちにとってペットはブランドのハンドバッグと同じなんだな、と家族に呆れたものだ。けれどそう思っていた瑤子も、シーザーのことはすっかり忘れてルイを唯一のペットとして可愛がった。そういう家族だったのだ。 
 犬は瑤子が撫でるとお腹を上にして、甘えた声を出した。飼い主が瑤子に礼を言って、瑤子も飼い主に礼を言った。女性はあんずちゃん、行きましょ、と言いながら歩き出した。無防備だな、と思った。子供や犬はいい人と悪い人をちゃんと見分けるというけれど、あれは嘘だ。人間の思い込みでそうこじつけているだけ。あのプードルだって、仮に今私がしようとしていることを知ったところで、呑気に尻尾を振って甘えるに決まっている。
 生徒が帰った直後の小学校はまだ、空気に子供の嬌声の名残が残ってる。校庭の土の乱れ、校門の熱。真美はもうお父さんに今日一日の報告をしているだろうか。
 学生時代に中学校で教育実習をしたことが
ある。子供たちはきれいな教習生のお姉さんが来たと大騒ぎして、あれこれ質問を浴びせた。二週間の実習が終わると今度は何人かの男性教師がデートに誘ってきた。懐かしいというほどの郷愁は無いけれど、教える立場で教壇に立つと、生徒がスーパーで並んでいる林檎みたいに見える。同じように並ぶ幼い肌の美しさと瑞々しさ以外に、彼らが内に抱えている悩みなんて見えないものだ。一段高い所から眺めるくらいでは、教室の後方で陰険に行われている虐めたり虐められたりという行為まで目が届くわけもない。
 教師たちが三々五々校門から出てきた。瑤子は少し離れた場所でその様子を眺めた。
 丸山健一はカーキ色の布のショルダー・バッグを肩からかけて校舎の反対側に歩いていく。二~三人の他の教師たちと一緒だ。瑤子は充分距離を置いて後をつけた。校舎を離れると教師たちは普通のサラリーマンと何の変わりもなく、冗談を言ったり、大声で笑ったり、時にはウソー、なんていう女教師の高い声も聞こえる。丸山は本当に声の良く通る男だ。ルックスは悪くない。肩幅が広くて背も高く、太い眉毛と濃い睫。小さくて厚い唇に瑤子は小賢しさを感じるけれど、一般的に言えばハンサムの部類に入るのだろう。隣に並ぶ背の低い地味な感じの女教師は、本当に嬉しそうに丸山を見て笑う。あの女教師は丸山に気があるのかもしれない。何気なく腕に触れたり、肩をぶつけたりしている。
 教師たちは私鉄の駅に向かった。改札をぬけると他の教師が保谷、飯能方面のホームに向かうのに、丸山だけが池袋方面に向かった。
瑤子は小さく微笑んだ。運が私に味方している。
 丸山はガラガラの車内で、ショルダーバッグからコミック雑誌を出して読み始めた。瑤子は隣りの車両からその様子を眺めた。こうやって眺めていると、ごく普通にいる若い男でこれといった特徴もない。瑤子よりも下、二十五、六といったところだろう。半袖のボタンダウン・シャツにレジメンタルのタイ。胸ポケットのところに、紺色の馬の刺繍が遠目にもくっきりと見て取れる。半袖のシャツを着た男は視界に入れることすら不愉快だと、瑤子は思った。琢磨だったらどんなに暑い真夏日でも、長袖のシャツとカフスボタンを欠かさない。
 丸山は江古田駅で下車した。丸山は北口の商店街を抜けて、寄り道することもなく真っ直ぐ歩いた。武蔵野音楽大学を過ぎた辺りで瑤子は声をかけた。
「あの、もしかして丸山先生でいらしゃいますか?」
丸山が振り返った。怪訝な顔で瑤子を見る。
「あの、私、先日植物園で丸山先生の生徒さんとお喋りをさせて頂いたものですけど。」
丸山は数秒考えて、あっと言って明るい顔を作った。
「ああ、あの時の。ええ、覚えています。」
瑤子はほっとした顔で微笑んだ。
「良かった、覚えていて頂いて。」
「やあ、雰囲気が違うから、最初はちょっとわからなかったな。」
丸山は頭を掻ながら瑤子を上から下まで
眺めた。
「あ、これね。私服の時はいつもこんな感じ。ほら、仕事の時って長い髪とかって邪魔になるし、ジーンズ履くわけにいかないし。やっぱり職場じゃなんていうかカッコつけてるのよね。」
丸山は笑った。
「本当に、そういう姿だとまるでここら辺を歩いている学生みたいに見える。全然わからなかったなあ。」
そう言って武蔵野音大を顎で指した。
「ちょうど、この近所に住んでいる叔母のところに母から頼まれた届け物をして、これからうちに帰るところ。」
そう言って瑤子は駅の方を向いた。
丸山はそうだったんですか、と言いながら一緒に駅の方を向いた。
「この辺に住んでいらっしゃるんですか?」
瑤子が尋ねた。
「ええ。ここから五分くらいかな。」
瑤子は、丸山が指差す方角を眺めた。
「丸山さん、あの、夕食、もうどなたかと約束していらっしゃる?」
丸山は一瞬、不思議しそうな顔をした。
「はい?」
「私、これから家に帰るだけなんです。なんだか、ばったりお会いしたのもご縁かな、なんて思って。あ、ご予定がお有りならいいんですけど。こんなこと言ってご迷惑だったかしら。」
丸山は笑顔を取り戻した。
「いやあ、唐突で驚いちゃったけど、かまいませんよ。僕は月曜日の夜に約束があるほど多忙じゃありませんから。」
瑤子は意識してとびっきりの笑顔を作った。どんな男でも溶けるような得意の微笑みを。
「丸山先生は何か召し上がりたいものってあります?」
駅の方に向かいながら瑤子が聞いた。
「僕は好き嫌いが無いのが唯一の取り得ですから。それより、あなたは・・・あ、お名前、まだお聞きしてなかったなあ。」
瑤子はくすっと笑って丸山を見た。スニーカーのせいか、比較的背の高い瑤子からみても丸山は少し見上げてしまう。
「私は三村正恵。三つの村に正しい恵み。」
「正恵さんか。僕は丸山健一と言います。正恵さんこそ何か食べたいものありますか?」
「良かったら池袋にお魚の美味しい和食の店があるんだけど、いかがかしら?」
「和食と聞いて喜ばないヤモメはいませんよ。」
そう言って嬉しそうに瑤子を見た。独身か。瑤子は心の中で呟いた。
「今日は近所のコンビ二弁当で済ませようかって思ってたところですから、ラッキーとしかいいようがない。しかも、飛び切りの美女と夕食なんて、なんだか狐に騙されてる気分ですよ。」
瑤子は噴出した。
「もし私が狐だったら、もう少し色っぽい服でお誘いすると思うわ。こんな色気も素っ気もないカッコでごめんなさいね。」
丸山も噴出した。

 月曜日だと言うのに池袋は夜に繰り出す人々でごった返している。東口を出ると、瑤子はさりげなく丸山の手をとった。
「誤解なさらないでね、こうしないとはぐれてしまいそうだから。」
その言葉を丸山は信じない。オレに気がある。自分の容姿に自信のある丸山にとって、女性からのアプローチは今に始まったことではない。それでも正恵ほどの美女に誘われる今夜は特別だと思った。最初に植物園で見たとき、思わず見とれてしまったことを思い出して、ひとりでにやにやした。瑤子はそんな丸山の顔を見て、微笑んだ。
 丸山には付き合っている女性がいる。飲み屋でひっかけた女だ。彼女、麻由美は顔もプロポーションも悪くはなかったけれど、特別の美人というわけでもない。十人並みプラス、というところだ。純情そうに見えて、セックスの乱れ方が驚くほど激しいところが気に入っている。しかし、つき合っているうちに関係がだらけてきた。部屋の合鍵を勝手に作ったり、丸山の私生活を自分が管理しているような口を利く。そろそろ潮時だと思い始めていたところだ。女は寝始めるとすぐに結婚を口にする。冗談じゃないと思った。たかが半年そこらの付き合いでいちいち結婚させられていたら、人生いくつあっても足りない。麻由美はやりたいときにいつでもやれる女、それで充分だ。
 白木の引き戸を開けて店内に入る。外の喧騒とは別の暖かい音。人々の会話と食器の触れる音、料理が運ばれる度に、暖かい出汁の香りを含んだ空気が流れる。良く見ると広い店内のひとつひとつのテーブルが障子で仕切られていて、それぞれプライベートな空間になっている。そのせいか、比較的カジュアルな飲み屋のわりにカップルがやたらに多い。
 席に座って出されたお絞りで手を拭く。丸山はネクタイを少し緩め、顔も同じお絞りで拭いた。
 瑤子は髪を片手で掻き分けてお品書きに目を通した。本当はここに来るのは初めてだった。というより、外食というのは自分で作れないくらい美味しいものだけを食べにいくと決めている。そういう本当に美味しいものをきちんとしたサービスで出す店に時々琢磨と出掛ける。それだけで充分だった。だからこの店は、手頃な値段で個室感覚でカップルに最適な和食というカテゴリーでインターネットで予めリサーチして見つけたものだった。しかもかなり人気があって週末は並ぶのを覚悟、と書いてあった点も気に入った。瑤子自身はちっとも気に入っていなかったけれど。
 丸山は髪をかき上げる正恵のしぐさをメニュー越しに盗み見た。眼鏡を掛けていても隠せないほどの大きな瞳と長い睫。その間に細い鼻がすーっと伸びて、全体的には日本的な顔立ちなのに、彫りが深くてハーフみたいな雰囲気も持ち合わせていて、見れば見るほどいい女だ。何より知性と品が感じられる。いったいどういう育ちの女だ。
 瑤子は丸山の方に身を乗り出し、お刺身は何が好き?カサゴが美味しそう、ここはお豆腐も有名なのなどと言いながらメニューを説明する。丸山は瑤子のアドバイスに従って鰹のタタキ、揚げ出し豆腐とカサゴのから揚げを選び、瑤子は刺身の盛り合わせ、甘鯛の焼き物やナスとオクラの揚げ浸し等を頼んだ。
「正恵さんは植物園で何をなさっているんですか?」
丸山がまず瑤子の注いだビールを一気に飲んで聞いた。
「私は薬になる花の研究をしているの。花はいろいろな力を持っているの。植物が医療の基本だと言っても過言じゃないわ。まだ医学が発達していない昔、人々は花や草を使って病気を治したり怪我を治療したわけだしね。私はそういう植物のパワーに惹かれたの。」
へえ、と言って丸山は目を丸くした。
「研究職か。頭がいい人なんですね。」
「単なる好きの横好き。趣味が高じて仕事になっちゃったってところ。丸山先生はどうして教師になろうとなさったんですか?」
丸山は突き出しに出てきたイカの塩辛を摘みながら言った。
「僕は一応、国立の筑波大だったんですけど、僕が大学を出た頃はバブルは過去の遺産、銀行や企業に就職しても先が不透明だったんですよ。国家公務員なら食いっぱぐれも無い。それで教師は常に不足しているし。最初は高校の教師になろうと思ったんですけど、男は出世してナンボじゃないですか。頂点は校長ですよね。だったら小学校の校長なら楽勝だから。こうみえても、ちゃんと将来の展望をもっているんですよ。好きになった女性や家族にいい暮らしさせるのは男の義務ですから。」
そう言って瑤子を見た。
「意外だわ。」
瑤子が言った。
「お若くてエネルギッシュだから、教えることが好きとか、こういう子供を育てたいっていう純粋な情熱みたいなものを持ってたのかな、なんて考えちゃった。そんなのTVの見過ぎかな。」
「そうそう、金八先生みたいなのって、あれ嘘ですよ。イマドキの子供は小学生だってもっと計算してますよ。ああいう先生は実際は逆に父兄の評判も悪い。なんだか問題児の味方してるじゃないですか、あれって。問題のある子のほとんどが家庭に問題があるんですよ。それを学校に押し付けるのはおかしい。学校は勉強を教えるところなんですよ。教師の思い込みを子供に押し付けるのは間違っていると僕は思います。教育と躾は別物です。子供の躾まで学校に頼るのは本末転倒です。僕はあくまで、勉強を通じて子供たちに平等なオポチュニティーを提供する。」
 料理が運ばれてきた。丸山は焼酎のロックをオーダーし、瑤子は冷酒を頼んだ。瑤子は料理にはあまり箸をつけず、丸山の話を黙って聞いた。
「そうだ、下川辺真美ちゃん、なにか問題がありそうね。」
瑤子はさりげなく切り出した。
「ああ、あの子ねえ。」
丸山は箸を宙で回した。
「勉強という意味では頭はすごくいいんですよ、あのこは。二年生くらいまでは、当時の担任に気に入られて教育テレビの番組に駆りだされたそうですからね。でもそのころからなんだか遠足とかで勝手にいなくなったり、学校を休んで父親と旅行に行ったり、奇行というほどではないけれど、ちょっと変わっていたみたいですね。」
「なんでもお父様が亡くなったとか。」
「それなんですよ、台風直前の海で、あの子が溺れかけた飼い犬を助けろって父親にすがって、それで飛び込んだ父親も犬も結局波に飲まれて亡くなったそうです。ある意味、あのこが父親を殺したようなものだ。それを目の前で見てあの子、意識が二週間も戻らなかったそうで、目を醒まして父親の死を否定するようになったって話です。だから未だに父がこう言った、ああ言ったって、僕としてもどう対応していいか、ちょっと困っちゃってね。だって父親が生きているって本気で信じてるんだから埒が明かない。父に相談しますとか平気でいいますからね。おまけに母親がカウンセラーに連れてって催眠療法にかけたら高熱を出して寝込んでしまって医者も匙を投げたっていうんだから、お手上げだ。」
そうだったんだ。瑤子は心の中で呟いた。可哀想に。私が真美ちゃんを救ってあげる。
「学校で虐められたりしているんですか?」
瑤子は運ばれてきた日本酒をほんの少し舐めて、グラスを置いた。
「虐められてるっていうより、みんなどう対処していいかわからないんじゃないかな。僕でさえわかんないんだから当たり前だけど。成績は相変わらずいいし、みな普通に接しているけど、あまり友達とかはいないでしょう。」
「可哀想ね。」
「可哀想なのは僕の方ですよ。やっかいな子供任されて。何かあるたびに父親を引っ張り出して、参りますよ。そんな話より、僕は正恵さんのことをもっと聞きたいなあ。」
瑤子は福岡出身で父が医者で大学はお茶大に行って、今は親が買ってくれた家にひとりで住んでいると話した。
「兄も医者でね、今は大学病院で修行中。兄の専門は心臓外科だから。本当は私も医者にして、医者と結婚させて土地を探して病院を建てて、兄を院長にする。そのつもりでいたらしいんだけど、私が言うことを聞かない悪い子だから、最近では医者じゃなくてもいいから、経営面を任せられる優秀な男性を探してほしいなんて言っているわ。」
丸山の目が輝いた。
「聞いていいかな。どうして僕を誘う気になったのか。」
丸山は酒で少し赤くなった顔を近づけてきた。 瑤子は酒の匂いに顔をしかめそうになるのを堪えた。
「本当は会ったときからちょっと素敵だなって思ったのよ。植物園で研究なんてしてるとカッコイイ人に会うチャンスなんて無いんだもの。だから今日は偶然とはいえ、ラッキーって思って思い切ってお誘いしちゃった。もう心臓がばくばくしたんだから。」
丸山は有頂天になった。学歴といい美貌といい麻由美なんか正恵の足元にも及ばない。真面目なお嬢タイプほどオトシやすいとはよく聞く話だ。おまけに病院経営ってのは全く悪くない、テーブルの下でガッツポーズを決めた。それから頭の中で瑤子を裸にして眉をひそめる姿を想像すると股間が熱く反応した。
 瑤子は丸山がトイレに行っている隙にグラスから酒を床に流して、そのグラスに水を入れた。丸山さんの留守にお代わりしちゃった。でももっと飲んじゃう、そう言って、グラスを飲み干して瑤子は笑った。丸山は上機嫌だった。トイレに立った際、真由美からのテキストを確認したが、無視してほっておくことにした。全くうざったい女だ。毎日のように俺の居場所を確認したがる。丸山は携帯の電源を切った。
 十時前に店を出て駅へ向かう道で瑤子は少しふらつきながら、
「ねえ私、西片に住んでいるんだけど、少し酔ってしまったし、こんなに夜遅くひとりで帰るのってちょっと怖いの。できたら送ってほしいんだけど。」
そう言って丸山の腕に自分の腕を絡ませた。
今夜正恵を抱ける、丸山は瑤子の肩を抱き、頭の中ではすでに瑤子を翻弄していた。

 都営三田線の春日駅で降りて西片の交差点を越える。瑤子は丸山に倒れ掛かった。
「ごめんなさい。普段あまり飲まないから酔っちゃったみたい。」
「おいおい、大丈夫かい?」
そう言って、瑤子を抱き寄せ、キスをしようとする。
瑤子は丸山の口を手で押さえて小さな声で囁いた。
「ここは古い町だから近所の人に見られたら嫌だわ。こう見えても私は品行方正って評判なのだから。」
「OK。」丸山も声を潜めて言った。
「まるで共犯みたいね。」
瑤子がそう言って丸山も小さく頷いた。
 瑤子の後について家の門をくぐり、玄関で靴を脱ぐと、家の中を見回して丸山は感嘆の声を上げた。
「一人暮らしにはもったいないくらい広い家だなあ。」
瑤子は、古いけどね、と言いながら丸山を縁側に続く和室に通した。
「和風の家って落ち着くでしょう。」
そう言って座布団を勧める。
「いいねえ。」
丸山は胡坐をかいた。
 ガラスの引き戸の向こうに木々のシルエットが見える。三本の夾竹桃は鉢に植えられたまま風に黒い葉を揺らしている。園芸店の男が空けた穴は宵闇にまぎれて、ここからは見えない。瑤子は窓を開けて夜気を部屋に入れ、
再び閉めると丸山の側に立った。
丸山は立ち上がって瑤子を抱きすくめた。けれど瑤子はにっこり笑ってそれをかわす。
「こういうことには順序ってものがあるのよ。焦ったらロマンティックになれないでしょ。今、丸山さんのためにとても美味しいデザートワインを作ってあげる。それまでお預け。」
 そう言ってキッチンに向かい、ワインを温めた。
 この女、けっこう慣れてるのかもしれない。そう思った。やりたいくせにもったいぶってやがる。丸山は心の中で呟いた。けれどそれもまたいい。待つのもまたお楽しみのひとつだ。
 お盆にふたつのワイングラス。
「バン・ショーって言うの。ホットワインだけど、シナモンと黒砂糖と林檎が入っていて、クローブの香りがエキゾティックでロマンティックで、そしてとってもセクシーでしょ。」
 確かに濃厚な香りが部屋に広がる。瑤子が眼鏡をはずし、髪を掻き上げた。はっとするほど美しい顔と、真剣な眼差しが丸山を見つめる。丸山はその圧倒的な美しさに素直に感動していた。それと同時に爆発的な欲情の波が、彼の身体に稲妻のように走った。そんな丸山を見て、瑤子は言った。
「私、こんな気持ちになったの始めて。会った瞬間に誰かを好きになるなんて。」
「僕も全く同じ気持ちだ。」
「でも、遊びにしないでね。ちゃんと私を好きになってくれる?」
そう言ってグラスを高くかざして丸山を見た。
「君を本気で好きになりそうだ。」
丸山は瑤子の差し出したグラスを受け取った。
「乾杯」
瑤子はグラスからワインを飲んだ。ああ、美味しい。そして丸山も瑤子に笑いかけながらグラスの赤い飲み物に口をつけた。

 瑤子は丸山の死体をネクタイを持って引きずった。畳から縁側までは至近距離だし縁側の木の床は滑りやすいから、華奢な瑤子でも大きな丸山を難なく運ぶことが出来る。そうやって死体を縁側から庭に落とし、後は足で死体を転がして深い穴の中に沈めた。そしてポケットからピンクの服を着た人形を出すと丸山の死体の上にそっと置いた。

さようなら。ようやくあなたを天国に送ってあげられる。これから私はあなたの分も幸せになるわ。

 瑤子は心の中でそう呟いて、丸山の身体の上に三本の夾竹桃を植えた。園芸店の配達の男の子は本当に深く掘ってくれたから作業は簡単だった。
 みんな瑤子の言うことは素直に聞いてくれるの。昔からそうだった。
 土を均して水を少しかけて大きなシャベルを片付けて、畳の赤い染みを拭いてから、瑤子はキッチンに行き、丸山が口をつけたワイングラスをキッチンタオルで摘んで、ゴミ箱に捨てた。

 

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