惹かれ合う心

文字数 11,740文字

 目が醒めると薄明かりの中に白っぽい天井が見えた。窓に薄いカーテンが掛かっている。身体を起すと軽い頭痛を覚えた。
「気がつきましたか?」
ベッドの隣りに置いた椅子に吉原が座っている。ベッドサイドのシェイドから淡いオレジ色の灯りが漏れ、吉原の頬を照らしていた。瑤子は辺りを見回した。ベッドの他に小さな机と椅子。どうやらホテルの一室らしい。
吉原が微笑んだ。
「びっくりしましたよ。瑤子さん、いきなり気を失ってしまわれて。ホテルの人が心配して部屋を用意してくれました。幸い、瑤子さんが下のコーヒーショップの常連だったから。」
そう言って、立ち上がって瑤子を上から見下ろすようにして、
「瑤子さん、過去に何があったんですか?僕が間違っていなければ、瑤子さんもひょっとしたら誰か身近な人の死に直面した経験があるんじゃないですか?だから真美ちゃんの心を理解できる。それはひょっとして、以前おっしゃっていたクラスメートですか。」そう言って瑤子を見据えた。瑤子は黙ったまま、シーツを頬に引き上げて虚ろな目をしている。
「僕は。」
吉原は言葉を区切った。
「あなたにお会いした途端に何か強い連帯感を感じた。真美ちゃんは一目惚れだよって言って僕をからかったけれど、もっと直接的な、心を直撃するような気持ちを感じた。そして真美ちゃんにも似たような繋がりを感じた。それは偶然でしょうか。」
 瑤子は吉原から目を逸らしたまま、ベッドを見つめている。
「それは偶然じゃない。三人の共通点は予期せぬ死に直面したということ。そうじゃないですか?今じゃなくてもいい。僕は、瑤子さんが自分で話す気になるまで待ちます。」
そう言って、手を伸ばして瑤子の髪に触れた。瑤子はそんな吉原を少しの間みつめた。そして吉原の頬を手の甲でそっとなぞった。
「あなたのその笑顔が私の心を揺さぶる。どうしてかな。」
瑤子の瞳が濡れたように光った。吉原はその手をそっと握り、そのまま瑤子の唇にそっと、そして充分に長い時間をかけて唇を重ねた。

 瑤子は吉原を受け入れた。まるで乾ききった喉を切羽詰まって潤すように、忙しなく服を脱ぎ、激しく抱き合った。薄明かりの中で吉原の真剣な眼差しが瑤子を包み込んでいく。激しいのに長く優しい心地よさがどこまでも続く。瑤子は求め続けた。どれくらい時間がたっただろうか。やがて瑤子の内部で予期せぬ炸裂が始まった。それは中心から始まって身体中を震わせ、やがて突き抜けるような快感が嵐のように身体中を吹き荒らした。瑤子は目を閉じたままその風の中で大きな吐息を漏らした。
 吉原は終わった後、瑤子を抱きしめたまま囁いた。
「あなたが好きです。もしもあなたの中に思い出したくない過去があるのなら、僕がその過去からあなたを守ってあげたい。思い出したくないのなら思い出さなくてもいい。僕はそのままの瑤子さんを受け入れたい。」
 瑤子は吉原の胸に顔を埋めたままその言葉を受け止めた。激しい快楽の余韻がまだ瑤子の身体を断続的に振るわせる。今は何も考えられない。安らかな未来と刹那の熱情。瑤子は答えを引き出そうともがいたけれど、吉原の大きな肩に堅く包まれ、平らな胸に顔を埋めていること以外に出来ることは何もなかった。

 吉原は瑤子をタクシーに乗せ自宅に送り届けた。夕闇のアスファルトに、夏目漱石の小説の中に出てきそうな、大きな門構えの日本家屋が並ぶ。
「東京にもこんな場所があったんですねえ。」
吉原が呟いた。
「古い家が多いの。落ち着くでしょ。」
瑤子はそう言って家の前で立ち止まった。
「今日は、なんていうか、有難う。」
そう言って吉原に小さくお辞儀をした。吉原はまた瑤子を抱きしめたい衝動に駆られたけれど、瑤子は無言のまま静かに引き戸を開け、同じように静かに閉めた。
 吉原はため息をついて、そして歩き出した。
角を曲がる所でもう一度振り返る。ベッドの中の瑤子の姿が蘇る。黒い髪が乱れて、形の良い眉を顰める瑤子は現実とは思えないほど美しかった。吉原は首を振った。真美ちゃん、君の言った通り、やっぱり一目惚れだよな。



 瑤子は翌日、仕事を休んだ。午前中をベッドで過ごし、午後になってようやく寝室から抜け出し、寝間着のまま縁側に腰掛け、庭の木々を眺めた。九月も近いというのに、まだ夾竹桃が鈴のような花をたくさん咲かせている。三本とも元気に育って、いつのまにか塀の高さを超えている。
 瑤子は昨夜の出来事を思い出していた。男性と交わって初めて迎えたオルガズムは、瑤子の身体だけでなく心までも徹底的に揺さぶった。絶頂を迎えたこと自体ではなく、その相手が吉原であったことに。運命という言葉が実在するのなら、やはりこれが私の運命なのだろうか。瑤子は思った。そして空を眺めて、太陽に隠された星たちのことを考えた。遠い場所で出会った三人の点と点が結ばれていく。
 電話が鳴った。瑤子はゆっくり振り返って受話器を眺めた。呼び出し音は留守電のメッセージに変わり、琢磨の声が流れ出した。
 瑤子、会社に連絡したら休んでいると聞きました。大丈夫?帰りにちょっと寄っていきます。やはり瑤子は働きすぎだ。明日からの旅行は何もしないでゆっくり過ごそう。それじゃ。
 短い電子音が響いて電話が切れる。瑤子は琢磨の声を聞いてせつなくなった。
 私はどうしてこの人を愛せないのだろう。どうして彼とじゃ達することが出来ないのだろう。琢磨では身体が反応しない。瑤子はひとりで密やかに泣いた。夾竹桃を眺めながら声を出さずに泣き続けた。

 夕方近くになって、吉原は植物園に電話をして瑤子が今日休んでいることを知った。練馬警察署では恋人に振られて光が丘のマンションの屋上から飛び降りようとした男を取り押さえ、泣き崩れている男をなだめて家族に連絡を取っているところだった。山崎が、恋人に振られたくらいでいちいち自殺してたら俺なんか、もう四~五回は生き返っている計算になるな、と言い、弥生が、あら、思ったより少ないんですね、とからかっていた。
テレビでは二年前の身障者十九人を「社会の役に立ちたくて」刺殺した裁判のニュースをやっている。
「世の中、どうなっちまったんだ。」
テレビの画面を観ながら、杉浦がため息をついた。
「何もかも嫌になった、ひとりで死にたくないからって他人を巻き込む事件も後を経たない。死にたきゃ、ひとりで死ねばいいのよ。」
弥生が憮然として言った。
「しっかり牢獄ぶちこんで、さっさと死刑にしてほしいね。こんな奴に俺たちの税金でタダメシ食わせるのも気に入らない。マリファナだろうと酒だろうと、通常の判断ができないなんて、てめえで勝手にやってて間違っても精神異常病院行きなんてことにならないことを祈る。」
山崎が言った。
「警視庁だって面子があるから、今回の事件ではそんなことさせないわよ。」
「あの自殺志望者も死なしてやったほうが返ってよかったのかもしれないな。」
山崎が言った。死にたい奴は死なせてやればいい。あんな女々しい狂言で大騒ぎする馬鹿男なんて、生かす価値なんて無いんだから。そういうこと、刑事が言ってどうする、杉浦が嗜めた。もう、何が善で悪か、わかんないですよ。キチガイを生かしておいたって社会の特にならないんじゃないですかね。だいたい心が壊れているから有罪にならないっていうの、僕は納得できないですよ。殺人を犯す奴ってのはその時点で精神異常者だ。そんなこといちいち許していたら、世の中の殺人、すべて精神異常、無罪ってことになっちまう。山崎が言い、弥生が頷いた。理由無き犯行世代って言うんだそうよ。簡単に世代ってひっくるめちゃうところがいかにもマスコミ的で気に入らないんだけど、実際、最近の犯罪者たちは何を考えているかわからない。殺人の動機が曖昧で、殺人の対象もひとりに向けられていない。誰でもいいんだから、捕まえる私たちも苦労するわけよね。加害者と被害者の接点がみつからないんだもの。
 理由無き犯行世代。加害者と被害者の接点がみつからない。
 吉原は声に出して言ってみた。


 署を出て、自宅のマンションに向かう途中、吉原は思い立って駅に方向転換して、西片に向かった。瑤子の顔が見たい、今夜もう一度抱きしめたい、その想いを抑えきれない。
 春日駅を降りて、昨日の道をなぞって瑤子の家のある通りにやってきた。後ろからヘッドライトが吉原を照らし、ゆっくりと追い抜いていく。路地に不釣合いな大きな外国車。目を凝らすと760Liの文字が浮かび上がる。BMWか、そう吉原が思ったと同時に車は瑤子の家の前にぴったり横付けされた。シルバーグレイの重い扉を開けて長身のスーツ姿の男が降り立つ。歌舞伎俳優のようなすっきりした顔。吉原はさりげなく瑤子の家の前を通り過ぎて、角を曲がってから注意深く様子を伺った。キーレスロックのピッという音が静けさの中、やけに大きく響く。少しして玄関の灯がともり、男はジャケットを正して瑤子の家の門をくぐった。
 吉原は自嘲した。そうだよな、あんな綺麗な人に恋人がいないわけが無い。あれはちょっとした気の迷いだったのだ。今頃彼女は後悔している。あの時、引き戸を閉めた時の彼女は多分、吉原を拒絶していたのだろう。今はもう忘れようとしているかもしれない。車がロックされたときのリア・ライトの点滅が、吉原に早く帰れ、と伝えているように見えた。あの車、光沢のあるスーツ。悔しいけれど彼は彼女にふさわしい。けれど、昨夜の瑤子の表情、あのせつない吐息を脳裏から追い出すことが出来ない。



 シルバーグレイのBMWは首都高速の用賀ランプを抜けて東名に入った。瑤子は琢磨の車の中で窓の外を速い速度で過ぎゆく景色を眺めていた。今日はポニーテールを結わないで、ローラーで毛先に緩くカールをつけている。山は東京より気温が少し低いし夜になると肌寒いからね、と琢磨に言われたとおり、ライムグリーンのカシミアのツインセットに皺になりにくい白いシフォン・ジョーゼットのプリーツスカートを合わた。琢磨はブルー・ストライプのシャツの上にアルマーニの薄い紺のセーターを着ている。
 夕べ、琢磨が家にやってきた時、彼の顔を見て安心したのは事実だった。けれど、もう何も感じない。吉原の顔とあの絶頂の感覚が重なって、琢磨と過ごした時間を心の片隅に追いやってしまった。それでも瑤子はもう吉原には会うまいと心に決めている。ひとつの想い出にしてしまえばいい。初潮を迎えた日、初めて男とを交わった夜、ドラマティックだと思った出来事も所詮思い出に変わってしまうのだから。そしてその思い出はやがて遠い記憶の中でフェイドアウトしていく。そして思った。なぜだろう。ひきずるのは不幸な過去だけ。
 瑤子は運転に集中している琢磨の横顔を盗み見た。清潔で上品な横顔。私たちは申し分のないカップルなのだ。瑤子はシフトに置かれた琢磨の右手の上にそっと自分の手を重ねた。琢磨が瑤子を見て優しい笑みを浮かべる。これでいいのだ。
 ふたりはホテルにチェックインして部屋で寛いだ。広々とした部屋は開放感に溢れ、自然光に満たされている。ベッドルームの向こうのテラスに面したリビングルーム、白いソファーの向こうに緑色の山々が広がる。琢磨はテラスに続くガラス戸を全開にして深呼吸した。
「言った通り悪くないだろ。さっそく温泉につかる?それともしばらくこうしている?」
ソファーに身体を沈めて窓の向こうの景色を眺めている瑤子の側に来て、後ろからそっと 抱きすくめた。身体が一瞬竦む。けれど落ちついて、琢磨の手をそっと手のひらで包み込んだ。
「しばらくこうしていたい。」
「そうだな、しばらくこうしていよう。」
琢磨は瑤子のうなじにキスをして、瑤子と同じ景色を眺めた。山並みの向こうに富士山が見える。雪を頂いた美しいシルエット。そして濃い緑の山々。絵画のような風景。私たちはその絵画の一部だ。景色に溶け込んで、その部分にさりげなく描かれている美しい恋人。それなのに、身体が琢磨をざわざわと拒絶している。
 何も考えなければいい。何も感じなければいい。瑤子は目を閉じて山から降りてくる、冷たく透き通った空気に心を集中させた。


 吉原は缶ビールを籠に入れて、つまみになるものを物色している最中だった。行きつけの飲み屋に行くという選択もあるけれど、億劫な気がした。第一夜まで待つ気になれない。こういう時は昼間っからビール片手に野球中継でも見るのが一番だな、そう心の中で呟いた。
 レジでお金を払っていると、胸ポケットの中で携帯が震え出した。見ると真美からのテキスト・メッセージが入っている。あの日、ふいな着信の音で瑤子を起さないようにバイブレート・モードに変えてあったのをすっかり忘れていた。

刑事さん、デートはどうだった?

吉原は苦笑いした。最近の小学生はパソコン以外に携帯まで持っているんだなあ。コンビニの袋を腕に掛けて、デートは楽しかったけど、どうやら振られたみたいです、と送信した。
 家に向かって歩いているとまた着信。

かわいそうだから真美とデートしよう。もうすぐで夏休みも終わりだし。今からお茶しません?

吉原は再び苦笑して、そしてテキストを送った。了解。慰めてもらいます。一時間くらいで迎えにいきます。そして、やれやれ、と声に出して言った。美女に振られて小学生とデートか。まあ昼間っから飲んだくれるよりはずっと生産的でいいか。それに真美ちゃんには聞きたいことがある。
 吉原はいったん家に帰り荷物を置いて車を出し、真美をピックアップして再びデニーズに向かった。
 デニーズの店内は昼下がりのせいか、以前来た時よりかなり混んでいて、近所の主婦や若いカップルたちの姿が目立つ。手前の席で突然泣き出した赤ん坊を、若いママが慌ててあやしている。横に置いたベビーカーのハンドルのところにかかっている黒いバッグを見てどこかで見たな、と思った。サーモスのボトルが顔を出すそのバッグからタオルやお菓子の袋がはみ出している。目を凝らしてロゴを見て思い出した。美紀の持っていた、確かシャネルのトラベル・ラインとか言ってたよな。そして若いママの顔を見た。やはり髪を染めている。
  ようこそ、デニーズに。若いウエイターがやってきて、吉原と真美を席に案内した。
前来た時のウエイトレスの姿は無い。今頃新学期に向けて忙しくしているのだろう。
 ウエイトレスがオーダーを取りに来たので吉原は、アイスココアとチーズケーキでいい?と真美に聞いた。真美はメニューを物色してアイスココアと、今日はこの季節限定のモンブランでいく、と言った。吉原はコーヒーを頼んだ。
 真美は茶色と白のタータンチェックのスカートにピンクのポロシャツ、白いソックスに茶色のローファーという姿で赤いブースに寄りかかって、びっしりとピンクのラインストーンがついた携帯をいじっている。
「それ、おニュー?」
「はい。母を説得して新学期からピアノのレッスンはひとりで行くことになったので、何かあった時のためにって、母が買ってくれました。」
真美が携帯をかざして得意そうに言った。
「僕の電話番号はもうインプットされてる?」
「もちろん。瑤子さんのも。」
言ってから、申し訳なさそうに、
「あ、ごめんなさい。」と付け足した。
「気を遣ってくれなくていいんだ。振られるのは慣れているからね。それにデートはけっこう楽しかったし。」
「けっこうお似合いだと思ったんだけどなあ。」
「僕よりもっとお似合いの恋人がいるみたいなんだ。」
「そうなんだ。傷つけついでに言っちゃうけれど、瑤子さん、週末は小旅行って言ってた。彼と旅行かな。」
「それってちょっと聞きたくなかったなあ。」
真美は残念だったなあ、と言ってまた携帯をいじり始めた。吉原は瑤子の姿を思い出しながら、旅行かあ、どこに行くのだろう、と考えて、あのスーツの男に軽い嫉妬を覚えた。そして頭を振って、ちょうど運ばれてきたコーヒーにミルクを入れながら、真美の姿を眺めた。
「真美ちゃんのお母さんはお洒落な人なんだろうなあ。」
「どうして?」
「だって真美ちゃん、いつもセンスのいい服着てるから。」
真美は自分の服に目を落とした。
「お母さん、昔はとっても綺麗でお洒落で、真美ちゃんのママは素敵だねって言われてた。黒木瞳に似てるって言われたりして。家にいてもちゃんとお化粧とかしたし。でもお父さんの具合が悪くなってからは昔ほどは気合が入らないみたい。出かけるときはそれなりに張り切るけど、家にいるときなんかどーでもいいかっこうしたりしてる。」
「お父さん、具合はどうなの?」
「あんまりよくないみたい。書斎に篭ってばかりいて。」
「そうか。」
吉原は言葉を区切った。真美はモンブランの上に乗っている栗を口に入れて、それから栗のクリームを食べた。悪くないよ、これ。
「真美ちゃん、心で話しかけられる人がいるんだよね。」
真美が一瞬食べるのを止めて吉原を見つめた。
「以前、言ってただろ。真美ちゃんと瑤子さんは大切な人を心に持って話しかけることが出来るって。」
真美は黙ったまま、再びケーキと格闘を始めた。
「真美ちゃんの大切な人って、ひょっとしたらお父さんのこと?」
真美が攻撃的な視線を向けた。
「瑤子さんが言ったの?」
「いや、瑤子さんは何も言ってない。僕が勝手に推測したんだ。」
「嘘。」
「違うんだ。僕がそう思うのは、僕も時々、自分の心の中で僕のお父さんに話しかけることがあるんだ。」
「そんな話、信じない。」
真美が食べるのを止めて、吉原を睨んでいる。
「聞いてくれないかな。僕の話も。」
真美は無言だ。
「僕のお父さんはね、自殺したんだ。僕が高校生の時、悪い人に騙されて貯金も経営していた会社も家も全部取られてびっくりするくらいの借金抱えて、僕のお母さんと僕を守るために、首をつって死んだんだ。」
真美が視線を上げた。
「本当?」
「本当だ。こんなこと、嘘で言えるわけないだろ。」
「うん・・・そうだったんだ。」
「今でも時々、父親のことを思い出すんだ。何かに行き詰ったり、困ったり迷ったりすると親父に、なあ、俺、どうしたらいいんだってすがりたくなる。でも僕の場合は話しかけても残念ながら返事は来ない。修行が足りないのかな。」
「思いが足りないんだと思います。」
「思い?」
「そう、瑤子さんが言ってました。心がものすごく求めると魂が心の中に入って話しかけてくるんだって。」
吉原は瑤子の言葉を思い出した。真美ちゃんの心の中から飛び出してしまった魂を真美ちゃんの心に戻してあげようとしているんです。
「瑤子さんの心の友達は誰なんだろう。」
真美は何かを探るような表情をして、吉原の目をみつめた。
「教えてくれないかな。僕も、前言ったようになんていうか心の繋がりを感じた。それに真美ちゃんが教えてくれたら、僕も僕のお父さんと話ができるようになるかもしれない。」
 真美は考えるような仕草をして、それからゆっくり口を開いた。
「瑤子さん、子供の頃、クラスメートの女の子を自殺させてしまったんだそうです。みんながその子を虐めるきっかけを、瑤子さんが作ったんだって。でもね、瑤子さんがは自分のせいだって言っているけど、なんだか逆恨みって感じがしないでもない。もともとその子は自分が不幸だって思い込んでいたんだと私は思う。自分の家とかが嫌いで、自分も嫌いで。だけどなんていうか、瑤子さんにはショックで、それからその子が残した小さなピンクのお人形に一日のことを報告するようになったんだって。なんだかその子が宝物にしてたらしい。まずピンクのお人形が瑤子さんの話し相手になって、それからその子の魂が瑤子さんの心に入り込んで、話ができるようになったって、瑤子さん言ってた。」
 そうだったのか。やはり彼女も誰かの死に関わっている。不思議だと思った。丸山失踪の事件を追っていて、瑤子、真美というふたりの女性に関わった。そのふたりが吉原を同じように身近な誰かの突然の死で傷ついている。
「今度、真美ちゃんのお父さんに会いたいな。」
吉原は言った。
「いいよ。今度うちに遊びにくればいい。お母さんにちゃんとお化粧しておくように言うから。」
真美はそう言って微笑んだ。吉原も微笑みながら、瑤子さんはどうやって真美のお父さんの姿を真美の心に戻すのだろう、と考えた。


 吉原は真美を送り届け、もう一度西片に足を向けた。週末の旅行。瑤子はいないと知っているのに足が向く。いや、知っているからこそ安心して家を眺めることが出来るのかもしれない。吉原はそんな風に思って、なんて女々しいんだろうと苦笑した。
 瑤子の家は昼間見ると随分印象が違って見えた。落ちついた日本家屋ではあるけれど、磨かれた窓ガラスは大きく、中にのぞく、半透明の白い無地のカーテンがモダンだ。塀の上から夾竹桃が鈴なりになって咲いている。この家にいる美しい女性の存在を主張しているみたいに。
「随分大きくなったなあ。」
突然、誰かが言ったので振り向くとカーキ色の野球帽を被った若い男が瑤子の家を眺めている。目が合うと男が頭を下げた。
「こんにちは。」
吉原は同じように頭を下げて、
「彼女、留守みたいですね。」
そう言った。男はピンクの花を眺めている。
「見事に咲いてますね。」
吉原が呟くと、男は頷いた。
「夾竹桃。大きくなったなあ、前届けたときはまだこんなだったですけどね。」
と言って自分の鼻の辺りに手をかざした。
「ちょうど梅雨の時期だったから、雨と、夏の太陽でぐんぐん育っていったんだろうなあ。」
男がそう言って、また花を見上げた。男の後ろに白いバンが停まっている。車体に大きくスター園芸店という緑色の文字と電話番号が浮かぶ。向かいの家には木の看板が掛かり、草月流いけばな教室と書いてある。向かいに花を届けたのだろう。
「梅雨の時期に?」
男は吉原を見て、
「おたく、道家さんの知り合い?」
と尋ねた。
「ええ、瑤子さんとは職場の同僚です。ちょっと研究のことで気になることがあって、別に急用と言うわけじゃないんですけど、近いし。」
男はにやにや笑った。
「用が無くたって会いたくなる美女ですもんね。」そう言ってまたにやにやした。吉原は頭をかきながら一緒に笑った。そして男が言った。
「道家さん、よく花を買って下さるお得意さんなんですけどね、この夾竹桃は店に来てしっかり選んでたな。そこらの主婦が趣味程度でやる園芸とはわけが違う。なんていったって東大大学院出の研究員でしょう。あ、おたくも東大?」
「いえ、東北大です。」
「どっちも国立出のエリートだ、いいねえ。なんだか植物の細胞組織がどうのこうのってのを研究してるんでしょう。」
「ええ、まあ。」
吉原は曖昧に相槌を打った。
「単に花見て綺麗って喜ぶレベルじゃないですからね。庭のどの木も健康で、あんな素晴らしい庭はめったにお目にかかれない。」
 吉原はもう一度花を見上げた。塀に沿ってかなり広く咲いている。
「そんなに短期間でこんなに育つものなんですね。」
そう言ってしまって咳払いをした。男は気にする様子もなく、
「かなり大振りのを三本買われたからね。よく覚えてますよ。あんな白くて細い人じゃないですか。僕が配達のついでに穴を掘ってあげましたからね。だってあんなすごい美人にシャベルと格闘させるわけにはいかないっていうか、まあ正直言って穴を掘るっていう口実で少しでも彼女を眺めていたいっていうか。だって道家さんって女優顔負けに綺麗じゃないですか。羨ましいなあ、あの顔を職場で毎日拝めるなんて。ほんと、羨ましいったらありゃしない。」
 そう言って時計を見て慌てて、もう行かなくちゃ、と会釈して車に乗り込んだ。
園芸店の車が走り去り角を曲がるまでを、吉原はじっと眺めた。




「ごめんなさい。」
瑤子は天井を眺めたままそう呟いた。琢磨はにっこり笑い、そして瑤子の髪を優しく撫でて言った。
「何もしないで過ごそうというオファーを出したのは僕の方だ。瑤子がリラックスすることがこの旅の目的。ゆっくり休んで身体に蓄積しているストレスを美味しい空気と食べ物で追い出してしまうこと。いいね。」
瑤子は琢磨の横顔をそっとみつめた。どこまでも優しく、限りなく冷静な人。瑤子が必要な時にいつも側にいて、そっと見守ってくれる。自信に満ちて、迷わない人。瑤子の曖昧な心の揺らぎを、振り子を指で押さえて止めるように、そっと元の場所に戻してくれる。
ありがとう。小さく呟き、静かに目を閉じた。
 糊の利いたシーツの影が星明りの中に白い曲線を描く。ふとこのシーツの色と星の色は同じだということに気づいた。銀色と白の中間。人の心が見えるとしたら、こんな色かもしれない。
 心が綺麗な人、心が汚い人。人はそうやって他人をカテゴライズするけれど、他人を傷つけないための嘘があり、大切な人を守るために他人を傷つけることもある。人はそうやって多かれ少なかれ、自分の都合で傷つけあいながら生きているのだ。社会というのは人と人の摩擦によって弱者は取り除かれ、出る杭は打たれて、そうやって淘汰されて妥協点で曖昧に生きていく世界だ。そんな社会で攻撃的な自己防衛という浄化の手段があっても仕方ないのだ。
 幼い頃の記憶が蘇る。それって偽善っ言うの。いい人ぶっているけれど、心に抱えきれないほどの偽善を抱えて生きている。瑤子の心はどぶの水みたいに汚れていた。丸山を殺して、邪悪な心が少しずつ透明に変わっていく。抱えきれない偽善を押し出して、透明な自分になれる。
 ぐっすりと眠っている琢磨の細い鼻筋をそっと眺めた。琢磨の目は彼自身の心を映していない。だから瑤子の身体が拒絶する。もうこの人と交わることは出来ない。吉原の瞳は透明な水みたいに心をくっきりと映し出す。吉原の心の揺れが水面のさざ波のようにゆらゆらと揺れ、瑤子に向かって今にも溢れ出そうとしている。


 瑤子はそっとベッドを降りて、バスルームに行き顔を洗った。それから引き出しを開けて、レターヘッドに短く文章を刻みベッドサイドのシェイドの下に残した。そして音を立てないようにクローゼットを開けて、行きに来ていたカシミアのツインセットとスカートを身につけ、ドアの外に出た。
 フロントの男性が笑顔で瑤子に会釈する。仕事で急用が出来ましたので、タクシーを呼んで頂きたいのですが。彼の笑顔にほんの少しの疑いの視線が浮かび、それは瞬時にプロフェッショナルの微笑みにすり返られ、慣れた仕草でプッシュホンを押しタクシーを呼んだ。


琢磨。ごめんなさい。あなたを裏切ってしまいました。もうあなたには会えない。
瑤子



 ひっきりなしに行きかうトラックのヘッドライトが長い光のラインを描き、その無数の光の帯が光る川になって流れていく。瑤子が運転手に少し寝たいのでボリュームを下げてほしいと伝えると、運転手はボリュームを少し抑え、懐メロ風の曲からジャズに変えて、こんなんでいいですか?と尋ねた。瑤子は素敵だわ、どうも有難うと言い、運転手は満足気に頷いた。
 心地よいスムーズ・ジャズのピアノとサックスの音色が光と共鳴して、静かに心に沁みていく。瑤子は車の背もたれに身体を預け、目を閉じた。暗闇の中に幼い頃の記憶が蘇る。記憶はストーリーとしてではなく様々な風景の断片として存在し、ジグゾーパズルのピースみたいに、とりとめのない思い出の切れ端として散らばっていく。学校帰りの道にみつけたたんぽぽの黄色い花。貝の形をしたマドレーヌ。窓枠に浮き上がる美しいシャンデリア。ていねい、格安、早いの赤い文字。図書館の少し黴臭い本の感触。診察室の薬の匂い。カバンの革の匂い。黒板のチョークの音。記憶の破片を、裏返ったジグゾーのピースをひとつひとつ裏返すように辿る。思い出が少しづつ繋がって心の中で瑤子の記憶と正恵の記憶が交差して行く。そして気がつく。このパズルはふたつの別のパズルのピースがごちゃまぜになっているのだ。瑤子のパズルと正恵のパズル。けれどもいくつものピースがふたつのパズルに共通していて、片方のパズルを完成させようとするともう片方にいくつもの穴が開く。
 私に必要なのはこの穴を埋めてくれる人。同じ記憶を共有している人。死に直面し、絶望の場面を心に刻んだ人。
 高速の光の川の向こうに広がる闇の中、点々と灯る民家の明かりが寂しげに揺れる。
 吉原に会いたい。吉原に抱かれて、ふたつの身体がひとつになるくらい抱きしめて、遥子の身体に入り込んで心の穴を透明な水で満たしてほしいと思った。
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