第97話 Hさんとぼく

文字数 1,961文字

 先日、一緒に飲み食いをして、しかも全額ご馳走して頂いたHさんも、ありがたい、貴重な友人のひとりなのである。
 たとえば、「かめさんは、理想的過ぎる。現実離れしてるんだ」とHさんが言う。
 するとぼくは、そうだろうなぁと自分の中ではいくぶん同意しながらも、Hさんの言葉に対して弁解じみた反論を始めるのだ。
「こうなったらいいなぁという社会のひとつに、差別のない社会がある、それを最初からあきらめていたら、そういう社会なんかハナからあり得ないだろう。だから理想は持ち続けたい」という具合にだ。

 だが、よく考えてみれば、「理想的過ぎる」とHさんは言ったのであって、理想をもつことが悪いことだとは、一言もいっていないのである。
 ぼくは、「現実離れしてる」という言葉に、過剰反応したのだ。で、ぼくがその言葉に過剰に反応するということは、現実離れしているという自分の意識するところの事実、いわば急所を、Hさんが言い当てた、ということなのだ。

 また、「過ぎる」というのは、一種の犯罪行為であると、日頃から考えていた。「まじめ過ぎる」「やさし過ぎる」とか、自慢ではないがぼくはけっこう言われてきたので、危険な人間のように自分を意識することもあった。
 まじめ、やさしさ、は、それ自体はそんなに悪いものではないにしても、それが「過ぎる」と、罪がともなうように思えてならない。恋人を愛し過ぎる結果、その恋人を殺すというような芸当もできるだろう。政治に理想を求め過ぎる結果、絶望して自殺することもできるだろう、と考えられるからである。

 つまり、Hさんの「理想的過ぎる・現実離れしている」というぼくへの言葉は、自分の弱点ととらえていたところのマトに、みごとに命中したのだった。

 また、「おシャカさんという人がいて、」とぼくが話をしようとしたときである。
 Hさんは、「そういう言い方は、ひとを腹立たしくさせる、おシャカさんなんて、誰でも知ってるでしょう、おシャカさん『という』人がいて、なんて、まるでシャカをおまえは知らないだろう、といってるように聞こえる、そういう言い方はやめたほうがいい、と忠告しておくよ」   と、すかさず言ってくれるのである。

 ぼくは「という」ということについて、色めき立ってまた説明をはじめる。そんな、ひとを小馬鹿にして言ったつもりはない、自分はシャカという人の、名前は知っているけれど、その人を詳しく知らない、しかしそのシャカという人のことで話したいことがあった、しかし唐突にシャカという名前を出すときに、「という」というのが、話をはじめる自分に必要だった、という具合にである。

 じゃ、Sさん(我々の共通の友人)のことを話すとき、「Sさん『という』人がいてね、」と、おれが言ったとき、おかしく感じないか、とHさんが訊く。
 ぼくは、それほど強くおかしさは感じない、うん、Sさん、いるね、と相槌をうってそれからの話を聞くだろう、というふうに答える。
 で、何分間か、「という」ということについて、おたがいに何かしゃべりあうのだった。

 はたから見たら、こいつらケンカしてるんじゃないか、と思われなくもないのだが、それだけムキに、何かにこだわって言い合うというのは、それが言い合いのための言い合いではなく、それぞれの動かし難い自我とでもいうものが根底にあるので、しっかりチャンとムキになれるということなのだと思う。

 何かを主張するとき、その土台が、借り物の机の上で行なわれるのであれば、こんなにムキにはならない。言葉を駆使するだけの言葉に終始し、それ故に逃げ道も無数にできあがるだろう。
が、そのひとの精神とでもいうべき、石のように動かし難い「自己」を土台とするなら、根本的に逃げ道は、ないのである。
 それぞれの石の上で、「こう思う」「こう思う」が、ぼくにはとても現実的な会話というか、地に足を着けた関係というか、やりとりのように感じられてならない。

 Hさんは、なかなかこういう話のできる人は、いない、と、言ってくれる。ぼくは基本的には自分に一番の関心をもつ冷たい人間であるが、HさんのHさんたる、HさんをHさんたらしめるところの、あの確然とある石が、やはりありがたく感じられてならない。

 Hさんと一緒にいた後は、いつも、自分が何にこだわっているのか、何を守ろうとしているのか、なぜ自分はこうなのか、ということを、よくよく考えてしまう。自分という人間のもつ、ふだんは底のほうにいる自我が、Hさんとやりとりする上で、自然と引っ張り出されてしまうのだ。
 ぼくにはそういう趣味はないが、もしHさんと結婚して夫婦生活を送ったならば、小説の一編や二編が、すぐにでも書けそうである── などと、まどろっこしい言い方はやめて、とにかく、

「ありがとう」。
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