第66話 巣鴨のお地蔵様

文字数 947文字

 小学生の頃から、自転車で2、30分かけて巣鴨のお地蔵様に行っていた。朝、確か6時半?くらいにお堂でお坊さん達がお経を読み始める。その横の座敷で一般の人も自由に参加できて、一緒にお経を読む。
 私の祖母が、近所のおばあちゃんに誘われて行ったのが、お地蔵様をかめ家が知ったきっかけだったと思う。家の仏壇にも、小さなお地蔵さんの姿の描かれた三つ折りの、手の平ほどの屏風みたいなものがあった。

 僧侶たちの読経の時間に、私がひとりで行くようになったのは、なんでかよく分からない。家族の誰もそんなことしていなかった。ただ、坊さん達と一緒に読んでいると、単純に気持ちが良かった。知らないおじいさんやおばあさんに、偉いねえ、などと誉められるのが目的でもなかった。
 もともと私には、仏教的なものに惹かれるものがあったのだと思う。「仏像入門」みたいな小さな本も買って読んでいた。

 それが宗教だとして、あまりにお地蔵さんに頼るのもよくない、と子ども心に分かっていた。あくまで自分が先に行き、お地蔵さんが後ろからついて来る、そんな感じがきっと良いのだというイメージがあった。
 近所には政治に参加している宗教を信じている人があって、そのおばあさんが勧誘めいたことをしてくるので、「ああいうことしなければいいんだけどねえ」と祖母が母に言っていた。お地蔵さんは、田舎道にもよく立っているし、拝むも拝まぬもこちらの自由。気楽であり、主体はこちらである、そんなところが良かったのだと思う。

 そう考えると、たまたま現在、ブログで知り合った恋人や友達を機縁に、こうして奈良に住み、近くのお寺で何やら経を読む自分も、一筋縄で行っているように思う。
 私の意思はたいして働いていない。自然に、こうなるべくしてなった、というところ。子どもの頃に、また還っていっている気配もある。

 2、3年前に、東京に行ったついでに何十年ぶりかで巣鴨のお地蔵様に行ったが、「洗い地蔵」もすっかり綺麗になり、ギャンブルのお守りとか売っている出店とかもあって、子どもの頃と変わってしまった気がした。商業、というものが、幅を利かせているような気がした。
 それ自体全然わるくはないのだが、淋しい気になった。子どもだった私には、気がつかなかっただけなのかもしれないが。
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