第3話 理髪店の主人

文字数 1,187文字

 久し振りに髪を切りに行った。
 客の待つソファの上で、奥さんが座ったまま熟睡していた。客がいないということである。
「こんにちは」ぼくが言う。奥さんは起きない。
 大きな声で、「こんにちは」もう一度言う。奥さんが起きる。
「すいません、寝てるところを…」
「いやー、お腹がよくなると、眠くなっちゃって…」
 水曜日の午後。
 奥さんがぼくの髪を洗う。そのうち、主人が店に出てくる。ぼくを見て、「はい」と言う。ぼくは「こんにちは」と言う。
「どうしましょう」と主人が訊く。
「ブルース・リーみたいにして下さい」とぼくが答える(小学生か)。

「暑いねぇ、今日は」
「そうですねぇ」
 しばらくすると、奥さんが何か持ってきた。
「これ、忘れないで持っていって下さいね」
 キャベツである。
「ああ、すいません。前は、ナスを頂いて…」
「運がいいわよ。いつも、何かある時、来るから」
「農薬使ってないから、甘くて美味しいよ」主人が言う。

 この理髪店の主人は、腕はもちろんのこと、人柄がいい。
 だいたい理髪店に行くと、カット中に何やら話しかけられるか、なんとなく緊張感のある沈黙があるものだった。
 だが、この主人は違った。もう数年ぼくは通い続けているけれど、最初から、「どうしましょう」と訊かれる以外、ムダな口を一切きかなかった。そして、そのカット中の沈黙も、いたって自然な感じで、妙な緊張感が全く感じられなかった。
 ぼくはとても心地よくカットされ、シャンプーされ、ドライヤーで乾かされた。

 なんとなく話をするようになったのも、近年である。
「もう、ここを知っちゃってから、他のお店行けませんよ」ぼくは自然に言える。
「ああ、そうかね(笑)。そう言ってくれるお客さん、多くてねぇ。三ケ日とか田原とか、わざわざ遠いところから来てくれるお客さんもいて…」
「腕だけじゃないですよね。お人柄というか、話、しなくても、伝わるものがあるというか」
「うん、そうそう、相性いうかねぇ、1時間くらい、時間を共にするわけだから…」

 主人は、60は過ぎているはずだが、黒いTシャツやピンクのYシャツがとても似合う。
 佐藤慶をやさしくして、ちょっぴり男前にしたような顔立ち。温厚、というのは、この人のためにあるのではないか、というくらい、ほんとうに温厚な人である。
 以前ぼくは「サッカーのナカタみたいにして下さい」と言っていた。
 ナカタといえば、スポーツ刈りとまでいかないまでも、けっこうな短髪だった。あの髪型を、バリカン等を一切使わず、ハサミ1本で仕上げてくれた。ぼくは感服した。

「こっちに引っ越してきて良かったのは、ミナミさん(この理髪店の名前)があるのと、すごそこにユタカって魚屋さんがあることですよ」
 嘘偽り無くぼくは言う。
「ああ、ユタカさんねぇ。刺身が美味しい」
 主人が笑って答える。
 いつまでも元気で、ぼくの髪を切ってほしいと思う。
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