第17話 ふしぎな気分

文字数 1,089文字

 半永久的に壊れないというような洗濯物干しハンガーを買ってきた時、「えっ、そんな長生きするの?」と言われたことがある。
 刹那的に生きているといえば刹那的に生きているふたりだから、もちろんそれでいいのだが、よく洗濯ばさみの所が壊れてしまうので、これでもう買い換えないで済むという喜びが半減してしまった。

 おたがい、そんな積極的に、生きたい、とは思っていない。誰もが忌み嫌うような、避けたがる傾向のある死を、むしろ微笑んで受け容れたいとするタイプではある。
 といって、おたがいに、死なれては困るのだ。同時に死ねたらと思わないこともないが、ひとつひとつのいのち、魂のようなものが肉体から離れていくだけである。たぶん。

 自分から死のうとは思わない。ゆっくり、じわじわ死んでいく、そのあいだを、楽しめたら、というところで、おたがい一緒に暮らしてると思える。
 何もそれは、ふたりに限ったことでもないのだが。

「ふたりはなかよし」とかいう子ども番組があった。そのテーマソングに、楽しみも二倍、喜びも二倍、みたいな歌詞があって、そう、ふたりでいるということは、まして仲良しであれば、そうなるよなぁと思った。
 もちろん、悲しみも二倍、苦しみも二倍、なのだが。ひとりであるよりも、まだマシであるらしい。
 ひとりであるより、ふたりがいいのは、どうしたわけだろう?

 なんだか好き合って、一緒にいるということ。
 そしてひとりであればふたりになることを強く望んで、ふたりであり続ければひとりが恋しくなったりして、ないものねだりの子守歌。
 しかしもう十年以上一緒にいるのは、奇跡的なことである。よくぞ飽きずに。飽きたからといって、どうにかなるものでもなかったのかもしれないが。

 飽きるのは生活であって、相手に飽きるということは、おたがいに今まで、なかったように思える。
 たぶんそれぞれ、自分自身に飽きるということもなかっただろう。イヤになることはあっても。
 人間の存在は気分である、人間は気分である、人間は気分の存在である、といった言葉は、そうだろうと思う。

 その気分のうちに、不安や絶望、希望や夢が。
 希望や夢は未来にあって、現在にはない。
 絶望は過去からの副産物で、不安は今にあり、存在の自覚への作用をする。
 不安とは、今を生きているということになる、といって過言でないと思える。

 そしてその不安を育てるも、ほったらかすも、愛おしくおもうのも、全くその気分を抱える自身の、また気分に抱えられた、支えられた自分自身のしごとだろう。
 で、その自分としては、なるべく、愛でていられたら、愛でることができたら、と。
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