第二章 有明の月(花山帝) 第三話
文字数 3,715文字
深夜に輿 で内裏を発ったが、山科 の元慶寺 に着く頃には、夜は明け始めていた。
帝 は輿 を降り、寺の回廊に立った。見上げると西の空に“有明 の月”が浮かんでいる。『有明の月』とは、夜が明けても尚 空に残っている月のことを言う。陰暦の十六日以後、特に二十日を過ぎてからの月である。
「夜が明ければ、もはや出番では無いと言うに、未練な月よのう」
花山帝は自らの未練を嘲笑うかのように、そう呟いた。
出迎えた尋禅 が先導して本堂に入る。本尊・薬師瑠璃光如来 の前に、既に剃髪の支度が整えられている。
「どうぞ、あれへお渡り下さいませ」
天台座主の正装を身に纏った尋禅が、手を差し伸べて座を勧める。一瞬立ち止まった帝 だったが、ひと呼吸すると、意を決したかのように歩を進める。
帝 の頭を剃刀 が伝い、一筋の青い頭皮が顕 になった時、順を待って控えていた道兼が声を掛ける。
「お上 」
「何か」
「実は、仏門に入ることを父に話しておりません。父に無断で剃髪することは親不孝では無いかと思い至りました。最後になる俗世の姿を見て貰い、ひと言、父に断って参りたいと思います」
帝 が不審の眼差しを道兼に向ける。道兼は、床に手を突き、泣いているのか肩を震わせている。
「馬を調達して往復するつもりですので、長くは掛かりません。帝 のお供をして出家するとあらば、父も快く許してくれるものと思います」
そう言って再び低頭すると、帝 の返事も待たず、道兼は本堂を出て行ってしまった。
花山帝は、一瞬、声も出なかった。既に一部剃刀が入っているので、身動きも出来ない。
遠くからその光景を見ていた満仲は、ふっと溜め息を吐いた。実は、道兼が帝 と一緒に、本当に剃髪 してしまうのではないかと、兼家が、ひどく心配していたのだ。他人には非情な兼家もやはり親である。
「多少手荒なことをしても良い。絶対に止めろ」
と満仲は命じられていた。満仲は直ぐに道兼の後を追った。
表門に四人、裏門に四人、そして、階 の下の両側に一人ずつ。満仲の郎等達は、鯉口 を切って太刀を直ぐに抜けるようにして警戒している。義懐 や惟成 が察知し、帝 の出家を阻止する為、人数を繰り出して来ることを想定してのことだ。
道兼が取り乱した様子で慌ただしく回廊を走り出て来た。
「先にお舘にお連れせよ」
追うように出て来た満仲が、階 下の二人の郎等にそう命じる。兼家に与えられた任務を無事済ませたのだから、いつもなら、ほっとする処なのだが、苦い水が胃の府から上がって来るような不快さが、満仲を襲っていた。
「帝 を謀 る手先を努めてしまった」
皇孫であることを誇りとし、そんな身が他家の使用人などに身を落としてたまるかと言う想いで必死に生きて来た男である。
『柵 に流され、決して、してはならないことに手を染めてしまったのでは無かろうか』
そんな考えが満仲の頭を過 った。
花山帝はわずかな望みを持って、道兼が戻るのを待っていた。自分ひとり、永遠の闇の中に放り出されたような恐怖が襲って来た。本尊の薬師瑠璃光如来像が、まるで閻魔大王のように背後から迫って来る。尋禅を始めとする僧達の表情も無機質で、この世の者では無いように見えた。
いつまで待っても道兼は戻って来なかった。いつの間にか、満仲達の姿も無い。
「謀 られたか」
青く剃り上げられた頭を掌 で擦 り、花山 帝、いや法皇は苦悶の表情を見せた。満仲も関わった『寛和 の変』と言われる事件の顛末である。
花山帝退位の謀 がまんまと成功したことで、苦渋を舐め続けていた兼家は、やっと権力を手中にすることが出来た。そして、手を貸した満仲も兼家の 信頼を更に深め、その地位を高め、権力と富を更に増していた。
忙しいが、充実した日々である。「やっとここまで来ることが出来た」そう思う。
血の滲むような努力と強い意志が無ければ、今頃自分は、兵 の郎等か、良くて貴族の家人 くらいでしか無かったであろう。世間には謗る者も多いが、大抵は、親や先祖のお陰で大した努力もせずに地位を得ている者か、逆に、浮かび上がる望も無く、不満を持ちながらも現状に甘んじることを余儀無くされている者かのどちらかである。己に才覚が無い事に目を瞑り、他人を批判することで憂さを晴らしているだけでは無いか。満仲はそう思う。
貴族としての地位を回復し、弟達にも恩恵を与えて来た。正四位下 と成った今、子や孫には蔭位 の恩恵を与えることが出来る。官人 としての道は開いてやった。少しの才覚を持っていれば、参議くらいには成れるだろう。その為に必要な財は十分に残してやることが出来る。数え上げれば切りが無い。満仲は自分の人生を振り返り満足していた。
そのはずだった。ところが、花山帝出家騒動の直後から、妙に心が疼くことが有る。刺さったことも忘れて、そのまま皮膚表面が治癒してしまったが、皮膚の内側で腐り始めた刺。比喩的に言えば、そんな疼きが満仲の中で芽生えていた。
そもそも、満仲の出世欲の原点と成ったのは、「皇孫として生まれた身が、このまま地に埋もれてたまるか」という強い意識である。
高明 に臣従する切掛けとなったのも「同じ皇孫として、同じ源氏として麿に力を貸してはくれぬか」と言われたことである。当時の高明は、若くして出世を重ねる、輝ける源氏の星であった。
「この方に着いて行けば、きっと道は開ける」満仲はそう思った。ところが、藤原千晴が、多くの郎等を率いて上洛し、従者 として高明に仕えるようになって、状況が変わった。
当時の満仲はと言えば、やれることは何でもやって財を稼ぎ、やっと郎等達を養っている状態であり、とても、高明にべったり着いている訳には行かなかった。同じ兵 として対抗心も有り、嫉妬心も芽生えていた。
高明も、次第に千晴を寵愛するようになる。『小藤太 はいずこにおる』 そう聞かれるのが不快だった。もちろん、そんな気持ちは微塵も顔に出さなかった。『さて、先程までそこにおりましたのですが。探して参りましょう』そう言って高明の前を離れる。
高明が将来の側近として考えているのは千晴であり、自分は都合良く使われるだけだ。
そう結論付けた時、摂関家と組んでの高明追い落とし計画が始まった。当時ばらばらだった摂関家の意思を纏めようとする伊尹 を助ける動きもした。伊尹の指示を受ける為の窓口となっていたのが兼家であった。
高明追い落としに付いての後ろめたさは無い。だが、花山 帝を退位に追い込む手助けをしたことに付いては、事情が少し違う。そもそもの原点である皇孫としての誇り。それとの矛盾が、満仲の深層の中で解消されていないのだ。
忙しさに紛 れている時は良いが、一人に成った時、突然、何とも言えないやりきれなさが満仲を襲う。
そのうち悪夢を見るようになった。花山帝とは関係の無い夢だ。昔、殺した者の表情が突然夢に現れ、思わず声を出して、自分の発した声に驚いて飛び起きる。宿直 の者が慌てて「いかがなさいましたか?」
と声を掛ける。
「いや、何でも無い。宿直 は要らぬ。今宵は下がって休め」
「はあ、しかし」
「喧 しい。命 じゃ。下がれと申したら下がれ」
宿直 の者は、仕方無く下がって行く。
「何じゃ、この夢は。身の程知らずめが、逆恨みしおって。殺される者は、初めから殺されるべき運命 の許 に生まれ付いておるのじゃ。麿を恨むな 。運命 を呪え」
当時、もちろん、自分の無意識が夢を見させるなどとは誰も思わない。当時の考え方としては、生霊や死霊が何らかの意思を持って、相手の夢の中に現れるのである。
寝汗をびっしょりかいている。宿直 の者は下がらせてしまったので、侍女を呼び着替えを持たせ、汗を拭わせる。
そんな事が何度か有り、落ち着かなく成っていた満仲は、遂に決心をして或る高僧に相談する。ところがその高僧、極楽往生を説く一方で現世利益の話をする。
小難 しい仏教用語を羅列しているが、要は、財を使って功徳を積めば、煩悩から逃れ、極楽に行くことが出来ると言っているだけだ。琴線に触れるところが全く無い。挙げ句の果てには、寺の建立や寄進を盛んに勧める始末。それで全ての悩みは解消され、死霊も夢には出て来なくなると言う。
取り澄まして説法を語っていた時とはまるで別人のように俗っぽい表情と成って、満仲に、寺の建立や寄進を勧めて来る。満仲が数多く知る、策謀好きで欲の深い者達と何ら変わり無い印象しか受けなかった。
丁寧 に礼を言い、多めの謝礼を渡して、満仲は寺を後にした。
「寺の建立、或いは寄進のこと、是非お考えなされ、煩悩を除くには、功徳を積むことが肝要ですぞ」
別れ際に高僧はそう重ねた。
「あれは、僧衣を着た公卿 でしか無いな」
満仲はそう思った。
満仲は高僧に救いを求めたが、期待は見事に裏切られた。『僧衣を纏った公卿』にしか見えなかった高僧。
『いっそのこと、あ奴にでも聞いてみるか。恥にはならんからな』そう思い付いた。『あ奴』とは、五男のことだ。多くの公家達が子のひとりを僧籍に入れる風潮に成っていた。そして満仲も、兵 にするには頼りない気弱な五男を、叡山に入れていた。今は源賢 と名乗る修行僧に成っている。
「夜が明ければ、もはや出番では無いと言うに、未練な月よのう」
花山帝は自らの未練を嘲笑うかのように、そう呟いた。
出迎えた
「どうぞ、あれへお渡り下さいませ」
天台座主の正装を身に纏った尋禅が、手を差し伸べて座を勧める。一瞬立ち止まった
「お
「何か」
「実は、仏門に入ることを父に話しておりません。父に無断で剃髪することは親不孝では無いかと思い至りました。最後になる俗世の姿を見て貰い、ひと言、父に断って参りたいと思います」
「馬を調達して往復するつもりですので、長くは掛かりません。
そう言って再び低頭すると、
花山帝は、一瞬、声も出なかった。既に一部剃刀が入っているので、身動きも出来ない。
遠くからその光景を見ていた満仲は、ふっと溜め息を吐いた。実は、道兼が
「多少手荒なことをしても良い。絶対に止めろ」
と満仲は命じられていた。満仲は直ぐに道兼の後を追った。
表門に四人、裏門に四人、そして、
道兼が取り乱した様子で慌ただしく回廊を走り出て来た。
「先にお舘にお連れせよ」
追うように出て来た満仲が、
「
皇孫であることを誇りとし、そんな身が他家の使用人などに身を落としてたまるかと言う想いで必死に生きて来た男である。
『
そんな考えが満仲の頭を
花山帝はわずかな望みを持って、道兼が戻るのを待っていた。自分ひとり、永遠の闇の中に放り出されたような恐怖が襲って来た。本尊の薬師瑠璃光如来像が、まるで閻魔大王のように背後から迫って来る。尋禅を始めとする僧達の表情も無機質で、この世の者では無いように見えた。
いつまで待っても道兼は戻って来なかった。いつの間にか、満仲達の姿も無い。
「
青く剃り上げられた頭を
花山帝退位の
忙しいが、充実した日々である。「やっとここまで来ることが出来た」そう思う。
血の滲むような努力と強い意志が無ければ、今頃自分は、
貴族としての地位を回復し、弟達にも恩恵を与えて来た。
そのはずだった。ところが、花山帝出家騒動の直後から、妙に心が疼くことが有る。刺さったことも忘れて、そのまま皮膚表面が治癒してしまったが、皮膚の内側で腐り始めた刺。比喩的に言えば、そんな疼きが満仲の中で芽生えていた。
そもそも、満仲の出世欲の原点と成ったのは、「皇孫として生まれた身が、このまま地に埋もれてたまるか」という強い意識である。
「この方に着いて行けば、きっと道は開ける」満仲はそう思った。ところが、藤原千晴が、多くの郎等を率いて上洛し、
当時の満仲はと言えば、やれることは何でもやって財を稼ぎ、やっと郎等達を養っている状態であり、とても、高明にべったり着いている訳には行かなかった。同じ
高明も、次第に千晴を寵愛するようになる。『
高明が将来の側近として考えているのは千晴であり、自分は都合良く使われるだけだ。
そう結論付けた時、摂関家と組んでの高明追い落とし計画が始まった。当時ばらばらだった摂関家の意思を纏めようとする
高明追い落としに付いての後ろめたさは無い。だが、
忙しさに
そのうち悪夢を見るようになった。花山帝とは関係の無い夢だ。昔、殺した者の表情が突然夢に現れ、思わず声を出して、自分の発した声に驚いて飛び起きる。
と声を掛ける。
「いや、何でも無い。
「はあ、しかし」
「
「何じゃ、この夢は。身の程知らずめが、逆恨みしおって。殺される者は、初めから殺されるべき
当時、もちろん、自分の無意識が夢を見させるなどとは誰も思わない。当時の考え方としては、生霊や死霊が何らかの意思を持って、相手の夢の中に現れるのである。
寝汗をびっしょりかいている。
そんな事が何度か有り、落ち着かなく成っていた満仲は、遂に決心をして或る高僧に相談する。ところがその高僧、極楽往生を説く一方で現世利益の話をする。
取り澄まして説法を語っていた時とはまるで別人のように俗っぽい表情と成って、満仲に、寺の建立や寄進を勧めて来る。満仲が数多く知る、策謀好きで欲の深い者達と何ら変わり無い印象しか受けなかった。
「寺の建立、或いは寄進のこと、是非お考えなされ、煩悩を除くには、功徳を積むことが肝要ですぞ」
別れ際に高僧はそう重ねた。
「あれは、僧衣を着た
満仲はそう思った。
満仲は高僧に救いを求めたが、期待は見事に裏切られた。『僧衣を纏った公卿』にしか見えなかった高僧。
『いっそのこと、あ奴にでも聞いてみるか。恥にはならんからな』そう思い付いた。『あ奴』とは、五男のことだ。多くの公家達が子のひとりを僧籍に入れる風潮に成っていた。そして満仲も、