第三章 殺生放逸の者が…… 第三話 地獄に落ちる者

文字数 7,204文字

 誰にも吐露した事の無い、満仲の本音である。皇孫である源氏の己が、本来臣下の家系であるべき藤原に仕えて来たことへの屈辱と自己矛盾とも言うべき心理である。満仲は実利の為に誇りを抑えて来た。だが、仏教などが言う綺麗事に接すると、憤りが湧き出して来る事が有るのだ。
 源賢(げんけん)の表情が悲しげに曇る。 
「仏法が邪法であるとお思いですか?」
と満仲に尋ねる。
「そこまでは申さぬ。だが、全ての衆生を救うなどと申しながら、結局は財と権力が無ければ成仏も出来ぬのでは無いか。財と権力さえ有れば、ほかで何をしようと成仏でき、一族の繁栄も得られるでは無いかと申しておるのじゃ」
「父上があの御一族に着いてそのようにお考えとは、思ってもみませんでした」
「だから、他の国のいずれの時代かの逸話と断ったであろう。別に誹謗している訳では無い。現実をどう見るかと問うておるのじゃ」
「仰ることは分かります。確かに今、寺院は多くの荘園を持ち、又、権門からの多額な寄進を得て成り立っております。又、霊場には腰に大太刀を吊った僧俗が跋扈し、喧嘩三昧も度々のこと。なればこそ、今は像法(ぞうほう)の時代だと考えるのです。先程、像法とは影だけが伝わる時代と申しましたが、詳しく申せば、仏法と修行者は存在するが、それらの結果としての(あかし)が滅する為、悟を開く者は存在しない時代と言うことです。像法とは、正法に似た仏法と言うことで、“像”には『似る』と言う意味が有り、仏法に似て非なるものと言うことです。なればこそ、貴人は莫大な寄進をしたり寺院を建立したりして仏心厚きように装っておりますが、真の信心を持たぬ方も多数御座いますし、僧体を取りながら俗物と変わらぬ者も少なくありません」
 満中は源賢(げんけん)の本音を垣間見たと思った。
「因果に付いては何と答える?」
と次の問いを放つ。
「仏法とは、生病老死(しょうびょうろうし)の苦悩から脱し、悟を開き、涅槃(ねはん)に至る道で御座います。それに至る方法と手順をお釈迦様が説かれたものです。確かに、俗世で代々栄華を誇っている家系は御座います。その行いが例え正しく無くとも、それは厳然たる事実です。しかし、お考え下さい。地位が高く多くの財を持っていれば、それらを失うのが恐ろしいはず。病に因ってその職を辞すようなことになれば、直ぐに他の誰かに取って代わられます。まして、死を迎えれば、栄華、財産、名誉。その全てが一瞬にして失われる訳です。あの方々の苦悩は凡夫よりも遥かに深いのです。
 仏の教えでは、あらゆるものへの執着を捨て、己を無にすることによって悟が開けると説いております。あの方々はあらゆるものに執着しており、失うことを恐れているのです。およそ、悟とは真逆の心根です。世俗的には栄華を誇っているかに見えても、心の中は闇、苦悩は深いと思います」
「ものは言いようよのう。南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行け、今までと同じ豪奢な営みが出来る上に苦悩も無くなると説いておるから、寄進もし、寺も建てるのではないか。さすがに死ぬ前に唱えるだけで良いとは思うておらんようで、普段から念仏を唱え、寄進をしたり、寺院を建立したりして功徳を積んでいるつもりなのであろうよ」
「貴族は声を出して念仏を唱えたりは致しません。観想念仏と言って弥陀のお姿や浄土を思い浮かべ、心で念じるのです。称名(しょうみょう)は庶民に広める為に考案されたものです」
「そうであったか。それすらも知らなんだ。
『世俗的には栄華を誇っているかに見えても、心の中は闇、苦悩は深い』者達の端くれには、麿も入るのであろうのう」
「そもそも、父上は仏法などには全く関心の無い方と思っておりました。こうしてお話を聞いて頂けることは無上の慶びでは有りますが、何がそうさせたのでしょうか?」
 満仲が戸惑ったように目を泳がせた。
「うん? …… まあ良い。今それを聞くな。それより、仏道の修行とは真逆の考えの者が、念仏で阿弥陀の浄土へ行けるのか?」
 そう聞いた。
「そもそも浄土教は古来より存在しますが、法華経の中には阿弥陀様が二箇所登場します。化城諭品(けじょうゆほん)第七と薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)第二十三です。
 化城諭品(けじょうゆほん)第七には『西方に二人の仏が在り、一人を阿弥陀といい、二人目を度一切世間苦悩(どいっさいせけんくのう)と言う』と有り、薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)第二十三では「女人在って、この経典を聞いて説かれた通りに修行したならば、ここで命を終って、そして安楽世界の阿弥陀仏の偉大な悟りを求める修行者衆が取り巻いて住んでいる場所に行き、蓮の花の中の宝座の上に生まれるだろう』と女人成仏を説いた部分に阿弥陀(あみだ)御名(おんな)が御座います。法華経(ほけきょう)に有るのはこれだけですが、念仏は『無量寿経(むりょうじゅきょう)』と言う経典に基づく考え方です。無量寿経には、過去、久遠(くおん)の昔、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)が無上なる悟りを得ようと志し、生きとし生ける者を救済する為の本願として四十八願を立て、途方も無く長い間修行を重ねた後、本願を完成して、今から十劫(じっこう)という遥か以前に阿弥陀仏と成り、現に西方の極楽という世界、つまり浄土に住して説法していることを述べ、次いで、極楽浄土の優れた室礼(しつらい)を詳しく描写し、この極楽への往生を願う人々を上・中・下の三輩に分け、念仏を中心とした種々の実践法に因っていずれも浄土に往生し得ることを説いているものです。善行も戎も守り切れない下輩の者は、例え僅かな回数でも、一心に念ずれば往生が定まると説かれています。そしてお釈迦様は、偈文(げもん)を読み、教えを聞き、阿弥陀仏を敬い、極楽への往生を勧めるのです。さらに浄土に往生した聖なる者たちの徳を説かれる。 次にお釈迦様は弥勒菩薩に対して、煩悩の有る世界、これを穢土(えど)と申しますが、そこに生きる衆生の苦しみの理由を、三毒・五悪に因ると示し、誡めます。続けて弥勒菩薩に、そのままではその苦しみから逃れられないことを説き、極楽に往生することが苦しみから逃れる方法であると説かれます。それは、ただ無量寿仏の名を聞いて、たった一度でも名を(とな)えれば、つまり念仏すれば、功徳を身に供えることが出来ると説いたと書かれています。この教えを聞いたものは、後戻りすることは無く、必ず往生出来ると説かれます。無上功徳の名号(みょうごう)を受持せよと勧め、時が流れ一切の法が滅しても、この経・無量寿経だけは留め置いて人々を救い続けると説かれているのです」
 満仲が首を捻った。
「うん? 釈迦が『今まで面倒なことをあれこれ申して来たが、阿弥陀は吾よりも優れているので、実はその名を称えるだけで極楽往生出来るのだ』と言ったと書いてあるのか?」
と問う。
「良くぞお気付きになりました。仏法とはお釈迦様が創始したものです。その主体である釈迦が『私の説いて来たことは分かり難かった。簡単に出来る方法が有るから、今後は阿弥陀に従いなさい』などと申したら、自ら仏法の主体としての立場を放棄したも同じことです。
 現に、この無量寿経を学ぶ者の一部には、唯一の久遠仏は阿弥陀如来であると考える者達が出て来ております。もちろん、根拠は無量寿経です。これが、先程父上が尋ねられた如来が複数御座(おわ)すことの疑問へのひとつの答となりましょう。
 仏法とはお釈迦様が開いた教えです。仏典、即ちお経とは、お釈迦様の遺された教えを、弟子達が結集(けつじゅう)を開き纏め、書き残した物です。結集(けつじゅう)は、百年後から百年或いは数百年ごとに数回行われました。又、原典は天竺(てんじゅく)に於いて梵語で書かれましたが、周辺諸国を経て唐などに伝わり漢訳され我が国に齎された物です。その間に、実際にはお釈迦様が仰っていないことが入り込んで来る余地は十分考えられます。これは何も無量寿経に限ったことでは無く、数ある経典の中で、何を基本として見るかで立場が分かれて行きます。我等が始祖・伝教大師(でんぎょうだいし)最澄(さいちょう))様は法華経こそ根本原理と説かれております」
「ふ~ん。その伝教大師様とやらは、間違ってはおらぬとそなたは思っていると言うことか」
「はい」
 源賢(げんけん)は、父が大きな悩みと苦しみを抱えていることを察していた。元々、父には悪評が付き纏っている。そして、それを気にも止めないのが、また父であった。仏法の話を聞こうとすること自体珍しいことであり、源賢(げんけん)は、そこに父の悩みと苦しみの深さを見た。  
『父が悩み苦しんでいるのであれば、僧籍に在る自分が是非救いたい。いや、救わなければならない』と思った。だが、説得しようとすることは逆効果になる。父はそう言う人だ。今は、父の疑問にひたすら答えてやるのみ。そう思っていた。
「最後にひとつ聞く。麿は地獄に落ちる者と思うか?」 
 やはり、悩み、苦しみの元はそれであったか、と源賢(げんけん)は思った。
「本来仏教では、どこかかに『地獄』という場所が有るとは言っておりません。自らが生みだす苦しみの世界、それが地獄です。地獄に落ちると言う発想は、極楽浄土に行き成仏することとの対比として、大無量寿経の中に、「従苦入苦従冥入冥(じゅうくにゅうくじゅうみようにゅうみょう)」とお釈迦様が仰ったと書かれております。
 即ち『苦より苦に入り、闇より闇に入る』と言うことで、この意味は『この世で苦しんでいる人は、死んだ後も地獄の苦を受ける。この世の自業苦(じごく)から死後の地獄へと堕ちて行く』ということです。
 だから、生きている今生(こんじよう)で阿弥陀仏の本願に救われて自業苦(じごく)業苦楽(ごくらく)にならないと、死んで極楽には往けないと説いています。つまりは『阿弥陀を信じ、念仏を唱え、全てをお任せすれば、極楽往生出来るが、そうしなければ地獄に落ちる』と説いているのです」
「生きている間の行いが良ければ極楽往生出来、行いが悪ければ地獄に落ちると言うことでは無く、単に阿弥陀仏を信じ念仏を唱えるか否かで、地獄行きか極楽行きかが決まると言うことか? 公卿達が飛び着く訳だ」
絡繰(からく)りが分かったぞ』とばかりに満仲がほくそ笑む。
「公卿の方々ばかりでは無く、これは、庶民にも受け入れ易いので、今、浄土教は盛んになっております。庶民、特に賎民などは、食べ物も満足に得られず、毎日が苦しいことばかり『なんまいだ』つまり『南無阿弥陀仏』と唱えるだけで、極楽往生出来るなら、こんな苦界から脱して、早くそちらに行った方が良いとさえ思うようになるでしょう。浄土教は、難しいと思われていた仏教を庶民に近付けました。それは確かです」
「文字も読めぬし、説法を聞いても意味の分からん者達に取っては、確かに分かり易い教えであろうのう」
「阿弥陀教の説く処は、末法になると、修行して悟を開ける者は誰も居なくなる。もはや、人が己自身の力で成仏することは不可能となる。唯一の道は、阿弥陀如来を信じ、全てをお任せして、唯ひたすら、念仏を唱えるより他に方法は無いと言うことです」
「ふふふ。麿も念仏を唱えれば極楽往生出来ると言うことか。愉快じゃ」  
 満仲はそう言って笑ったが、心からそう思っているとは思えない。
「しかし、どうでしょうか。そもそも仏法とは己を無にして苦悩から脱する法で御座います。極楽へ行く為の法ではありません。悟りを開き涅槃(ねはん)に入ることと、衆生救済が目的です。天竺(てんじゅく)の小国に生まれた人である王子が、生病老死に起因する苦悩から脱する為出家し、最初は、荒行を重ねますが、それが無意味と知り、ひたすら己を見詰めます。
 そして、己を無にし、あらゆる執着を絶ち切ることで初めて悟りを開く訳です。菩提樹の下で瞑想し、無我の境地に至る迄に襲って来る数々の煩悩。それが、いわば地獄です。その煩悩を絶ち切り、悟を開き涅槃に入ることで浄土に至る。地獄も浄土も人の心の中に有る。そう思います」
「言うことは尤もだが、それは、覚悟を以て修行しようと思う僧にしか出来ぬことであろう」
「はい。そこで仏法には方便と言うものが御座います」
「ふふ。確かに『嘘も方便』と言う言葉が有るな」
「一般には相当誤解して使われておりますが、到底無理と思ってしまうことを、段階を踏んで理解させる手法のことです。法華経の前半を迹門(しゃくもん)、後半を本門と申しますが、この迹門は比喩・例え話で構成されております。
 例えば『三車火宅の(たと)え』これは、或る長者の家が火事になりますが、遊びに夢中な三人の童達は、火事に気付かず逃げようとしません。そこで、長者は、それぞれが欲しがっている玩具が外に有る。早く行ってそれで遊びなさいと嘘を言って童達を逃がします。童達を救う為についた嘘、これを方便と申します。意味としては、長者、即ちお釈迦様は火事に気付かない童達。即ち、仏の道を知らぬ衆生を救う為に仮の教えを説くことが有る。迹門ではそんな例がいくつか語られます。しかし、童達の欲しがる玩具と言うのが、羊の引く車、鹿の引く車、牛の引く車で、羊や鹿の引く車など我が国には御座いませんから、話としては分かっても心に響くところまでは参りません。当時の天竺(てんじゅく)では、庶民でもなるほどと感心するような例え話だったのだと思います。そこで、手前は例えば「化城(けじょう)(たと)え」と言う例えを民に語る時、こんな風に変えて話します。
「長旅が初めての子を連れて坂東から上洛しようとする人がいます。都までの実際の距離や歩かねばならない日数を知ったら、童は恐れを成して、行きたくないと駄々を捏ねることでしょう。そこで、その人は、富士を指差し、あの麓に都が有る、『さあ行こう』と子を促します。富士は坂東から良く見えますし、高い山は、より近く感じます。子は行こうと言う気になって歩き出してくれます。富士の麓に都は有りません。嘘をついた訳です。しかし、富士まで辿り着く頃には、童も旅に慣れ、旅の楽しさも知って足も丈夫になっていることでしょう。本当の都はもう少し先に有る。もうひと頑張りしよう。
 最初から全てを話せば尻込みをして歩き出そうとしない人を導く為の方法。それを方便と申します。地獄、極楽も手前は方便と捉えております」
「輪廻転生に寄り魂が地獄に落ち、永遠に彷徨い続けることは無いと申すか」
「永遠に彷徨う魂などと言うものは、仏法では否定されます。輪廻転生とは、天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄と言う六道(りくどう)に生を繰返すと言うことで、それ自体が苦と言うことになります。しかし、これは当時の天竺(てんじゅく)で広く信じられていた考え方で、他の宗教でも多く取り入れられていた考え方です。解脱した直後にお釈迦様はこう仰いました。『(しょう)は尽きた。清浄な行いは成し遂げられたのだ。成すべき事は成された。もはや生まれ変わる事は無い』これは、当時の天竺(てんじゅく)で常識だった輪廻転生の考え方を、悟に因って否定した言葉であると思います。迷いの原因をはっきり突き止められたのです。苦界を彷徨い続ける原因は己自身の中に有りその原因を滅却すれば、迷いの世界は消え、輪廻転生など存在しなくなる。それを見極められたのです。これを以て、仏法とは、解脱し、果てしない輪廻転生から逃れる法と思う方もおられますが、そもそも、天竺(てんじゅく)に有った輪廻転生の考え方を否定したものと手前は考えます。仏法の根本である三法印に立ち帰って見ればそれは明らかです。諸行無常、諸法無我、涅槃寂静を三法印と申しますが、
 三法印の一。世の中の一切のものは常に変化し生滅して、永久不変なものは無いと言うことであれば、永遠に輪廻転生を繰り返す魂など最初から有り得ません。また、諸法無我、即ち、あらゆる事物には、永遠・不変な本性である『我』が無いということでもあります。また、三法印に『一切皆苦』を加えて四法印と呼ぶこともありますが、楽もその壊れる時には苦となり、不苦不楽も全ては無常であって生滅変化を免れ得無いからこそ苦である、と言うことです」
「麿が地獄へ行くことは無いのか?」
と満仲が聞く。有るか無いかを知りたいのでは無い。源賢(げんけん)がどう答えるかを測っているのだ。
「全ての衆生は成仏出来ます。地獄は人の心の中に御座いますので、あらゆる執着を断ち切り、己を見詰め直し、清浄な心に至れば、涅槃(ねはん)に入り、そこが浄土となりましょう。正しく見、正しく思い、正しい言葉で話し、正しく行い、正しく生活し、正しく務め、正しく念じ、正しく心を整える。これを、正見(しょうけん)正思(しょうし)正語(しょうご)正業(しょうごう)正命(しょうみょう)正精進(しょうしょうじん)正念(しょうねん)正定(しょうじょう)と申します。それが、悟りに至る道で御座います」
「いきなり難しいことを申すな。『正念場』と言う言葉だけは知っておるが、あとのことは、麿に出来る訳無かろう。しかし、話は面白く聞いた。そなたは、(つわもの)にするには弱過ぎると思い寺に入れたが、麿の見立て違いであった。厳しい修行に堪え、良う学んでいるようじゃ。弱いのでは無く、優しい心根を持っておっただけであったか」
 満中は柔らかい笑みを湛えて、そう言った。
「父上、仏門にお入りになりたいと思われているのですか?」
 源賢(げんけん)は思い切って尋ねてみた。満仲が源賢(げんけん)を見て今度は不敵に笑う。 
「戯け。己の親がどのような者か分からんのか。正見、正思、正語、あと、なんじゃったかな? そんな面倒なこと、麿に出来ると思っておるのか」
 強がりなのか、いつも満仲が見せている自信と信念が顔を覗かせている。
「熱心に聞いて頂けたと思いましたが」
 源賢(げんけん)は少し気落ちした様子で、そう言った。
「もし、地獄と言うものがあって、そこに落ちねばならんとしたら、どんな所かと思って聞いてみた迄じゃ。悪行と言われることも数々やって来た。今更、浄土へ行きたいなど虫の良いことは思うておらぬわ。だが、その悪行のお陰でそなたの伯父達や兄弟達は地位を得、財を成しておる。己の来し方を振り返って悔いることなど何も無いわ。一切皆苦と申したな。同じ苦なら、残すべきものを残した上での苦の方が良いであろう。そなたの申すような生き方をしている者がどこにおる。今の世には、悪人か何も出来ぬ者かのどちらかしかおらぬわ」
 父が強がりを言っていることは明白だった。かと言って、打ち(ひし)がれた父を見たかった分けでは無い。源賢(げんけん)は微笑みを湛えて、父に(いとま)を告げた。
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