第三章 殺生放逸の者が…… 第四話 悪夢

文字数 3,888文字

 また夢を見た。誰も()も笑顔。中でもこの日の主役である高明(たかあきら)は、今日ばかりは晴々しい笑顔を振り撒いている。
 白の合わせの直衣(のうし)姿、(くれない)(あい)を掛け合わせた二藍(ふたあい)の裏地が袖口から覗いており、二藍の紅の色が比較的濃い為、白い表地に紅が透けて、通常は若年の貴族が着る、いわゆる『桜の直衣(のうし)』のような華やかさを見せている。五十四歳になるはずだが、その整った顔立ちと発する若々しい雰囲気の為、余り違和感は無い。立烏帽子(たてえぼし)を被り右手に扇を持って、その扇で時折首の辺りを軽く叩いている。十月に正二位(しょうにい)に上り、十二月十三日に、右大臣から左大臣に転じた祝いの宴。
 太政大臣と成った藤原実頼が上に居ることは居るのだが、高齢である。実頼とは会談を重ね、お互いの立場の調整は取れている。後は娘の夫である為平親王(ためひらしんのう)が立太子されるのを待つばかり。高明の人生も最後の仕上げを待つばかり、となっている。
 為平親王の立太子を支障無く運ぶ為、高明が譲歩し、実頼が太政大臣と成り最後の花道を飾ることを了承したのだ。その実頼も高明の隣で笑顔を見せている。大納言から右大臣に転じた師尹(もろただ)、大納言・在衡(ありひら)、中納言から大納言に転じた源兼明(みなもとのかねあき)、参議から権大納言に躍進した伊尹(これまさ)、中納言・師氏(もろうじ)ら錚々たる顔ぶれが座を連ねている。
 源満仲、藤原千晴の両人も末席を与えられてはいるが、従者として公卿達に奉仕することで、座を温める暇など無い。嬉々として公卿(くぎょう)達に奉仕する千晴を横目で見ながら、満仲は実頼を見た。屈託無い様子で、高明と談笑している。伊尹はと言うと、甥に抜かれてしまって甚だ面白く無いはずの伯父・師氏の機嫌を取ろうとしてか、盛んに杯を勧めている。普段、ひとの機嫌を取るような男では無いが、今は摂関家の結束が何より大事と思っているのだろう。今が盛りで、間も無く運命が暗転することなど、高明自身は知る由も無い。それを知っている摂関家の者達は見事に腹の内を秘して、笑顔を振り撒いているのだ。
 ふと見ると、父・経基(つねもと)が居る。
『なぜ父がこの席に?』と思ったが、次の瞬間、そこは生家の父の居室に変わっていた。
「太郎、物要(ものい)りが有ってのう。少し回してくれぬかな」
 済まなそうに見えて実は強かな表情を見せて父が言った。
「何を仰っているのですか。父上の解き放ちの為に、麿がどれだけ公家達に頭を下げて回ったかご存知ですか。公家達を動かせる程の物は持って行けませんでしたが、それでも、手土産くらいは持って行かねばならなかったので、財など全く残ってはおりません。母上や弟達をこの先、どのように養って行ったら良いか悩んでいるくらいです」 
「何を吝嗇(りんしょく)なことを申しておるのじゃ。大分貯め込んで居るのではないか?」
 いつの間にか、場所は多田の舘に変わっている。『父が尋ねて来たのか』と思う。
「父上」
と語り掛けようとすると、前に座っているのは無名(むみょう)と名乗った千晴である。
「二度と麿の前に現れるなと伝えたはずだ」
 そう強く言った。
「救ってやろうと思い、せっかく出家を勧めたのに、拒んでいるようじゃな」
 千晴は静かに言う。
(なれ)に指図されるようなことでは無い!」
 思わず満仲は怒鳴った。
「満仲。仏敵・第六天魔王と成ったか。かくなる上は、吾、阿修羅と成りて(なれ)を討つ」
 満仲は笑った。
「痩せ坊主が何を申すか。返り討ちにしてくれるわ」
 太刀を掴もうとした。だが、手元にそれが無い。狼狽して探すが、どこにも無い。千晴を見る。上半身肌脱ぎした千晴の体は、筋骨隆々としている。そして、その姿が仏法の守護神・阿修羅へと変わって行く。『はっ』として一歩退くが、その時、己の手に抜き身の太刀が握られていることに気付いた。
 夢中で斬り掛かる。『ぎゃー』と言う悲鳴が上がった。倒れたその姿を見て、満仲は凍り付いた。倒れているのは、千晴でも阿修羅神でも無かった。
「麿は帝を弑逆(しいぎゃく)してしまった」
 倒れているのは花山帝であった。全身の力が一挙に抜けると共に、真っ暗になった。何も見えない。暫く経って、上から声がした。
『満仲。やってくれるであろうのう』
 見上げると、兼家が、仁王立ちになって、見下ろしている。
『はい。邪魔が入らぬようしっかりと護衛致します。もし、奪おうとする者が現れた時は、誰であろうと斬り捨てます』
『もし、それでも奪われそうになるか、或いは、飽くまで出家をやめて戻ると仰せになり、言うことを聞いて頂けぬ時は、分かっておるな』
『それだけはご容赦下さい』と言おうと思った。だが、その言葉が口から出て来なかった。満仲は黙って頭を下げた。
『貴様は地獄に落ちる。分かっておるな満仲。貴様の行く所は地獄しか無い』
 斬り捨てた、あの賊の顔が迫って来た。肩から斬り下げた斬り口からは血が滴り落ち続け、目と口許からも血が流れている。
『吾のことも忘れるなよ』
 そう言って別の顔が迫って来た。そしてまた別の顔が。いずれも斬った覚えの有る顔だ。斬ったのは賊ばかりでは無い。又、個人として恨みの有る者とは限らなかった。
『わあ~!』
と叫んで、満仲は太刀を振り下ろした。ガツンと(やいば)が何かに食い込んだ感触が有った。体を押さえ付けられ、
「殿!」
と叫ぶ複数の声が聞こえた。衝立(ついたて)に食い込んだ太刀(たち)が目に入った。そして、その下には、郎等(ろうとう)の蒼白な顔が有った。何が起きたか理解出来る迄に五つ数える程の時が掛かった。悪夢を見て声を出し、無意識のまま起き上がって、驚いて飛び込んで来た郎等(ろうとう)に斬り付けたのだ。郎等は腰を抜かして後ろに倒れた為、命拾いした。更に、運良く後ろに衝立が有ったお蔭で(やいば)を受けずに済んだのだ。昔から仕えてくれていた郎等で、老人であった。
『衝立が無ければ殺していた』
 そう認識するのに更に少しの時を要した。初めて人を斬った時、顔に浴びた返り血の感触が蘇った。血の臭いに(むせ)た記憶。(つか)を握ったまま硬直した指を一本一本伸ばしながら外した修羅の記憶。満仲の中でそうした生々しい感覚が渦を巻いていた。
「済まぬ。悪夢にうなされた」
 満仲を押さえ付けていた郎等達が手を放し、膝を突いた。満仲も座り込み、手を突いて、
「済まぬ。許してくれ」
 斬り付けた郎等にそう詫びた。
 郎等に手を突いて詫びるなど、満仲の生涯で初めてのことであった。
「いえ、悪夢とあれば…… しかし、寿命が縮みました。悪夢を度々ご覧になるようですが、悪霊でも憑いているのでしたら、除霊せねば」
「いや、やはり地獄が我が心の中に有るようじゃ。もう大丈夫だ。皆下がってくれ」
 そう言われても、郎等達は戸惑っていた。取り敢えず、侍女に着替えを持たせ、本当に良いか満仲に念を押した上で下がって行った。この処の満仲の様子の異常には、郎等達も気付いていた。特に、昔から仕えていて、数々の修羅場を共に潜って来た郎等達の中には、同じ心の疼きを抱えている者も居た。(あるじ)同様、己も何かに祟られるのではないかと恐れる者も居る。
 翌日から満仲は、人を近付けず居室に籠ってしまった。

 四日目に、五人の妻達、息子達、郎等達とその妻達、侍女達などを全て広間に集めた。
「思う処有って、職を辞し、家督を嫡男の頼光に譲り、麿は隠居することにした。隠居後は仏門に入る」
 満仲がそう切り出した。頼光は四十歳に成る。母は嵯峨源氏で(さきの)近江守(おうみのかみ)源俊(みなもとのすぐる)の娘である。
 前年より、東宮・居貞(おきさだ)親王の春宮坊(とうぐうぼう)権大進(ごんのだいじょう)を努めている。位階は従六位下(じゅろくいのげ)であるが、居貞親王即位後の出世が見込まれる。郎等達から色々聞いていたので、頼光は驚かなかった。年も四十歳。十分、家督を継いで良い年頃である。
「我が家の今日(こんにち)の繁栄は、全て父上のお蔭。一同、どれほど感謝してもし切れないと思っております。しかし、この処の父上にはお疲れの様子が窺えると耳にしております。ご隠居されると言うことであれば、この頼光、及ばずながら、全霊を以て父上の作り上げて来たものを守り、更に積み上げて行く所存です。どうぞ、ご安心下さい」
 満仲は満足げに頼光を見る。
「そうか。それで安心じゃ。頼んだぞ」
「殿、ご出家されると言うことであれば、我等もお供しとう御座います」
 古参の郎等の一人が、そう申し出た。
「ならば、吾も是非」
 別の古参の郎等もそう申し出る。
「吾も、吾も」と言う申し出が続き、女達も含めて数十人になる。
 道兼に謀られ一人虚しく剃髪した花山帝の姿が脳裏を過ぎり、(ごう)の深い己の身にこんなことが起きて良いのかと思う。千晴の本心さえ察する余裕が己には無かったのだと気付き、(がら)にも無く、満仲の両の目から涙が溢れ出た。
 ひとつには、郎等達に取って満仲は案外良い(あるじ)であったのかも知れないし、もう一方では、満仲に従ってやって来たことに不安を感じていた者が多かったのかも知れない。
「分かった。源賢(げんけん)を呼んで相談するつもりじゃ。出家したい者は、その時一緒に話を聞くが良い。その上で決めよ」
 少しの後、やっとそう言う事が出来た。

 こうして、満仲と一族の出家の話は進み、郎等十六人及び女房三十余人と共に出家して満慶と称した。
 この出来事は『あの満仲が出家?』『そんなにも多くの郎等達が満仲に従ったとは……』そんな驚きと共に京人(みやこびと)口端(くちのは)に上ることになる。
 藤原実資(『光の君へ』ではロバート・秋山が演じていますね)は、その日記・小右記に『殺生放逸の者が菩提心を起こして出家した』と記している。

 尚、今昔物語集に
源賢(げんけん)が、天台座主・院源と仏法を満仲に説き出家させた」
という説話が有るが、この時の天台座主は、師輔の十男であり、兼家の異母弟である十九代・尋禅である。
「院源」はこれよりかなり後の二十六代座主としてその名が有る。 
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