第二章 有明の月(花山帝) 第二話
文字数 3,590文字
寛和二年六月二十日、右大臣・兼家の舘。満仲が兼家邸に呼び出される二日前のことだ。母家の西隣の塗籠で、兼家、長男の道隆、三男の道兼、そしてもう一人、尋禅と言う僧が額を寄せて話している。
塗籠とは物置で、普通、こんな所で話すことは無い。この頃の舘に壁は無いのだが、唯一塗籠だけは壁も天井も有る。人を近付けぬようにしてこんな所で密談をするのは、それだけの大事であるからだ。
尋禅は、山科に有る元慶寺の住職であり、天台座主でもある。そして何より、師輔の十男、即ち、兼家の異母弟に当たる。
先代の天台座主・良源は師輔の財政的支援を受けて比叡山を再興し中興の祖と成った。しかし、それは一方で叡山の世俗化を招き、師輔の子の尋禅が跡を継ぐことになったのだ。つまり、ここに集っているのは、全て摂関家・九条流(師輔の家系)の者達である。
数日前、尋禅は
「折り入って相談したいことが有るので、忍びで訪ねて貰いたい」
との文を、兼家から受け取った。それでこの日、洛中に用事を作ってそれを手早く済ますと、密かに兼家の舘に入った。
「然るお方が、仏門に入りたいと強く願っておられる。だが、それぞれの思惑から、周りの者達がそれを阻止しようとしておってな。麿としては、是非ともご希望を叶えて差し上げたいと思っておる。事は密かに且つ迅速に行わねばならん。手筈はこちらで整えるので、貴僧の手で是非」
『然るお方とはどなたで?』
などと馬鹿なことは、尋禅も聞かない。全てを察した。後は淡々と段取りを確認して行く。
六月二十二日、午刻過ぎ、満仲が到着する。
「お召しに寄り摂津守・満仲、御前に罷り越しまして御座います。右大臣様には、日頃、事の外お目を掛けて頂き、ご厚情に常々、深く感謝致さぬ日は御座いません」
と日頃の礼を述べ、丁寧に挨拶する。
「うん。今まで良う付いて来てくれた。麿もその方を頼りにしておるぞ」
上座で僅かに頷いた兼家が、満仲に言葉を掛ける。
「勿体無きお言葉。満仲、万感の喜びに御座います」
挨拶が済むと、兼家は尋禅に話したのと同じ言い方で事態を説明する。満仲もそれだけで全てを理解した。事の重大さに、さすがの満仲も息を飲む。しかし、『迷いを見せる訳には行かぬ』と腹を決めた。
「で、いつ?」
と兼家に聞いた。
「丑の刻に事を起こす。洛中は目立たぬよう少人数で進む。三条通りから鴨川を越えた辺りで待て」
「畏まって候う」
夕刻になって、満仲と郎等達は、目立たぬよう数人ずつ兼家邸を出た。
子の刻。兼家と道隆は紫宸殿の東に有る詰所に入った。今宵、蔵人の道兼は宿直の番に当たっている。
兼家は道隆に諸門の閉鎖を命じた。道隆は家人数人を率い、諸門を回り、右大臣の命として門を閉鎖するよう命じる。
道隆は、当時、右近衛中将兼春宮権大夫であり、衛門府とは無関係である。
右大臣の命とは言え、本来、衛士とすれば右衛門督、左衛門督にそれぞれ確認すべきことである。職掌違いの道隆の命に従う謂れは無い。しかし、この時代、公的な立場と私的な立場の区別は曖昧なのだ。右大臣の嫡男の命に敢えて逆らおうとする者は居ない。
帝の身支度は、他の者達を遠ざけて、道兼がひとりで整えた。予定通り、日付が変わった丑の刻には、出発の準備が整う。道隆の家人が確認に来て、直ぐ戻って行った。
異様な雰囲気の中、帝は、冒険に出掛ける前の子供のように興奮している。輿を担ぐ者の他、護衛は道隆の家人と従者合わせて五人。目立たぬよう最低限にした。
道兼が先導し、夜御殿の北に有る部屋、后妃が参上した時の控えの間でもある“藤壷の上”を通り、小戸から北廂に出る。そこから西北渡殿を通り切馬道に着けた輿に帝が乗り込もうとする。
「暫し待て」
と花山帝が立ち止まった。
「いかがなされました」
と道兼が不安そうに尋ねる。
「弘徽殿の女御(忯子)からの文を置き忘れた。取って参る。待て」
普段、肌身離さず持ち歩き、繰り返し読んでいた亡き忯子からの手紙を出掛けに置き忘れたことを思い出したのだ。戻ることに因り気でも変われば大変と、道兼は焦った。
「今が過ぎれば、人目を避けることに支障が出て参るに違い有りません。お心お察し致しますが、堪えて下さいませ」
そう言って道兼は泣き真似をした。尚も心惹かれる素振りを見せながらも、花山帝は仕方無く輿に乗った。
道隆が先導し、輿は、北に飛香舎(藤壷)南に後涼殿を見、その間を通って陰明門に至る。道隆が開門を命じ、
「このこと、他言無用」
と門衛の兵に厳しく命じる。
一行は内裏の築地塀に沿って北に進み、右折、玄輝門の前で左折する。左側が蘭林坊、右側は桂芳坊である。蘭林坊は桂芳坊と共に、大嘗会・釈奠などの儀式の際の用具を始めとする御物・書などが納められている倉庫のような建物だ。従って、深夜に人気は全く無い。真っ直ぐ進むと朔平門に至る。同じようにして門を抜ける。大内裏の北寄りは、倉庫や官庁が並び、夜間の人気は無い。東に行くと官人の通用門である上東門に当たる。
上東門は、大内裏の東面、陽明門の北。大宮大路に面し、土御門大路に向かう。他の門とは異なり、単に築地を切り開いただけのもので屋根が無い為『土御門』と呼ばれている。
帝一行が大内裏(官庁街)を出るのを見届けると、道隆は、兼家の待つ詰所に引き返した。
「無事、大内裏から出るのを確認致しました」
道隆が兼家に報告する。
「うん、ご苦労。したが、これからじゃぞ。気を抜くな」
と兼家が道隆を戒めた。
「はっ」
と返事をし、道隆は気持ちを入れ直した。
二人は先ず温明殿内侍所(賢所)に行き、八咫鏡が納められていると言う箱(実態は帝自身も含め、誰も中身を見ることは出来ないとされている)を接収。続いて清涼殿に向かい、草那芸之大刀(草薙剣)の形代、八尺瓊勾玉が入った箱を持ち出す。形代とは、模して造られ霊を降ろしたもので、単なるレプリカでは無い。
天皇の践祚に際し、この神器のうち、八尺瓊勾玉並びに鏡と剣の形代を所持することが皇室の正統たる帝の証しであるとして、皇位継承と同時に継承される。いわゆる『三種の神器』である。
因みに、ヤマトタケルの死後、草薙剣は伊勢神宮に戻ること無くミヤズヒメ(ヤマトタケルの妻)と尾張氏に寄って尾張国で祀られ続けたと言われる。これが熱田神宮の起源であり、現在も同宮の御神体として祀られている。
いずれにせよ、兼家は、皇位継承を正当化する為、三種の神器を皇太子の居所である凝華舎(梅壷)に移したのだ。
一方、帝の一行は、道隆の従者が松明の灯で辺りを照らしながらも、ひっそりと深夜の大宮大路を下り、三条大路に折れて東に進む。偶然一行を目撃する者が有ったとすれば、『物の怪』の一団と思ったかも知れない。
鴨川の東側の堤、三条大橋の袂に十人ほどの男たちが身を伏せている。叢雲に見え隠れする月の光だけが僅かに照らしている。その薄明の中、洛中の方角から三条大橋に向かって輿が近付いて来た。
『気乗りはしなかったが、他に方法は無かった』と満仲は思う。十四年もの間、兄・兼通に干されて出世に見放されていた兼家に従って来た。その兼家がやっと浮かび上がり、絶対的な権力を手中にする為の大博打に打って出ているのだ。この大博打に兼家が勝てば、満仲自身も更に出世するに違いない。貴族に上がる前の満仲であれば、体中の血が湧き上がって、何としてもやり遂げるという強い意志を以てこの任務に臨んでいたに違いない。だが、貴族としての地位を得、望みの摂津守に再認され、多田荘という私領をも手に入れた満仲の中で、強烈な出世欲は影を潜めてしまっていた。満仲は私領の経営に専念していたかった。だが、その地位を得る為に世話になった兼家の命を断る事は出来なかった。それが本音だった。
出立する時は雲間に隠れていた月がはっきりと姿を現し、辺りは明るさを増していた。
「止めよ」
と花山帝が声を上げた。先を急ぎたい道兼だったが、仕方無く列を止める。満仲達は不足の事態に備えて周囲に気を配る。御所から警護して来た者達は三条大橋から引き返してしまっているので、警護は、道兼の他には満仲とその郎等達のみである。
「いかがなされました」
と道兼が尋ねる。
「見るが良い。このように月が明るくては目立ち過ぎることよ。いかがしたものかな」
自分に酔っていた帝が我に帰り、剃髪することが億劫になって来たのだと道兼は感じ取った。
「そう仰っても、お取りやめなさることは、もはや難しゅう御座います。神璽や宝剣は、既に東宮(皇太子)様の許にお渡りになりましたので」
花山帝は、一瞬絶句する。これは現実なのだと始めて悟ったかのようである。そうしているうちに、再び月に叢雲が掛かって、辺りは少し暗くなった。
「朕の出家は成し遂げられるのであるな」
観念したかのようなひと言であった。
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