第一章 貴族への道 第三話

文字数 4,786文字

 満仲は財を成して郎等(ろうとう)も増やし、力を付けると共に、官職を得て出世の階段をも上り始める。 
 やがて(あるじ)・高明は従二位(じゅにい)・大納言にまで出世し、夢を叶える日が近付いているように思えた。

 そんな或日満仲は、藤原千晴(ふじわらのちはる)と言う男が新たに高明(たかあきら)従者(ずさ)となった事を知る。単に従者が一人増えたと言う事では無かった。藤原千晴は将門(まさかど)を討って大出世を遂げた下野(しもつけ)の豪族・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の嫡男で、相模介(さがみのすけ)の任が明けた後、大勢の郎党を引き連れて上洛して来たのだ。 

 これには少々経緯(いきさつら)が有る。秀郷と言う男、本来朝廷に反抗的で将門以上に朝廷が警戒している存在だった。しかし、乱に際し将門の勢いに恐れを成した朝廷は、背に腹は変えられず秀郷を押領使(おうりょうし)に任じて、将門追討の宣旨を与えざるを得なかった。そして秀郷らが将門を討ち果たした為、朝廷は秀郷を称せざるを得なくなった。そして、将門を討った事により勢力を増した秀郷が造反することを恐れて破格な昇進をさせたのである。
 朝廷には一つの思惑が有った。従四位下(じゅしいのげ)と言う破格の昇進をさせて京へ呼び付け、勢力を張る下野(しもつけ)から引き離そうとしたのだ。ところが、秀郷は(やまい)と称して上洛に応じなかった。再三の上洛命令を無視し遂に上洛しなかった為、太政官(だじょうかん)は秀郷に上洛を強く迫った。
 秀郷は応じなかったが、代わりに嫡男の千晴を上洛させると言って来た。嫡男を都に置く事で、謂わば人質代わりとして秀郷の動きを封じられると読んだ朝廷は、この条件を飲んた。ところが秀郷は、多くの郎等を千晴に付けて上洛させ、高明の従者(ずさ)としたのだ。
 将門を討った功を決める詮議の席で、高明は、秀郷に有利な献策をしてくれていた。多くの郎党を付けて上洛させることと、大納言・源高明の従者とすることで、秀郷は、藤原摂関家の策謀から千晴を守ろうとしたのだ。高明も受け入れてくれた。
 高明の従者である限りは、摂関家と(いえど)も、千晴に手出しすることは出来ない。高明が政治的に千晴を守ってくれる以上、高明の身辺の警護をするのが自分の役目。そんな想いで、千晴は高明に仕えた。
 
 千晴が仕えるようになり、高明の身辺警護は、更に強化されることになった。
 満仲も千晴も、共に源高明を私君(しくん)とする謂わば朋輩(ほうばい)である。しかし、高明に対する仕え方も、性格も考え方も、両極端と言って良い。
 まず千晴は、御所(ごしょ)への行き帰りはもちろん、高明が外出する時は、牛車(ぎゅっしゃ)の傍に付いて、片時も離れない。そればかりでは無く、自らの郎党を指揮して、常に高明邸の警護に当たっている。 
 一方満仲はと言えば、時々やって来ては高明の機嫌を取って行く、至って気儘な仕え方をしているのだが、命じられたことは、どんな汚れ仕事であろうと、嫌な顔ひとつせず(こな)す。それでいて、藤原摂関家の公卿(くぎょう)達の館にも平気で出入りしている。
 何かに付けて高明は千晴を頼るようになるのは当然である。しかし、面白く無いのは満仲である。(あるじ)の手前、角突(つのつき)き合わせて居る訳にも行かない。表面上は親しそうにやっているが、本音は水と油なのだ。
 千晴の忠勤振りが気に入って、高明は、「小藤太(ことうた)、小藤太」と、何かに付けて千晴を頼りにするようになった。だが、満仲には千晴のような真似は出来ない。下野藤原(しもつけふじわら)氏と言う裕福な背景を持つ千晴とは、置かれた環境が違うのだ。

目障(めざわ)りな奴だが、当分、辛抱であるな』
 千晴に付いて、満仲は己にそう言い聞かせていた。出し抜かれるのではないかと言う焦りと嫉妬は半端ではなかったが、それを表に出さず平静を装った。

 館に戻った高明が奥に姿を消すのを見送って、千晴が満仲の方に歩いて来た。
「いや~、いつもながら、大したお勤め振りでござるな、千晴殿。麿には真似が出来ぬわ」
と満仲はすかさず声を掛ける。だが、腹の中には嫉妬が渦巻いていた。
「いや、大納言様は、同じ源氏として満仲殿をいたく頼りにしておられる。麿に出来るのは、雑用くらいですから」
 千晴は、満仲と対立する事を避ける為、如才無く応じる。
「ご謙遜召さるな。千晴殿の姿が見えぬと、小藤太は何処(いずこ)じゃ、と直ぐ仰せになるほど、御前は(みこと)を頼りにされておる」
「何の。満仲殿のご指導あってのこと。どうか、今後ともご鞭撻を頂きたい」
と千晴は、先輩である満仲を立てる。
 外から見れば、高明邸の庭でふたりは、一見、屈託無さげに笑い合っている。

 満仲は苦悶していた。父の受牢で消えかけた出世の夢が復活し、更には高明に目を掛けられる事で将来の夢を大きく膨らませて居ただけに、この藤原千晴の出現により、その夢が壊れ掛けている事を感じざるを得なかった。

 強烈な出世欲の陰で、高明の寵愛が千晴に移っているのではないかと言う不安が広がっていた。普通の者であれば、何とか高明の寵愛を取り戻そうと必死になるところではあるが、満仲は違った。人の心などと言うものの移ろい易さを見て来た。
 高明は、自分を使い捨てにするつもりかも知れないと言う疑念が生まれた。高明の側近として活躍出来ると言う夢が壊れかけていると見るや、満仲は次の策を考え始めたのだ。
 高明への忠誠心などは出世欲と比べれば小さい。満仲の判断基準は、如何にしたら早く出世出来るかだけであった。

 満仲が藤原摂関家の公家達の館に出入りするのを、高明は容認していた。と言うのは表向きで、実は、満仲を通じて摂関家の動きに付いての情報収集をしていたのだ。
 では、摂関家の方は、高明派と見られていた満仲を警戒していなかったのかと言うと、警戒していた。しかし摂関家の中ではこんな会話が交わされていた。
「満仲は確かに便利な男ですが、大納言様(高明)の手の者でもある。用心せねばならんのではないですか?」
「なに、一応、大納言の手の者と言う事になって居るが、利に(さと)い男だ。いざとなればどちらへも転ぶ。現に麿は、あ奴を通じて大納言の動きを見ておる」
 摂関家も高明も、満仲の本心がどこに有るのか、それを十分把握していたとは言えない。

 その後満仲は、本来五位の貴族が任じられるべき武蔵権守(むさしのごんのかみ)に任じられた。母方の祖父に当たる武蔵守・源敏有が僅かな任期を残して死亡した為、次の武蔵守が決まるまでの中継ぎとして異例の抜擢を受けたのだ。短期の中継ぎなど受けたがる者も居ないところにもってきて、藤原摂関家の公家達への日頃の貢物が効を奏したと言う訳だ。

 楽あれば苦あり。武蔵権守(むさしのごんのかみ)の任を無事終えて都に戻った満仲を、間も無く災難が襲う。舘が強盗団に襲われたのだ。
 都で評判の(つわもの)である満仲の舘を襲うとは、強盗団も大した度胸だ。屈強な郎等達が大勢居る満仲の舘を襲えば、多大な犠牲が出る可能性が有るし、下手をすれば頭目自身が捕らえられてしまう可能性も有る。物盗りだけが目的なら、誰も、こんな割に合わない仕事はしないだろう。確かに物は盗って行ったが、真の動機は恨みであろうと誰もが思った。多くの郎等達を連れて、満仲が不在だった処を狙われたことも、行きずりの盗賊の仕業などでは無いと見られる理由だ。留守居の郎等達の何人かは傷を負い、多くの財貨が奪われた。満仲の悔しがり方、腹立ちは半端では無かった。
 そんな中、怪しい人物が浮かび上がって来た。倉橋弘重(くらはしひろしげ)という男だ。満仲邸から持ち去られた盗品の中のひとつを持っていた。満仲の舘に出入りしている者のひとりが弘重の知り合いで、弘重が満仲邸で見た物を持っているのを見て、自分まで一味と疑われては堪らないと思い、慌てて訴え出て来たのだ。
 弘重は、さる公卿の家人(けにん)だったが、不始末を犯し放逐されていた。その際、その公卿邸に出入りしていた満仲が、公卿の依頼で、放逐前に弘重を打ち据えており、弘重はそのことを深く恨んでいた。
 満仲はと言えば、そんなことは余り覚えていない。満仲自身が乗り込み、弘重を捕らえて来て、痛め付けて吐かせた結果、主犯格ふたりが判明した。何と、ひとりは王と言う身分を持つ者であり、もうひとりは、満仲と同じ清和源氏であった。  
 さすがの満仲も、皇族を自身で捕らえることは憚られた為、弘重を検非違使に引き渡し、事情を説明した。検非違使が弘重を再吟味した結果、ふたりの容疑が固まり、検非違使別当(けびいしのべっとう)(長官)・藤原朝忠(ふじわらのあさただ)に伺いを立てた。従三位(じゅさんみ)・参議でもある朝忠でさえ、即答は出来なかった。
 朝忠は、大納言・高明と左大臣・実頼に相談する。二人の同意を得、太政官(だじょうかん)の裁可を得た上で、朝忠の指示の(もと)検非違使(けびいし)が捕縛に向かった。 
 主犯とされたのは、醍醐(だいご)天皇の第六皇子・式明(しきあきら)親王の次男・親繁(ちかしげ)王である。さすがに検非違使別当も自身での判断を避け、太政官に諮ったと言う訳である。
 強盗の容疑で親繁王を捕縛吟味すると太政官から通告された式明親王は、狼狽した。親繁王は痢病(下痢)を患っており、とても吟味には耐えられないと申し立てるが、認められなかった。
 捜索の結果、親繁王の納戸から、満仲邸盗品の殆どが発見された。親繁王は元より、式明親王も『男を進めざる』ゆえを以て罪を科せられた。
 もうひとりの主犯格は、満仲と同じ清和天皇の皇孫・源蕃基(みなもとのしげもと)である。蕃基は貞真(さだざね)親王の子で、元は王の身分にあった。自身が臣籍降下した二世源氏であり、満仲の父・経基(つねもと)と同じ立場にあったのだ。特に、蕃基の置かれた立場の厳しさが分かるだけに、満仲といえども、その心境は複雑だった。首謀者三人の内二人は、身分の有る者だ。
 なぜ、こんな身分の有る者が強盗など働いたのか? 一口に言ってしまえば、そんな時代だったのだ。

 盗まれた物は全て戻って来た。だが、下手人の正体が分かってみると満仲は、何か複雑な気持ちにもなった。普段、強引なことをやって来ている満仲にも、情緒的な面が有り悩むことも有った。
   
 武蔵権守(むさしのごんのかみ)を退任して都に戻り、満仲が就いた官職は左馬助(さまのすけ)と言う官職である。左馬助の相当位階は、正六位である。臨時的な職である権官(ごんかん)とは言え、貴族にも成っていなかった満仲が、武蔵権守(むさしのごんのかみ)の職に在ったのは異例と言って良いだろう。
 ところが正六位上である満仲が、帰京後、格下の正六位下相当の左馬助をなぜ熱望したか。最も大きな理由は、帯剣出来るからだ。
 馬寮(めりょう)官人(つかさびと)は武官とされて帯剣を許されていた。(つわもの)相応(ふさわ)しい官職と思った。建前はそうだが、実は、ひとに恨まれる覚えが数々有る。朝廷での公務とは言え、丸腰で過ごすような職務には、余り就きたくないのだ。
 職務に就いてからも、利点は有った。上司に当たる左馬頭(さまのかみ)の官位は従五位上である。本来の武蔵守と同等なのだ。(さきの)武蔵権守(むさしのごんのかみ)。こんな経歴の部下を、嘗て一度も持ったことが無い。権官であったし、位階は五位の壁を挟んで二段階も下なのだから、本来、気にするべきほどのことでは無い。だが、気になるのは、満仲の人脈だった。多くの公卿達と繋がっていると言う噂が有る。異例の武蔵権守(むさしのごんのかみ)への就任も、この人脈を駆使した結果と言われている。しかし、誰とどの程度繋がっているのかは分からない。
 官僚は人脈を大事にする。そして、最も恐れるのも、この人脈なのだ。そう言う意味で、左馬頭に取って、満仲はかなり使い難い部下と言うことになる。実際、勤め始めると満仲は、病と称して度々休む。厳つい体型、健康そうな外見からして、病に罹るようなタマでは有るまいと思うのだが、余り煩く言うことは出来ない。気後れするのだ。
 言いたいことを我慢していると、人の心には、不満と憎しみが蓄積して行く。だが、満仲はその辺も心得ていて、公卿達への貢物と比べればほんの些細な物だが、物を贈って、鬱積したものを解消してしまった。時の左馬頭もそれを突き返す程の硬骨漢ではなかった。

 そんな中、満仲は各方面への根回しの効果が有って、左馬助在任中の康保(こうほ)二年、貴族に手が届く官職である帝の身近に侍る事もある鷹飼(たかかい)に任じられる。そして、弟・満季をも検非違使に押し込む事が出来た。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み