第一章 貴族への道 第四話

文字数 5,080文字

 関白・藤原忠平(ふじわらのただひら)(こう)じた後は、息子の実頼(さねより)師輔(もろすけ)が政権の中枢を担っていた。当初兄弟は牽制し合っていたが、兄の実頼は実力では弟の師輔に敵わず、人望も師輔の方が有った。しかし、師輔は官職の上で兄を追い越そうとしたことは無い。実頼も実力では師輔に敵わない事を悟り、二人は協力して(まつりごと)を進めるようになった。また、父・忠平ほど権力欲が強くはなかったので、関白の職には就かず、村上帝にも譲歩し、形の上では帝親政(みかどしんせい)が実現した。しかし、飽く迄形の上であり、朝議(ちょうぎ)と称して帝の御前(ごぜん)で会議を持つが、前夜に決まったことを奏上(そうじょう)して形の上で勅許(ちょっきょ)を受けるだけで、決定権は藤原兄弟に有った。
 源高明(みなもとのたかあきら)は、弟の師輔(もろすけ)とは気心が知れた仲であり、師輔の力を借りて出世して来たと言っても良い。しかし、その師輔が早く薨去(こうきょ)してしまった。その後も高明は摂関家(せっかんけ)と表面上は対立する事無く上手くやっていた。上に左大臣・実頼(さねより)が居るが、外戚(がいせき)でも無く実力者でも無い。その上高齢であるから、数年待てば高齢、或いは病を理由に致仕(ちし)(引退)を申し出て来る可能性は高い。
 村上天皇と高明の悲願である真の『帝親政(みかどしんせい)』を実現し、摂関制度を完全に廃し、藤原氏の権力基盤を消失させて、源氏が(まつりごと)を補佐する体制を作る大改革を行う日は目の前に近付いているのだ。
 なんらかの策を用いて実頼を失脚させ、改革の実現を早めることも可能と思われた。だが、不必要に師尹(もろただ)師氏(もろうじ)を刺激し、結束させてしまうのは得策では無いと思った。摂関家の中で不仲や対立が有ることを高明は満仲を通じて把握しており、好都合と思っていたのだ。
 注目すべきは、師輔の子・伊尹(これまさ)と言う男だった。五年前、父・師輔が右大臣在任中に薨去(こうきょ)した年の除目(じもく)で、参議に列せられた。
 伊尹には、父・師輔を敬う気持ちは常に有った。だが、才も実力も有りながら前に出ようとしない父の性格に苛立ちを感じていたことも確かだった。凡庸な叔父・実頼に遠慮して先に出ようとはしなかった。村上天皇に遠慮して、曾祖父・基経(もとつね)、祖父・忠平と続いて来た摂関の座を強く要求せず途切らせてしまった。そして何より迂闊なのは、源高明の勢力拡大を援けて来た事と思っていた。
 左大臣である叔父・実頼を始めとして、師尹(もろただ)師氏(もろうじ)の両叔父とも、右大臣と成った高明と比べ、その才気に於いて遥かに及ばない。
 伊尹は、摂関家が消滅させられるのではないかとの危機感を抱いていた。ただ、やっと参議に成ったばかりの伊尹にどうにか出来るような問題では無かった。仮にも左大臣である叔父・実頼が健在なうちに手を打たなければ、手遅れになってしまう。そう思った。 

 伊尹(これまさ)の弟のうち兼通(かねみち)と兼家は犬猿の仲であった。伊尹は、屋敷に兼家を呼んだ。直ぐ下の弟である兼通よりも、兼家を可愛がっていた。兼通は我が強く、己の利を優先させる傾向が強い。それに、近頃、高明に近付いているのも気に入らなかった。比べて兼家は兄に柔順であり、高明に対する警戒心を持っていた。同母弟二人が仲の悪いのは好ましいことでは無いが、伊尹は、そこはやむを得ないと思っている。
 伊尹は叔父の左大臣・実頼を訪ねて、関白に就任して摂関家の伝統を継ぐように迫ったが、追い返されていた。
「今が、いかに危ういかと言うことを叔父上に分かって頂こうと思い敢えて怒らせたが、もし、麿の無礼にいつまで拘っておられるようなら、その時はそなたに骨をおって貰うことになる」
と兼家に告げた。
(かしこ)まって(そうろ)う。して、他の叔父上方に付いては、いかが致します?」
と兼家が尋ねる。
「うん。まずは師尹(もろただ)様だが、癖の有る難しいお方だ。ただ行っても、話は聞いて貰えぬであろうな」
「はい。確かに難しいお方です。ですが、上手く取り入っている者がおります。まずは、その者を通して話を聞いて貰える機会を作りましょう」
と兼家が提案した。
「誰じゃ、それは」
「源満仲と言う者です」
「高明様の手の者ではないか」
「一応、そう言うことになっておりますが、あの男、高明様に恩など感じておりません。損得勘定でどちらにでも転ぶ男で御座いますよ」
と言って兼家がニヤリと笑った。
「大丈夫か?」
「お任せあれ」
と兼家は伊尹(これまさ)邸を辞し、屋敷に戻ると満仲を呼び付けた。 
「叔父上の所へ使いを頼みたい」 
(きざはし)の上から言う。
「叔父上様とは権大納言(師伊(もろただ))様のことですか?」
地に膝と拳を付いた満仲が尋ねる。
「そうだ」
「ご用件は?」 
「麿が一度お会いしたいと申しておると伝えてくれれば良い」
「用件をお伝えしなければ難しいと思われます。あのお方は」  
 兼家が口を少し曲げて考えている様子を見せた。
「一族のことに付いてご相談したいと申せ」
「はい。承りました」
 満仲が、頭を下げる。

 忠平亡き後、摂関家を纏める強力な存在が無かった為、癖の強い忠平の弟達の存在も有って摂関家はバラバラの状態にあった。危機感を感じ、摂関家の団結を取り戻そうと動き出したのが、師輔(もろすけ)の子・伊尹(これまさ)であり、弟の兼家を通じて、その意を受けて走り回る事になったのが、他ならぬ満仲であった。
 摂関家に報告すべき事、高明に報告すべき事。その(さじ)加減は緻密な計算の(もと)、満仲の胸三寸にあった。

 伊尹が遂に実頼を口説き落とし、実頼(さねより)師伊(もろただ)伊尹(これまさ)兼家(かねいえ)の間で高明追い落としの謀略が動き始めた。兼通は高明派と見做され、師氏(もろうじ)は弟の師伊に官位官職に於いて抜かれた事を恨んでおり、頑な態度を崩さなかった為、それぞれ蚊帳の外に置かれていた。
 満仲は、伊尹が実頼説得に失敗する事態をも考え、両睨みのどっち付かずの態度を取り続けていたが、摂関家の結束が出来たと見て、高明を裏切る事に腹を決めた。

 康保(こうほ)四年五月二十五日、村上天皇が突然崩御(ほうぎょ)し、冷泉(れいぜい)天皇が即位する。関白太政大臣に藤原実頼、左大臣に源高明、右大臣には藤原師尹が就任した。

 冷泉(れいぜい)天皇にはまだ皇子(みこ)が無く病弱でもあったため、早急に東宮(とうぐう)(皇太子)を定めることになった。候補は冷泉天皇の同母弟にあたる為平親王と守平親王だった。
 年長の為平親王が東宮となることが当然の成り行きとして期待されていたが、実際に東宮になったのは守平親王だった。
 その背景には左大臣・源高明の権力伸張を恐れた藤原氏の工作があった。高明は為平親王の妃の父なので、もし為平親王が東宮となり将来皇位に即くことになれば源高明は外戚(がいせき)となる。そんな事になれば、最早、摂関家の者達の出番はなくなってしまう。その危機感が摂関家の者達を結束させた。

 安和(あんな)二年三月二十五日、左馬助・源満仲と前武蔵介(さきのむさしのすけ)藤原善時(ふじわらのよしとき)中務少輔(なかつかさしょうゆう)橘繁延(たちばなのしげのぶ)左兵衛大尉(さひょうえのだいじょう)源連(みなもとのつらなる)の謀叛を密告した。藤原善時は満仲が武蔵権守(むさしのごんのかみ)在任中に補佐してくれた男だ。
 訴えの趣旨は、洛外の寺で蓮茂(れんも)と言う僧が主催する歌会が行われていたが、それは名目で実は、為平親王を東国に迎えて乱を起こし、帝位に()けると言う謀議だったと言う。そして、首謀者は源高明だと言うものだった。その席に高明が居た訳では無い。
 高明首謀の根拠は、高明の従者(ずさ)の藤原千晴がその席に居たと言うことだった。探り出したのは、満仲の弟・満季(みつすえ)だ。摂関家と満仲が謀ってのでっち上げである。
 右大臣・師尹(もろただ)以下の公卿は直ちに参内(さんだい)して諸門を閉じて会議に入り、密告文を関白・実頼(さねより)に送るとともに、検非違使(けびいし)に橘繁延と僧・蓮茂(れんも)を捕らえて訊問するよう命じた。一方、検非違使の看督長(かどのおさ)・源満季は手下を率いて前相模介(さきのさがみのすけ)・藤原千晴の舘に向った。
 
 早朝、満季率いる検非違使の一団が千晴の舘に突入した。変わらず高明邸に通っていた千晴が、出掛ける支度を終え白湯を飲んでいると、郎等の一人が転げるように入って来た。
「大変です!  け、検非違使に囲まれています」
「何? どう言うことじゃ!」
「分かりません」
 千晴は太刀を手にし、玄関まで走った。門から玄関に掛けて、郎等達が太刀の(つか)に手を掛けて、皆緊張した表情で身構えている。そんな中、満季が手下を従えて入って来る。
「皆の者、手出しはならんぞ。落ち着け!」
 千晴がそう声を上げた。
「藤原千晴。謀叛の疑い有り。吟味(ぎんみ)致すゆえ手向かいせず、同道致せ」
 満季がそう声を張り上げた。
「謀叛? そんな馬鹿な。誤解だ。……分かった。釈明の為同道致そう」
 そう言って膝を突き、千晴は太刀を目の前に置いた。その姿を見て、郎等達も(つか)から手を離し、膝を突く。
「捕らえよ」
 満季が声を上げると、下役達がぱっと散り、千晴と郎等達を荒々しく縛り上げ、後の者達が土足のまま舘に侵入して行く。やがて、嫡男・久頼も後ろ手に縛り上げられて、引っ立てられて来た。

 その翌日の二十六日。参内前の高明。
「千晴がまだ来ておりません」
 家司(けいし)がそう報告したが、
「そうか、ならば他の者に代えよ」
 無関心そうに答えただけだった。摂関家の者達が結束して、為平親王の立太子を妨げ、守平親王を東宮としてしまった。
 それ以前に、高明は実頼に謀られ、実頼を関白・太政大臣とすることに賛成してしまっていた。為平親王の立太子に実頼が賛成することの見返りのつもりだった。しかし、まんまと欺かれたのだ。もし立太子以前であったなら、
『何? いかがしたのであろう。他の者を待機させ、千晴の館まで(たれ)ぞ走らせよ。遅れるような者ではない。何ぞ有ったに違いない』
 多分、そんな風に命じたに違いない。だが、あの日以来、高明はまるで別人に成ってしまっている。長年待ち望んでいた帝親政(みかどしんせい)(もと)、高明が力を振るう日は目前に迫っていたはずだった。高明は、充実感と高揚感に満たされた毎日を送っていた。
 そんな時、今で言う脳卒中で、村上帝が突然崩御(ほうぎょ)してしまった。しかし、帝の急な崩御は大きな衝撃ではあったが、高明の気力を失せさせるようなことは無かった。それどころか、自分が頑張り、何としても、亡き村上帝の悲願であった帝親政を実現させると、強く心に誓いもしたのだ。
 為平親王の立太子に付いては、夢にも疑っていなかった。それが覆されたのだ。それも、摂関家の中では比較的(ぎょ)(やす)いと思っていた実頼に欺かれてのことだ。
 実頼に欺かれたことが信じられなかった。なぜ、摂関家が纏まってしまったのか分からなかった。何も出来ない立場に追い込まれてしまった己の無力を感じ、言葉ひとつ出なかった。突然池の底に大きな穴が開き、全ての水があっと言う間に吸い込まれて行くように、高明の気力は失せて行った。それからの高明は、名ばかりの、存在感の無い左大臣に成り果ててしまった。
 摂関家主導で、望まぬ方向に議論が進んで行っても、阻止しようとする気力さえ湧いて来ない。根回しをしようと言う気も無い。ただ、流れのままに採決し、帝の代理である関白・太政大臣・実頼に奏上するだけである。

 千晴の身に起きた異変を知らぬまま参内した高明は、実頼に呼ばれた。
「藤原千晴を、謀叛を企んだ者達の一味として捕縛し、取り調べ中じゃ。左大臣殿には関わり無きことと思うが、従者(ずさ)ゆえ、一応お報せして置く」
 実頼は無表情にそう言った。高明は身体中の血が足許目掛けて落下して行くのを感じた。
『まだ終わっていなかったのか。これ以上何を仕掛けて来るつもりか』
 そう考えながら、倒れそうになるのを必死で(こら)えた。
 
 満仲らの密告のみを根拠として、左大臣・源高明が謀反に加担していたと結論され、大宰員外権帥(だざいのいんげのごんのそち)に左遷することが決定された。左遷とは名ばかりで、七十年ほど前、やはり摂関家の策謀に嵌まった菅原道真(すがわらのみちざね)同様、実質的には流罪である。
 高明は長男とともに出家して京に留まれるよう願ったが許されず、二十六日、邸を検非違使に包囲されて捕らえられ、九州へ流された。

 密告の功績により、源満仲と藤原善時はそれぞれ(くらい)を進められた。摂関家は高明を、満仲は千晴を、それぞれ追い落とす事が出来た。世に言う安和(あんな)の変である。
 変後、左大臣の席には師尹(もろただ)が就き、右大臣には大納言・藤原在衡(ふじわらのありひら)が昇任した。一方、橘繁延(たちばなのしげのぶ)土佐国(とさのくに)蓮茂(れんも)佐渡国(さどのくに)、藤原千晴は隠岐国(おきのくに)にそれぞれ流され、さらに源連(みなもとのつらなる)平貞節(たいらのさだよ)の追討が諸国へ命じられた。

 満仲の裏切りにより、この騒ぎは摂関家の完全勝利で終わり、村上帝と高明の目指した帝親政(みかどしんせい)は夢と消えた。古来より他氏排斥を続けて来た藤原摂関家の、最後の他氏排斥である。権力は、兼家から長男・道隆、次男・道兼へと引き継がれ、三男の道長の時代に藤原摂関家は繁栄の極みを迎える事になる。
 また、京で源満仲と(つわもの)として勢力を競っていた藤原千晴はこの事件で流罪となり、結果として藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の系統は中央政治から姿を消した。こうして、満仲も摂関家も宿敵を除く事に成功した。
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