8.“あちら側”からの追跡者

文字数 13,821文字

「また出たな!伊吹、下がってろ!こいつは俺が懲らしめてやる!」
 この間、俺が意識を失った後何かあったのか、敵意むき出して柴田先輩が俺とクロの間に割って入って来た。俺を庇う様に立ち、何時でも蹴り上げられるように臨戦態勢を取っている。
「待ってください!柴田先輩!」
 そんな先輩を慌てて止めるが、そのぐらいで聞くような先輩ではない。ほんと、喧嘩っ早いというか、沸点が低いというか。しかもその敵意に警戒したのか、クロの雰囲気も先程より悪くなっている。落ち着いていた周りの空気がピリピリと緊張感を持ち出していた。
……ったく、世話の焼けるコンビだな。この二人は!
「クロ!柴田先輩!いい加減に――」
 俺が言いかけた時、その言葉を遮るように綿抜先輩が声を上げた。
「あらあら、皆さん。そんな急に殺気立ってはいけませんよ。何事も、始めは話し合いから。ね?」
 にこにこと笑顔を浮かべ、歩み寄ってきて俺の横に立つ綿抜先輩。そののんびりとした声に、一気に場の雰囲気が弛緩した。とりあえず落ち着いた二人に、俺はホッと胸を撫で下ろした。今回ばかりは綿抜先輩のマイペースな性格に感謝したい。心なしか、綿抜先輩の背後に後光が見える気がするよ。やっぱりこの人、アルファ波でも出ているのではなかろうか。
 そんな事を考えていると、脱力して臨戦態勢を解いた柴田先輩がため息交じりに綿抜先輩を睨んだ。
「……先輩。(ひつじ)の力を使いましたね?」
「うふふ。ばれちゃった?」
 先輩は悪戯がばれた子供の様に肩を竦めてぺろりと舌を出した。
 なるほど。このアルファ波作用は未の能力のなせるものだったのか。俺はてっきり先輩自身の作用かと思っていた。
「私の未の能力は、護りの力。人の感情に直接作用して、幻覚や戦意の喪失を起こさせるの。戦う気が近づいた途端なくなるから、戦わなくて済んで便利よ。逆に、闘争本能だけを引き出して代わりに戦ってもらったり、人の精神を壊すこともできちゃうわ」
 うふふと穏やかに笑い語尾にハートマークでも付けて言っていそうな先輩の顔が、ちょっとだけ怖かった。敵にだけは絶対なって欲しくない相手だな。
「クロさん……でしたっけ?あなたも、猫の者の式神の一人と聞きました。私たちは同じ十三支の仲間。そして私は、あなたと……ううん、あなたやシロちゃん。伊吹くんと同じく、圭吾先輩を助けたいと七年間ずっと願って来た人間の一人よ。まあ、伊吹くんはちょっと記憶喪失になっちゃってたみたいだけど……」
 そう言ってちらりとこちらを見る先輩。
 最後の一言は、余分です。先輩。
「とにかく、私はずっと圭吾お兄ちゃんを助けたくて、やっとここまで辿り着いたの。お願いクロちゃん。圭吾お兄ちゃんを助けたいの。今は、何があっても堪えて、私たちとここから圭吾お兄ちゃんを連れて出ましょう!」
 圭吾お兄ちゃんを助けたいと必死に訴えていたあの時のように、先輩は必死でクロに向かって言葉を紡ぐ。十三支を襲えと圭吾お兄ちゃんを捉えた相手に刷り込まれた命令の意思と葛藤しているのか、クロは顔を顰め、頭を両手で押さえている。その体が心なしか震えているように見えた。
「う、うう。助ける、圭吾様。ダメ、十三支、殺す。ころ……ううっ!う、うわああああああぁっ!?」
 頭を振って必死に抵抗していたクロが絶叫し、持っていた刀を振り上げた。
「げっ?!」
 未の能力ですっかり戦闘体勢を解かれた柴田先輩が反応するよりも早く、クロの姿がその横をすり抜けた。狙いは――俺だ。真っ直ぐに、なんの躊躇もなく向かってくる。
 猫の能力を取り戻したとはいえ、こんな事態に慣れていない…いや、寧ろ全く関わったことのない俺は咄嗟に反応できなかった。ただ、迫りくる脅威を凝視し、訪れる痛みを覚悟して口を固く結みながら、それでも必死に考えた。
――何か、何かないのか?俺に出来ることは!
 しかし、その刃の痛みは俺にはやって来なかった。目の前に小さな人の頭が現れ、俺とクロの間に誰かが飛び込んで来たのだと理解した。それと同時に小さな体の重みが、俺の方へと倒れ込んで来る。それを両手で受け止めながら、頭の中が真っ白になった。
「……あ、」
 苦しそうに顔を歪めた表情を見て、やっと思考が戻って来た。
「……シ、シロ!!??」
 両手で押さえている左の脇腹から、一振りの脇差が生えていた。それは、さっきまでクロの手に握られ、俺に向かって迫っていた刃だ。慌てて引き抜こうとして、綿抜先輩に止められた。
「ダメよ!抜かないで!」
 怒声に近い叫び声に、俺はびっくりして手を止めた。
「抜いたら、出血が酷くなるわ。待ってね。今、シロちゃんの感覚に働きかけて痛みと出血量を抑えるから。そしたら、刀を抜いて?それで、直ぐに傷口を押さえて。そうすれば、シロちゃんも式神ですもの。傷口は閉じるはず」
 そっとシロに近寄り、その傷へ手を翳しながらキビキビと指示を出していく綿抜先輩。俺はその指示に殆ど意識心あらずで、無意識の内に従っていた。
 とにかく、早く。早く止血しないと!
「だ、大丈夫です。私は、式神……。実質死ぬという概念は、ありません。私が、消えれば、新しい式神が、青也様の力で…すぐに、きっと……」
「バカやろうっ!代わりとか、そんなの違うだろ?!ダメだろ、こんな護り方!!俺は、今後一切許さないからな。ここで、いなくなることも許さない!」
 必死に叫びながら、自分の不甲斐なさに涙が出た。やっと真実が見えたというのに、シロをこんなことで失うなんて。
 じっと綿抜先輩の治療を見守る俺の前で、シロの血の付いた左手が伸びる。その先にいたのは、自分の攻撃で自らの片割れを傷つけ呆然と事の成り行きを見ていたクロの姿だった。
「……クロ……」
 掠れた少女の声に呼ばれ、びくりとその肩が震えた。
「お願い……思い出して。私たちの使命を……あなたの、本当の使命を……。護るべき、本当の、相手を……。おね、がい。わたしの、ぶんまで……まも、て……」
「っあぁ!違う。違う、違う!」
 伸ばされた手が力を失って地に落ちるその瞬間、クロが動いた。その手を、取ったのだ。
「ごめん!ごめん、シロ!違うんだ、こんなの違う!僕は、お前を傷つけたかったわけじゃ……青也様を殺したかったわけじゃないんだ!護りたくて…護りたかったんだ。お前も、青也様も圭吾様も!」
 叫び、シロの手に額を付けて謝る少年に、もう先程までの雰囲気は一つもなかった。ただ素直に自分のしたことを悔やみ、涙を流すクロの姿がそこにあった。
「……ダメだわ」
 綿抜先輩の声に、俺は勢いよく先輩を見た。
「ダメって…そんな!」
「違うわ、伊吹くん。シロちゃんの体は大丈夫よ」
 そう言うと、綿抜先輩はシロに刺さっていた刀をスッと抜いた。一瞬ドキッとしたが、血が流れることはなかった。その後に手を宛ててどけた時には、傷は閉じて既に乾いていた。
「体は大丈夫だけど、完全回復させるには伊吹くんの力をシロちゃんに分け与える必要があるわ」
「ど、どうすればいいんですか?!」
 詰め寄る俺に、先輩が「まあまあ」と両手を上げて落ち着かせようとしてくる。しかし、落ち着いていられるわけがない。
「まずは、もう半分の封印をクロちゃんに解いてもらうのが先決ね。その後が問題なんだけど……。シロちゃんとクロちゃんて、圭吾お兄ちゃんが猫の能力者になってからの式神?」
 俺に説明をしつつ、後半はクロに話しかける先輩。それにクロは素直に頷く。
「はい。僕たちは圭吾様に生を受けた式神です」
 すると、綿抜先輩は難しそうに眉を顰めた。
「やっぱりそうよね。普通、前任者の式神をそのまま使う十三支なんていないもの」
「なんなんだよ、先輩!それがどうしたっていうんだよ?!」
 少々じれったい綿抜先輩を、俺は追い立てるように声を張り上げた。
「いい?シロちゃんに伊吹くんの力を分け与えるってことは、シロちゃんを圭吾お兄ちゃんの式から伊吹くんの式に急激に変更するってことになるの。それって、徐々に変えていくのとは違って、生まれ変わるのと同じぐらい何もかも変わるってことなのよ。つまり、シロちゃんは、今までの彼女を全部失って新しく伊吹くんの式神として生まれ変わるってことなの。わかるかしら?」
 眉を寄せ、考えながら困り顔で説明する綿抜先輩。大体は理解した。しかし、やっぱり先輩の説明はなんとうか回りくどいな……。理解しやすくて良いんだけど、勿体ぶられるとこちらも焦れる。……つまりは、シロは今までの圭吾お兄ちゃんやクロとの思い出を全部忘れて、見た目はシロの全く新しい一人の人間に…式神になるということなのだろう。
「それは……確かに、俺が決めていいものかどうか……」
「青也様」
 戸惑い迷う俺に、クロの静かな声がかかった。顔を向けると、思いの他冷静な瞳とかち合う。
しかし、それはシロを思う涙に濡れていた。
「どうぞ、シロに力を分け与えてやってくださいませ」
「でも……それで、クロは良いのか?」
 確かめるように聞いた俺に、クロはしっかりと頷いた。
「このままでは、シロは目を覚まさないまま消えて行くだけです。猫の能力はすでに青也様のもの。圭吾様にシロへ分け与える力は残っていません。…僕の、ただの自己満足かもしれませんが……こんな形でシロを失うぐらいならば、どんな形でもシロを取り戻したいと思うのです。そして今度は、二人で最後まで青也様をお守りさせてください。お願い致します」
 そう言って頭を下げるクロ。その下げられた頭をじっと見つめてから、やおらその柔らかそうな短い黒髪にポンと片手を乗せた。そうして不思議そうに顔を上げたクロに、にっかりと笑って見せる。
「俺もだよ。こんな形でシロを失うなんて、納得行かない。お前が許してくれるのなら、どんな形であれ、俺もシロを救いたい」
「は、はい!有り難うございます!」
 そう言って再び頭を下げようとしたクロを、乗せていた手をどけながら止めた。
「いいから、早いところ俺の封印を解いてくれよ」
「あ、はい!」
 頷くと、クロは右手で俺の額に触れた。瞬間、体中を何かが満ちる感覚に襲われる。
「っ?!な、何だ?」
 そうして急に走った目の痛みに左目を押さえた。
「あ!そ、そうだった!すっかり忘れていたわ!」
 綿抜先輩はポンと手を打つと、自分の顔からお札を剥がして俺の左目にペタリと貼った。途端に、痛みがスッと引いて楽になる。
「あ、あの?先輩?」
 狭くなった視野で綿抜先輩を見れば、そこには何かをやり切ったように汗を拭う姿があった。その左目の瞳が、羊のそれと同じ形をしていた。
「ごめんなさい、すっかり忘れていたけど伊吹くんも強制的に能力を継いだんだったわよね」
「……あ、なるほど。左目の痛みはそう言うことですか」
 どうやら、俺の左目は強制的な引継ぎの代償として猫の能力の影響を受け、変化するようになってしまったらしい。目の前の綿抜先輩の瞳から察するに、左目が猫の目のそれになっているのかもしれない。
「あ、でも。先輩は外して平気なんですか?」
 慌てて聞けば、笑顔で手を左右に振られた。
「ああ、大丈夫よ。今は力を使っていないから。力を使う時はしてないと、暴走の原因になってしまうけど。これは、伊吹くんにとっても重要なことだから、しっかり覚えておいてね?」
 真剣な顔で言われ、俺はこくこくと頷いた。その度に右目の視界の端で、白い紙が揺れた。
 なるほど。つまり普段は力さえ使わなければ、そのままでも問題はないということか。まあ、いつどんなタイミングで力を使う場面が訪れるとも分からないから、貼りっぱなしが一番ベストと言えばベストか。
「勝子ちゃんがいれば直ぐに別のお札ができるんだけど…。私の式神が勝子ちゃんのところからもう戻ってきているから、今すぐ伝えるのは難しいわね。ま、後で頼んでみましょう。とにかく今は、伊吹くん、シロちゃんに触れて。それで、シロちゃんは大丈夫だから。ただ、直ぐには目を覚まさないと思うから、とりあえず一度休ませてあげてくれる?」
「分かりました」
 恐る恐るシロの傷痕へと手を乗せた。やっぱり治すなら傷痕を消してあげたいという思いから、無意識にそこへ手を伸ばしていた。するとすぐに、何かが俺の手からシロの方へと流れ込んでいく。それは日の陽ざしように暖かで、とにかく俺は、『治れ、治れ』と強く念じてひたすら傷痕に手を宛て続けた。すると、青白かった顔に赤みが差し、シロの体に生気が戻って来た。手を退かすと、残っていた傷痕も綺麗に消えていた。その様子に、そこにいた全員がホッと胸を撫で下ろす。
「良かった。もうシロちゃんは大丈夫よ」
 綿抜先輩がそう言うと、シロの姿が人から黒猫の姿へと変わった。それは、影猫に初めてこの街へ来て襲われた時に見かけた、仮面を咥えていたあの黒猫だった。俺はそこで初めて、黒猫とシロが同一の存在だと知ったのだった。おそらく、クロは白猫の姿になれるのではないだろうか。白猫と黒猫。それは俺が猫の力を継いでからずっと、影猫が俺の前に現れる度に共に姿を現していた存在だ。今なら分かる。あれは、クロとシロだったのだ。忘れていても、ずっとずっと、俺のことを見守り続けていてくれたのだろう。
 その猫の姿も直ぐにスゥッと空気に溶けるように消えてしまう。
「!」
 驚いて、俺はその体を捕まえようと手を伸ばした。そんな俺の背を、ぽんぽんと綿抜先輩が叩いた。落ち着いてと言わんばかりに。
「慌てない、慌てない。大丈夫よ。ただ単に用がない時に式神が控えている場所へ戻っただけだから」
「そ、そうなんですか。良かった……」
 ホッとして、体から力が抜けた。やっぱり失敗しましたとかいう、洒落にならない落ちじゃなくて良かった。
「よし。んじゃ、とっととその梅景先輩を連れて、ここから脱出だ」
 勢い込む柴田先輩に俺も賛成だ。目的を果たしたら、長居は無用に決まっている。留まったところで、いいことなど経験上何もない。
「クロ、圭吾お兄ちゃんは何処に?」
「こちらです」
 そう言うと、クロはおおよそ圭吾お兄ちゃん程の人が入れるとは思えない小さな社の扉を開いた。入っていたのは、手の平に収まるほどの卵型をした小さな石が一つだけ。驚く俺たちの前に、クロはその石を取り出して俺の方へと差し出す。
「これが、圭吾様です。奴らによってこちらへ引きずり込まれた際、圭吾様は自らの意思で最後の力を使ってこの姿に変わりました。恐らく、自分の体を奴らに好きに使わせないためでしょう。しかし、その力ももうすぐ消えて、圭吾様は完全な石に変わってしまいます。最初はどうにかしてこの石の呪縛を解こうとしていた奴らも、次第に冷えていく石に気づき、すでに圭吾様が猫の者ではないのではないかと感づき始めていました。価値のないと分かった途端、やつらはこの石を放り出しました。そして恥ずかしながら圭吾様を人質に取られ言うことを聞くしかなかった僕を使って、入口を護る十三支殺しをはじめました。奴らの中では、十三支こそこちら側とあちら側を繋ぐ出入口で邪魔をする存在だと思われていたようです。始めは抵抗しました。流石に十三支殺しなんて……。そしたら奴らは、僕の精神を操り無理矢理実行させたのです。この社に何とか石を収められたのは、操られている中でも僕の思いが圭吾様を助けることに向かっていたためでしょう。」
 そう言って項垂れるクロの背を、今度は俺が励ますように叩く。
「なるほど。それで俺がいくら圭吾お兄ちゃんの気配を探ろうとしても、中々引っかからなかったのか。でも大丈夫だよ、クロ。きっと小野寺会長たちなら、圭吾お兄ちゃんを助けてくれる」
 なるほど。封じられていては、俺の気配探しに引っかかるわけがない。どうりでどんなに探っても、それっぽいものが見つからない訳だ。
 あの時の惹かれる感じは、恐らく圭吾お兄ちゃんのものというよりもクロの方だったのだろう。圭吾お兄ちゃんを思う、クロの強い思いを俺が感知したんだな。きっと。
「大丈夫。今度は、俺がお前もシロも、圭吾お兄ちゃんも助ける番だからな」
 そう言って笑って見せれば、クロは泣きそうになりながら小さく頷いた。
 決意を新たにクロの手から卵型の石を受け取った瞬間、嫌な感じが体中に駆け抜けた。頭の中に、黒い手がこちらへ向かって迫って来る映像がふっと過る。その手に俺は見覚えがあった。
黒く鋭い爪の伸びた皮と骨ばかりのごつごつとした嫌な手。あれは、圭吾お兄ちゃんを昔捉えた、あの手に間違いなかった。
「そうか。俺が猫の者の力を全て受け継いだから、あいつ、猫の者(おれ)を見つけて捕まえようと、また入り込んで来たのか!」
 確認した事実に焦った。とにかく、一刻も早くここから出なくてはならない。
「先輩、ここから直ぐに出ましょう!圭吾お兄ちゃんを捕まえた奴が、今度は俺を追ってこの世界に入り込んできました!!」
「何んだって?!」
 俺の叫び声に、黙って見守っていた柴田先輩の表情が険しくなる。
「綿抜先輩。有り難うございました。とりあえず、このお札は先輩に返しておきます」
「わかった。でも、大丈夫?ここは猫の刻の中よ?学校へ戻るにも、猫の力を使うんじゃない?」
 逃げる前にと、綿抜先輩へ左目に貼ってもらったお札を剥がして渡した。
 心配そうな先輩の言葉はもっともだが、今この状況では戦う力の使い方が分からず足手まといにしかならない俺が貼っているよりも、きっと先輩が貼っている方が良いはずだ。
「大丈夫です。自ら力を積極的に引き出すわけじゃないですから、多少きついですが我慢できます」
 言葉に嘘はなかった。今も学校への道を繋ぎとめているせいか、左目に痛みがあるものの我慢できないほどではないのだ。
 真剣な表情で頷くと、綿抜先輩は少し困ったように笑ってから頷きお札を受け取ってくれた。そして、自分の左目の上に貼り直す。
「奴は今、こっちに向かってきています。多分、狙いは俺です」
 そう告げるが早いか、俺は神社の入口へ向かって走り出した。その後に、クロ、綿抜先輩、柴田先輩の順で同じく走り出したのを、ちらりと振り返り確認する。その視線の中で、社が爆音を立てて破壊され、その場所から黒いあの手は姿を現した。先程頭の中に見たまんま、黒くて皮と骨ばかりが目立つ巨大な手が鋭い爪をすり合わせながらこちらへと迫って来ていた。
「なんだ、あの黒い巨大な手は?!影じゃなくて、実体があるぞ!?」
 走りながら柴田先輩が驚愕の声を上げる。
「へぇ。これが影猫になる前の姿か~。初めて見たわ、私。あ、写真撮っとこうかしら?」
 綿抜先輩はこんな時でも通常運転だ。制服のポケットから携帯電話を取り出してパシャパシャと撮っている。それでも走れているのだから変な所で器用な人だ。
「追い払った方が良いか?伊吹」
「いえ。ここで追い払っても見えている部分が消えるだけです。キリがありません。直ぐにまた追いかけえてきます。とりあえず、今は学校の校門を思い浮かべてください!」
 柴田先輩の言葉に俺は頭を左右に振った。
 そう、相手にしていてはきりがない。あれは、あちら側から伸びてきているのだ。止めるのなら、あちら側まで吹っ飛ぶぐらいの力で強制お引き取り願うか、根元まで一気に消し去るしか方法はないだろう。それに、猫の者の俺にはわかる。校門にさえ辿り着ければ、何とかなると。
「わかった。ここはお前の領分だもんな。大人しく従うぜ」
 そう言ってニッと笑う先輩の顔が視界の端に映る。そうしてそのまま目を閉じて、ぶつぶつと何事か呟き出す。よくよく聞いてみれば、「校門、校門」と呟いているようだった。お願いした手前何も言えないけど…わりと気になるな。
 その声を考えないようにして、俺も頭の中に登校時に良く見かける校門を思い浮かべた。すると、様々に変化していた景色が白いもや一色になった。行けるかと思った矢先、目の前に白い暖簾のかかったアルミサッシの引戸がドンと現れた。白い暖簾には、『お食事処』と赤い文字で書かれている。
「え?何?なんでどっかの食堂のドアが目の前にあるの?!」
 訳が分からず叫ぶと、背後からパン!と手を打つ音と「あちゃー」と言う声が聞こえて来た。
「わりい!それ、俺のせいだ。なんか腹へっちゃってさ。ついつい頭の中に行きつけの定食屋を思い浮かべちまった」
 先輩の盛大なやらかしに呆れ、足がもつれて倒れそうになった。
「ちょっ、先輩!真面目やってくださいよ!」
 あははと笑う柴先輩の声に叫んで窘める。
「わりぃ、わりぃ。今度はきちんとやるから」
 そう言うと、スゥッとそのドアは消え、見覚えのある黒い鉄格子の門がゆらりと陽炎のように現れる。
「見えました!」
 そう叫んで先輩たちを振り返ると、背後に迫った黒い手も一緒に視界に入って来た。
「もう少し!」
 言って前に視線を戻せば、校門の前に誰かが立っているのが見えた。近づくにつれ、それが片手に黒塗りの鞘に納めた日本刀を持った花鳥の姿だと確認できた。
「花鳥さんだ。きっと小野寺会長たちが、助けに来てくれたんですよ!」
 言って再び振り返った俺に、柴田先輩が顔色を変えた。
「何、花鳥!?やばっ!伊吹、地面に伏せろ!!」
「え?」
 急に慌てだす柴田先輩。訳が分からず怪訝な顔を浮かべた瞬間、クロが俺の手を引いた。
「わわっ?!ちょっ、クロ?!」
 バランスを崩した俺は、よろめきすっころぶ。走っていた勢いを殺せないまま、数センチ地面すれすれを数秒浮いて飛んだ。その俺の上に飛び、頭をクロが抱え込む。
「うぶっ」
 押し付けられて変な声を上げた俺の体は、クロに抱えられたまま地に落ち地面を滑った。数度体が跳ね上り、やっと止まる。何事かと状況を確認するよりも早く、倒れ伏した体の上を物凄い突風と轟音が通り過ぎた。
「な、何……!」
 いつの間にか白猫に変じていたクロの体をそっと顔から剥がしつつ、体を起こした。少し後ろの方で、同じように顔を羊に埋めて幸せそうに倒れる綿抜先輩と、サッカーで慣らしたスライディング技術で綺麗に横たわり、何故かどや顔で決める柴田先輩の姿があった。
「……先輩、かっこつけても、残念ながらここでは誰も見てませんよ?」
 思わず突っ込んだ俺に、柴田先輩は体の泥を払いながら立ち上がり、フンと鼻を鳴らした。
「いいんだよ。如何なる時も華麗に決めるのが、プロサッカー選手への一歩なんだから」
 わけの分からないことを言い出す柴田先輩に、俺はどう対応したらいいものか分からず困った。
「そ、そうなんですか?」
「おう!」
 とりあえず、無難に頷いておくと、得意げに頷かれた。
「駄犬。そんな事実があるわけないだろ。信じるんじゃないよ?伊吹くん」
 背後からかかった声に首だけ捻って見れば、刀をしまう花鳥さんの横から小野寺会長がこちらへ向かって歩いて来ていた。
「小野寺会長!」
 小さいけれど、何故かこの人の姿を見ると安心するんだよな。そう思って内心ホッとしながら見上げていると、俺の横でピタリと足を止めた。
「ふむ。どうやら、猫の者としての力を完全に取り戻したようだね。伊吹くん」
「え、あ!」
 最初何を言っているのか分からなかったが、会長の目が俺の左目に注がれていることに気づき目を押さえた。
「ここまで随分辛かったろう。少し待っていてくれ。あいつを片づけたら、戻って夢子の様に封じる手段を共に考えよう。なに、直ぐのことだ」
 そう言うと、小野寺会長はにっこりと笑った。本当に、どうしてこの人の笑顔はこんなにいつも力強いんだろうな。そんな小野寺会長に、俺も笑みを浮かべて頷いた。
 そうして小野寺会長は視線を綿抜先輩へと向けると、再びあの手の方へ向かって歩みを進める。
「夢子。いい加減起きろ」
「え~、もうちょっとこのもふもふに顔を埋めていたい……ぐぅ」
 呆れた様子で綿抜先輩を見やった小野寺会長。それに顔を上げることなく答える綿抜先輩。……何気に羊が困っているように見えるのは、俺の気のせいではないはずだ。式神も大変だな。あ、俺が言える立場じゃないか。
「寝るな!まだ終わってはいないぞ!」
 言われて空を見上げれば、見事にずっと遠くまで真っ二つにされた黒い手が暴れていた。その度に空気がかき混ぜられ強い風が吹き荒れる。良く当たらなかったものだと思っていると、叩きつける手が何かによって俺たちに届く前に力を失い垂れ下がって遠のいては、また思い出したように振り回されていることに気がついた。
「分かってるわよ。だからこうして、手が私たちに届かないようにしてるじゃないの。でも、いつもの相手とは勝手が違うわね。戦意を奪っても奪っても、立ち向かって来る。まるで、闘争本能の塊みたい」
 なるほど。この妙な手の動きは綿抜先輩の仕業だったのか。
「厄介だな。花鳥の刀でも精々幾つかに分けるのが精一杯だ。切っても影猫のように消えない、か」
 ああ、真っ二つなのは花鳥の仕業なのか。あの巨大な手をはるか遠くまで二つに切るとは、凄い腕だな。先程柴田先輩が叫んだのも、花鳥が何をしようとしているのか察したからだったのか。その後体の上を通り過ぎた音と風は、その斬った時の衝撃派みたいなものだったらしい。
というか、気づかなかったら俺たちまで真っ二つだったのかと思うとゾッとするな。せめて何か言ってから斬ってくれ。
 げんなりしていると、小野寺会長が暴れる手と対峙するように最前線で歩みを止めた。
「……仕方ない。倒せないのなら、この猫の刻からご退場頂くだけだ――花鳥」
 近づいては遠ざかる暴れる手を見上げ、暫く腕を組んで考えた後小野寺会長は花鳥を呼んだ。
「はい」
 返事をし、その横に立つ花鳥。その間に小野寺会長は俺へ一度顔を向ける。
「伊吹くん。これからあいつをあたしと花鳥でこの世界から追い出す。そしたら君は、あちら側からあいつが二度と実体化して出て来れないよう、猫の刻を強化してくれ。何、難しいことはない。ただ、君が願うだけでこの世界は強化される。この世界は猫の者のテリトリーだ。猫の者が願えば、いかようにも変化することが出来る」
 出来るかどうか分からないけれど、小野寺会長が出来るというのならきっとできるのだろう。
「分かりました」
 とりあえず素直に頷いた。
 それを見届けると、小野寺会長は空中でやっと二つに分かれた手を繋げようとしだした相手を見上げた。その様子に、ニヤリと小野寺会長が不敵に笑う。……あんな会長、初めて見たな。何だか生き生きとしていらっしゃること。
「個々に攻撃は面倒だと思っていたので丁度いい。手間が省ける」
 そう言うと、小野寺会長は目を閉じた。ゆっくりとした動作で下げていた手を上げると、目線の高さでピタリと止める。そうしてまるで弓矢を引くように、その右手を後ろへと引いた。離れて行く手の中から、一本の白い線が一緒になって伸びて行く。そこで、小野寺会長が目を開いた。
「これより先、貴様が進むことは罷り通らん!」
 叫んで小野寺会長が手を離す。ヒュンと空気を裂き、一本の白い線が黒い手を目がけて飛んで行った。もう少しで届くと言う所で、小野寺会長が呟く。
「散れ」
 白い線が再生しかけた黒い手に握り込まれたのと、ほぼ同時。次の瞬間には、黒い手は白い炎を吹き出し破裂した。炎はまるで導火線を伝う火の如く、黒く伸びた手を凄いスピードで燃え移り、移った先から破裂して消えて行く。しかしその炎も途中でそのスピードが落ち始めた。その様子に、小野寺会長が舌打ちをする。
「やはり距離があり過ぎて届かないか。花鳥、少し煽ってやってくれ」
「かしこまりました」
 言って浅くお辞儀をすると、花鳥は再び刀を抜きその刃で空を斬る。一度右から左にかけて斬り込み、返す刀で左から右へかけて二度斬り込んだ。花鳥はただ斬った、それだけなのにもの凄い突風が生まれた。
「うわっ!」
 風の勢いに押され、クロを抱えたままその場に尻餅をついた。
『大丈夫ですか、青也様』
「ああ、大丈夫だ。しっかし、凄いな花鳥は……」
 刀一本で、もちろん酉の能力者だからだろうが、あんな刀に斬られた日には生きて帰れる気がしない。
 ため息交じりに見上げた空では、花鳥に斬られ四等分になった黒い手がその風の勢いで火の回りが増し一気に遥か遠くまで燃えていた。勢いを取り戻した炎は、あっという間に黒い手を消滅させて行く。その姿に意識を集中させると、頭の中に猫の刻から完全に消えた黒い手の様子が全て見えた。
「小野寺会長。今、完全に猫の刻に現れていた実体部分が消えたみたいですね」
 俺は見えたことを小野寺会長に伝えた。
「そうか。では、我々の任務は完了だな」
 そう言って小野寺会長がにっこりと笑った。
 後は俺が、願うだけだ。二度と圭吾お兄ちゃんのようなことが起きないように、この世界の役目を強化することを。……とは言え、どんな感じでやったらいいものかいまいち分からない。
『青也様』
 どうしたものかと悩んでいると、腕の中からシロに呼ばれた。目を向ければ、色の違う綺麗な
瞳が、じっとこちらを見上げていた。
『わからない時は、まず言葉からはじめてみると良いと思います。言葉にして示すことで、力の形が定まりやすいかと』
「な、なるほど。ありがとう、シロ。やってみるよ」
 礼をのべて頷いてみせると、シロが嬉しそうに小さく鳴いた。それに笑みを浮かべてから、真っすぐに奴が去った方向を見つめ俺は目を閉じた。
 今、俺がやるべきことを心に思い浮かべそれを言葉にして口から放つ。
「猫の能力者、伊吹青也がここに宣言する。猫の刻――ガタクロノスの世界に害なす者の侵入を、これより先今までよりも一層強く、拒絶するものとする」
 言葉にした瞬間、俺を中心に光が球状に広がり猫の刻の世界全てを包み込んでいく。
「わっ!!」
 思わず驚いて見上げた空から、赤紫の淀んだ色が消えていた。そこにあったのは、霧の立ち込めるどこまでも真っ白な空間だった。何もない、何も存在しない真っ白な世界。
 あまりの世界の変わり様に目を瞬かせていた俺の腕を、小野寺会長がぽんぽんと叩いた。顔を向けるとにこりと笑顔の小野寺会長が俺を見上げていた。
「ご苦労様、伊吹くん。猫の刻はきちんと強度を増した…というよりも、本来の姿を取り戻したようだよ」
「じゃあ、あの赤紫色の空は、本来の猫の刻ではなかったんですか……」
 俺の言葉に、小野寺会長が頷く。
「夢子の知らせで聞いているが、猫の封印を半分解かれた状態でここに入ったのでは分からなかっただろうな。おそらく淀んでいたのは、猫の力の所在が曖昧で世界の存在が弱まりあちら側の影響強く受けていたせいだろう」
「小野寺会長はどうして、今の状態が正常だと知っているんですか?」
 俺の疑問に、小野寺会長は別段気にする様子もなくさらりと告げた。
「ああ。あたしは幼い頃、猫の刻に迷い込んだことがあるんだ。そして、当時の十三支を務めていた先輩たちに助けられた。まあ、あたしが今、()の能力者になったのも、偶然というわけではないかもしれないな」
 意味ありげに一度俺に片目を瞑って見せてから、小野寺会長は他のみんなへと視線を向けた。
「皆もご苦労だった。さあ、本来の学生の仕事がまだ残っている。帰ろう、あたしたちの世界へ」
 そう言って笑う小野寺会長の笑みは、やはり何処か安心する笑みだった。
「でぇぇっ!この状況でまだ授業を受けろっていうのかよ!勘弁してくれよ、小野寺会長~」
 その場で座り込み、だだをこねる柴田先輩。
「駄目だ。学業こそ学生の本来の務め。それを疎かにするなど言語道断だ」
 腕を組み、首を横に振る小野寺会長。しかし、そんなことで引き下がる柴田先輩ではない。
「えー。俺ら、こんなに頑張ってるんスよ?今日ぐらいいいじゃないっスか。事件を二つも解決したってことで、一日休みましょうよ!」
 尚も引き下がる柴田先輩は遠くて気が付いていなかったが、小野寺会長の体がぷるぷると震えていた。十中八九、怒ってますよ。柴田先輩。ご愁傷様です。心の中で先輩に合掌した。
 そんなだだをこねる大きな子供の柴田先輩の元へ歩いて行くと、何をするのかと思えば、思い切りその頭にグーパンチを小野寺会長はかました。
「いってーっ?!何するんだよ、小野寺先輩!」
 食ってかかる柴田先輩に、小野寺会長も負けてはいない。
「いつまでだだをこねているんだ、この馬鹿犬!疲れているのは皆同じだ!いいからとっとと、学校へ戻れ!」
 そう言って柴田先輩を掴もうとした小野寺会長の手を、寸でのところで柴田先輩がすり抜けた。
「おっと。そんな小さい手じゃ、俺を捕まえることはできませんよ?チビ寺先輩」
「あ、」
 一番、先輩が気にしていることを……。
 柴田先輩の言葉に、俺は思わず声を上げていた。立ち上がって距離を取り、得意げな柴田先輩に小野寺会長の堪忍袋の緒が切れてしまったようだった。
「し~ば~た~!!今日という今日は、もう勘弁ならん!」
 そう言って、拳を振り上げ柴田先輩を追いかけ回し出す小野寺会長。すっかりお子ちゃまになって、柴田先輩を追いその姿にどうしたらいいものか困っていると、ポンポンと肩を叩かれた。振り返れば、綿抜先輩は眠そうな目をして立っていた。
「行きましょう。伊吹くん」
「え、でも」
 追いかけっこをする二人と綿抜先輩を交互に見ると、綿抜先輩が首を横に振った。
「ああ、いいの、いいの。あれはもう、放っておいていいから」
「ああなってしまわれた小野寺会長は、手がつけられませんので」
 いつの間にか綿抜先輩の後ろへやって来ていた花鳥が、静かにそう言った。なんと花鳥までもが、そんなことを言うとは思わなかった。しかし、小野寺会長のことを良く知る二人がそういうのであれば、放っておいても問題はないだろう。
「じ、じゃあ、戻りましょうか」
 諦めた俺は、いまだ追いかけっこを続ける二人に背を向けたのだった。
「うん。で、あたしは保健室へ行って即行寝る」
「ちょ、綿抜先輩。それ、柴田先輩とあんまり変わりませんよ?」
 眠そうな目で言う綿抜先輩に、思わずツッコミを入れずにはいられなかった。なんだか、あの二人が哀れに思えて来たよ……。

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