1.影猫

文字数 6,980文字

「あー、苦しい。あいつら自分とみんな同じ胃袋の大きさだと思いやがって……」
 部活の帰り道。良く行くハンバーガーショップでメガビッグバーガーに無理矢理スイートポテトパイと抹茶シェイクまでつけられて、ぱんぱんになったお腹を擦り悪態をついた。誘って来た友達は相撲部で、ついでに同じ部の部員も何人か連れて来ていた。各いう俺は手芸部だ。
……どう考えてもおかしいだろ。手芸部のほぼ動かない俺に、どれだけ食って太れと言うんだ、まったく。
 後、手芸部で男だからって馬鹿にしないように。手芸って凄いんだぞ?あの何の変哲もない布切れから、ありとあらゆる日常の小物ができるんだからな?それに最近じゃ色んな金具や道具を使って、もっと作れる物の幅が広がっているんだぞ?正直、細かいことに集中することが好きな俺にはピッタリの部活だ。……まあ、男性部員は俺を入れて二人だけなんだけどな。
 いや、でも。先輩たちは優しいし、作っているものは芸術作品の域で、全国コンクールでも何度か優勝を決めている猛者ばかりだ。俺はいつあの境地に辿り着いてしまうのかと、毎日ハラハラドキドキの連続で……うん。部活、楽しいです。
 ちなみに友達は更にダブルチーズハンバーガーと骨付きチキンも頼んでいた。奴曰く、
「今月はお小遣いがもうあまりないから、控えめに注文してるんだ」
だ、そうだ。それでこれから家に帰ってまだ食べる話をしているのだから、いくら何でも食べ過ぎではなかろうかと、心配になってくる。
 うちの豊城(とよしろ)高校は白いシャツに学年の色と紺と白のチェック柄のネクタイを締め、紺色のジャケットとネクタイと同じ柄のズボンを履いているんだが。その全てがぴちぴちなうえに、そのボタンは楽しく会話している間も何個か飛んで行方不明になっていた。今日はあの店、掃除中はいつもより多くボタンが落ちていることだろう。
 そんなことを一人でぶつぶつ呟きながら、家路を急いでいる時だった。
 ゆらり、と。視界の端をかすめた黒い塊に思わず足を止めてそちらを見た。そこにあったのは狭く暗い路地と青いポリバケツに積まれた黒と白の袋の小山。そしてその奥で揺らめく人の形の黒い影。眺めた頭には三角形が二つ乗っていた。
 随分と久しぶりに見た、影猫の姿だった。
「へぇ…。この町にもいるんだな、影猫」
 何とはなしに揺れる姿を目で追っていると、影の動きがピタリと止まる。今までにない動きに驚く間もなく、それがゆっくりとこちらを振り返った。黒い中にぽっかり空いた二つの白い穴。その穴を向けてじっとこちらを見つめていたかと思えば、キュッと弧を描いて白い穴が笑みを浮かべた。
 瞬間、背筋をぞわりと嫌なものが這い上がり、俺は『違う』と直感した。あれは影猫であって、いつも俺が目にしていたものとは違う何かだと。上手く言えないが、あれにはいつもの影猫にはない、自己のようなものが感じられる。ただ漂うのではなく、何か目的を持って動いているような。そんな気がするのだ。と、思考を巡らせていたせいで行動が遅れた。
 影猫が黒い残像を残して先に動いていた。空気を裂いて何の飾り気もなくシンプルに猛スピードで突っ込んできた黒い軌跡を、寸でのところで身を捩って避けた。影猫はそれでも止まらず、背後にいたクリーム色のスーツを着た女性へとぶつかる。
「あ」
 やばいと思った時には遅かった。女性はビクリと大きく一つ震えると、目を見開き空を見つめたままだらりと両手を下げた。左肩にかけていたワインレッドのショルダーバックが、どさりとコンクリートの地面へ落ちる。尚をも小刻みに震えるその白い肌が、徐々に黒い影に蝕まれて行く。これではまるで、影猫に内部から喰われているようじゃないか。初めて見る現象に、俺の頭の中を「どうしよう」という思いと言葉だけがグルグルと堂々巡りしていた。しかしそれも、聞こえてきた別の女性の悲鳴でハッと我に返った。それと同時に、女性の体もアスファルトの地面へと倒れる。
 いまや見えている肌という肌が黒い影に変化し、俺には人というよりも影猫そのものになってしまったかのように見えていた。それでも、周囲にはその黒い影の肌が見ていないようで、数人の人が駆け寄り「大丈夫ですか?」と声をかけていた。とてもじゃないが、女性を囲う人だかりに雑じる気にもなれない。かと言って見て見ぬふりをするわけにもいかない。どうしたものかと途方に暮れていると、女性からずるりと影猫が抜け落ち、ふわりと空中に浮いた。再び影猫の形をとったその顔と思しき場所に、先程と違う白い能面のような女性の顔が貼り付いていた。それは、先程影に浸食されて倒れ伏している女性の顔に良く似ている。しかし、見開かれた瞳は白く、明らかに生きている人の目ではなかった。
 その瞳が再び弧を描いた。
 嫌な感じが全身を包み、俺は何を判断するよりも早くその場を走って逃げだしていた。
――あの白い顔は何だ?まさか、女性を取り込んで……?
 混乱する思考の中でも、あいつが追いかけて来ていることだけは何となく気配で分かっていた。嫌な感じが塊になって背後から迫って来ている…そんな感じがするのだ。とにかく、第二の犠牲者を出す前に人の少ない場所へと相手を誘導する。それと同時に、何とか撒けないものかと細い路地を急に曲がったりしてみるが、素人考えのやり方では上手く行くはずもない。まして相手は得体のしれない影だけの存在だ。人間相手ならまだしも、通用する気が全くしない。
「ったく!どうすりゃいいんだよ、この状況?!」
 というか、何で俺を追いかけて来るんだ、あの影猫は?!
 思わず走って逃げたことを、今更後悔した。とはいえ、止まるわけにもいかず縋る思いで曲がった何度目かの路地で、猫を見た。悠然と佇んでいた黒くしなやかな体が、その色の違う二つの瞳に俺の姿を捉えた瞬間、鋭い牙を向いて地を蹴った。
「うわっ!?」
 俺に向かって飛びかかって来たのかと思えば、驚き引きつる俺の顔を通り越して右肩に強い一瞬の負荷をかけた。猫に踏み台にされたのだと理解したのと、背後で短く「ギャッ!」と悲鳴が上がったのはほぼ同時だった。
「え?」
 慌てて振り返ると、影猫の白い顔面に猫が飛びついていた。猫が影猫の顔から無理矢理あの女性の顔をした仮面を引き剥がそうと、奮闘しているように俺には見え唖然としてしまった。
「な、何を……」
 影猫も必死で猫を引き剥がそうと奮闘しているようだった。しかし、顔の付け根に食いついたまま猫が唸ると、それだけで影猫は怖気づいたように猫へ触れられず手を引っ込めてしまうのだ。その内にもベリベリと嫌な音をたてて白い顔が剥がれ始め、痛いのか何なのか影猫の絶叫が路地に反響した。鼓膜を震わせるキーンという音に耐え兼ねて、俺は両耳を手で塞ぐ。それでも悲鳴は耳に届き、俺は顔を顰めた。
 しかしその悲鳴も、白い仮面と影猫の最後の繋がりが引きちぎられた瞬間、ウソのようにピタリと止んだ。引き剥がされた勢いで大きく影猫の姿は仰け反り、人だったらありえないUの字型になって固まっていた。カランと乾いた音をたてて、先程までの女性の顔を貼り付けた白い仮面が路地へと落ちる。そこに浮かぶ表情は、目を閉じてまるで眠っているように穏やかだった。あったのはそれだけで、いる筈の猫の姿がそこになかった。
「あれ?猫は?」
 辺りをぐるりと見渡した。前には影猫と白い仮面。背後にはただ、雑居ビルに囲まれた細い路地が続いているだけだった。左右は言うまでもなく、雑居ビル等の壁がそびえ立ち猫の隠れる場所も姿もなかった。首を傾げつつ前に向き直った俺の目に、ゆっくりとUの字から上体を起こしかけている影猫の姿が映る。
「ああ、そういえば何も解決してないわ」
 本来この路地に逃げ込んだ理由を思い出したが、この機に再び逃げるべきか迷った。逃げて逃げ切れば、もう追ってこないという保証はどこにもない。まして逃げて、先程の女性のように誰かをまた巻き込んでしまう可能性だって否定できない。
「あー…もう!どうすりゃいいんだよ?!」
 やけくそ気味に叫んだ瞬間、トンッと軽い音をたてて目の前に人が降りた。
「え」
 俺よりも頭一つ分ぐらいちいさいだろうか。
肩で綺麗に切りそろえられた黒く艶やかな髪がさらりと揺れる。その、半袖のセーラー服から伸びた白い腕がしなやかに動き、手に持っていた何かを影猫に向けて鋭く投げた。ヒュッと空気を斬る音が響き、質量のあるそれが上体を起こしきった影猫の額に突き刺さる。突き刺さって始めて、それが黒い柄のついた手の平サイズの小刀だと知った。
 呆気に取られている俺の前で、更に少女らしき目の前の人は黒く短いプリッツスカートを翻して二回腕を振るった。トン、トンと二本。影猫の浮いている足下に小刀が突き刺さる。アスファルトの地面に、その小刀は確かに突き刺さっていた。それに一体何の意味があるのか分からず、俺は唖然として眺めるしかなかった。その目の前で、影猫の宙に浮いていたもやっとした霧状の体が何かに引っ張られるように、二本の小刀が刺さった地面へと叩きつけられた。
「ギャッ!」
 短い悲鳴が聞こえたが、それだけだった。先程白い仮面を剥がされた時よりも静かに、影猫はその体を地面の中へと引きずり込まれて行く。これは俺の推測だが、恐らくあの額に刺さった小刀が、影猫の全ての行動を封じでもしているのだろう。そのため、影猫はなんの抵抗もできずに、大人しく地面の中へ引きずり込まれるしかなかったのだろう、と。
「……帰れ。ここは、お前が居るべき場所ではない」
 冷たく澄んだ少女の声が、影猫へ届いていたのかどうかは分からない。しかし、影猫はそれを最後にずるりと地面へ引き込まれて消えてしまった。
 カシャンと軽い金属音をたてて、影猫に刺さっていた小刀がアスファルトの地面に落ちる。その小刀にいつの間に近づいていたのか少女の細い手が伸びて拾い上げていた。
「あ」
 目の前で起きたことに理解が追いつかず、ぼんやりとしていた俺は我に返って礼を言おうと口を開いた。その声に、彼女がこちらを振り返る。
 さらりと髪が揺れ、切れ長な瞳が俺を捉えた。その色は、人には珍しく左と右で違う色をしていた。右が水のような透き通った青色で、左が金に見える薄い茶色だ。整った顔立ちのすらりとした綺麗な少女とその変わった瞳に、思わず見とれてしまった。
「……怪我は?」
 少女は片手を腰にあてて、小首を傾げながら聞いてくる。その手には、先程拾ったはずの小刀はすでになかった。俺はそれに、慌てて首を横に振って答えた。
「な、ない、です」
「そう、それは良かった」
 ホッと安堵したように息を吐くと、すぐに興味を失ったのか少女はきょろりと視線を辺りへ飛ばした。
「……あの、助けてくれて、ありがとうございました」
 へらりと笑って礼を述べれば、ちらりと一瞬だけ視線が向けられてすぐにまた逸らされた。
「今度、影を見たら一切無視をしなさい」
「え?」
 間の抜けた返事を返すも、やはり少女はこちらを一切見ようとはしなかった。
「先程、見ていましたが、影を注視していましたね。“見る”ということは、存在を認識していると相手に教えているようなもの。影は、そういう人をターゲットに選びます。自分を可視できるほど、力のある人間だと判断するからです。あれらは、そう人間を自分の力の一部にするために好んでターゲットに選びます、そして、どこまでもしつこく追いかけて来る。逃げきることは、単に見えるだけのあなたのような人には、ほぼできないと考えて頂いて結構です。彼らを倒すことが出来るのは、ここでは……」
不意に少女の言葉が切れた。
「ん?」
 何事かと不思議に思い見ていると、そのまま先を言うでもなく、少女は地面に落ちていた白い仮面を拾い上げたのだった。泥を払う少女の表情はこちらへ背を向けているため、見ることはできない。
「……とにかく、今後は影が居ても注視しないよう心がけてください。それと、追いかけられたからといって、こういった人気のない路地に逃げ込むのは自殺行為に等しい。逃げるなら、人がいる方へ向かいなさい。その方が、助かる確率は遥かに高くなります」
「でも、それで誰かを巻き込んだりしたら……」
 くるりと振り返った少女に、先程の女性のことを思い出して思わず反論してしまった。しかし、少女はそれにも一切表情を変えることなく俺を見据えた。
「あの女性なら、大丈夫。私が返しておきますから」
「へ?返す…って、何を?」
 言っている意味が分からず聞き返した俺に、少女はひらひらと仮面を振った。
「これが、影に奪われた彼女の全てです。これを返せば、何もなかったように目を覚ましますよ。今まで通り、日常にも支障はありません」
 なんだか、肩の力が抜ける思いがした。
「そ、そっか。そうなんだ。……良かった。俺、てっきりもう、ダメかと思ってたよ」
 自分のせいで女性を死なせてしまったとばかり思っていたので、正直非常にホッとした。そんな俺に、少女から厳しい言葉が飛んでくる。
「私がいなければ、それも現実のものになっていましたよ。それもこれも、あなたが影を注視したことによって引き起こされた結果です。今回が良かったからと言って、許されることではありません。以後、二度とないよう十分注意するように」
「……はい。肝に銘じて、注意致します」
 反論する余地もなかった。全て少女の言う通りだ。知らなかったとは言え、あんな訳の分からない黒いもやの塊が安全だなんて、どうして思っていたのだろうか。昔が安全だったからと言って、今見える影猫が安全とは限らないのに。相手は所詮、得体もしれない存在でしかないのだ。
 自分の行動の軽率さに落ち込む俺を暫く見つめていたが、やおら少女がくるりと背を向けた。
「じゃあ、私はこれで」
「え、ちょっ、待った!」
 スタスタと歩き出したその背に、慌てて静止の声を上げた。それに応じてピタリと彼女の足が止まる。
「待って、君のこと、まだ何も……。どうして俺を助けてくれたんだ?それに、さっきのは一体……?」
 疑問に思っていたことを口にする。
「偶然、ですかね」
「へ?」
 ぽつりとこぼした彼女の言葉に、俺は間の抜けた声を出していた。
「あえて言うのならば『偶然』です。偶々あなたが影を見る力を持っていて、それを無知から注視したために追いかけられて。その現場に偶々、影を追い払える私が居合わせた。ただ、それだけですね」
「そ、そうなんだ」
 何やら、自分で納得して頷きながら言っている少女に、俺はただそう返すので精一杯だった。
『偶然』か。期待していた返答とは違っていたが、考えてみればそんなものだろうと納得した。むしろ伏目がちに、「あなたのこと、ずっと見ていたから……」とか言われる方が現実的に怖過ぎる。それはもう、ストーカーとしか言いようがない。
「あ、それから。良ければ名前を教えてもらっても?偶然とはいえ、命の恩人の名前も知らないなんて、笑い話にもならないからさ」
 はたと、一番聞いておかなければならないことを思い出し、ダメもとで聞いて見た。と、ちらりと少女が首だけを向けてこちらへ視線を向けて来た。その仕草が、俺の質問の意図を探ろうとしているようにも見えて慌てた。
「あ、いや。いいんだ。変な意味で聞いたわけじゃないけど、そうだよな。プライバシーとか個人情報の保護とか色々煩い時世だもんな。言いたくなければいいんだ。うん」
 そう言って苦笑いを浮かべた俺に、少女の澄んだ声が一言だけ告げる。
「シロ」
 それ以上声をかける暇もなく、彼女の姿が視界から消える。
「え!?」
 驚いて辺りを見渡すが、路地の先にも後にもどこにもない。首を傾げる前に、少女――シロが最初に頭上から飛び降りて来たことを思い出して頭上を見上げた。そこには、雑居ビルの窓のサッシや鉄格子を軽やかに跳んで行く、あの黒猫の姿があった。その口には、しっかりと白い仮面が咥えられている。しかし、少女の姿は何処にもなかった。
「……まさか、あの猫が……。なんて、そんなこと、あるわけないか」
 一瞬思い浮かんだ考えに、苦笑して頭を横に振った。そんなことがあるわけない。あの猫が少女の本当の姿だなんて。
「……シロ、か」
 その猫の姿が見えなくなるまで眺めていた俺の視線に、更に上の屋上の端にとまっている一匹の鳩が入り込む。
「鳩?こんな暗い時分になんでまた……?」
 不思議に思って見つめた俺に気が付いたのか、鳩は羽を広げると既に暗くなった夜の空へと飛び立って行った。
「……変な鳩」
 鳩は確か鳥目のはず。こんな夜に飛べるものなのだろうかと首を傾げた。しかし、それ以上今は思考が回らなかった。夜に飛ぶ鳩がいたっていいじゃないか。きっと、そいつには夜でも見える目でもあるのだろう。
 俺はあまりに常識外れな出来事を経験し過ぎて、疲れ切った体を引きずるように帰路についたのだった。

――全ては偶然。シロと名乗った少女の言う通り、きっとこの先も影を見ないようにさえすればそれでいい。それだけ気をつければ、今まで通り普通に学生生活を送れる。
 そう、その時の俺は別段何を思うでもなく、軽く考えていたんだ。

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