3.影猫再び

文字数 11,285文字

「でも、良かったんですか?柴田先輩」
 機嫌が良いのか、口笛を吹きながら歩く柴田先輩。その横顔に声をかけると、頭の後ろで手を組んだまま視線だけこちらへと向けた。
「うん?何がだ?」
「いえ。部活ですよ。先輩、確かサッカー部のエースですよね?練習に行かなくても大丈夫なんですか?」
 大会では必ずと言って良いほど出場している先輩のことだ。練習とは言え、顔を出さなければ困ることもあるだろう。そう思って尋ねたのだが、肝心の本人は笑って片手を振っている。
「大丈夫だよ。今日は元々用事があるって言って、休みをもらってるから」
「え!じゃあ、その用事は大丈夫なんですか?」
 慌てて聞いた俺に、先輩は面白そうに更に笑みを深めた。
「おう。

が俺の大事な用事だからな」
「え?」
「猫の能力者が見つかったかもしれないと聞いてすぐに、部活に休む旨を伝えておいたんだ。猫の能力者に関して何かあったらそれに使おうと思ってさ」
「そ、そうなんですか」
 得意げに説明する柴田先輩。そんな先取りな先輩に呆れるやら感心するやら。もし、期待した情報じゃなかったら、どうするつもりだったんだろうか?……いや、柴田先輩だったらきっと、軽く謝りながらでも部活をやっているだろうな。うん。小野寺先輩曰く、柴田先輩はボールのような丸くて転がるものを追いかけるのが無性に好きらしいから。
……まあ、それで「戌の者だからですか?」と聞いてみたら、本人には否定されたけれども。
「そう言うお前こそ、部活は大丈夫なのか?」
「あ、俺は大丈夫です。手芸部に入ってるんですけど、活動は月に一度の発表会にさえ作品を出せば、あとの活動はどこでやってもいい部活なので」
「へぇ。そんな部が、うちの学校にもあったんだな。初耳だぜ」
 感心したように言う柴田先輩に、俺は複雑な気分になった。分かってはいたつもりだけど、やっぱり面と向かって知名度の低さを思い知らされるとへこむなぁ。流石に。
「そりゃあ、柴田先輩の所属するサッカー部と比べたら雲泥の差ですけど、ちゃんと活動してる部活ですよ?全国的なコンクールでも何度も賞を取ってますし」
「あ、ああ。そうなのか。意外と凄いんだな」
 恨みがましく言えば、焦った柴田先輩の顔が引きつり笑みになってしまっている。
「そうですよ。凄いんですよ?だから、手芸部と言っても、馬鹿にしちゃダメですよ?」
「わ、分かった。しない、しないよ、もう」
 俺が尚も言い募ると、柴田先輩が困ったように手を振って否定する。その姿に、俺はぶはっと噴出した。瞬間、柴田先輩の目が点になる。
「わかってますよ。うちの部活の知名度なんて、所詮そんなものだってことぐらい。すみませんでした。先輩の反応が面白かったのでつい」
 そう言って謝ると、先輩はホッと息を吐き出した。
「ああ、びっくりした。本気で怒らせたかと思ったぜ」
「本当にすみません。先輩が面白い反応をするもんで、ちょっと遊んでしまいました」
 もう一度謝ると、先輩に頭を小突かれた。
「全く、ひやっとした。このまま護衛も断られたらどうしようかと思ったぞ」
 逆に恨めし気に言われて、俺は「あはは」と笑って誤魔化した。
「でも、もっと体を動かす部活に入ってみたらどうだ?伊吹は見た感じ、程よく筋肉がついたスポーツマン体系じゃないか。あ、サッカー部でもいいぞ」
「あはは、そうですね。今度、考えてみます」
 そんな気はさらさらないが、頷き返事をしておいた。それに、部活云々よりも、俺が一番大変だったのは休み時間ごとに朝生徒会室に呼ばれた理由を聞きに来る、クラスメイトや友達を誤魔化す方だった。男女問わず、とにかくどんな感じの人たちだとか、どんな話で呼ばれたんだとか聞かれて本当に困った。生徒会の影響力の凄さを、変な所で思い知らされたな。まあ、とりあえず今後のことも考えて、親しくはないけど知ってる先輩がいて、体よくパシリにされることになったと言ったら何故か皆から羨望の眼差しを浴びるはめになったけど。
……代われるもんなら、代わって欲しいよ。本気で。
「あー、早く出てこないかな、猫の少女!」
「止めてください、先輩。その呼び方で大声だすの。何だか俺たちが猫の格好したコスプレ娘を待ってる、やばい人みたいに周りに思われますから!」
 ため息と共に声を上げた柴田先輩に慌てた。知っている俺は何とも思わないけれど、流石に一般人が聞いたら『猫の少女』なんて単語、男二人で叫んでいては変な目でしか見られない。
「あ、悪い。じゃ、猫の能力者って言い直そうか?」
「いえ、結構です」
 どっちにしろ周りからは変な男子高校生と思われるので、丁重にお断りする。
「でも、あんまり期待はしない方がいいですよ?昨日の今日ですし、影猫の方もそんな頻繁に出て来たことなかったですから」
 やる気満々の柴田先輩に遠慮がちにそう言うと、急に目の前に片腕が伸びてきた。行く手を遮られ、柴田先輩が足を止めたので俺も足を止めるしかなかった。先輩に目をやれば、真剣な眼差しで辺りを見渡し、頻りに鼻で臭いをかいだり耳に手を宛てて音を聞いたりしている。どう見ても奇怪な行動だが、きっと何かあるのだろうと黙って眺めていた。
「……いるな」
 ぽつりと呟いたその言葉に、目を瞬かせた。
「えっと……、猫影ですか?猫の能力者ですか」
「影だな。この臭いは」
「え、臭い?」
 言われて俺も耳を澄まして鼻をひくつかせてみるが、何も感じないし聞こえない。そんな俺に、柴田先輩は苦笑を浮かべた。
「伊吹には多分無理だよ。俺、戌の者だから、嗅覚と聴覚が人よりよくなってるんだ。普段は普通の人と変わらないけど、意識して集中すると使えるようになる」
「なるほど」
 もっともな理由に納得した。
「で、その俺の嗅覚に訴えるものがある」
「ど、どこですか?」
 言って辺りを見渡す俺の目の前で、柴田先輩がスッと右を指さした。
「あっちだな。あっちの方から臭いがする」
「あ、あっちですか」
 そちらへ視線を向けて目を凝らして見るが、俺の目には今のところ影猫の姿らしきものは見えない。もちろん変な臭いもない。半信半疑でいると、柴田先輩がそっちの方へと足を向けたので驚いた。なにせ、先輩が足を向けた方にあるのは建設途中のビルの工事現場。そんな所に、無断で入っていいわけがない。
「ちょっと、先輩!ダメですよ、そんな所に無断でほいほい入っちゃ!」
 肩にかけて背負っていたスポーツバッグの底を掴んで止める。しかし、先輩はどこ吹く風だ。
「ああ、大丈夫、大丈夫。豊城高校の生徒会の者だって言えば、怒られないから」
 ニヤリと笑って自信満々に言う先輩を、俺はもう止める気にもなれなかった。というか、うちの高校の生徒会の権力、凄過ぎるだろ。
 呆気に取られて力が緩んだ俺の手から、先輩は難なくするりと逃れた。そして、灰色の薄い壁で囲まれた中へ、出入り口につけられたクリーム色のアコーディオンカーテンを開けて入っていく。
「あ、ま、待ってくださいよ。柴田先輩!」
 その背中が壁の向こうへ消える前に、慌ててその後を追った。
 壁の向こうは、刑事ドラマや二時間ドラマなどでよく見る光景が広がっていた。左手にプレハブの二階建て事務所が建ち、その反対側には鉄骨やコンクリート袋などの資材が積まれている。奥には工事用の専門車両が停まり、目の前には作りかけの頭に鉄の骨組みが付き出したコンクリートの建物が出来かけていた。ただ、即席の駐輪場にも駐車場にも車などの類はなく、人の姿や気配もない。それもそのはず。腕時計の針はすでに午後六時十分を指していた。
 こんな時間になってしまったのは、一重に生徒会の仕事の多さと小野寺先輩の人使いの荒さ故だ。大体午後四時には帰れるようになっていたのに、俺が生徒会室で柴田先輩を待っている間暇だろうと言われて雑務を手伝わされた。それが中々途切れず、結局やってきた柴田先輩も巻き込み、解放されたのが午後六時頃だった。
 とにかく、一度何かものを頼むときりがない。柴田先輩に聞いてみれば、「いつもこんなものだ」と言う答えが笑顔と共に返って来て閉口した。先輩はもはや、慣れっこらしい。俺には絶対、生徒会の役員とか無理だわ。小野寺会長に付いていけません。お家恋しいです。
 そんなことを思い出している俺を置いて、柴田先輩はずんずんと作りかけの建物の中へと入っていく。
「あ、ちょ、ちょっと!」
 追って長方形に開いた入口から中へと入ると、先輩は何もないただっ広い部屋の真ん中で顔を上に向けて鼻を動かしていた。数本の細い円柱が支える中に、一際太い四角い柱が目の前に見ええる。その内部はくり抜かれ、内部に上と下へそれぞれ伸びる階段の姿が見えていた。その階段へ鼻を向けてスンと小さく鳴らすと、親指でそちらを指さし俺を振り返った。
「上だな。この上で、影猫が発生しかけている」
「上ですか」
 先輩の言葉におれはコンクリートの天井を見上げた。
「ああ。まだそんなに強い臭いじゃないから、呼ばれたばかりか辿り着いたばかりか……」
 そう言って、柴田先輩は難しい顔をして天井を見上げている。
「どうかしたんですか?」
 その顔に不安になりつつ問うと、先輩は困ったように鼻を掻いた。
「いやな。どうも、一体じゃないっぽいっていうか、なんていうか」
「……え?」
 先輩の言葉に、俺は耳を疑った。
「うーん。二体…三体か?」
「う、うそ……」
 サーッと血の気が引く思いがした。
昨日の猫影に襲われた記憶が甦り、頭を抱えた。一体でも厄介なのに、それより多いとか冗談じゃない。確かに今日は柴田先輩という、心強いボディーガードがいるけれども、その先輩が困っているとなると本当に不味いのではなかろうか。
「か、帰りましょう!今すぐ、光の速さで!」
「あー…、いや。多分もう――」
 言ってくるりと背を向けた俺に思いの外落ち着いた先輩の声がかかる。
 しかしそれは、響いた轟音に途中で掻き消されていた。
 ドンッ!と質量のあるものが落ちる音と、地響きが足下を震わせる。思わずその場にしゃがみ込んだ俺の前に、柴田先輩が庇うように立ちはだかった。
「もう、見つかっているから遅いって、言いたかったんだけどな。どうやら、あちらさんも生贄を早く取り込みたくてしょうがないらしいぜ」
 そう言って先輩は、視線だけ俺にちらりと向けてニヤリと笑った。その顔に、先程までの困ったような表情は微塵も浮かんでいない。
「おー、でっかいのが二体か。複数だと疲れるし面倒臭いから嫌なんだけど、今回は仕方ない。特別に相手してやるぜ」
 先輩の先程の困ったような表情は、そういうことだったんかい!
 心の中で毒づき、半分安堵して力が抜けた。しゃがみ込んだ片膝を床について、ため息を一つついた。
「心臓に悪い……」
「あー?何か言ったか、伊吹」
「いえ、頑張ってくださいって言ったんです」
「おお、任せとけよ!」
 片手を上げて答えると、先輩は目の前の大きな黒いもやへと向き直った。大きな轟音は天井ごと大きな影猫二体が、階下へと落ちて来た音だった。もうもうと舞う白い埃が収まり始めると、その向こうで、黒くもやっとした塊が二体蠢いている姿がはっきりと見えてきた。巨大な影が伸び、その先端には二つの三角の小山がきっちり二つ乗っかっている。体の部分は中々形が定まらないらしく、いつまでもやもやとしたものが蠢いていた。対になった白い二つの目が、こちらへ向いた気がした。実際は目玉もなく、何処を見ているのかさえ分からないが、はっきりと俺にはこちらを見ていることが何故か伝わってきていた。これが、生贄体質のなせる技かと思うと泣きたい気分になるな。
「はは。俺の背後に、お前にとって美味しいご馳走があるって分かるのか?でも、こいつはお前の腹には入らないぜ。お前は俺に、残念ながら退治されるんだからな」
 挑発するように叫ぶ先輩の声が聞こえているのか、いないのか。二体の影猫に動じる気配はない。それどころか、巨体を波打たせもやりとした体から黒い帯状のものが素早い動きで飛び出してきた。それが大きく黒い影の手だと理解した時には、既に俺たちの頭上へと迫って来ていた。
「うわわわわぁっ!!??」
 驚き過ぎて、逃げたいのに逆に腰が抜けてその場に尻餅をついてしまった。やばいと思った瞬間、白い影が目の前を横切り、バシュン!という音と共に影猫の手が弾き返されていた。ポカンとする俺の前に、トッと白くふさふさしたものが降り立った。それは、白い毛並みが立派な百八十センチ程の大きな狼だった。
「大丈夫か?伊吹」
「は、はい!大丈夫です」
 返事をしながら、それが柴田先輩の式神なのだと直ぐに察しがついた。花鳥が酉の者だから鳩で、柴田先輩は戌の者だから狼なのだろうか。
 そんなことを考えている内に、影猫が次の腕を伸ばしてくる。それは今度も懲りることなく真っ直ぐ俺に向かて来た。ただし、その数が半端ない。有に二十本近くある。それが四方から襲ってくるのだから堪ったものではない。
「ひぇっ!し、柴田先輩ぃぃぃっ!!??」
 柴田先輩の実力を疑っているわけではないが、得体のしれない黒いものが密集してくるなど視覚的に恐ろしくて、叫ばずにはいられなかた。叫べば、少しは気が紛れるし。と、言い訳を言ってみる。
「だーいじょーぶ、だっっっって、よっ!」
 答えながらトンと軽く地を蹴ると、柴田先輩は無数の手に向かって両足を振るった。それはあたかも、空中に向かって回し蹴りをするような仕草に、俺には見えた。
 次の瞬間。

 グオンッ!

「ぅぶわっ?!」
 建物内の空気が震え、無数に迫って来ていた影猫の腕の大半がその途中から綺麗に切り取られた。切り取られた腕は空中で霧散し空気に溶けるように消える。残った腕も、式神によって先程と同じく弾き飛ばされ消えた。
「悪いな。こいつには指一本触れさせるなってのが、生徒会長(ボス)からお達しでね」
 軽やかな動作で再び床に降り立った柴田先輩は、女子生徒なら惚れてしまいそうな台詞をニヒルは笑みと共に口にしていた。……まあ、非常に残念なことに只今守られ中なのは、俺みたいなへたれ男子なわけでして。こんなにカッコイイ先輩に、心の中で謝った。ごめんなさい、柴田先輩。
『ぎゃあぁっ!ぎゃあっ!』
 苦しげな悲鳴を上げて、腕を無数に切られた影猫の体が歪む。もやみたいなくせして、物理的に切られるとやはり痛いらしい。伸びていた頭がぐにゃりとS字に曲がり、その白い目が怒りに先輩を睨みつけているように見えた。そうして、くっついていた二体の巨大な体が離れ、一体が天井の穴から再び二階へと姿を消した。
「あいつ……!コロ太!伊吹を守れ!!」
 舌打ち一つ。柴田先輩の怒声が響く。その声に答えるように、白い狼が俺へ向けて地面を蹴った。それとほぼ同時に、真上の天井が音をたてて破壊される。
「!?」
 声を上げる暇もない。弾かれるように見上げた天井から、コンクリートの大小様々な塊が俺の上へと降りそそぐ。ダメだと思った瞬間、体がふわりと浮いた。自分の体が、自分の意思とは別に高速で床を移動し建物の入口から外へと出る。何かに引っかかっているとはいえ、振り落とされないように掴んだものは、もふもふとした柔らかな毛の感触だった。柴田先輩の式神、コロ太はそのまま地面を蹴ると、最初にここへ入って来た工事現場の入口で止まった。
「た、助かった…有難う、コロ太」
 そう言って胸を撫で下ろし、ぽんぽんと叩いたのはピンと伸びる尻尾の見える尻の方だった。
正面から突っ込まれ、そのまま背中に背負われていたらしい。良く落ちなかったものだと思ったが、恐らくコロ太が落とさないようにしてくれたのだろう。 それに感謝しつつ降りると、左横、建物の入口で質量のある破壊音が響いた。驚いてそちらを見れば、一体の巨大な影猫が小さな入口を自分サイズに広げて外へと姿を現しているところだった。
「うわぁ…。本当に、一度決めたターゲットは、意地でも追いかけて来るんだな。アレって」
 非常にいい迷惑である。
 げんなりする俺の耳に、コロ太の唸り声が聞こえてきた。柴田先輩の言葉を守り、コロ太は俺を庇うように前へと立ちはだかった。
「コロ太……あ!柴田先輩!?」
 視線をコロ太から建物へと移す。建物の中では、柴田先輩がもう一体の巨大影猫と対峙しているはずだ。コロ太の実力が如何程のものか俺には分からないが、こっちにしろあっちにしろ楽な相手ではないことは確かだろう。
『シャッ!!』
 影猫の巨体が跳ねる。
「うわっ!」
 そのまま落下してくるのかと思いきや、空中でその体を大きく広く伸ばした。その大きさたるや俺たちの頭上に留まらず、この工事現場の建物を除いた全てを覆い隠そうとするほどだった。四方を壁に囲まれたこの状況では、何処へ逃げても呑み込まれるのが落ちだ。今から背後の出入り口から外へ出るとしても、カーテンを開けていては間に合わない。開けっ放しになるよう大きく開けておけば良かったと今更後悔したところで、どうにもならない。
「……万事休すってやつか?」
 ぽつりと呟いた俺の横で、コロ太が地を蹴る。
「コロ太?!」
 驚いてその行き先を見れば、何を思ったのか真っ直ぐに影猫の広げられた真ん中めがけて突進していく。白い体が、どんどんと遠くなる。そうしてそのまま、影猫の体へと吸い込まれるように入り見えなくなってしまった。一体何をするつもりなのか、不安でいっぱいになりながら、見守るしか俺にはできないことが歯痒かった。
 影猫の体はコロ太が突進したことを気にすることもなく、尚も伸びてとうとう地面にまで届いた。辺りを見渡すと、それは地面についたと同時に地面に粘性の高い液体が広がるようにズルズルと伸びて俺の足を絡め取ろうとした。
「うわっ。っとと!」
 無駄な抵抗とは分かりつつ、俺は片足で立ち少しでも逃れようと試みた。それでも伸び続ける影が俺の残った片足に絡みつく。
「ぎゃっ!気持ち悪っ!!」
 怖いのと巻き付かれた時のにゅるっとした見た目と感触に、思わず声を上げた。体はあんなにもやみたいなのに、人を捕まえる時はなんでこんなに生々しいんだよ!心の中で毒づき、片足の俺は当然の如くバランスを失って質量のある地面へ広がった影の上へと倒れ込んだ。にゅるりとしたあの嫌な感触が、全身を襲う。
「うわわわわっ!!??きも、気持ち悪いぃぃっ!!」
 怖い。怖いけどそれ以上に気色悪い!
 絡みつく影の中で手足をばたつかせもがいて見るが、もったりとした影は重く引き込まれるばかりで抜け出せる気がしない。
「もがっ……!」
 口元まで影が覆い、息ができないことに焦りを感じ始めた時だった。絡みついていた重みと気色悪さが、不意に霧散した。
「ぷはっ!な、なんだ?」
 息苦しさが無くなり、一気に空気を肺へと吸い込んだ。影の分だけ地面に落ち痛めた腰を擦りつつ、その場に立ち上がる。見渡した周囲も黒い影が消え、すっかり元の建設現場に戻っていた。
「あ、コロ太。コロ太は?!」
 叫んで、頭上を見上げた。そこには、無残に切り裂かれ空中に大小様々な影の塊となり漂う、影猫の姿があった。その細切れになった影猫を空中で追い回す白い狼の姿があった。どうやら影猫の懐に飛び込んだコロ太はそのまま内部で暴れ、影猫を細切れにしたようだった。無事な姿にホッと胸を撫で下ろした。半面、細切れになり、俺に絡みついていた末端が消滅したとしても、未だに消えず無数に残る影猫の姿に式神のコロ太では確実に退治できないことに気づいてしまった。
「柴田先輩は…大丈夫かな?」
 ちらりと視線を送った建物は、影猫が作った大きな入口がぽっかりと開き殆ど解体途中のビルにしか見えない。それだけ大きな穴が開いているにも関わらず、先輩の姿はここからではちらりとも窺えなかった。
『キャワンッ』
「!」
 聞こえた鳴き声に空へ視線を戻せば、無数の大小様々な影猫に囲まれ窮地に陥っているコロ太の姿が飛び込んできた。どうやら先程の一件で、残った影猫たちは先に厄介なコロ太を消すことにしたらしい。
「コロ太!」
 出来る事なら助けてやりたいが、俺にはあそこへ行く術がない。歯痒い思いで無数の影猫を睨み上げた。
「……誰でもいい。誰でも、何でもいいから、コロ太を助けてくれ!!」
 思わず叫んだ声に、まるで答えるかのようにコロ太を囲っていた影猫二体の伸びた頭にトスンと小刀が突き刺さる。それは、昨日俺が見た、シロの使っていた小刀と同じものだった。
「――消えなさい」
 静かだが、よく通る凛とした少女の声が淡々と響いた。瞬間、小刀の刺さった影猫の体が震え、その口が大きく開かれた。口を開いた影猫の口へと、他の影猫がどんどん吸い込まれ始まる。昨日見た小刀を媒体に地上へ入口を開いていたものを、影猫自体を媒体にして開いた様だった。二体の影猫に吸われ、コロ太の周りにいたものも周囲に散らばっていたものも殆ど消えると、吸っていた影猫の口がグンと大きく広がった。そのまま、袋の内側と外側を引っくり返す様に最後に二体は自分自身の体を吸い上げた。茫然と眺める中、最後に残った口の輪郭だけがふわりと風になびき、空気に溶けるようにスゥッと消えた。
「昨日、伝えたこと。理解して頂けなかったのでしょうか?」
 目の前の光景に見入っていた俺は、背後から聞こえた声に飛び上がるほど驚いた。
「いい、いきなり背後に立たないでくれ!び、び、びっくり、するだろう!?」
 勢い良く振り向き、何とかそれだけ返すのが精一杯だった。
「これは、失礼致しました」
 案外あっさりと謝ったシロと俺の間に、コロ太がトンと降り立った。そのまま、唸るでもなくじっとシロを見つめている。そんなコロ太の様子に、シロが目を細めて小さく苦笑を浮かべた。
「忠誠心の高い式神ですね。主の命令通り、あなたを今も守り続けている」
「コロ太……」
 思わずコロ太へと視線を向ける。コロ太は少々疲れているようだったが、怪我などは負っていないようでホッとした。
「安心してください。戌の彼は、無事ですよ」
「え」
 思わずシロを見てしまった。シロは無表情のまま、建設途中だというのに既に廃墟になりかけているビルへと視線を向けていた。
「伊吹!大丈夫か?!」
 淡々と告げたシロの言葉を待っていたかのように、背を向けた建設途中の建物の方から柴田先輩の声がかかる。
「柴田先輩!おかげ様で、俺はピンピンしてますよ。柴田先輩こそ、大丈夫だったんですか?」
「おう!当ったり前だろ?あのくらい、どうってことねぇよ」
 ニヤリと笑う先輩の制服は所々破れ、薄く血が滲んでいる箇所も見えた。本人はあっけらかんとしているが、それなりに大変だったことはそれだけで伺い知れた。そんな先輩に安堵して力が抜けた俺とは逆に、先輩は笑顔を消してシロへ視線を向けた。
「で?あんたが猫の能力者かもしれない人物?」
 ジロジロと不躾な視線を投げる先輩の態度も気にせず、シロは黙って先輩へと視線を向けている。
「……だったら、どうしますか?」
 無表情のまま淡々と聞いたシロの、関係ないと言いたげな態度に柴田先輩の片眉がぴくりと動く。
「どうします…って、お前、十三支の一人なんだぞ?分かってるのか?十三支の能力を継いだものは、人々を守るのが使命じゃないか。この能力は、そのためのものなんだからな?」
 正義感の強い先輩らしい定義に、シロは暫く腕を組んで睨みつけているその顔を見つめていた。しかし、不意に視線を外して目を伏せた。
「……違います。私は、猫の能力者ではありません。誤解を招くような発言をしてしまい、すみませんでした」
 そう言って頭を下げた少女に、先輩も面喰ったようで困り顔で頭を掻いた。
「……あんたが嘘をついていないのは、何となく分かるよ。だったら、どうして影猫を退ける力を持っているんだ?

を退治出来るのは、十三支の能力者だけだと俺は聞いているんだけど……」
「私は、猫の能力者ではありません。ですが、関係者とだけ申しておきましょう」
「関係者?」
 聞き返した俺に、シロは幾分か柔らかい表情で頷く。
「はい。その白い狼と、同じようなものだと申し上げれば理解いただけるでしょうか。ただ、同一ではありませんが」
 ちらりと向いたシロの視線につられ、今はシロへの警戒心を解き柴田先輩と俺の間に座っているコロ太を見た。
「なるほど。同一ではないから、あんたには影猫を撃退する力もある。って、ことか?」
「影猫を退ける力は、現在借り受けているだけのもの。本来は使えません。追い払ったり、力を削いで弱体化させることは元々できますが」
「借り受けるって、どういう意味だ?じゃあ、猫の能力を継いだ人物は、今一体どこにいるんだよ」
 その柴田先輩の質問には、シロは口を噤んで何も話さなかった。悪い意味ではなく、様子からして、話したくても話せない様だった。
「……あー。それは“ダメ”なわけか」
 シロの様子に先輩は眉を顰めて息を吐いた。先程まで自分の事はすらすらと答えてくれたので、多少は期待をしていたらしい。
「申し訳ありません」
 そう言って目を一度伏せると、シロは再び開いた目で俺を見た。
「十三支の方達が傍についてくれるようになったのであれば、それ程心配はいりませんね。しかし、くれぐれも注意したことはお忘れなきよう」
「う、うん。分かった。有り難うな。なんか、偶然なのに二回も助けてもらって」
 申し訳なくてお礼を言うと、シロは小さく「いえ」とだけ告げふいっとこちらへ背を向けた。
「それでは、私はこれで」
「ち、ちょっと待てよ!」
 慌てて先輩がその背に待ったをかけた。……なんか、この光景昨日も見た気がするな。止めたのが俺か先輩かの違いだけで、シロが言いたいことだけ言って帰ろうとするので、必然的にそんな感じになってしまうのかもしれない。
「まだ、何か?」
 ちらりと視線だけ送られて、先輩はお座なりな態度に少々ムッとしつつ、それでも愛想笑いを何とか浮かべている。正直で真っ直ぐな性格の先輩は嘘とか駆け引きが下手なようで、俺が見ても分かってしまうのだからきっとシロにも伝わっていることだろう。
「いや。せっかく猫の能力者の関係者に会えたんだし、出来れば連絡先とか教えてもらえれば嬉しいかなと」
 そう言いながら先輩は自分のスマートフォンを取り出して、シロへと示す。
 しかし、シロの反応は鈍い。スマートフォンに対しては興味を持ったらしく視線をじっと向けているが、連絡先の話と先輩の手にある小さな機械とが上手く結びついていないようだった。
「……その珍妙な機械は存じませんが、連絡先など私にはありません。連絡を取る必要性もかんじませんし、必要ならこちらから接触致しますゆえ」
「ち、珍妙な機械?」
 シロの言葉に、先輩の顔が唖然としたものになる。俺もこれにはちょっと驚いた。どうやらシロは携帯できる電話という存在そのものを知らないらしい。今時、そんな人物が現代にいるとは思わなかったよ。
 ポカンとしている俺たちを置いて、シロはさっさと用は済んだとばかりに建設現場を出て行ってしまった。
「……スマートフォンを知らないなんて……。あいつ、一体どんな生活してるんだ?」
「さ、さあ」
 ぽつりと呟いた先輩に、俺は肩を竦めて首を横に振るしかなかった。
「それにしても……これ、どうしましょうか?」
 背後へ視線をちらりと向けて、苦笑い浮かべ柴田先輩に尋ねる。先輩も背後へ顔を向けて、頭を掻いた。
「……うん。見なかったことに」
「それはダメでしょ」
 きっぱりと言った俺に先輩は一つ溜息をつく。
「……だよなぁ。分かってるよ。俺も黙ってて生徒会長(ボス)に明日、こっ酷く怒られるのはごめんだからな。一報入れておくよ」
 そう言うと、大人しく待機していたコロ太に小野寺先輩への言伝を託して見送ると、俺と先輩は半壊した工事現場をそそくさと後にしたのだった。

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