6.猫の者

文字数 7,066文字

 その夜、俺は夢を見た。
――ごめん、ごめんな。全部封じるから。青也、お前がきちんと能力について知る時が来るまで、全部封じて怖い思いをしないようにするから――
 誰かが俺の肩を掴んで、必死に訴える。その声は震え、瞳には追い詰められたような焦りと怯え、そして強い意思が宿っていた。着ている制服からしてうちの学校の男子生徒らしかった。そして俺は、この少年を知っている。
『……何を、言っているの?怖いよ、お兄ちゃん』
 夢の中の俺はまだ年端も行かない子供で、その少年のことをお兄ちゃんと親しげに呼んでいた。でも、名前が思い出せない。知らないのではなく、まるでそこだけスポンと抜けたように全く思い出せないのだ。実は今こうして少年と対峙して、初めてそんなお兄ちゃんが近所にいたなと思い出した。お兄ちゃんに関する記憶だけ、綺麗さっぱり抜け落ちていたのだ。けれども、今なら分かる。子供好きで、近所の俺みたいな小さい子たちと良く一緒に遊んでくれた大好きなお兄ちゃんだった。
 彼の言葉通り、俺の記憶は全て封印されているのかもしれない。でも、今日の綿抜先輩の話を聞いて、似たような境遇に消えたわけではない記憶が一番印象に残っている場面を引きずり出して来たのかもしれない。俺が、一番このお兄ちゃんについて印象に残っている記憶を。
『大丈夫、大丈夫だよ。君は、俺が守るから。どんな場所にいても、きっと』
 そう言ってお兄ちゃんは俺の手を取ると、手の平に小さなナイフを走らせた。
『ひっ?!』
 スッと冷たい痛みが走り、三センチほどの真っ直ぐな切り傷が出来ていた。薄く血が滲むその傷に、お兄ちゃんは自分の左手の人差し指を噛み切り、その場所に滑らせた。薄く滲んでいた俺の傷に、深く食い千切った彼の血が薄く塗り込まれる。懐いていた兄のような存在に行き成り訳の分からないことを言われ、手を切られた当時の俺はもはやこの時点でパニックに陥っていた。目の前で起きている出来事が信じられず、ただ恐怖に体を強張らせるしかなかった。
 そんな俺に構う事無く、圭吾お兄ちゃんはぶつぶつと何事かを呟き出す。
『……この血を持ちてその役を断ち、彼の血を持って新しき役を継がんことを……』
『お兄ちゃん!』
 堪らず叫んだ瞬間、俺は自分の体に何か得体の知れない透明な力の波の様なものが押し寄せて来た。乱暴な圧力は俺の内臓を圧迫し、嘔吐感がせりあがって来た。
『う、ぐぅっ?!』
 気持ち悪さに口元を押さえ、体を九の字に折った。その動きだけで頭が痛み、視界が歪む。
『ごめん、青也。ごめん……』
 その場に膝をついた俺に、お兄ちゃんがその場に立ち尽くしたまま、また謝罪の言葉を口にする。その背後の虚空が黒く淀み、その黒い霧のような塊のなかから大きな黒い手が這い出して来た。
『!』
 その手は、影猫の本体のないもやの様なものではなく、きちんと質量のある鍵爪のついた獣の様な手であった。それはまさに化け物の手と呼ぶに相応しいほど巨大で、そのまズルズルと伸びてお兄ちゃんの背後へとあっという間に迫っていた。
『お、にいちゃ……』
 危険を知らせようと気持ち悪さの中口を開いた俺の目の前で、お兄ちゃんはその手に体を掴まれてしまう。しかし、お兄ちゃんはそれに抵抗することもなく、黒い霧の中へと引きずり込まれるままになっていた。そうして闇の中に消える瞬間、お兄ちゃんは確かに小さく笑みを俺に向けてくれていた。それはまるで、『心配するな』と言っているように俺には見えた。
 そこで、俺の記憶は途絶えている。
 気が付いた時には、病院のベッドの上だった。家の近くで倒れていたところを、近所の人が見つけて救急車を呼んでくれたのだそうだ。まあ、今、目を覚ましたのは自宅のベッドの上だったけど。
「……夢、か」
 いや。夢であって、夢ではなかったな。俺にとってはずっと忘れていた過去の記憶だ。
「はあ、寝起きなのにちっとも疲れが取れた気がしないな」
 ベッドに座り込んだまま、ぽりぽりと頭を掻いた。
 この思い出した過去を、やはり先輩たちに伝えるべきなのだろな。おそらく、昨日の出来事のせいで思い出した記憶のようだし。しかし話すのはいいが、説明を求められると困ってしまう。俺自身も、説明できるだけのことを思い出していないのだ。
「やれやれ、頭の痛いことばかりだ」
 あるいは、と思う。黒い化け物のことも、攫われたお兄ちゃんのことも、あの二人…シロとクロに聞ければ、何かわかるのではないだろうか。ただ、問題は神出鬼没のあの二人にどうやって会うかということだ。シロは影猫が出れば会えるかも知れないが、例え必要とあっても進んであんなものを呼び出したいとは思わない。クロに至っては会ったら会ったで、また殺されそうだけど。
「……とりあえず、起きるか」
 気だるい体を動かして、俺は学校へ向かうためベッドから這い出したのだった。


「どうした、伊吹。朝っぱらから疲れた顔をして」
 わざわざ家まで迎えに来てくれた柴田先輩の茶化すような言葉にも、俺は笑って誤魔化すのが精一杯だった。今打ち明ける訳には行かない。話すなら、学校に着いて小野寺会長に会ってからだ。もしくは、この登校時にシロかクロに会えちゃうとかないだろうか。出来ればシロの方。影猫はもちろんなしで。
「柴田くんったら当たり前じゃない。昨日、あれだけ酷い目にあったのよ?今日も体調が良くなくて当然よ」
 同じく迎えに来てくれた綿抜先輩が、柴田先輩を俺の左横から窘める。ちなみに柴田先輩は右におり、俺は二人に挟まれる形で歩いていた。そのせいか、同じように学校へ向かう生徒たちの視線が突き刺さってしかたない。注目されるのは仕方ないとはいえ、居心地悪くてしょうがないな。これ。
 さっさと学校へ行ってしまおうと足を速めた俺の視界に、うちの学校とは違う真っ黒なセーラー服の少女が留まる。一人、生徒の流れとは逆に歩みを進め、ピタリと俺の目の前で止まった。真っ直ぐに見据える黒い瞳は、決意の色を含んでいた。
「申し訳ありませんが、何か伊吹にご用ですか?」
 スッと、自然な動きで俺と少女の間に綿抜先輩が割って入った。その表情は俺から見えないが、声の調子は警戒の色を含んでいる。
「そいつは大丈夫だよ、先輩」
 俺が口を開くよりも先に、柴田先輩が言葉を発していた。頭の後ろで手を組み、少々不機嫌そうに目の前の少女――シロを眺めている。
「だろ?猫の能力者の関係者、シロさんや」
「え!この子が……!?」
 柴田先輩の言葉に、綿抜先輩の声に動揺が交じる。唖然として少女を見ているようだった。
「ええ。その通りですよ、戌の者。未の者よ、どうかご安心ください。今日はあなたと一戦交えに来たわけではありません。それに、私の果たすべき事は、この命に代えても青也様をお守りすることです。しかし……」
 そう言って視線を俺に移すと、元の位置へ引いた綿抜先輩と柴田先輩…と、その他ギャラリーの視線が集まる中、シロはあろうことか俺の前に傅いたのだった。
「ぶっ!?ちょっ、シロ!そんな公衆の面前で何を……!」
 慌てる俺を無視して、シロは頭を下げて言葉を続けた。
「申し訳ありません。ですが、もう時間がございません。私は、前・(あるじ)様の言いつけを破り、青也様の戒めを解かせて頂きます」
 言うが早いか、反応できないでいる俺の額へと立ち上がり左手で触れた。その瞬間、色々な記憶が脳内を巡った。それは全て幼い頃の俺の記憶で、傍らには常にあの夢の黒い手に攫われた少年がいた。これは、その少年と俺の過去の記憶なのだとすぐに理解した。目を閉じて巡る記憶に集中する。その中には、夢でみた場面も混じっていた。おかしくなりそうな気持ちを、ただその少年の正体を追うことに専念して何とかやり過ごしていた。
 『誰』なんて、殆ど予想できていた。それは、記憶が一番初め、お兄ちゃんに出会った場面まで戻ってやっとはっきりした。
「……そうか。彼が、梅景圭吾。圭吾お兄ちゃん、か」
 目を開き、シロを見つめて呟いた声に目の前の少女が頷く。
「そして、俺はお兄ちゃんから強制的に猫の能力を継がされた者。後任の猫の者。シロ、お前は猫の者の…俺の式神だったんだな」
 俺の言葉に、両端の先輩たちが息を呑むのが気配で伝わって来た。それはそうだろう。ずっと行方が分からず探し求めていた猫が、俺だったなんて。当の俺自身もびっくりだ。
「なんで、ずっと忘れていたのかも思い出したよ。俺は、能力も記憶も全て、圭吾お兄ちゃんによって封じられていたんだな。力を継いだ当時の俺が余りにも幼すぎて、猫の能力を消そうとしている影猫から身を守りきることが出来ないと判断して。そして、お兄ちゃんは……代わりにあちら側へ猫の者として連れて行かれた。本当は、もう何者でもないのに……」
 俺の話を聞いていた綿抜先輩が、口元を覆い今にも泣き出しそうに顔を歪めた。
「そんな……圭吾お兄ちゃんが、あちら側に連れて行かれてしまったなんて……!」
「青也様。私の解ける封印は半分だけです」
「半分?」
 尋ねた俺に、シロが真剣な表情で頷く。
「はい。前任者の圭吾様の命により、猫の式の二人でそれぞれ青也様の記憶を封じました。そして、私は青也様の身を守り、もう一人の式、クロはあちら側の動向と圭吾様の行方を追っていました。しかし、クロはあちら側の張った罠にかかり、圭吾様の命と引き換えに十三支を消すようその精神に刷り込まれたのです。クロはその呪縛によって、こちら側へ戻され十三支を襲う様になりました。何度か、私も正気に戻そうと試みたのですが……」
「聞く耳持たず、か」
 ため息と共に呟いた柴田先輩の声に、シロが申し訳なさそうに首を縦に振った。
「クロはそもそも圭吾様のことを気に入っておりましたから、その心の弱い部分に付け込まれてしまったようです。本当に、申し訳ございません。十三支の一人の式神でありながら、同じ仲間を襲って怪我をさせるなど、あってはならないことです」
  深々と頭を下げたシロに、ちらりと盗み見た柴田先輩は困ったように組んでいた手を解いて頭を掻いている。
「あんたに謝られてもなぁ。それに、何だってその前任者の先輩は、他の十三支に相談しなかったんだ?影猫に命を狙われてるって」
「……いえ。当時の十三支の方々には相談しておりました。しかし、捕まった時はどうしても周りに誰もいない、一人の時分を狙われたもので……」
「なるほど。で?今回はまた、なんでその前任者の命令を破ってまで、伊吹の封印を解いたんだ?」
 柴田先輩の疑問はもっともで、俺もそれは不思議に思っていた。確かに夢の中で、圭吾お兄ちゃんは俺が十三支について知識を得るまでと言ってはいたが、随分と急な気がしてならない。
「元々、青也様が十三支の能力について正しい知識を得て、きちんと制御出来るようになるまでと圭吾様からも承っております。本来ならば、もう少し様子を見るつもりでした。しかし、そうも言ってはいられなくなったのです。あちら側の、圭吾様を捉えている奴らが圭吾様が既に猫の能力を持っていないことに気が付き始めたようです。このままでは、圭吾様が危ないと判断し、自分の一存で青也様の封印を解きました」
「そう言う事、か」
 今の話で全て納得が行ったらしく、柴田先輩はため息雑じりにそう呟いた。かくいう俺は、確かに理由は分かったものの、一つだけ疑問が残って妙な気持ち悪さを覚えていた。
「柴田先輩。今の話だと確かに概ね理解は出来ますが、それだと別に俺の封印を解かずにシロが他の十三支に理由を話して助けに言ってはダメなんですか?いや、別に助けに行くのが嫌だとかそういう事ではなくてですね」
 もちろん、俺に力があるのなら圭吾お兄ちゃんを助けたいに決まっている。
「えっとだな。式神って言うのは、基本的に使役主の命令した範囲内でしか自由に動けないんだよ。全く逆のことをしようとしたり関係ないことを自発的に行われたら、式の意味がなくなるだろ?だから、そこら辺は契約時に戒めがかけられていることが多いんだ。ここまで言えばわかるだろ?シロが前任者を助けに行くには、自分の主に命じてもらうか、主自身が助けに行くのに同行するしか術がないんだよ。多分、前任者の最後の命令はあくまで伊吹の身の安全を守ること。自分に何かあったら助けろなんて命令は出していないだろうよ」
 ひらりと片手を振って説明してくれる柴田先輩に、なるほどと納得した。
「でも、じゃあ今回、命令を破って俺の封印を解けたのはなぜです?」
「封印を解くなとは言われていないだろ。お前がきちんと知識を持って力を使えるようになるまでなんてのは、あくまで過程を言っただけさ。おそらく命令は、伊吹を危険から守ること。能力を封印することと、解くことぐらい、だろ?」
 柴田先輩の得意げな声に、シロは頷き肯定する。
「はい。封印を解く時期については、ただ目安として提示されただけです。しかし圭吾様の言いつけを守るのが私たち式の役目。いつでも解けると言っても、出来る限り圭吾様の言葉通りに行動致します。ですが、今回はそうも言っていられません」
「そりゃそうだ。前任とはいえ主の命の危機だからな」
 そう言ってニヤリと笑う柴田先輩の顔面に、学生鞄が俺の左横から飛んだ。それは綺麗にヒットし、先輩は変な声をあげて顔を押さえている。
「人の命がかかっている時に何ふざけてるのよ!」
 左から綿抜先輩の怒声が響き、俺は耳を押さえて顔を顰めた。
 そうだった。綿抜先輩はずっとずっと小さい頃から、圭吾お兄ちゃんのことを尊敬し憧れ、懸命に探して来た人だ。この事態、黙っているはずがない。
 柴田先輩を睨みつけた後、シロに向き直ってその両肩を掴んだ。
「わかったわ。圭吾お兄ちゃんは、必ず私たちが助けてみせる!」
「あ、ありがとうございます」
 凄まじい勢いで迫られ、シロも嬉しい反面たじたじだ。身を引いてびくついている。
「ま、これも十三支のお役目だな。それで?その梅景先輩は一体何処に捕まっているんだ?」
「はい。猫の刻――ガタクロノスの世界に囚われていると思われます」
 頷き答えたシロの言葉に、柴田先輩が不思議そうな顔をする。
「なんだ、あちら側じゃないんだな」
「いえ、最初はあちら側に連れて行かれたそうです。でも、なんの理由か突然猫の刻へ放り出されたのだと、まだ正気だった頃のクロの追跡後の最後の報告で聞いています。その報告の後、クロは操られてあのような恐ろしいことに……。今思えば、最後の報告に訪れたクロも何処かおかしかったかもしれません。早口で告げることだけ告げて、さっさ行ってしまいましたし……。あ、申し訳ありません。話がずれてしまいました。ですから、今は圭吾様が何処にいるのかわからないのです。ただ、猫の刻の中にいることだけは確かなのですが……」
 言いながらすまなそうな顔を浮かべるシロ。その頭に片手を伸ばし、ぽんぽんと柴田先輩が叩いた。
「だいじょーぶだって。そのための、後任者猫くんがいるんだから」
 もしかしなくても俺のことを言っているのだろうか。自分を指さして目線でそれを訴えれば、柴田先輩に笑顔で首を上下に振られてしまった。ああ、そうなのか。やっぱり。
「猫の刻に外からの迷子が入っていると、猫の者がその空間に立つだけで何処にいるかわかっちまうらしい。だから、お前が猫の刻の入口を開き、そこに入るだけで居場所は掴めるはずなんだ」
「そ、そうなんですか。詳しいですね、猫の能力なのに」
 尋ねてみれば、フンと鼻を鳴らして胸を張られた。
「そりゃな。行方不明者探索のための重要な能力だからな。ある程は自分の力以外も知っているさ」
「な、なるほど」
 思わず納得して頷いた。
「さあ、二人とも。行くわよ!」
 シロから手を放すと、綿抜先輩が急ぎ足で歩き出す。
「行くって、どこへ行くんですか?」
「もちろん、学校よ!」
 慌ててその後を追いながら尋ねると、綿抜先輩は振り返らずに答えた。いつもの綿抜先輩よりもきびきびとしていて妙な感じだ。
「あ、そうか。小野寺会長に伝えてみんなで助けに行くんですね?」
「残念だけど、今日は勝子ちゃん十三支会の用事で学校にはいないわ。勝子ちゃんたちには私の式を飛ばして知らせておくから、私たちだけで助けに行くのよ!待っている時間もないわ。来るかどうかも分からないし」
「えぇっ?!だ、大丈夫なんですか?!」
 思わず叫んだ俺の肩を後ろからぽんぽんと叩いて、柴田先輩が追い越していく。
「大丈夫だって。俺が付いているし、大体いつも事件がある時は動けるやつが動くのが常だからな。それに、まだあちら側に行ってないのなら、俺たちだけでも助け出すチャンスはある」
 経験者二人がそう言うのだから、これ以上俺が何を言っても無駄だろう。
「……分かりました。学校に向かうのは、あそこがあちら側との接点だから。ですよね、確か」
 覚悟を決めて尋ねた俺の言葉に、綿抜先輩が頷く。
「ええ、そうよ。猫の刻へは学校から入るの。猫の者がその出入り口を開く鍵になる」
「了解です。行こう、シロ。圭吾お兄ちゃんを助けに!」
 綿抜先輩に頷き返してから、戸惑いながら着いてきていたシロに声をかけた。すると、シロは一瞬驚いた表情を浮かべた後、パッと顔を輝かせて嬉しそうに大きく頷いた。
「はい!青也様!」
 かくして、圭吾お兄ちゃんを助けるべく、俺たちは学校へ足早に向かったのだった。

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