第1話 失踪と出会い

文字数 2,406文字

僕は神様の作った失敗作なんです。
一体、なんのために生まれてきたんだろうって思います。
僕は頭が悪く、体力もない。発達障害もある。男に体を売って、生きることしか出来ません。こんな状態で、ただ生きていても(むな)しい。空しくて、仕方がありません。

旧約聖書の中に、こんな言葉があるんだそうです。
"(くう)の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの利益があるか。世代は去り、世代は来たる。しかし地は永遠に変わらない"

牧師さんに教えてもらいました。
人は飲み食いし、労苦によって得たもので楽しく過ごすより他に良い事はない、と書かれてあるそうです。人は一生、暗やみと悲しみと多くの悩みと病と憤りの中にある、と。すべて来たらんとする事は皆空であって、風を捕えるようなものである、と。



「なんだ。これは」
龍一(りゅういち)は独り呟きながら、文章の書かれたノートを両手に持ち、立ちつくしていた。この小さくて丸っこい鉛筆書きの文字。これは明らかに、翔太(しょうた)の書いた文章だ。
翔太と連絡が取れなくなってから、一晩が経った。寝ないで待っていても、結局彼が帰ってくることはなかった。何か手がかりはないかと机の上を探していたら、このノートを見つけたのだ。

その時、アパートのインターホンが鳴った。
「翔太!」
駆け寄ってドアを開けると、小柄なロングヘアの女性が、のけ反るような姿勢で立っていた。白いブラウスに、淡いベージュのスーツ姿。その顔は、どこか見覚えがあるように感じた。
「あの…」女性は、少し怯えたような声と表情で話しかけてきた。
「ひょっとして…あなたが龍一さん?」
「ああ」龍一は、期待はずれに()る不機嫌な声と表情で返した。
「あんた、誰? なんかの勧誘なら間に合っているよ」
女性はムッとした表情になり、真っ直ぐに姿勢を正す。
「勧誘ではありません。どうもはじめまして。私、水原奈央子(みずはらなおこ)といいます。翔太の姉です」
龍一は内心驚いた。見覚えがあると感じたのは、どこか翔太に似ているからだったのか。しかしその心の内を表に出すことはなかった。
「はじめまして。小野寺龍一(おのでらりゅういち)です」
頭をかきながら、ぶっきらぼうに答える。
「俺のこと、翔太に聞いたんですか?」
「一緒に住んでいるルームメイトがいる、とだけ話は聞いていました。突然で申し訳ないんだけど、少しお邪魔してもいいかしら」
奈央子は返事を待たず、ハイヒールを脱いで、勝手に部屋に上がり込んだ。これだからやっぱり女は厚かましい、と龍一は腹の内でこっそり呟く。

ゴミ屋敷とまではいかないが、1Kの部屋の中は、雑誌、脱ぎ散らかした服、スナック菓子の袋などで足の踏み場もないほど乱雑に散らかっている。奈央子は怪訝(けげん)な顔で辺りを見渡しながら、「座布団もないのね」と仕方ないと言わんばかり、パソコン前のデスクチェアに座った。

「ちょうどよかった。ほら、あんたの目の前。パソコンの上にノートが置いてあるだろ」
奈央子は言われた通り、閉じたノートパソコンの上に目をやった。「これ?」と上目遣いに問いかけながらA4サイズの青いノートを手に取る。真新しいノートには、龍一の読んだ文章しか書かれていない。すぐに奈央子の顔色が変わった。
「なんなの。これ…」
俺と同じこと言うんだな、と龍一は衝撃を受けたふうの奈央子を見下ろしながら思う。
「明らかに翔太の書いた文字よね。まさかこれ、遺書なんじゃないでしょうね」
龍一は、絶句した。自分もまさかとは思うが、確かにそう受け取れないこともない。
「実は昨日の朝から、翔太と連絡が取れないの。電話にも出ないし、メッセージの返信もない。いままでこんなことなかったのに」
「それは俺も同じ。で、ついさっきそのノートを見つけた」
「ひとつ気になるところがあるんだけれど…」
奈央子は、ある箇所を指さしながら言った。
「男に体を売って生きる、ってどういうこと? 男って、あなたのこと?」
上から下まで、薄汚い部屋着姿の龍一を眺める。グレーのトレーナーは、もう長いこと洗っていない。短く刈り上げた髪は、だらしなく寝癖がついたまんまだ。
「話せば長くなるんだけど」龍一は、手櫛(てぐし)で髪を()きながら言った。
「相手は俺じゃない。どうせバレると思うから、ハッキリと言うよ。俺はただのルームメイトじゃない。翔太の恋人、彼氏なんだ」
奈央子はしばらくのあいだ、龍一の目を見つめたまま固まっていた。が、やがて力が抜けたかのように息を吐き、うなだれた。
「やっぱりね。薄々は勘づいていたの。翔太が同性愛者であることは、本人が打ち明けてくれたから、知っていました。両親はまだ知らないみたいなんだけど」
その言葉から、翔太が奈央子には心を許していること、二人の信頼関係を龍一は感じ取った。
「あの子はね、実家にいた頃、ずっと引きこもりだったの。高校生の時、発達障害があることや、同性愛の傾向があることを無神経な担任教師がクラスメイトに知らせたみたいで。そのことは、もう聞いていた?」
なんとなくはわかっていたが、龍一は首を横に振る。
「去年、急に友達と一緒に住むことになったと聞かされた時は、本当にびっくりしたわ。あなたがいたからだったのね」
奈央子は言ってから、急に目が覚めたような表情になり、左手首に()めた時計の針を見た。
「いきなり押しかけておいて悪いんだけど、今日はこれから仕事で、出社しなければならないの。連絡先を教えるから、どこかでまた話せないかしら」
龍一も、このままただじっと待っているわけにもいかず、「そうだな」と頷く。
「本当は、警察に捜索願を出してもいいくらいの心境なんだけど。もう少し様子を見て、自分達に出来ることがあればやるべきかも知れないわ」
その言葉に、龍一はあからさまに表情を曇らせた。
「ワケあって、警察とは極力関わり合いたくない。市内に俺たちが知り合ったゲイバーがあるから、夜一緒にそこへ行って、仲間に話を聞いてみないか」

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