第3話 堅物の牧師

文字数 2,482文字

翌朝、奈央子は在宅勤務の日だったため、いつもより時間に余裕があった。どうしても翔太のことが頭から離れないので、早々スマートフォンから龍一にメッセージを送る。
「翔太は帰ってきた?」
即座に「ない」とだけ返事があった。
「お店の人たちが言った通り、オジサマたちを頼るしかないかも知れないわ。ノートに書いてあった牧師さんのことが気になっているの。何か悩みを聞いたりしていないかしら」

龍一はこの日戸建ての解体の仕事があるとかで、日中は動けないらしい。牧師は顔見知りということで、夕方なら訪ねることが出来るということだった。龍一は作業着からジーンズに着替え、ワンピース姿でやって来た奈央子とアパートで待ち合わせをした。

平沢という六十代の男が勤めるプロテスタントのバプテスト教会は、龍一たちが住むアパートの徒歩圏内にあった。二人が辿り着いた時には辺りはすっかり暗くなり外観はよく見えなかったが、教会というより三角屋根の古い洋館みたいな建物だった。信徒たちが出入りするため玄関の間口は広く、右奥は靴箱になっている。
「龍一くん、こんばんは。電話をどうもありがとう」
薄暗い室内から、礼拝でもないのに黒い立襟(たてえり)の司祭服を着た平沢が現れた。ひどく痩せ細っていて、まるで幽霊のようだと奈央子は思う。
「どう? 最近。ちゃんと真面目にやってる?」
平沢の問いに、なんとも気まずそうな表情をする龍一を奈央子は見た。靴箱に靴を入れると、内密の話をするのにちょうどいいような、狭い談話室に通された。木製の長机を挟んで、教会でよく見かけるような長椅子が二つ置いてあるだけの殺風景な部屋。

「電話で話したのは、このノートです。このノートを置いて、翔太が三日前からいなくなったんです」
向かい合って座った平沢に、龍一は机に置いたノートを前に差し出す。平沢は、どこからか老眼鏡を取り出し顔にかけてから、ノートを開いた。
「これは、旧約聖書の『伝道の書』ですね。確かに、翔太くんに教えたことがあるかも知れません」
「伝道の書?」
龍一の左に並んで座った奈央子が、聞き返す。平沢は、ノートから奈央子に目を移した。
「あなたが、翔太くんのお姉さんですね。そうです。『伝道の書』です。『伝道者の書』とも言われています」
「ごめんなさい。私、キリスト教に全く無縁というか、無学でして。そういったものが旧約聖書の中にあるんですね」
「諸説ありますが、ダビデの子エルサレムの王であるソロモンという人が伝道者だと言われています。内容は、要約するなら人の人生は空しくて取るに足らないものだから、大いなる神のわざを知り、(おそ)れなさいといった内容です」
「翔太は、なぜそんなものを引用してノートに書いたのでしょうか? 何か悩みがあるふうではありませんでしたか?」
平沢はノートを閉じ、机に置き直してから、首をやや傾げた。
「私は、家に閉じこもっていた翔太くんにギリシャ語や聖書の内容を教えていただけでしたからねえ。本当に、ただそれだけでしたから」
平沢はそう言ったが、翔太を食事に誘ったり体に触ったりしていたのを龍一は知っている。だが何も言い返せず黙っていた。
「私、このノートに書かれた文章がまるで遺書みたいだと思って、本気で心配しているんです。翔太の行先に、どこか思い当たる所はないでしょうか?」
「さあねえ。私は聖職者ですし神父と違って妻子もいるんでね。あまり若い子が行くような場所はわからないんですよね」
平沢は、ことさら自分が堅物(かたぶつ)であることを強調するかのように言った。しかし『信』が提携している出会い系サイトにアクセスしていた時期があるのを龍一は知っている。
「もしこのノートに書かれていることが遺書だとしたら…」平沢は、ひと呼吸置いてから言った。
「『伝道の書』ではなく『伝道の遺書』ですな」
冗談で言ったと思われるその一言が、平沢にとっては所詮どうでもいい他人事なんだという事実を浮き彫りにし、奈央子は冷たく突き放された気分になった。「来るんじゃなかった」と心中思ったが、龍一もおそらく同じ気持ちだっただろう。奈央子は立ち上がった。
「わかりました。自分達で、もう少し探してみます。お忙しい中お時間をいただき、ありがとうございました」
「あ、ちょっとお待ちください」
平沢は失言を悟ったのか、慌てて別室に移り、何かを持って戻ってきた。
「はい、これ。古いものですが、新旧合わせた聖書です。あなたに差し上げます。『伝道の書』だけでも胸を打つ内容ですので、ぜひ読んでみてください。何かヒントが書かれてあるかも知れませんし」
小さいが、分厚く黒い聖書を奈央子に手渡した。
「ありがとうございます。この機会に読んで勉強してみます」
「龍一くんは、もう持っていますよね? 翔太くんも持っていますし」
龍一は、頷きもしなかった。
靴箱から靴を取り出している時、平沢は念を押すかのようにこう言った。
「早く見つかるといいですね。わざわざ足を運んでいただいたのに、お役に立てずに申し訳ありません。私はただ、翔太くんに聖書を教えていただけでしたから。本当に、ただそれだけでしたから」
最後に「神の御恵みがありますよう」牧師らしい一言を添えて、去っていく二人を見送った。

「ねえ、聖書なんて持っていたの? 何も答えていなかったけど」
アパートに向けて先に歩き出した龍一に追いついてから、奈央子は聞いた。
「ああ。ずいぶん前にあいつから貰ったことあったかな。読まねえから、さっさと捨てたけど」
奈央子は、近所だからそういうこともあったのかな、と思った。
「私、今日いただいた聖書、『伝道の書』の部分だけでも帰って早速読んでみるわ。牧師さんの言った通り、何か手がかりになるヒントが見つかるかも知れないし」
「俺は一人で、他の親父連中を当たってみることにするよ」
龍一は前を向いたまま、足を止めずに言った。
「あんたが一緒にいたんじゃ、また『信』の時みたいな冷やかしに遭いかねない。それに、親父たちはあの牧師と違って金持ちの有名人が多いから、一般人には絶対に秘密を知られたくないはずだ。あんたがいないほうが、捜しやすいんだ」

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