第8話 やれるもんならやってみなさいよ

文字数 1,513文字

奈央子は一瞬、何が起きたのかわからなかった。
虫が這っていてもおかしくないような不潔な部屋の中、いま自分は同性愛者であるはずの龍一に押し倒されている。動揺で視線が揺れ、覆い被さっている龍一と天井の照明とを交互に見ていた。

「あんたを見ていると、どうしても翔太を思い出す」
龍一は、低い声で言った。奈央子の胸の中に、徐々に恐怖が迫ってきていた。声を出そうとしても、言葉を出そうとしても出てこない。
「言い忘れていたが」
ただ涙目で見つめる奈央子に、龍一は言った。
「俺は女に対しても出来る。滅茶苦茶にしてやることが」
両腕を強い力で畳に押さえつけられ、抵抗することが出来ない。やがて、体が小刻みに震え始めたのがわかった。そんな奈央子を見て、龍一は馬乗りになったまま丸襟になった白いブラウスのボタンを上から外し、脱がせ始める。ブラウスを引っ張られ、あっという間に白いレースのブラジャー姿にされた。肌が冷気に当たったせいか恐怖のためか、鳥肌になっているのがわかる。

龍一が弟の恋人、同性愛者だと思って油断した自分にも非があったのかも知れない。しかし警察に行こうとした自分を、まるでこうすることによって引き止めているようにも感じる。奈央子は、自問自答を続けた。だとしたらなぜこんなにも、龍一は警察をいやがるのか。過去に警察沙汰を起こしたのはわかるが、何か他にも理由があるのではないか。
「やれるもんなら、やってみなさいよ」
クリーム色のスカートに手をかけられた時、震える声で、奈央子は言った。最後の「よ」で、声がうわずってしまった。
「失踪したと見せかけておいて…」奈央子は心の奥に仕舞っていた疑問を、そのまま言葉に出した。
「本当は、あなたが殺したんじゃないの?」
スカートを脱がせようとしていた手が止まり、まるで時が止まったかのように、龍一は目を見開き瞬きも止めた。その表情を見た時、殺意に似た強いものを感じ、奈央子は恐怖のあまりぎゅっと両目を瞑る。恐るおそる目を見開くと、冷静さを取り戻し、デスクチェアに座り直す龍一が見えた。

奈央子は、はだけたブラウスを肩にかけ直し、ゆっくりと上体を起こす。
「そう思われるのも無理はないな」
龍一の口元は笑っているが、目元はとてつもなく寂しそうな表情をしている。
「俺が警察に行くのを必死に引き止めようとしているとでも思った? 男だから欲情しただけだよ。最近、ご無沙汰だったんでね」
奈央子は上目遣いで様子を(うかが)いながら、外れたボタンを一つひとつかけ直す。
「俺は建設業だし、確かにあいつの体をセメントで固めて横浜港に沈めることが出来る。だけどこんなことしておいてなんだが、これだけは信じてほしい。俺は翔太を殺すどころか、殴ったことも一度もない。信じてほしい」
懇願(こんがん)する龍一の目は、寂しげで哀しげなままだった。ブラウスを最後まで着直した時、奈央子は初めて落ち着いて、自分の犯した過ちの大きさに気がついた。

「ごめんなさい。どうにかしてたわ。そんなこと、あるわけないのにね…。本当に…ごめんなさい」
こんなことだから、龍一は神も人間も信じられなくなるのではないか。奈央子は自分がされたことも忘れて、心からの謝罪をした。
「俺もひどいことをしたし、どうにかしてた。だからお互い様だ。誤解されないためにも、翔太のためにも、俺もこれから一緒に警察に行って、捜索願を出すよ」
龍一はそう言って一度水を飲むと、立ち上がった。奈央子がハンガーにかけたトレンチコートを羽織っている時、玄関で何やら物音がした。玄関ドアの硝子部分に人影が映った気がして、龍一はドアノブを握りそっと押してみる。
ドアの隙間部分から、何か動物のようなものが、勢いよく飛び込んできた。

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