第9話 三つ編みの綱

文字数 2,025文字

「龍くん!」

赤いジャンパー姿の、翔太だった。龍一を見ると元気いっぱいにそう叫び、抱きついてきた。龍一も奈央子も、一瞬目を疑った。
「翔太…? 本当に翔太なの?」
龍一の後ろにいた奈央子は、そう確認せずにはいられなかった。翔太は龍一の背中から、ひよっこり顔だけを覗かせると、
「あれっ? 奈央姉(なおねえ)じゃん。どうしたのこんなとこで?」と尋ねた後、「やっほぉ」と紙袋を持った右手を上げ、おどけた挨拶をした。
「やっほぉじゃないでしょ! 龍一さんもお姉ちゃんも、あんたのことどれだけ心配したと思ってるの! 本当にいい加減にしなさい!」
奈央子は、つい語気(ごき)が荒くなる。しかし一方で、安心と喜びに満たされている自分がいた。それにしても、十分ほど帰宅の時間が早くなっていれば、危ういところだった。龍一もそれは感じているのかも知れない。

「お姉さんの言う通り、本当に心配したんだぞ。いままで一体どこに行っていたんだ」
龍一に「お姉さん」と呼ばれたのは初めてかも知れない、と奈央子は思う。
「あのね、あのね、マーくんと一緒に、岡山のお祖母ちゃんちに泊まりに行ってきたんだよ。それでついあちこち遊んじゃった」
笑顔で龍一を見上げ話す翔太に、「マーくんって誰?」龍一と奈央子がほぼ同時に声を揃える。二人は顔を見合わせると、またしてもほぼ同時に笑った。
「最近知り合ったお友達だよ。はいこれ、おみやげのきび団子。奈央姉のぶんも買ってあるんだよ」
右手に持っていた紙袋を、龍一に手渡した。奈央子は平手打ちのひとつでも浴びせてほしかったが、龍一は終始 (なご)やかに微笑み、そんな翔太をしみじみ見つめている。顔全体が緩みきっているというのか、こんなにも緊張感のない穏やかな表情の龍一を、初めて見た。
「馬鹿だな。本当に心配したんだぞ。これからはもう二度とこんなことするなよ」
平手打ちどころか、龍一はそう言って翔太を両手でやさしく抱きしめた。翔太を殴ったことがない、と言ったのは本当の話なのかも知れない。龍一がいかに翔太を大切に想い生きてきたか、垣間見られたような気がした。独り置いてけぼりにされた奈央子は、
「そういえば、これ。この置手紙みたいなノートは、一体なんの真似なの? 私たちこれが遺書みたいだと思って、これから警察に行くところだったのよ」
机の上に置いてあったノートを持ってきて、翔太の目の前で振って見せる。
「ああ、それ…」さすがの翔太も、少し気まずそうに俯く。「龍くんに、心配してほしかったの」
龍一も奈央子も、ぽかんとして翔太の言い訳を待つ。
「だって龍くん、僕が他の人と会っていても全然嫉妬してくれないし、心配してくれないんだもん。マーくんに相談したら、それは少し心配させたほうがいい、って言うの。それでマーくんが岡山のお祖母ちゃんちに帰省するっていうから、わざと意味ありげなことを書き残して、ついて行っちゃったの。でも龍くんにどうしても会いたくなって、途中で帰ってきちゃった」
奈央子は、殴ることが出来ないならせめて怒鳴ってほしかったが、龍一はやはり黙って微笑んでいる。

「あのね、嫉妬しないのは愛がない証拠なんだよ」
翔太は、そんな龍一に教え諭すように言った。
「悪かったな。これからは、ちゃんと嫉妬するようにするよ。だけど、なんの連絡もなく突然いなくなるのはルール違反だ。今度からは、厳しくお仕置きするからな」
そう言って、再びやさしく抱きしめる。龍一が嫉妬しないなんてことは、本当はないはずなのに。恋人のいない奈央子は、その光景がなんだか羨ましくなってしまった。

「ねえ、ちょうど出かけるところだったし、翔太が無事に帰って来たお祝いに、何か食べに行きましょうよ。私が(おご)るわ」
翔太は「焼肉が食べたい」と言ったが、結局近所のファミリーレストランに出かけることになった。翔太は腹が減っていたみたいで、いろんなみやげ話を楽しく二人に聞かせながら、ハンバーグステーキを美味(うま)そうに食べる。その元気そうな姿を見て、奈央子は心底、「よかった」と安心した。龍一もおそらく、同じ心境だろう。

「あんたは、いい姉貴だよ。しっかりしている」
向かい合って座った奈央子に、ふと龍一は話しかけてきた。
「俺は女を信用することが出来ない。でもあんたなら、信用出来そうな気がする。なんとなく」
「またあの楽しいお店に行きましょう。今度は三人で」
奈央子は笑顔で言った。

過去に殺人事件を犯したという龍一と、今後付き合いが出来るのかどうかわからない。ひょっとして、友人になることも難しいのかも知れない。
しかし自分に出来るかぎり、世の中には信頼できる人間もいることを伝えていきたい、と奈央子は思った。神を信じることも大切だが、人を信じることの大切さも。これから、自分にその手助けがしていければ。

『伝道の書』の一節に、確かこのように書かれてあった。
ふたりはひとりにまさる。
彼らが倒れる時には、そのひとりが友を助け起こす。

三つ編みの綱は、たやすくは切れない。

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