第7話 神なんていない

文字数 2,008文字

龍一の父親は、龍一が幼い頃からアルコール依存気味だったという。だが病院で治療しようとしたり、自助グループに参加して改善していこうとする姿勢は見られなかった。龍一が考えるに、自分がアルコール依存症である、という自覚がなかったからだ。
おそらく原因は、母親の浮気ではないかと思われた。母親は既婚者であるにもかかわらず、常に恋愛をしていないといられないような女で、次々と恋人を作り堂々と付き合っていた。龍一が帰宅すると、知らない男と布団の中で行為に及んでいたことも度々(たびたび)あった。

やがて母親は妹を連れて恋人の家に住むようになり、その頃から父親は酔うと龍一に殴る蹴るの暴力を振るうようになったという。年を経るごとにその傾向は強くなり、龍一は就寝時、枕元に金属バットを置いて眠るようになった。寝込みに暴力を振るわれ、起こされることが多くなったためだ。よく眠れなくなり、今度殴られたらバットで父親を殴り殺し、自分も死のうとまで思い詰めていたという。

その晩、酔って帰宅した父親は「起きろ」と怒鳴りながら布団で寝ていた龍一の腹を蹴った。気がついたら龍一は金属バットを手に持ち、振りかざしていた。父親の体のどこに当たったのかも、暗くてわからなかった。が、父親が「ぐあっ」と言って血を吐いたその顔だけは鮮明に覚えているという。バットの先が窓硝子に当たり、派手に割れた音によりたまたまパトロールしていた警察官が駆け込んできて、近所中大騒ぎになった。父親は意識不明の重体となり、搬送先の病院に入院したが、二日後に死亡した。

龍一は傷害致死罪で家庭裁判所に送致され、母親が家出していたこと、父親から暴力を振るわれていたことなどが考慮され、長期矯正教育のため少年院に送られた。まだ十六歳の時だった。一年ほどで少年院を出て、保護司として面倒を見てくれたのが、当時町内で自治会長を務めていた平沢だった。平沢は少年院にも毎週出向いて、更生のためキリスト教の講義を行っていた。

平沢は龍一に、聖書を手渡してこう言った。
「神は必ずきみに救いの手を差しのべられる。これからは私がきみの面倒を見てあげるから、何も心配はいらないよ」
それからは毎週日曜に行われる礼拝の後、聖書の個人授業を受けることになった。龍一も最初は平沢を信用していたが、ある日突然授業の最中、ズボンの中に手を入れ股間をまさぐってきた。しばらくやめようとしないので、
「ざけんじゃねえ!」
我慢出来ずにそう言って平沢の体を蹴り飛ばし、座っていた椅子から転げ落とした。平沢は肋骨を骨折し、全治五週間の怪我を負った。

「それであなたは、どうなったの?」
「鑑別所に送り返されたよ」
「そう…」奈央子は再び言葉を失い、()を埋めるようにペットボトルの水を飲んだ。
龍一が何より一番傷ついたのは、保護司から性的被害を受けたにも拘らず、周りの大人が誰一人それを理解しようとも信用しようともしてくれなかったことだった。
母親は、面会時にこう言った。
「敬虔なクリスチャンで、牧師や自治会長、キリスト教団体の理事までやっている平沢さんが、そんなことするわけないでしょう? あの人は、昔から地元の有力者なんだよ。少年院の保護司まで自ら進んでやってくれてるっていうのに。奥さんもいる人が女の子ならともかく、男の子の体になんか触ったりするわけないじゃない。本当にあんた、どうにかしてるよ」
他の大人も同様、龍一は一様に「嘘つき」「イカレてる」「やっぱり少しおかしな少年」というレッテルを貼られ、ますます生きづらくなったという。

「神様なんていない」
何かを思い出したのか、龍一は静かに言った。
「神なんてこの世にいない。絶対に。聖書も全部破り捨てた」
鋭い目つきで奈央子を睨みながら言う。奈央子はその目の奥に潜む深い失望を見た。
"わたしはまた、日の下に行われるすべての虐げを見た。見よ、虐げられる者の涙を。彼らを慰める者はない。虐げる者の手には権力がある"
奈央子は、『伝道の書』の中にある、そんな一節を思い出していた。龍一と翔太は、境遇こそ違えど、周りから虐げられて生きてきたという点で共通しているのではないか。だからこそ二人は解り合い、寄り添い合うことが出来た。

「俺はあの牧師が、立場の弱い少年を見つけるために保護司なんかやっているんだと後でわかったよ。翔太も多分、そういった弱点につけ込まれたんだ。俺はいやだったが、二人が会っているのを知ったのは、俺と知り合った後だった」
"さばきを行う所にも不正があり、公義を行う所にも不正がある"
『伝道の書』には、確かそうも書かれてあった。奈央子は暫し沈黙していたが、軽く息をついて言った。
「あなたの事情と、これまでの経緯(いきさつ)はよくわかったわ。あなたが警察に行くのがいやなら、私一人だけでも行ってきます」
そう言って立ち上がろうとする奈央子を、龍一はいきなり両手で押し倒した。

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