三十一~三十三

文字数 22,120文字

 三十一
 ハッチの内側にすえつけた梯子を使うつもりだったが、一段目に足をかけた途端、軍用ブーツの爪先が滑り、自由落下に身をまかせるはめとなった。ヘルメットをかぶっているのがさいわいして、後頭部を強打したにもかかわらず、そっちの痛みはほとんどなかった。激痛が走ったのは腰から背中にかけてだった。脊髄が十センチぐらい脳のほうにめりこんだ感じだった。おれはその場で動けなくなった。ヘルメットのスピーカーからそれまで絶えず聞こえていた白色音がぷつりと途絶えている。シェルターだからやむをえまい。電波圏外のようだった。
 息ができるようになるのを待ってからよろよろと立ちあがった。拳銃を引き抜き、目を凝らしてみる。
 薄暗い室内だった。
 といっても明かりがないわけではない。熱帯魚の水槽のような弱い青紫色の明かりが高い天井からところどころ、まるで真冬のうらさびしい鉄道駅の照明のように音もなく降り注いでいた。床には市長室にふさわしい高価そうな絨毯が敷きつめてある。照明のせいで黒っぽく見えたが、おそらく臙脂色をしているのだろう。バランスを取ろうとおれが手をかけたのは、天板がマホガニー材のように見える長辺が六メートルほどあるテーブルの端だった。腰を下ろしたら何時間でも座っていられそうな革張りのいすが何脚も並んでいる。
 目が慣れてきて周囲のようすが見えてきた。シェルターを兼ねる市長室の中央に落ちてきたらしい。長テーブルの向こうに扉があり、そこを頂点に扇状に壁が広がっている。外の環状廊下にならった形状で、半円形をしている。半径は十メートルほど。だたっぴろい広間のような印象で、右手には、壁面のカーブに合わせた流麗な曲線を持つ大きなソファが配置されている。左手には直径一メートルほどの大きさをした半球状のガラスケースがあり、そこを天井からのダウンライトがぼんやりと照らしだしていた。そのなかに都市のジオラマのようなものが見える。それでわかった。ガラスはただのケースではなく、マスジットシティを覆う皮膜コンクリートを模しているようだ。
 うしろに目をやり戸惑った。
 床から天井までガラスで仕切られ、その向こうには、無数の金属板がそれこそ森を形成するように天井からつりさげられている。カッシートはこの部屋にシティ全体をつかさどるシステムがあると話していた。ならばこの金属板こそが、ライフでいうスーパーコンピューターなのだろうか。
 そっちのスペースも半円形に広がっているのだろうが、薄暗いせいもあって奥のほうまでは見渡せない。しかし仕切りガラスの中央部――おれが立っているちょうど真後ろのあたり――では、金属板の森が開けていた。まるで大規模林道を開削したかのようで、幅約一メートルにわたって床――こっちはリノリウム張りのようだった――がむきだしになっている。
 五メートルほど林道を入った先に視線が吸いよせられる。青紫色のダウンライトが、高さ一メートルほどのところに浮かぶパイナップル大の物体を浮かびあがらせていた。泡のようなものがそのまわりを飛びかっている。
 物体は無重力状態のなかを浮かんでいるわけではなかった。足もとから肩のあたりまでの高さの水槽につけられていたのだ。それは白っぽくてやわらかそうに見える。それをたしかめようと、おれは仕切りガラスのほうに前かがみになった。
 つぎの瞬間、体はうしろに跳ね飛ばされ、長テーブルの端に先ほど痛めたばかりの腰をふたたび激突させるはめになった。そのまま絨毯の床に尻もちをつき、目の前がくらくらした。火がついたように額が痛む。ガラスに電流が流れていたのだ。まるでスタンガンだ。手にした銃はジオラマのすぐわきにまですっ飛んでしまっていた。
 「きみに覚悟があるなら」
 背後から低い声があがった。短い悲鳴をあげておれは振り向き、いすにすがりながら立ちあがった。
 ジオラマの前に男が立っていた。穏やかな表情でこちらを見ている。一流企業の経営者然としたスーツにネクタイ姿の紳士だった。年齢はおれと変わらない。頭の固い国粋主義者というよりも、話のわかる商売人といった雰囲気だった。なにより目を見張らされたのは、相手の体の向こうにシェルターの壁面が透けて見えることだった。
 ホログラムなのだ。
 「警戒システムを解除してやってもいい。それでわたしをぞんぶんに蹂躙すればいい。しかしな、わたしが生きていることがシティにとって最大の保険になっていることを知っておくべきだ。わたしの生体反応が消えたら、たちどころにネットワークに獰猛なウイルスが撒き散らされる。そうなればシティのすべての機能はマヒして、クローニングに使う培養器や人工子宮への栄養補給もすべて停止するだろう。電力供給そのものもストップする。遠からず原始時代がやって来ることになるのだよ」ホログラムの男がいっているのは、ライフの世界でいうところの核の脅威による安全保障のようなものだった。おれを殺すと世界は破滅する。だからめったなことは考えないほうがいい――。
 その言葉から導かれることをおれは噛みしめた。生体反応とネットウイルスの関係ってなんだ。なんでギョルが死ぬと同時にウイルスが撒かれるんだ。体に電極でも突き刺さっているのか?
 ここは市長のシェルターでギョルがいるという話だった。しかし人の姿は見あたらない。ギョルはおれたちがデブリを運びこんだとき、ほかの官僚たちと逃げたのだろうか。
 おれはもう一度うしろに目をやった。スタンガンのような高圧電流で侵入者を寄せつけない仕切りガラスの中央部分、その奥にあるパイナップル大の物体。あれがなにか大きな意味を持っているように思えてきた。秘書となったギフテは、近くにいるにもかかわらず、これまでに一度もギョルの姿を見ていないという。しかも市長室そのものをシェルター化しているということは、市長は非常時にもここを出るつもりがない、いや、むしろ“出られない”のではないか。
 「きみのやっていることは、崇高な革命なんかでなく、たんなるテロ行為だよ」跳ねっかえりの部下に手を焼く上司のように顔をしかめながらホログラムは、引きずるような足どりでテーブルに歩み寄り、会議用のいすの一つに腰かけた。それに合わせて天井の照明が増し、違和感なく会議ができる程度になった。それでもホログラムは薄れたりしなかった。コントラストが自動調整され、市長の姿は改めてくっきりとおれの目に映った。
 「カッシートに感化されたのだろう。やつは民主化なんていってるが、それによって引き起こされるのは、たんなる無政府状態、混沌と暴力と殺戮という負の連鎖だよ。“最後の日”をへてわれわれは多くのことを学んだ。それでようやくここまでたどり着いたのだ。わたしのことを独裁者だとか専制君主だとかいうのは自由だ。でもそれにより維持されている調和というものが存在することも忘れてはならんと思うがな」ギョルはいすの背もたれに背中をあずけ、おれにもいすに座るよう手を広げた。
 その手にのるわけにはいかなかった。
 ジオラマの真上の天井からこっちを向いているものに、とっくに気づいていたからだ。外の廊下にあったのとおなじだ。黒い洞穴が火を噴きたくてうずうずしている。だがシェルターに侵入してから数分がたつのにいまだにそうならないのには、理由があった。おれが立ついまの位置だ。自動制御の狙撃銃の銃口とおれを結ぶ火線を延長すると、残念ながら仕切りガラスの端のところにぶつかる。さらにその先には無数の金属板があった。おれのような虫けらを排除することで、重要なシステムを毀損するわけにいかないのだろう。その意味では、いまの場所はおれにとっての“安全保障”であり、むやみやたらとホログラム野郎の招きに応ずるわけにはいかなかった。
 「驚いたな。市長がヴァーチャルな存在だとは知らなかった。ルックスも好きなように作りだせる。安っぽいネットアイドルみたいなもんだな」そういいながらおれはジオラマのそばに転がっている拳銃にちらちらと目をやった。距離にして五メートル。そっちに飛びだすのは、射撃演習場に迷いこむようなものだった。
 「作りものなんかじゃないさ。これはわたしの本当の姿だ」落ち着いた口調のなかにかすかな苛立ちが感じられた。天下国家を語るより、所詮は自分にしか興味がない。月並みな権力者の一面にがっかりした。「だがすこしばかり年をとったのは事実だ」
 「年を取ったら後進に道を譲る。それが政治ってものなんじゃないのか」
 「あいにくわたしは肉親でも信用しないたちでね」
 「あんたの父親のビッグ・ギョルはある意味、偉大な人物だそうじゃないか。方法はどうあれ、国民を救ったんだからな。高エネルギー線汚染から」
 「父親か……それもいつの間にか生まれた都市伝説の一つなんだろうな」ギョルはテーブルに身を乗りだし、両肘をついて口の前で手を組んだ。
 「都市伝説?」
 「そうさ。“最後の日”のとき、わたしは一人息子を失った。ギルモアの高エネルギー線処理で陣頭指揮を取っていたのだが、そこで基準値以上の線量を浴びてしまってね。その後、シティができてからもわたしに子どもはいない。他人には薦めているが、わたし自身はクローニングというものにさほど興味がないのだよ。だいいち、息子が生きていたときにも感じたことだが、いくら子どもを持ったところで、自我そのものは新たな肉体には受け継がれない。きみら、ライフのキャラクターだってそうだろう。わたしはそれが気に食わんのだ。だから年をとっても自分の体のメンテナンスに腐心して、そこにのみ根づく自我を守り抜こうと決意した。ライフでも万能細胞とかそういったものがもてはやされているだろう。クローニングで自分の肉体的分身を作るなんかより、最先端の科学技術でいまある体を維持するのだよ。いや、体全体というより、自我をたもてる最小限の部分を生きながらえさせるということかな」
 おれはうしろを振り返っていた。
 あのパイナップル――。
 「興味があるようだね」ホログラム市長がそういった途端、仕切りガラスの向こう側の照明が増し、中央部分に黄金色のスポットライトが降り注いだ。
 水槽に浮かんでいたのは、灰白色の脳みそだった。
 何本かの管と電気コードのようなものがあちこちに突き刺さっている。管のなかには、赤い血液のような液体が詰まっていた。
 「結局、脳だけしか残らなかったんだ。それでも未来永劫、自我をたもつことができる。それに古くなった細胞を新しいものに交換するうえでも、余計な体はないほうがいい。つきつめたところ、自我とは脳神経そのものだからね」
 「ずっとあんたが君臨しているのか」
 「君臨なんておこがましい。ただ、息子なんていないのはたしかだね」
 「電極がたくさんくっついているが、それがシステムに直結しているのか。あんたの意識ひとつで、なんでもできるってわけだな」
 「そこまで立派なものじゃないさ。わたしの知能なんかより、システムの人工知能のほうがよっぽど進んでいるし、計算速度も速い。わたしはその一部を垣間見ているにすぎんし、もしかしたらわたし自身が操られているのかもしれん。だけどそれにも限界があった。なにもかも制御できていたら、きみのような訪問者が出現することもなかったのに」
 「好きで来たわけじゃないさ」おれは口走った。「ほっといてほしかったって気持ちもある。だいいちなんでおれがこんな役回りを演じなきゃならないんだ」
 「ライフの開発者である女性研究者がパトスを撒いて指名手配されている。きみは彼女が呼びだしたキャラなんだろう」ギョルはお見通しだった。「ライフにはわたしも直結していてね。いま彼女のIDから調べてみたんだが、向こうでのきみはずいぶんと苦労しているみたいだね。新たなキャラクターとして場に投じられたときは、幸福な家庭への願いがこめられていたようだが、ライフにはライフのあらがいがたいうねりというものがあるのだよ。家庭はともかく、職場ではからっきしじゃないか。出世は期待できないね」
 「余計なお世話だな。マイペースで暮らしていたんだ。仕事で出世しようなんて、そんな脂っ気は失せちまってるさ」
 「うそだ。そんなこと」ギョルは見透かしたようにいった。「きみがどれほど焦燥感をおぼえていたか、データがしめしている。絶望感も相当なものだった。パトスに反応したのもそのせいだった。同期生が秘書室長に栄転するのと、きみ自身への左遷通告が大きな引き金になった」
 「あぁ、そうだよ」もう開き直るしかない。「あれは本当にショックだったよ。柄本の野郎、同情するふりしやがって、腹のなかではせせら笑っていたんだ。おれが関連会社に出るってのもお見通しだったんだろうよ」
 「きみはこれからどうなるんだろうな」
 訊ねないわけにいかなかった。「向こうでの暮らしがゲームの世界での出来事だなんて、いまだに理解できないんだ。知らずにいたほうがよっぽどよかった。だからもどれるなら、いますぐもどしてほしい。それが偽らざる気持ちだな」
 「きみを生みだした彼女を思う気持ちよりも、電子的に作りあげられた世界での暮らしにもどりたい気持ちのほうが勝っているんだな」
 ナオミのことを指摘され、おれはひるんだ。ギョルのホログラムは相変わらず口の前で手を組んだまま、目をすがめてこっちを見つめ、おれの真意を推し量ろうとしていた。おれは頭のなかがかっと熱くなる感じがした。だからこう訊ねるしかできなかった。「もどれるのか」
 ギョルははじかれたようにテーブルから離れ、いすの背もたれに背をあずけ、腕組みをした。「それは彼女しだいなんじゃないか。きみの創造主なのだから」
 そのときだった。
 目の前に白っぽいものが舞い落ちてきた。丸めた紙くずのようだった。なにげなく天井を見あげ、おれはあんぐりと口を開けた。おれが立っているのは、いまだに転落してきたハッチの真下で、いまそのハッチのところには、美沙の顔があった。さっきまで外の廊下にいたはずなのに。どうにかして逃げだしたらしい。高エネルギー線を放出しつづけるシールドボックスを楯にして扉に近づいていったのだろう。
 美沙は右手の人さし指をおれのほうに突きつけてきた。それでおれは気づいた。落ちてきたのはただの紙くずではないらしい。そこになにか書きつけてあるから、それをたしかめろという合図だった。
 おれは左手の天井からこちらを向く銃口が火を噴かぬよう、できるだけ仕切りガラス近くの位置をたもちながら腰を曲げて紙くずを拾いあげた。
 「ギョルが脳だけの存在で、ビッグ・ギョルが生きつづけているなんて、だれも知らなかった。カッシートも驚いている」
 なるほど。ギョルの声はいまなお廊下に届いており、そこにいた美沙のヘルメットに内蔵されたマイクをとおして、カッシートたちのもとにも聞こえていたのだ。
 「ギョルが死ぬとシステム破壊のウイルスが撒き散らされる話。ナオミさんが研究所にもどって、バックアップ系システムにワクチン注入して対処中。完了後すみやかにレバーを上げること。合図するから! それまで待って!」
 待って……だと!?
 おれは上目づかいで美沙のことを見た。レバーというのは、長テーブルの向こうにある扉についている強制開錠コックのことだろう。それを操作すれば、外にあるシールドボックスを持ちこむことができる。それはギョルにとっては脅威だが、一方でデブリの高エネルギー線の漏えいをシェルター内でとどめる効果もある。でも待つってどういうことだ。ここで持ちこたえろってことか?
 ハッチから顔をのぞかせ、美沙は両手でガッツポーズを作っていた。だが赤いレバーのほうにおれが人さし指を立てると、美沙はかぶりを振った。いったいいつまで時間を稼げばいい。おれはふたたびギョルのホログラムに目をやった。
 「きみのお友だちが上にいるようだね。招いたらどうかな。もう酒はやらんが、古き良き時代へのノスタルジーとして高級酒のコレクションがあるんだ。最後の晩餐といったらぞっとするだろうが、そんなんじゃない。融和のための話し合いだ。それには酒の力は欠かせんだろう」ギョルはいすから腰をあげ、右手のソファのほうへと足を引きずりながら近づいていった。そちらには背の高い棚があり、蒸留酒らしき酒瓶のたぐいとグラスが並べてあった。おれがそれにつられてふらふらと近寄っていくとでも思っているのだろう。そんなことをしてハチの巣になるほど、おれはばかじゃない。
 「ライフでのおれの暮らしをのぞき見たのなら、わかっているだろう。おれが最後に飲んだ酒は、女房が連れこんだ男を前に飲んだ缶ビールだ」そう吐き捨てながら、おれは正面の扉との距離を推し量った。
 直線距離で十メートルはある。ダッシュしたら二秒もかかるまいが、問題は天井の狙撃銃が火を噴くことだ。コンピューター制御の恐ろしく正確な射撃能力があるなら、防弾チョッキやヘルメットから露出した腕や下半身、首筋を撃ってくるだろう。一発でも命中すれば、その場で動きはとまる。あとは一発ずつしっかり狙って弾を撃ちこめばいいわけだ。
 だったら目の前にあるこの長テーブルを利用しないわけにいかない。来るべきときにそなえてシミュレーションを開始しながらギョルにいった。「持たざる者たちがあんたたち特権階級と融和なんかできるのかな」
 「できるできないじゃなく、融和しないといかんだろうね。この星で人間が暮らしていけるのは、マスジットシティだけなんだから」
 「十年間で人口を半減させる計画があるらしいじゃないか」おれは軍用ブーツの底を絨毯にこすりつけてみた。「最適人口だとかなんとか」
 「ひとつのシミュレーションにすぎんよ。きみたちがいましていることもそうだが、過激なことはいかん。反感を買うし、とりかえしのつかないことが起きる」
 絨毯は思ったよりすべすべしていた。まるで薄いシルクのカーペットのようだ。これなら匍匐前進してもさほど摩擦は起こらないだろう。「資源とのからみでいえば、人口問題は避けて通れないはずだ」
 「放っておくわけにはいかないだろうね」
 「ライフなら地域紛争や国と国の戦争が起きる」
 「シティでそんなことが起きたらたいへんだよ。きみたちの世界でいうなら、マレー半島の突端ぐらいの広さしかないのだからね」ギョルはソファの端に腰かけ、ホログラムのグラスを揺らしていた。
 「やっぱりそうか。どうりでマレーシアとかシンガポールの雰囲気があると思ったんだ」
 「逆だよ。ライフがこちらを模したのだ。こちらの世界が自然と投影される」
 「シティの外、アウターのようすもライフに反映されているのか」
 「 “最後の日”以前の美しい大地と海に囲まれた広大な世界。それは過去の歴史として記録されている。だからライフにもいやでも影響をおよぼすようになっている。まさに映し鏡だよ」
 「一つ教えてほしいんだが」おれはギョルに訊ねながらさっと天井に目をやった。美沙はまだ張りつめた表情を崩していない。「さっき“この星”っていったけど、やっぱりここは地球なのかな」
 「それはライフでの呼び方だな」できの悪い生徒の誤答をただす教師のように、即座にギョルはこたえた。「それに規模がちがいすぎる」
 「規模……?」
 「地球なんてもんじゃ――」
 「いまよ!」
 ギョルの言葉は美沙の叫び声にかき消された。
 運動会で障害物競走のスターターピストルが鳴った瞬間の興奮がよみがえり、その記憶に衝き動かされておれは長テーブルの下にもぐった。幸運にも電気コードの配線も仕切り板もない、まったいらな空間が広がっている。がむしゃらにそこで匍匐前進を開始した途端、天井が火を噴いた。激しい連射の嵐に身がすくんだが、とどまるわけにいかない。おれは悲鳴をあげながらもがきつづけ、いつのまにか四つん這いになって進んでいた。木製であったが天板はそれなりに厚みがあり、銃弾をある程度は防いでくれた。しかし何発かは貫通し絨毯に突き刺さったし、背中を殴りつけてきた。それがいつ無防備な尻やふくらはぎに食らいつくか。わずか六メートルの距離がかなづちにとっての二十五メートルプールにも感じられた。
 最大の試練はその先、長テーブルの端の向こうにあった。シェルターの扉を強制的に開く赤いレバーまで、楯になるものがなにもない空間が三メートルにわたって広がっている。長かったのか短かったのか、いまとなっては判別しがたい人生が終わるのが、この場所であることが強く感じられたが、猪突猛進のいきおいをとめるわけにいかなかった。おれは目の前にあらわれたいすの座面下に頭を突っこみ、その脚の部分を肩で押す格好で長テーブルから飛びだした。
 床がフローリングならスケートのように滑るのだろうが、絨毯ではキャスターが重苦しく抵抗した。あげく、おれはいすの脚を肩で押しあげ、持ちあげてうしろに投げ飛ばすような格好になって進んだ。そして背中と頭――ヘルメットは貫通寸前だった――に死の衝撃を受けながらも、最後は完全に立ちあがって赤いレバーに飛びついた。
 両手に力をこめた瞬間、レバーは一気に三十センチも下がった。火事場の馬鹿力だったらしく、自販機の釣銭レバー並みの軽さだった。
 そのとき期待したのはシェルターが開くことなんかでなく、銃撃がやむことだった。だがそうはならず、おれは本能的に右手のソファ――ギョルが微笑みながら依然としてグラスをかたむけているソファ――のほうへダイブした。その瞬間、左の太ももについに焼けるような痛みが走った。
 やられた。
 死ぬ。
 そう思いながらソファの背もたれを越え、酒瓶の並ぶ棚との隙間に身を投じた。
 足がもぎ取られたような激しい痛みが燃えあがる。体を丸め、わなわなと震えながら祈ったが、弾は頭上を飛びかい、ソファを破壊して酒瓶を粉々にした。
 永遠とも思える時間が過ぎたとき、銃声がやんだ。
 顔を出せなかった。ソファのどこに侵入者が潜んでいるか探っているのかもしれない。
 「だいじょうぶですよ」
 美沙の声がした。ようやくおれはソファから顔をのぞかせた。シティのジオラマのところ、つまり狙撃銃の真下で美沙は拳銃をかまえていた。おれが手放した銃でなく、自分の自動式拳銃だった。それを天井に向けたままじっとしている。弾倉が空になるまで撃ちつくし、スライドがうしろに下がったままロックされている。美沙はハッチからシェルター内に飛び降り、火を噴く狙撃銃を破壊したのだ。
 ギョルのホログラムはソファから消えていた。おれは痛む足を引きずって転がりでた。
 「だいじょうぶですか」美沙は駆け寄ってきた。おれは恐るおそる太ももに目をやった。迷彩ズボンが真っ赤に染まっている。卒倒しそうになったが、痛みをこらえて足を動かしてみると、ひざは曲がるし、太ももを引きあげることもできた。
 「歩けます?」
 「だいじょうぶだ。かすっただけみたいだ」
 「じゃ、急ぎましょう」美沙は踵を返してシェルターの入口のほうへ急いだ。
 それはすでに開いていた。巨大で分厚い扉が左右に分かれ、幅二メートルほどの廊下が出現していた。美沙はそこを走り抜ける。その向こうが環状廊下だ。そっちではまだ狙撃銃が天井から狙っている。
 「撃たれるぞ!」とっさにおれは叫んだ。
 返ってきたのは美沙の落ち着いた声だった。「シールドボックスの亀裂からもう手に負えないくらい高エネルギー線が漏れているんですよ。そのせいで電気系統がだめになっているみたい」
 足を引きずりながらそっちに行ってみてわかった。美沙のいうとおりだった。シールドボックスを抱えあげようと美沙は身をかがめている。おれも手を貸した。
 「なんてばかなかことを」ギョルは長テーブルの中央に両手をついたままこちらをにらみつけていた。
 もはややつのことなど気にかけているひまはない。
 「バックアップはだいじょうぶなんだろうな」
 「ナオミさんから連絡がありました。万事OKだって」
 ホログラム野郎の目の前にシールドボックスをたたきつけるように置いてやった。箱の側面に亀裂が二筋見られる。美沙は入口にもどり、強制開錠コックを操作してふたたびシェルターを密閉した。
 「おれたちはだいじょうぶなんだろうけど」ジオラマのところで銃を拾いあげ、腰のホルスターに収めながらおれはいった。「どれくらい漏れてしまったのだろう」
 「当面はこのシェルターで防げるはずだけど、いずれこの建物自体を石棺で覆う必要があるかも。さぁ、行きましょう。ヘリが待機しているはずですよ」
 脱出路は、侵入してきたハッチのほかにない。おれたちは長テーブルの位置をずらし、そこにいすをのせて踏み台がわりにした。
 「タキグチ……トモロウくん……だな」
 ギョルは消えていた。
 どこからともなくあの腹の底に響く声だけが聞こえてくる。それはわずかに震えているようだった。
 「イソザキが……調べているんだな……」
 美沙につづいてハッチを出るとき、最後に耳にした市長の言葉がそれだった。

 三十二
 バックアップステーションは、港の沖合十キロのところに造られた人工島にあった。表向きはビーチの広がるホテルが建つ高級官僚たちの専用保養地だったが、いまは滞在者全員が遠隔地に向けて避難しており、マレンのヘリが到着したときには、逃げ遅れた従業員が何人か取り残されているだけだった。
 シティは、宮殿の半径二十キロ圏外に避難する人々でごった返す一方、カッシートからの指令を受けたレジスタンスたちが、シミュレーションどおりに軍と警察のトップをはじめとする官僚たちをつぎつぎと拘束し、主要拠点を制圧していった。高エネルギー線の漏えいは、とっくにレベル5から下がっていたが、アウター用の防護服に身を固めたレジスタンスたちの姿は、銃よりも威圧力があった。
 バックアップステーションは、ホテルの真裏にあり、カッシートとギフテとナオミは、そこから指令を出していた。マレンはヘリの整備とバッテリーの充電で忙しそうにしている。
 おれと美沙はホテルの医務室にいた。やつの前だったが、傷の治療のために診察台でズボンを脱がざるをえなかった。しわのよった縞模様のトランクスは、いまや自分が遠いライフの世界からやって来たことをしめす数すくない物証だった。
 弾は太ももの端っこの肉をわずかに削り取っただけだった。消毒すればほっといても治る。シェルターの廊下で最初に銃撃されたときの頬の傷は、すでにかさぶたになりかけていた。痛みがひどいのは、シェルター内に落下したときに強打した腰だった。痛みがしだいに増してきている。医務室には、スプレー式の湿布薬があり、それを大量に噴霧したが、あまり効果はなかった。
 おれは診察台に腰かけたまま、そこに放りだしたホルスターを見つめた。まだ一度も発砲していない拳銃がそこに収まっている。自分が命がけの冒険に駆りだされていたと思うと、ぞっとした。全身に行きわたっていたアドレナリンがひき、深酒して目覚めた朝のような、生きていること自体への漠たる不安と恐怖がわきあがってきた。記憶に居座る同級生のイメージをほうふつとさせる女によって、こっちの世界に召喚され、娘の捜索を手伝わされた。さすがにこれが夢であるとは思えない。
 「おまえはおれより一か月以上前にこっちに来てるんだろ」診察台に腰かけ、ホテルのレストランの冷蔵庫から失敬してきた瓶詰の飲物――きんきんに冷えたビールだった!――をやりながらおれは訊ねた。「あっちでの暮らしがゲームだったなんて」自分で口にしながらますます困惑した。
 それにしてもうまい。
 この喉ごし。このまま死んでもいい……と思うにつけ、それは現実世界を生きている実感にほかならなかった。
 「最初は動揺したし、わけわかんなかった。だってあたしなんか、タッキーよりも短い人生なんですよ。子どものころとか新人時代とか、過去の記憶は全部インプットされたもの。到底信じられるものじゃないけど、日に日にこっちの世界の現実感が増してきた。だからライフでの出来事をどう受け入れるべきか悩みましたよ」診察台の向かいの簡易ベッドに腰かけて美沙もビールをあおった。「自分なりに哲学的な解釈をくわえて飲みくだすしかなかった」
 「哲学的解釈?」
 「夜眠って意識がいったん途切れたとき、新しい記憶がすりこまれる。目覚めたとき、それが連続する記憶だと勘違いして、あたしたちは生きている」
 「目覚めたとき、家とか家族とか周囲の状況は変わっていないんだぜ。すりこまれた新しい記憶とのギャップを感じるんじゃないか」
 「周囲の状況が変わっていない。そう思いこんでいるだけかもしれないじゃないですか。きのうとおんなじ、おとといとおんなじって、潜在的に思いこもうとしている。親の顔、妻の顔、姉妹の顔。住んでいる場所、仕事、それに自分のあらゆる過去。毎朝起きるたびに変化しているのに気づかずにやりすごして、その日一日を生きる。人生なんてそんなもの。ずっとつづいていると思っている日常が、じつはぜんぜんそうじゃなくて、その日ごとにまるでちがう家族や友人に囲まれた世界が広がっている。だけどわたしたちはそれに毎日順応して生きてきた。そう思えばすこしは受け入れられるかなって」
 「女房や子どもも毎日ちがってたってわけか」おれはビールを飲み干していた。アルコール度数はどれくらいだろう。空きっ腹だったせいか回るのがずいぶんと早い。疲労のせいもあって思考力が失せはじめてきた。
 「極論すればそういうことですかね。すくなくともライフでは、ほかのキャラが投入されるたびに既存キャラどうしの関係性が目まぐるしく変わるってギフテがいってましたよ」
 「ナオミもそんなようなことをいってた。おれとおまえが社会部時代にいっしょに働いていたこともあとから上書きされた話だとはな」
 「その意味でも、もう向こうでの出来事はあまり考えないほうがいいのかも。混乱するだけですだから」美沙はビールをサイドテーブルに置き、窓に近づいて外を見やった。東南アジアの英国植民地を思わせるデザインのホテルは、格子状の窓枠が白く塗られ、左右に開放した鎧戸があった。窓の向こうは白砂とヤシの木がつづくビーチだ。打ち寄せる静かな波は、動揺をつづけるおれの心を癒してくれそうだった。
 「変な話だが、おまえがいてくれて安心する反面、どうしても元の世界……ライフでのことが頭にちらつくな」
 「まだ来たばかりだからですよ。そのうち慣れますよ」美沙はふたたび診察台に向き合う格好で並ぶ簡易ベッドに腰かけ、心配そうに見つめてきた。小麦色の頬にそばかすが散っている。それがキュートだった。それと裏腹に目元には、年を重ねることで浮かびあがるようになった憂いをたたえ、驚くほどエロチックに見えた。
 余計な衝動を押しやり、おれはいった。「ギョルはぜんぶお見通しなんだな」
 「イソザキが調べてるって、さっき聞こえましたけど、なんの話ですか」
 「イソザキ……たぶん、あの話だと思うんだよな」
 ライフのプレーヤーであるナオミは、サブチャンネルである玲子の視点をのぞき見ることもできた。おれもそれを見ており、妻のワインサークル仲間であるという男の正体に近づいたような気がしていた。そのことをおれは美沙に打ち明けた。
 「磯崎は警備会社の防犯コンサルタントという話だったが、どうも余計なことに首を突っんで、独自調査したネタを週刊誌に売りこもうとしていたみたいなんだ。そのネタっていうのが、美沙、おまえにかかわることなんだよ」
 「あたしに……?」美沙は驚いた顔をしたが、心あたりがあるようでもあった。
 「鶴田村の最終貯蔵施設の話さ。使用済み核燃料の。住民アンケートでは九割以上が建設に賛成しているようだが、じつは逆で、反対が八割、明確な賛成は一割にも満たなかった。そんなようなことを磯崎は電話で話していた」おれは美沙の目を見て訊ねた。「仕事の話だから話せないこともあるだろうが、おまえ、そのことを取材していたんだろ」
 美沙はいたずらっぽい笑みを口の端に浮かべた。「バレちゃったか」
 「やつはおまえの失踪について、自殺でなく事件性を確信していた。おそらくおまえは危険な領域にまで足をのばして、だれかの反感を買い、レインボーブリッジの一件につながった。そうなんだろ」
 「偽装殺人、ひらたくいえば暗殺。そんなことってあります? たかが取材ですよ。映画に出てくるマフィアの抗争じゃないんですよ」
 「まったくもってゲームの世界の出来事らしいな。けど、原発ムラのことをマフィアと呼ぶやつもいる」おれは診察台から身をのりだした。「使用済み核燃料の最終貯蔵施設は、日本政府だけでなく国際的にも注目されている問題だ。それに見通しがつくだけで、原発問題は一気に前進する。カネに換算したら何兆円にもなる話だ。鶴田村は政府としても最後の頼みだったはずだ。横やりは徹底的に排除するつもりだったんじゃないか。だったら強硬手段は十分考えられる」
 「けど、そんなのうちの幹部に働きかけてニュースにしなきゃいいだけだと思いますけど。そもそもうちは政権にべったりの会長が牛耳っているんだし、わざわざ殺人なんてリスクをおかす必要はないんじゃないかしら」
 「でも住民アンケートが捏造だったって証拠を握っているかぎり、週刊誌やほかの媒体にそれが流れる可能性はあるし、自分でネットにアップすることだってできる。やっぱり元から断つ必要があったんじゃないか。ところが覆水盆に返らずだ。元刑事で防犯コンサルタントの男が、どういうわけかそれに感づいて調査を開始した。それでおれがおまえと親しいことを知って、まずは玲子、うちの女房に近づいた。さらにいうなら、磯崎はおまえのマンションに出入りしていた女の子とも接触している。なにか重要なことを知っているとにらんだのだろうな」
 美沙の顔色が変わった。「マコのこと……どうして……」
 「あの子はおまえのことを母親みたいな人だって慕っていた。それでおまえ、USBメモリーを預けただろ。万が一のことがあるかもしれないからって。原発関連だから弾がうしろから飛んでくるかもしれないって」
 美沙は額に手をあて、苦しげな顔をした。「あの子を巻きこんじゃったかな」
 「磯崎のことはともかく、USBメモリーになにか大事なものが記録されているなら、しかもそのことを第三者が知るおそれがあるのなら、あの子はかならずしも安全とはいえない。おまえを見舞ったことを考えるならな」
 「たとえゲームでも、あのときはあれがわたしたちの世界だった。その意味じゃ、胸が痛むわ。マコはとってもいい子だったんだもの」遠い異世界で結ばれた若い娘との関係に美沙は思いはせ、そしてぼそりとつぶやいた「原発のことじゃないのよ」
 「原発じゃない……?」
 「そう」美沙はおれの隣に移って腰かけた。「端緒は鶴田村の取材だったけど、あることがきっかけで、べつのとんでもないことがわかったの。うちの会社の話よ」
 「局内の話か」
 「ありていにいえば不祥事よ。だけど世間的に見たらたいしたことじゃないわ。ちょっとしたカネがらみの話。でも当事者からすれば、絶対にバレてほしくない一件だと思う」
 それから美沙は声を潜めて話しだした。それは鶴田村の住民アンケートを政府から下請けした調査会社の担当者から取材した情報だった。
 その会社、新橋に本拠地を置くエコリサーチは、今年一月に住民アンケートを実施した。それを集計したところ、原発推進派にとって不都合な結果があらわれた。そこで担当者はアンケートの原本そのものを作りなおすよう指示され、それが政府に提出されていた。美沙は、その担当者――義憤に駆られた三十代の女性アルバイト――へのインタビューに成功し、偽造アンケートも映像に収めていた。さらに同社は、政府がらみの仕事でしばしば不正調査を行っているとの話で、たたけばもっと埃が出てきそうな予感がしたという。
 思わぬ事実が浮上したのは、鶴田村関連の一連の取材を終え、デスク連中との折衝を開始する一方で、取材経費の精算に取りかかったときだった。美沙としては細大漏らさず正確に申告したつもりだったが、杓子定規で知られるうちの計算センターが申請書類を差し戻してきた。
 「精算書の書き方がまちがってるっていってきたんですよ。アルバイトの女の子が」それが、谷本尚美の影をもとめておれがセンターを訪ねたときに応対した埜村嬢であった。「じゃあ、どう書けばいいのって聞いたら、ほかの人が出してきた精算書を見せながら説明をはじめたの。もうそのときは彼女の説明なんか頭に入らなかった。だって、あたしが政府御用達の偽造屋だとふんでるエコリサーチの領収証がその精算書に貼りつけてあったんだもの」
 計算センターからもどったのち、美沙は早速その取材を開始した。内部取材である。計算センターの監事である塩崎は、先週になって、経企室の連中がやって来て、美沙の精算書類を回収していったと話していたが、なるほどそれならつじつまが合う。埜村嬢が手本としてしめした経費精算書を申請したのは、経企室の次長で、おれのよく知る男だったのだ。美沙も名前を聞いたことのある人物である。
 柄本良太――。
 「もう一度、エコリサーチのネタ元に会って、柄本さんがどんな調査を依頼していたのか調べてもらったんです。外部評価委員会ってわかります?」
 「外部……なんだって?」
 「外部評価委員会。うちの会社、THKって公共放送ですよね。あたしたち報道の記者はぜんぜん意識していないけど、受信料っていう国民のありがたいお金で成り立っている。それに見合うだけの公共的な価値をTHKがアウトプットしているかどうかチェックする第三者機関がありまして、それが『THK外部評価委員会』っていうところなんですよ」
 「はじめて聞いたな」おれはばかみたいに答えた。
 美沙はそれを無視してつづけた。「その事務局が経企室にあって、柄本さんが担当なんです」
 「あいつ、なにしてたんだ」
 「評価委は半年に一回ずつ会合を開くんだけど、そこで審議対象になる視聴者意向調査は随時行われている。その随時っていうのがクセものでして、柄本さん、架空調査を年に何度も発注して、エコリサーチの社長からバックマージンを受け取っていたんです。社長は前の官房長官の私設秘書。柄本さんが長らく取材していた相手だそうです」
 「バックさせたカネはいくらぐらいになるんだ」
 「三年前までさかのぼって、ぜんぶで二千万円ぐらい」
 「マジかよ。ブツもあるのか」
 「架空調査の記録とかぜんぶあのUSBに入れてあります。柄本さんって、タッキーの同期なんですよね」
 「あいつが……信じられないな」
 「だからゲームなんですって」
 「待ってくれ。だとすると、おまえが襲われたのはもしかして――」
 「たとえ架空世界の話でも悲しすぎる。会社の同僚ですよ。それもおなじ報道畑じゃないですか。いまでも信じられない」
 おれは目の前に放りだしたホルスターから銃を引き抜き、安全装置をかけたままグリップを握りしめた。「原発うんぬんじゃないのか……ある意味、そっちのほうが殺し屋まで雇う強い動機になるな。もしかしたら、あいつ、不正がバレそうになったんで、その秘書になにか頼みこんだのかもしれないな」
 「政治家の私設秘書なんてあやしい連中ですからね。だけどギョルはどこまで見通していたんだろう」
 おれもそれをいま考えていた。高エネルギー線が漏れるシールドボックスを置きざりにしてシェルターから逃げてくるとき、ギョルは磯崎のことを口にした。それはまるでおれのことを調べあげたようにも思われた。いまになって、それがまるで呪いのようにおれの背中にのしかかってきていた。磯崎は玲子と近い関係にあったからだ。
 「美沙……おまえ、これからどうするんだ」
 「どうする……って?」
 「つまり……」解脱した尼僧のような表情を見せる美沙のことが、なんだか憎らしくなってきた。おれとおなじく美沙は出世とは縁がないが、子どももいないし、独身だ。妹さんはひどく心配していたが、ある意味、ライフでの電気的な暮らしなんかに未練はないかもしれない。「いいのか、このままで。こっちの世界で異邦人として生きていくのか」
 その問いかけをずっと予期していたかのように美沙は即答した。「もどる方法がないわけじゃないって聞いてるけど、どうだろう。元の暮らしにもどっても展望は開けないんじゃないかな。そのうち報道局から追いだされて、さしておもしろくない仕事を定年までつづけて、あとは孤独な老後が待っているだけ。タッキーはちがうと思うけど、あたし、友だちと呼べる人間もほとんどいませんから。それよりか、ぜんぜん違う世界、この異次元世界を探検するほうがおもしろいんじゃないかな。新しい世界を創造できるかもしれないし。あたし、先輩よりすこしだけ長くこっちにいるから、いまはそんな気になっているんです」
 「片道切符でいいってことか」おれは銃身を上下させながらいらいらと訊ねた。
 「タッキーだってもうよくわかったでしょう。わたしたちは元々、ライフのキャラクター。現実世界のプレイヤーによって作りだされた架空の存在。ある意味『無』そのものなんですよ」
 無性にもう一本、ビール、いやもっとちがう強い酒をかっくらいたかった。もっというなら、手にするこの銃を壁に向かって弾倉が空になるまでぶっぱなしたい気分だった。「わかってるって。だけど海外旅行に行くとき、ふつうは往復旅券で買うもんだろ」
 「居場所がはっきりしているなら、もどりたい気持ちもわかるわ。でもわたしたちの居場所って、本当はどこなのかしら?」
 「それは滝口くんが決めることよ」
 声は医務室の入口からした。娘を連れたナオミがたたずんでいた。

 三十三
 ギフテはアウターを発ったときとおなじ黒のパンツに黒のTシャツ姿だったが、母親のほうは、どこで手に入れたのか白のぴっちりとしたパンツに、白と黒の横縞模様のTシャツに着替えていた。ホテルのショップで入手したようだ。
 ナオミは医務室に入ってくるなり、窓辺に近寄り、ベランダに出る扉を開放した。途端にさわやかな潮風が辛気臭い室内に吹きこんできた。こんなことならもっと早く扉を開ければよかった。そうすれば美沙との話もさほど行き詰まらずにすんだかもしれない。だがナオミ自身、なにがしかの決断をおれに迫っていた。
 「わたしは娘を救いだすためにパトスウイルスを撒いて、滝口くんを呼びだした。自分のためにいいように利用したの。本当に申し訳なく思っているわ。ごめんなさい、滝口くん」ナオミは窓辺に置いた肘掛けいすに腰かけ、真剣なまなざしで見つめてきた。そのわきにタブレットを胸の前で抱えたギフテが立っている。
 年齢はかさねているとしても、ナオミの顔はおれの記憶のなかの高校時代の谷本尚美にほかならなかった。娘であるギフテのほうが似ていることはたしかだが、おれに対する複雑な感情という点では、まさにナオミこそが尚美だった。いつしかおれは手にした拳銃の銃身を迷彩ズボンの腹に突っこんでいた。
 「それに政権奪取にも力を貸してくれた。カッシートにかわってあらためて感謝するわ。だからこれから先のことは、滝口くんの意思をきちんとたしかめて進めるべきだと思うの」創造主らしい包容力に満ちた無償の愛のようだった。そこにおれは一抹のさびしさをおぼえた。こんなこと絶対に口にできぬが、おれのなかの谷本尚美はもっと性的な存在だったような気がする。
 大冒険をともにしてきたはずなのに、なんだかナオミが急に遠くへ行ってしまったような気がしてきて、おれは自分から話題を変えた。「バックアップはうまくいったのかな」
 「システムがまだ完全に死んだわけじゃないの。つまりギョルはシェルターのなかでまだ生きてるってこと。だけどものすごい量の高エネルギー線が漏れているから、あとは時間の問題。システムが死んだら自動的にバックアップに移行するよう設定してきたわ。そうなるまであと一日ぐらいかかるかもしれない。でもワクチンを注入してあるから、ギョルが死んでウイルスが撒かれても心配することはないわ」
 「宮殿は石棺で覆うことになるのかな」
 「早ければ早いほうがいい。皮膜コンクリートを使うことになると思う。そのあたりはカッシートたちにまかせればいい。中央評議会を作るそうよ。すべての方針をそこで決めて、執行機関として新政府も樹立されるはず」
 そのとき気づいた。遠くへ行ったのはナオミではない。おれのほうだった。さっきの美沙との話がきっかけになったこともある。おれ自身がこの場にいることへの違和感を、まるで奥歯が疼くように感じはじめていたのだ。
 同時にもう一人の自分が心のなかであきれる。
 ワインサークルで知り合った男にいれこみ、自宅にまであげた妻に愛想をつかしたのは、どこのだれだ。職場での前途を悲観するあまり、あこがれの同級生の姿をもとめてあの非常階段の扉を越えたのは、どこのだれだ。そしてこちらの世界に足を踏み入れたのち、おれは自らの意思で一度はライフでの過去を捨て、ナオミのためにつくそうとしたのではなかったか。
 意を決し、おれは訊ねてみた。「このままでも……このままここに残ってもいいのかな」
 「もちろんよ」ナオミは目に微笑みを浮かべた。ただそれはやはりおれには聖母の微笑にしか感じられなかった。
 「そうか……」
 よかった。
 その言葉を口にすることができなかった。理由はわからないが、それをいったらすべてが終わるような気がしてならなかった。
 なにが終わるというのだ?
 いつの間にか全身に汗をかいていた。顔は燃えるように熱く、耳のうしろからだらだらと滴が流れ落ちた。ホットフラッシュってやつだ。以前、玲子がいってたような気がする。
 玲子……。
 磯崎との関係なんてもうどうでもよくなってきていた。だいいちやつは、おれに近づこうとしてワインサークルに入ってきたふしがあるのだし。
 いや、玲子なんかより加奈だ。おれはあの子にしょっちゅうコペルニクス的転回の訪れについて語り、来るべきときが来たらそれを受けいれるべきだと諭していた。ところがそれは彼女でなく、父親であるおれ自身に起こった。だがつまるところどうだ? まだ二日もたっていないというのに、おれはその受けいれに難色をしめしてるのではないか?
 「ぼくは……どうなるんだろう……」進路を決められない学生のようにおれはうつむいた。
 「あなたを呼びだしたのはわたしだから、当然わたしに責任があるわ」ナオミはいすから身を乗りだしていった。
 おれは前方に広がる海を見つめたまま、吹っ切れたように訊ねてみた。「つまりそれは、いっしょに暮らすってことかい」
 「そうじゃなくて――」
 その瞬間、脳裏にあの夜の出来事がよみがえった。
 ずっといい友だちでいたいの、滝口くんとは……。
 大学に合格した直後、おれは尚美に告白し、玉砕した。もちろんライフでの出来事、ナオミが自分の存在を潜在意識にすりこむための設定だった。それとおなじ事態が、この“現実世界”でも起きるなんて。
 「あなたには大きな役割があるのよ」
 「役割……?」おれは眉をひそめた。おれから逃れるための詭弁だろうか。それともたんにおれを元気づけようと、つまり、玉砕した相手に「あなたにはもっとふさわしい人がいる」と追い打ちをかける無神経な女になりさがったのだろうか。
 ナオミは美沙にいった。「さっきカッシートから聞いたわ。美沙さんは心の準備はできているのかしら」
 「それについてはたったいま、彼に話したところ。幸か不幸かギフテは、あたしのことを孤独な女として設定したみたいじゃない。なにも失うものなんかないわ。それにタッキーともうまくやっていけると思う。こんなところでいっちゃうのもなんだけど、あたし、年上趣味だし、社会部にいたころからタッキーのこと気になっていたもん。すくなくとも記憶のなかではそういうことになっているわ」
 「なにいってんだ、おまえ」さすがに口から飛びだしていた。
 美沙は平然とした顔をしていた。困惑するおれに向かって説明したのは、ギフテだった。
 「高エネルギー線を代謝できるのは、マスジットシティにはあなたたちしかいない。“最後の日”のときに生きていた人たちは、高エネルギー線で生殖細胞がやられているし、つぎの世代はわたしもふくめ、全員クローン。だから人間本来の生殖行為によってつぎの世代を残せるのは、あなたたちしかいないのよ」
 「ライフ流にいうなら」美沙がさらりと口にした。「アダムとイブってこと」
 混乱が極まった。
 おれが美沙と結ばれて、子孫を残すだと……?
 「高エネルギー線の代謝能力も遺伝するはずだから、子孫たちはアウターに出ていけるのよ」宗教指導者さながらの口調で言い放ったのはナオミだった。「この星をもとどおりの世界にもどす第一歩になるわ」
 「広大な星よ、タッキー」美沙が興奮ぎみに口にする。「冒険のしがいがある。広すぎて一生かけても回れないけどね。木星とおんなじ大きさなんだから」
 「なんだって……」それには仰天した。ライフは現実の映し鏡だと聞いていたから、てっきりここは地球とおなじ規模の星かと思っていたのだが。
 「あたしたちにとって過去は……ライフでの出来事すべては夢にすぎない。いまこうして生きている場所こそ現実なんですよ。だったらそこで生きるしかないでしょう」
 「待ってくれ」おれはたまらず立ちあがった。それにつられて美沙もナオミも立ちあがる。「おまえのようには割り切れないよ」
 「まだ二日目でしょ。しょうがないですよ。時間が解決してくれる。あたしがそうだったから」
 「待ってくれって!」
 期せずして声を荒げてしまった。部屋がしんとなり、波音だけが聞こえる。おれは三人の女たちの顔を順番に見わたし、わなわなと唇を震わせながらこういった。
 「決めるのは自分なんだろ。つまりそれはライフにもどる方法が――」
 「難しいのよ」決然とした声音でナオミが告げた。その瞳には涙が浮かんでいた。だがすぐにやわらかい口調にもどった。「ねえ、滝口くん、トンネルで流されたとき、タブレットが濡れて壊れちゃったじゃない。あれを使えば、あなたをもどすこともできたんだけど」
 おれはギフテの手元を見た。自分のタブレットを小わきに抱えていた。すかさずそれを指さしていった。「彼女のがある。彼女が美沙を作りだしたときだって、きみの登録IDを使ったっていってたし、基本データもぼくのものをベースにしたんだろう。だったらそのデータが残っているはずだ」
 「パトスウイルスとは逆の働きをするウイルス、つまりライフへの逆転写を可能にするウイルスを作っていたの。そのデータがタブレットに入っていたんだけど、そこまではギフテもダウンロードしていないのよ」
 「なんてことだ……なんてこと……なんてことをしてくれたんだ!」おれの怒りはナオミだけでなく、ギフテにも、美沙にも、そしてこの世界そのものにも向けられていた。おれは銃を腹に突っこんだまま、ふらふらと窓辺に歩みより、そのままベランダを通過して砂浜に出た。治療のあとズボンははきなおしていたが、軍用ブーツは脱いだままだった。
 熱砂が裸足を焼いた。
 それは新婚旅行で行ったハワイを思い起こさせた。玲子と二人。もちろん加奈は生まれていない。眺めのいまいちな部屋には不満があった玲子だが、ワイキキビーチは気にいった。人が多すぎるとおれは顔をしかめたが、そういうのはあいつには通用しない。挙句の果てに子連れが乗るような巨大な足こぎ式の水上バイクにまで乗せられた。二十年も前の出来事だ。そういえば加奈はあそこにいるときに授かったんじゃなかったかな。
 それもぜんぶナオミの設定に基づいてライフで合成された実体のない記憶、たんなる夢物語にすぎないとしても、懐かしい思い出としておれのなかにずっしりと積み重なっている。
 波打ちぎわでおれは振り返り、あとを追って砂浜に出てきたナオミのことを見つめた。
 谷本尚美――。
 高校で出会ったあこがれの異性。その後、おれの心に三十年も居座りつづけ、ある意味、妻子とは別次元でともに暮らしてきた。だがすべてはナオミによる記憶のすりこみであり、目の前にいるこの女性こそが、おれの創造主、神であった。ならばその意向にしたがうべきかもしれない。
 決められなかった。
 記憶が――ライフでの思い出が――まざまざとよみがえり、おれを激しく呼びもどしはじめていた。
 「あるんだろ……」神を畏怖する目でおれは彼女を見つめた。「もどる……方法が」
 ナオミは困りきっていた。三十年前、電話で告白したとき、こんな顔をしていたのだろう。口元を硬く引き結び、眉根をよせて。
 「あとは原理で考えるしかないわ」ようやく口を開いた。「あなたを呼びだすときに使ったパトスウイルスは、それを散布するプレーヤーの自我がベースになって作られているの。つまりあなたは、わたしの意識の影響を受けて、現実界に実体化したってわけ。そしていまなお潜在的には、あなたという存在はわたしの影響を受けているのよ」ナオミはおれが話を理解できているかたしかめるように言葉を切った。
 「それはなんとなくわかる。きみとの絆には特別なものを感じる。ライフにいるときからそうだったんだし」
 「でも前にも話したけど、ライフには、プレーヤーに由来せずに人工知能のネットワークによって独自に生みだされる多くの人が存在する。自己増殖性ってやつよ。むしろライフ人口のほとんどはそっちの人々でしめら
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