十~十二

文字数 17,364文字

 十
 尚美はいきなり左手をおれの頬にのばし、引っ掻いてきた。ひりつく痛みが顔に走り、おれはシートにのけぞった。尚美は手をひっこめず、レイプ犯を撃退するかのように乱暴に爪をたてつづけた。
 「痛いでしょ」
 「うん、まぁ……」
 「夢なんかじゃないの。自分でやってごらんなさい。さっきあいつらに撃たれていたら、それがもっと簡単にわかったんでしょうけどね。でもそうしたらこんどは生きていられない」
 隣を猛スピードで追い越していく大型トラックに目をやってから、おれは真顔で訊ねた。「夢じゃないって……どういうことなんだ」
 「説明しなきゃいけないわ。でも約束してくれるかしら」
 「約束……?」
 「なにを聞かされても冷静さをうしなわないでちょうだい。それがなにより必要だから」
 尚美はフレアスカートに包まれた右足でアクセルを踏みこんでいた。たったいま追い抜いていったトラックに猛然と追いすがる。意外とスピード狂かもしれない。
 「まさか、おれはもう死んでいて幽霊になって、別世界を浮遊しているとかいうんじゃないだろうね」おれは頬をひきつらせながらいった。にやけているように見えたかもしれない。キャスターだったころは、にやつくのはやめろとよくいわれたものだ。年下の生意気なプロデューサーに。
 「生きているのはまちがいないわ。わたしだって死んだらどうなるかなんてわからない。だけど、あなたとわたしには決定的なちがいがあるの。人間の存在に関する話なんだけど」
 おいおい、ここで哲学論争か。おれは立花隆なんかじゃないんだぜ。「三十年ぶりに再会できたっていうのに、もっと驚かせるようなことを話してくれるっていうんだね。だけどほら――」おれはフロントグラスにぶつかるぐらい両手を広げてみせた。「ぼくが記憶するかぎり、つい何分か前まで渋谷の放送センターにいたんだ。それがいまじゃ、この始末。うん、わかった。驚かないよ。なにを聞かされても」
 高速道のような道路は分岐点にさしかかり、尚美は「BEGITUNGA」との看板が出ているほうに車を走らせ、速度を落とした。出口のようだった。
 「じゃあ、最初にいくつか質問するけど、いい?」
 「なんでも聞いてくれ」
 「いま体のどこかに痛みとか違和感はあるかしら」
 「さっき急に走ったから足にきてるかな。だけどとくにおかしいところはないよ」
 「呼吸もふつう?」
 「そうだね」
 「めまいとか意識が飛ぶような感じとかは」
 「問題ない」
 車は信号で停車した。交通量の多い広い通りの交差点だった。角に低層のショッピングセンターのようなものがあり、多種多様の人種が出入りしている。ほかに英語と漢字で書かれた看板を掲示した真新しいビルが整然と並ぶ。ビルはどれもモノトーンの壁面で、さっきのプラナカン的な明るい色調の建物ではない。しいていうならホノルルのダウンタウンのイメージだった。
 「食欲はどうかしら」
 「ドトールでサンドイッチとコーヒーのセットを食べてきた。いつもそうなんだ。だけどもうおなかすいてるかな。飲んでもいいくらいだ。赤ワインとか」そういえば酒を飲むようになったのは大学のころ。尚美にふられたあとのことだ。いまなら彼女を連れていきたいビストロやバルは山ほどある。「なおみちゃん、お酒は?」
 「人生の伴侶よ」
 「よかった」期待に胸がふくらんだ。が、同時に玲子のことが頭をよぎった。ワインサークルに通うくらいあいつも酒好きだ。だが尚美とくみかわすワインには、もっとちがう味わいがあるはずだ。
 車は流れに沿ってゆっくりと進み、パン屋と雑貨屋のような店の角を左折して、そのまま狭い路地を進んだ。
 「着いたわ」ヨーロッパの下町にありそうなレンガ造りの集合住宅だった。エントランスの奥にオートロック式の自動ドアがある日本式のマンションとは異なり、歩道に鉄柵でできた玄関扉がせりだしている。尚美はその前に車をとめ、後部座席に置いたトートバッグを引っつかんで外に出た。
 居室番号を付したいくつものボタンの一つを押すと、服のなかに飛びこんできた甲虫が羽をこすりあわせているような短い音がして、玄関扉のロックが外れる。扉はその重みで手前に自然と手前に開いた。「ここならすこしは落ち着けるし、もっとゆっくり話ができるから」
 「雰囲気のあるところだね」青いタイルばりの薄暗い廊下を進み、エレベーターにのる。おれは複雑な気持ちに駆られていた。ここが自宅なら、どうして自ら鍵を使って玄関を開錠しない。そして呼び鈴に反応があったということは、居住者がいるということだ。
 男か。
 いまここで夫、いや、子どももふくめて家族の影を感じたくなかった。勝手な想定によるなら、一人暮らしの彼女の部屋で二人きりになって、ワインでもくみかわす。そういう流れなのだが、部屋にはだれかいるようだ。
 どきどきしたまま五階にあがり、ウッディなフローリング張りの内廊下を進み、部屋に到着した。錠は開いている。尚美は足早になかに入り、おれを招き入れた。
 おれよりもずっと背が高くて、東洋人ながら目鼻だちがはっきりとした男が立っていた。年齢は二十代だろうか。息子か。しかしあのころと変わらぬ若さをたもつ彼女のことを思えば、同年代の夫かもしれない。冷静さを失わぬよう彼女からはいわれているが、動揺がみるみる大きくなっていく。
 「そのままあがって。日本式じゃないの」おれは靴のまま床に人造大理石をはった居間に通された。二十畳ほどの部屋で、アジアンな印象の家具が並んでいる。広い窓の外には見えるのは、通りをはさんで建つ似たような集合住宅のくすんだ壁だった。
 「コーヒーでいいかしら」革張りのシックなソファにおれを腰かけさせ、尚美は訊ねてきた。「おなかいっぱいかもしれないけど、食べものも出すからね」
 尚美は男に目で合図を送り、自分もカウンターキッチンの裏にまわった。おれは聞くべきことを聞きたかったが、それよりなにより、たとえ夢であろうと彼女が目の前にいる喜びのほうが大きかった。おれはあらためて室内を見まわした。壁には丸い木枠の時計がかけてあった。午前十時半になるところだった。窓の向こうには雲ひとつない青空が広がっている。夏空のような鮮やかなその色合いは強い現実感をおびていた。
 「お待たせ」二人ぶんのマグカップと食べものをのせた皿をもって尚美がやって来た。男は台所で洗い物をしている。ソファの隣に尚美は腰かけた。「ゆっくりでいいの。まずは飲んでみて」
 「だいじょうぶだよ。朝メシもそんなにガッツリ食べたわけじゃないから」おれはマグカップを手にとった。馥郁たる香りが漂う。ひと口すすっただけで感動した。「うまい。最高だね」
 尚美は微笑んだ。「豆、買ってきたばかりだから。でもだいじょうぶかしら。飲んでいて違和感とかはない?」
 「あるもんか。ドトールの百倍うまいよ」
 「よかった。じゃあ、こっちはどう?」
 すすめられたのは、アジアの屋台でよく売られている揚げパンのようなものだった。おれはジャンクフードが大好きだ。とくにアジアのものはいい。自然と手がのび、かぶりついた。
 「うまい!」なかにはトマト風味のひき肉がたっぷりと詰めてあり、スパイシーでジューシーな味わいだった。「こりゃ、最高だ。シンガポール出張したときに食べたやつに似てるな」中華まんじゅうほどの大きさのものを、たちまちおれは一個食べきってしまった。
 「ふつうに食べられる? ちゃんと噛んで、飲みこめる? 食べてる感じがわかる?」
 「わかるよ。夢にしちゃ、リアルすぎるね。いくらでも食べられる感じだ。ところでさっき銃撃されたことは、いまのこの奇妙なテストと関係あるのかな」
 「大いに関係あるわ」
 「どういうことなんだろう」
 「それについては順を追って説明するから」尚美は白いプラスチック製の拳銃のようなものを手にしていた。「三十六度二分。これってあなたの平熱かしら」体温を測定していたのだ。
 「なんで体温なんかを?」
 「いいから。まぁ、平熱ね」さっきの男がわきに立っている。手には洗濯ばさみのようなものを持っている。尚美が告げる。「人差し指かして」
 おれがいわれるがままにすると、尚美は男から妙な形の装置を受け取り、指先にはめた。「百二十九の九十二……まぁ、こんなものよね、いろいろあったから」
 「血圧?」夢とは思えなかったが、予測不能なこの展開はたしかに夢のようでもあった。そのときちくりする痛みが指先に走った。
 「ごめん。ちょっと採血させてもらったから」そういって尚美は洗濯ばさみをおれの指先からはずした。小さな血の滴がぷくりと生まれていた。男がだまってティッシュペーパーを手渡してくれた。
 尚美は、採血装置についているディスプレイに目をやりながらつぶやいた。「よかった。思ったとおりだわ」安心したかのように尚美は自分のマグカップを手にとり、ソファに深々と腰かけなおした。
 「思ったとおりって、医者みたいだね」
 「似たようなものよ。でもそこにいるアランは本物の内科医だから安心して」
 おれは隣の若い男を見あげた。男は目で会釈してきた。
 「ここはアランの部屋なの。さっきみたいなことがあったでしょ。自宅にあなたを連れていくよりも安全かと思って協力してもらっているの」
 「協力……」その言葉の響きには、おれがすがるべきものが感じられた。夫婦とか恋人とかいう親密な関係なら、そんな“協力”なんてよそよそしい言い回しはしないだろう。だが待て。これだけの美人だ。この男が言い寄ったりしていない証拠はない。
 おれの気持ちを察知して尚美のほうで説明してくれた。「アランの奥さんのメイがわたしとおなじラボに勤めているのよ。わたしが一番信頼している夫婦なの。メイももうすぐ帰ってくると思う」
 で、きみは結婚しているのかい?
 いちばん聞きたいのはそれだったが口にできなかった。
 「ラボって?」
 「その名のとおり研究所よ」
 「いつから理系になったの?」
 それには尚美も目を丸くした。「最初から理系よ。でもそっかぁ、あたし、短大の英文科だったもんね」
 「ちがうの?」
 「いいえ、それでただしいはず。でもね、わたし、ある研究をしているの。ひらたくいえば仮想空間、まぁ、ゲームみたいなものよ」
 おれの頭にさらなる疑問符がともったとき、電子音が響いた。アランがズボンから電話を取りだし、英語で話しながら玄関のほうへ向かう。声はどんどん遠くなり、玄関が開く音がしたかと思うと、声は聞こえなくなった。
 「アランには仕事中に抜けだしてきてもらったの。メイが帰ってきたら病院にもどらないといけない」
 「なおみちゃん」二人きりになった部屋で訊ねてみた。「ご家族は……?」
 おれの顔にすっと手をのばし、両目の状態をチェックしながら尚美はぼそりといった。「子どもがいるわ」
 「そうか……」落胆した声が漏れてしまった。
 「女の子。滝口くんのところの二つ下。十八になるわ」
 「どうしてうちのことを知ってるんだい」
 「これからその話をしないといけないの。ここがどういう世界で、いいえ、あなたが暮らしていたのがどんなところで、どうしていまここに来てしまったのか――」
 「いいんだ」彼女に近づき言葉をさえぎった。「いつかきっとこんな日が来ればいいと思っていた」
 「落ち着いて」子どもに言い聞かせるように尚美は両手でおれの頬をはさんでいった。「あなたがわたしのことをずっと思っていてくれたことは、じゅうぶんわかっている。でもわたしだって、あなたが必要なの」
 「必要って……」
 「会いたかったのよ」
 おれは思っていることを率直につたえた。「もっと早く再会できればよかった。おれが悪いんだ。なおみちゃんのことは捜そうと思えば捜せたんだし。だけどいま、こんなふうにリアルな――」
 「何度もいうけど、夢じゃないからね。現実なのよ。あなたがいた世界のほうが――」そこで尚美は言葉をきり、トートバッグに手を突っこんだ。「百聞は一見にしかずだからね」
 サングラスだった。
 街中で育児休業中の若い女たちが、ベビーカーを押しながらこれ見よがしにかけているシャネルのような濃い色合いで大ぶりのタイプだった。だが右側のフレームに消しゴムサイズの長方形をした装置のようなものがあり、赤いランプが小さくともっている。尚美はフレームを開き、サングラスをおれの顔にかけた。
 「きつくない? それなりに似合ってるけど」暗くなった視野の向こうから尚美はのぞきこんできた。
 「出かけるの? これで顔隠して」おれはどこかにまた連れていかれるのかと思った。
 「深呼吸してみて」尚美はフレームに手をふれた。おれはいわれるがままに息を吸いこみ、ゆっくりと吐きだした。尚美の指先は小さな装置にかかっていた。「落ち着いてね」
 ぶーんという低くうなるような音が耳元で聞こえた。そして一瞬、視界が真っ暗になってなにも見えなくなったのち、強い白色光があらわれた。
 USER NAOMI
 LIFE CHANNEL SUB
 視力検査のような小さな文字が浮かびあがる。スクリーンのようだった。そしてつぎの瞬間、おれは――
 家にいた。
 武蔵小杉のマンション。加奈が洗面所で口紅を塗っている。学校に行く前だろうか。最近化粧にかける時間がやたらと長くなっている。玲子のことを思えば当然かもしれないが、娘がどこか遠くに行ってしまうようで落ち着かぬ気分にさせられた。
 カメラはそのまま娘に近づくが、加奈は鏡に顔をよせたままだった。カメラが乱暴に右にパンしたとき、鏡が映った。
 加奈の隣に立っていたのは、妻だった。
 カメラはどこにも見あたらない。混乱した。理解のしようがなかった。洗面台にはデジタル式の時計がある。
 10:49am 
 おれを心底混乱させたのはカレンダーの日付だった。
 2014年5月8日
 きょうだった。
 本能的におれはサングラスをはずし、腕時計を見た。

 十一
 黒いサングラスを握りしめて困惑するおれに、尚美が声をかけた。
 「すべてを夢のせいにできるなら簡単でしょうけど」彼女はおれの左手をしっかりと両手で包みこむように握りしめていた。「そうでないところが現実のきびしいところね。とくにあなたにとっては。でも心配しないで。わたしが説明するから」
 「どうやって家のなかを撮っているのかはべつとして、これがもし現実だとしたら、ぼくはいまどこにいるのかな。瞬間移動してきたってこと?」
 「さすがは滝口くんね。するどいわ。べつの場所に瞬間移動してきたという点はあたっている」
 「マシスンの『ある日どこかで』みたいだな」
 「たしかにそうね」尚美はまるで恋人がするように頭をおれの肩にかたむけた。あのときとおなじ柑橘系の香りが鼻先をくすぐる。
 おれは口づけしたい衝動にかられたが、理性がじゃましてそれ以上慎みを失うことができなかった。
 「あれはすてきなラブストーリーだったわ」
 「読んだの?」
 「うぅん、滝口くんがね」
 頭がまたしても混乱した。おれが読んでその内容を彼女に話して聞かせたとでもいうのだろうか。それはありえない。マシスンにはまったのはわずか二年前のこと。『ある日どこかで』を読んだのは今年に入ってからだ。高校時代のおれはそもそも小説なんか読みもしなかった。漫画漬けの日々だった。
 「だけどあれはタイムスリップの話でしょう。これはそういうのじゃないから」
 「つまりリアルタイムだっていいたいのかな」
 「すくなくともいまこのとき、あなたの家の洗面所では、加奈ちゃんがお化粧をしていて、そばに奥さまがいらっしゃる」
 おれは首筋をこわばらせた。「どうして娘の名前を知っているんだ」
 おれの動揺をよそに尚美はうっとりするような声でいった。「あなたのことならなんでも知ってる」
 だが尚美はすべてを知っているわけではなかった。突如、大きな音を立てて玄関が開き、さっきの発砲音が再開されたのだ。
 野良猫のような俊敏さで尚美はソファから立ちあがり、おれの手を引いて隣室のドアを開けた。大きなベッドがある寝室だった。
 「窓から逃げて」押し殺した声でそう告げると尚美は居間にもどっていった。
 「なおみちゃん」レースのカーテンがかかった腰高窓に飛びつき、ロックを外しながらおれは声をあげた。
 尚美はトートバッグとサングラスをつかんでもどってきた。「急いで!」後ろ手にドアをしめ、そばにあった本棚を倒して封鎖するなり、おれのほうに飛んでくる。同時にドアが激しくきしみ、つづいて発砲音が起こる。銃弾でドアともども本棚が炸裂し、木片が飛び散った。
 腰高窓の向こうは、向かいの集合住宅との間に広がる五階の高さの空間だった。窓のわきに直径十五センチぐらいの配管が上下に走っている。窓を開け、本能的にそれに飛びついた。すると重力のせいで体はそのままあっというまに三階の高さまで滑りおりた。見あげると尚美の体が頭上に迫っている。
 「急いで!」尚美の絶叫と同時に銃声もいっしょになって降ってきて、銃弾が壁面を削り取る。それに押されておれは一気に地上まで落ちていった。
 「こっちだ!」
 こんどはおれのほうが尚美の手を引いた。向かいの集合住宅との間には運河が流れていたが、そっちは格好の標的となる。おれは建物の端まで走り、角を曲がって正面玄関のほうへ向かった。そっちには尚美の車がとめてあるはずだった。
 だがそれほど近づかずともタイヤがパンクさせられていることに気づいた。駐車場の端にアランと若い女が立っている。かたずをのんで見守っているようすだった。どうやら尚美は、職場の同僚だという女とその夫である内科医を信頼しすぎたのかもしれない。
 近くで甲高い発砲音があがり、同時に足元の路面から土煙があがった。
 エントランスにも黒ヘルメットの男たちが待ちかまえていたのだ。おれはすぐ隣にあったトラックのわきに尚美とともにダイブした。アブラヤシが並ぶ植えこみの地面に顔の右半分が突っこんだ。
 足音が近づいてきた。一人じゃない。十メートルも離れていない。
 「どうしよう……」出会ってからまだ一時間もたっていないが、尚美ははじめて弱気を口にした。「滝口くん……」
 だがいまのおれにどうしろというのだ。どうせ夢の出来事なのだろうが、すくなくとも設定ではおれは瞬間移動してきたことになっている。ここがどんな場所で、警察だという襲撃者の人数さえ把握していない。なにより丸腰だった。
 そうじゃなかった。
 おれの右手はいつのまにか植えこみの土を握りしめていた。土というより乾いた砂のようだった。考えているひまはなかった。足音はトラックのすぐ向こうに接近している。シャシーの下からのぞくと、二人の足が見えた。そのうちの一人がトラックの前方をまわりこんできた。
 一か八かだ。
 おれは両足に渾身の力をこめてそっちにジャンプした。
 相手が動転するのが、黒いヘルメットから下ろされたフェースガードごしにわかった。おれは二つのことを同時に行った。左手で自動小銃の銃身をつかんで火線上から自分の体をよけ、右手をフェースガードの内側に突っこんだのだ。
 相手の悲鳴は、やつの相棒による発砲音にかき消された。が、おれは、目つぶしをくらって悶絶する男の腰のホルスターから自動拳銃を奪い、闇雲に放っていた。弾丸は目の前に飛びだしてきた相棒の無防備の太ももを貫いた。
 エントランスにほかの連中の姿はなかった。だが数秒後には上階チームがもどってくるだろう。おれは太ももを撃ちぬいた男から自動小銃を奪った。
 「こっちよ!」尚美は、おれが目つぶしをした男から自動小銃をもぎ取っていた。「急いで!」尚美は表通りのほうに走りだした。
 表通りは二車線道路で、車の往来がかなりあり、アブラヤシが整然と植えこまれた広い歩道を行きかう人も多い。そのだれもが拳銃と自動小銃を握りしめたまま猛然とダッシュする男女の姿に仰天し、道を開けてくれた。五十メートルほど走ったところで、案の定、背後で銃声があがった。だがさっきのような乱射ではない。威嚇発砲に近い抑制された発砲音だった。通行人がじゃまなのだ。
 似たような集合住宅をこえたところで尚美が路地を曲がった。薄暗い路地の向こうに運河が見える。一匹の白猫が路地のなかほどでうたた寝をしていたが、突然の侵入者に目をさまし、運河のほうへ逃げだした。そのあとを追うようにおれたちはさらに加速し、降り注ぐ日差しをあびる堤防に出た。
 二メートル下の水面にバンコクの運河を走っていそうな果物売りの小船が停泊していた。船頭は船外機の調整をしていたが、躊躇してるわけにいかない。先におれがジャンプした。
 頭上から人間が降ってきた衝撃で、船頭はバランスを崩し、水のなかへ転落した。それと同時に尚美が飛び降りてきて、船外機にしがみついた。
 「見つかったわ!」船底に身を投げだしながら尚美が叫ぶ。同時に発砲音が降り注いでくる。
 船外機からは鉄パイプがのびていた。その先端のスロットルにおれは飛びついた。途端、小船は尻に火を放たれた荒馬のように船首を五十センチほどもたげたまま走りだし、急加速した。おれは体を低くしてハンドルを握りしめ、襲撃者から逃れようと、荷物の果物――大半がバナナだった――を川のなかに落として重量を軽くしながら、ひたすら船を走らせた。
 運河はゆるやかに左にカーブし、火線からなんとか逃れることができた。それでもやつらの執拗さは先刻承知だ。アランたちのような協力者がいないともかぎらない。
 「どこに出るんだ!」おれは声を張りあげた。
 「水門よ。そこでとめられちゃう! 右手に水上市場があるから、桟橋にとめて!」
 「だいじょうぶなのか!」
 「わかんない、そんなこと! でも船より安全でしょ!」
 いちいち考えているひまはない。水上市場は目の前に接近してきた。バンコク出張を思い起こさせるにぎわいだ。どこの桟橋にも似たような小舟が停泊し、浅黒い顔の女たちが商売に精をだしている。おれはスロットルをゆるめて減速し、空いている桟橋に近づいていく。最後はほとんど乗りあげるようないきおいで船首を突っこんだ。
 「こんなの持っていけないわ」尚美は手にした自動小銃を船底に横たえた。
 たしかにそうだ。捕まえてくれといっているようなものだ。しかし万が一のことがある。おれは自動小銃は放棄したものの、ズボンの前に拳銃を押しこみ、ワイシャツの裾をズボンから引きだしてそれで覆い隠した。
 桟橋の奥は、日よけがわりのトタン板を屋根がわりに並べた市場になっている。船を降り、鶏肉や羊の肉の塊をぶら下げた店がずらりと並ぶ狭い通路を走り抜けながら、おれはうしろからついてくる尚美に向かって叫んだ。
 「こっちでいいのか!」
 「だいじょうぶ! このまままっすぐ走って!」
 市場は買い物客で混んでいた。肉屋街を抜け、色鮮やかな野菜や果物を並べるエリアに入るとさらに混雑が増した。頭をスカーフで覆った女性たちの合間をすり抜けるうちに、いつのまにか尚美に追い抜かれ、彼女が先導するようになっていた。前にも来たことがあるらしく、彼女は途中で通路を曲がり、生地屋街へ入っていった。もういちど曲がったところで、前方が明るくなっているのが見えた。出口だ。車や人の往来が見える。尚美が振り返っておれのことをたしかめる。
 「だいじょうぶだ!」おれはまうしろで声をはりあげた。絨毯屋の奥にいた親父さんがぎょっとした顔をした。だが本当の意味で驚いたのはおれ自身だった。
 その瞬間になにもかも理解した。
 自分の声ばかりでなく、耳に入ってくる音のすべてが生々しい。ごちゃごちゃした通路も、店の棚に並ぶ品々も、行きかう人々の顔もすべてが鮮明だ。濡れたコンクリートの床を蹴る足の裏に伝わってくる感触も、異国情緒あふれる顔だちの買い物客とすれちがうときに腕と腕がぶつかりあう感触も、スパイスの香りをただよわせた市場内の蒸し暑い空気を吸いこむときの感じも、すべてが本物だ。
 尚美に遅れまいと必死に走りながら、おれは頭の片隅で恐ろしく重要なことを考えはじめていた。もちろんまだ認めがたい。しかし理由はどうあれ、そろそろ受け入れ態勢を整えねばならない。目の前に広がるこの世界を――
 現実の一部として。
 「急いで!」
 市場の出口で尚美は左のほうを指さしている。バスがのろのろと動きだすところだった。中古車両にペンキを塗ったようなオンボロバスだった。バス停を出発したところで、かなり混んでいる。
 フロントグリルの前にいきなり飛びだしてきた女の姿に、運転手が急ブレーキを踏んだ。それで乗りこむことができた。インド系の真っ黒い髪の運転手から悪態をつかれたが、尚美は乗車料金を二人ぶんきちんと支払い、吊革につかまる乗客たちを押しのけて、なかに進んでいった。エアコンはきいていない。
 「とりあえず逃げおおせたかな」吊革につかまりながら、おれは声を押し殺した。
 尚美は乗客のすきまから外のようすをたしかめ、追手の姿が見えないことを確認した。「いまのところはね」
 「行くあてはあるの」
 「このバス、どこ行きだったっけ?」
 おれは眉をひそめた。「そんなのわからないよ」
 尚美は口元をとがらせ、頬を膨らませた。昔の記憶がよみがえった。浪人時代、はじめてデートしたときのことだ。あれは横須賀線の車内だった。なにかの拍子に尚美がそれとおなじ顔をしたのだ。きっといまとおなじく、彼女の問いかけに対し、おれがあまりにそっけなく、なんの機知もない返答をしたことに不満をしめしたのだろう。
 「すくなくともさっきのマンションから離れているね。逆方向だと思う」おれは取り繕った。
 バスはうなりをあげて速度をあげ、みるみる市場から離れていく。
 「北に向かうんだわ」尚美は乗客の間から亀のように首をのばし、運転手の頭上にある電光掲示板に目をやった。「四十二番って出てるでしょ。路線番号なの。四十二番はマスジットシティの北部地区に行く路線。高速につながるあたりまで乗れればいいんだけど」
 「それって遠いのかな、ここから」おれは額に噴きだした汗を手でぬぐった。シャツの内側はびしょ濡れだ。ここがアジアの主要都市であるなら、高級ホテルだってあるはずだ。いますぐそこに部屋を取って、熱いシャワーを浴びたかった。
 「混んでなきゃ十五分ぐらいだと思うけど」
 「十五分か……ちょっと難しいかもな」おれはあごをしゃくって、向かいに出現した鏡張りのビルのほうをしめした。エントランスの上にある十メートル四方のスクリーンに巨大な女の顔が映しだされていた。にわかに現実味をおぼえはじめていたこの世界でも、英語が通じるらしい。ショートカットの髪のうえには「WANTED」とだれの目にもわかるサイズで出ていた。巨大な顔が消えると、罪状が英文でつづられていたが、細部までは読み取れない。「有名人だね、なおみちゃん」
 すでに尚美は例のサングラスをかけ、さらに薄紫色のスカーフで髪を覆っていた。
 「早すぎるわ、こんなの……」亀のように首をすくめ、せわしなく車内に目を走らせる。
 おれもそうしてみた。何人かと目があった。いきなり発砲されるかもしれないし、アランたちのように通報される恐れもあった。
 「なおみちゃん」耳元に口を近づけて訊ねる。「ここの連中って、日本語はわかるの?」
 「もちろんよ」ささやくように尚美がいう。「公用語だから」
 「日本語が?」
 「まぁ、なんていうか……あなたがいう“日本語”がね」
 「なんだよ、そのまどろっこしい言い方は。いずれにしろ余計なことはしゃべらないほうがいいってことだね」
 尚美はだまってうなずいた。
 そのときだった。
 バスが停車した。ざわつく乗客の声のなかに「検問」との言葉が聞き取れた。前方のドアが開き、警察官とおぼしき青シャツの男が二人入ってくる。
 「手配犯の捜索です」
 おれも尚美も顔をうしろにそむけた。逃げようにも混んでいて身動きがとれない。尚美はサングラスとスカーフで顔を隠しているが、巨大スクリーンに映しだされた人物だと気づいた常客もいるかもしれない。なにより警察官がやって来てサングラスを外すよう指示されたらおしまいだ。夢の展開ならここで天井か床にぽっかりと脱出口が開くのだが、そうはならずに二人の警官は乗客を一人ひとり確かめてはじわじわとこちらに近づいてくる。おれも尚美もそれに押されるようにして、数センチずつ後退するのだが、もはやうしろは人の壁となっていて、バスのほぼ中央、降車扉の前まで来たところでそれ以上進めなくなった。降車扉を押し開ければ、外に逃げられるが、それではかえって目だつし、外でべつの警官が待機していた。吐き気を催すほどの熱気のなか、おれはワイシャツのうえから銃のグリップを握りしめた。
 いったいなにをしたのだ。
 あんなに大きく指名手配写真が表示されるなんて、相当の重罪を犯したにちがいない。逮捕されるのは彼女だけだろうか。突如こっちの世界に出現したこのおれもお縄にかかることになるのではないか。
 そう思ったとき、エアブレーキが抜けるような音とともに目の前の扉が開いた。尚美が非常把手を操作したわけではない。べつの乗客がそれに手をかけたのだ。あとはあっというまだった。おれたち二人の前を乗客たちがつぎつぎと通りすぎ、車外になだれ出ていったのだ。その流れに巻きこまれようとしたとき、腕を引っぱられた。
 「こっちだよ」東南アジア系の顔をした若い男だった。降車扉の向かい側にある座席に腰かけている。「あっちに行ったら捕まるよ」男は窓を全開にしていた。そっちは対向車線だ。
 おれは降車扉の外を見やった。車内に入ってきた二人の警官が血相を欠いて前方の乗車口から飛びだしていったところだった。降車扉の向こうにはほかに二人の警察官がいる。
 「こっちはいないから」そういって若い男はまずは自ら窓から身を乗りだし、頭から飛び降りた。
 おれは窓のほうに尚美の背中を押した。尚美は上体を乗りだし、体を反転させてバスの側面を滑り落ちるようにして脱出した。それにつづいておれも背中を丸めて窓の外に飛びだした。
 「急いで!」押し殺した声で男が手招きした。対向車線を車が何台も行き来しているが、突然の騒ぎにいずれも徐行運転になっている。その合間をすり抜けて、若い男とおれたちは道の反対側に移った。
 アーケードがのびる歩道を男はバスのほうを振り向きもせずに悠然とした歩調で左手に進み、最初の狭い路地を右に曲がった。そのあとをおれたちがそわそわとついていく。
 路地は三十メートルもいかないところでバス通りと似たような道路に出た。男はそこを左に折れ、すぐ先にある駐車場におれたちを案内した。そしてすぐにもどってくるからといって、駐車中のクーペと冷凍車のような荷台を持つ小型トラック――これも東京で見かける軽トラとは異質な、近未来的な流線型のフロントグリルを有している――の間におれたちをしゃがませ、ふたたび道路のほうへもどっていった。
 「だいじょうぶかな」
 「悪い人じゃないみたいだけど」尚美は周囲にしきりに目をやる。
 「逃げたほうがよさそうじゃないか」
 「あんなに大きく顔が出てるのよ。いくらサングラスかけていたって危険でしょう。とりあえずここは死角みたいじゃない」
 「捕まったらどうなるんだ」
 「極刑はまぬがれないでしょうね」
 さっきの男がもどってきた。もう一人、でっぷりと太った禿頭の男もいっしょにいる。浅黒い肌は若い男とおなじだ。
 「行くところはあるのかい」おれたちの前にしゃがみこみながら若い男が訊ねてきた。
 「あなたは……」
 「見たよ、指名手配書。すでに全市民に配信されてる。まだ見ていない連中もいるだろうが、半日もしないうちにおねえさんはマスジットシティで一番の有名人になる。手配書には罪名が書かれていなかった。そういうときはいつだって決まってる。治安維持法違反だろ」
 尚美はうつむき、唇をかんだ。
 「なおみちゃん、それっていったい――」
 「いまは説明しているひまはないの」
 「協力するよ」若い男がいった。「町外れまでならジャメが連れていってくれる。この手の手配犯にはできるだけ協力するようにしているんだ」
 「レジスタンスのメンバーなの」
 男はあいまいにかぶりを振った。「警察やギョルのやり方には、町の連中はみんな不満がある。特権階級の連中ばかりいい思いをしている」
 「北に行きたいの」意を決したかのように尚美はいった。「タパンのあたりまで」
 「そりゃずいぶんと遠いことだな」ジャメと呼ばれた太った男がいった。「高速を使えれば早いが、ゲートを通過するときにスキャンされる」
 「スキャンって?」
 尚美が説明した。「対人感知器よ。車に隠れてもみんな見つかってしまう」
 「一般道でタパンか」ジャメは贅肉がたっぷりとついたあごに手をあてて思案した。「途中で検問もあるだろうから、そのときは保証できないぞ」
 「いいわ。行けるところまででいい。乗せていってくれるかしら」
 「荷台にのってくれ。すぐに出発する」そういってジャメはトラックの後部ハッチを開けた。
 おれたちは荷台に転がりこんだ。なかは冷凍車どころか蒸し風呂のようだった。
 「窓もないががまんしてくれ」ジャメがハッチを閉めると、なかは薄暗くなり、外の音も低くなった。蒸し暑さがいっそう増す。エンジンがかかり、蛍光灯らしき白っぽい明かりが天井にともった。なかはがらんとしてなにも積まれていない。運転台との間を仕切る壁に薄汚れた小さなガラス窓がついており、運転席のようすが見えた。ジャメがハンドルを握り、若い男も助手席についている。
 トラックはそろそろと駐車場を出て道路を左方向に進んだ。窓からのぞくかぎり、道はさっきよりも混んでいる。前方でさっきとはべつのバスが停車させられていた。
 小窓が開き、若い男が顔を出した。「おれはティレル。レジスタンスなんて、マスジットシティからは一掃されちまったんじゃないか。最近はとんと聞かないね。アウターはどうか知らないけどね」
 「アウター……?」
 よほどおれはまぬけな顔をしていたらしい。ティレルはあきれたように目を丸くしていった。「あんた、いったいどこから来たんだい」

 十二
 渋滞にはまった。
 トラックの荷台は、運転席側の小窓からわずかにエアコンの冷気が漏れ入ってくるものの、蒸し暑いことこのうえない。尚美がいなかったら、素っ裸になっているところだ。それでも人目を避けて移動するにはもってこいだった。
 尚美は小窓からちらちらと外のほうを気にしている。そろそろ聞くべきことを聞いておかねばならなかった。おれは腹の前から銃をつかみだした。
 「これ、本物だよね。モデルガンなら子どものころに何丁か持っていたけど、本物を手にするとはな。リアルすぎるよ」
 「あぶないってば」尚美が手をのばしてきて、おれの手から銃をもぎ取った。「あずかっておくから」そういって銃をトートバッグに放りこむ。
 「いつまでたってもさめないってことは、やっぱり夢なんかじゃないってことだね」
 「そうよ」尚美はようやくサングラスを外し、折りたたんで両手で握りしめた。
 「だったらさっきのつづき、話してくれるかな。そのサングラスさ。ウェアラブルが開発されているのは知ってるけど、それにしても自分の家が盗撮されているなんて思ってもみなかった。それもリアルタイムみたいだった」
 尚美はサングラスを開いておれの顔にかけた。ぶーんとうなるような音が聞こえ。先ほどとおなじ文字がスクリーンにあらわれる。
 USER NAOMI
 LIFE CHANNEL SUB
 最初に映しだされたのは、天井のようだった。接触不良なのか、ついたり消えたりする断続的な映像だったが、さっきとおなじく武蔵小杉のおれのマンションらしい。寝室だろう。レースのカーテンから漏れる光は薄暗く、カメラは手ぶれもひどい。船酔いしそうだった。やがて天井から壁へと移り、弱い外の光を反射する洋服だんすの扉が見えてきた。そのわきに姿見があらわれた。結婚したとき、玲子が実家から持ちこんだものだ。
 玲子の顔が映っていた。
 うすぼんやりとした映像は時折、完全に消えてしまうのだが、そこに映る妻は、得もいわれぬようなうっとりとした顔つきをしていた。ベッドに横たわっているのだ。夫には最近、けっして見せることのない表情だった。肩から胸のうえのほうまでしか見えないが、裸のようだった。口を半開きにし、なにか喘いでいるようでもある。左手は隠すようにして胸にかかり、右手は体の下のほうにのびている。
 「あ、ゴメン」尚美の手がサングラスのフレームにのびてきた。「ミュートのままだった」
 「いいから」おれは尚美の手をフレームから振りほどいた。「いいんだ」
 11:54am 
 2014年5月30日
 ふだんおれが会社で考査用の番組映像を見ている時間帯だ。加奈はすでに大学に出かけているのだろう。
 「だいじょうぶ?」
 「いいんだ」ゆっくりとサングラスを外す。「現実はきびしいな」
 「え……?」尚美はサングラスを引き取ろうとしたが、おれがそれをぎゅっと握りしめたので、そのままにしておいてくれた。
 「さっきもそうだったけど、これは女房の視点になっているんじゃないか」
 「そのとおりよ」
 「画面には『USER NAOMI』って表示されていたような気がする。『NAOMI』ってのはきみのことだよね」
 「そう」
 サウナのようなトラックの荷台で、おれは手にしたサングラスを見つめた。「そこから先の表示がわからない。たしか『LIFE CHANNEL』みたいな感じに読めたんだが」
 「まちがいないよ。『LIFE CHANNEL SUB』って表示されている」
 「ライフ・チャンネルってなんだよ。CSの専門チャンネルみたいだけど」
 クソ暑いっていうのに尚美は、運転席との間の小窓を閉じ、おれの耳元に口を近づけていった。「ライフのサブチャンネルって意味なの」
 「なんだよ、ライフって」
 「いま見たでしょ。あそこに映しだされた世界のことよ」
 「のぞき見されてるわが家の生活ってことかな」
 「のぞき見ってわけじゃないわ」
 「そもそもサブチャンネルってのが、いかがわしいイメージがあるけどな。隠しカメラみたいだし。メーンチャンネルはどこにあるんだい」
 尚美は押し黙った。熱気のなかでさらに熱い吐息が首筋をなでる。高校時代の夏休み、部活を終えて帰るとき、下駄箱でこれくらい接近したことがあった。あのときの興奮がよみがえる。
 「いまは映せないの」ぽつりと尚美がいった。「カメラがないから」
 「壊れてるのかい」
 「じゃないのよ。あなたがこっちに来ているから」尚美はおれの腕にしがみついてきた。それは恋心の証でもあり、同時におれを不安にさせまいとしているかのようだった。
 「どういうこと……なの?」
 「メーンチャンネルは滝口くん、あなたの視点なのよ」
 「ぼくの目がカメラだってことかい?」
 「そんなようなことだと思ってくれていい」
 「なおみちゃん……こっちの連中、つまりきみたちは、ぼくらの目に隠しカメラを装着したのかい」
 「滝口くんからすればそう感じるかもしれないけど、問題は滝口くん、あなたがどういう存在かってことにかかわってくるの」
 「存在って……」おれはのけぞるようにして彼女の体から離れ、荷台の壁に背中をあずけた。「さっき採血されたり、いろいろ調べられたよね。それに体のどこかに痛みとか違和感がないかとも聞かれた。あれはどういう意味だったのかな」
 「チェックしなきゃいけないことは山ほどあるのよ。あなたの存在は、わたしたちとはまるっきりちがうものだから」
 「どうちがうんだい」おれは混乱した。「なおみちゃんはふしぎなくらい高校時代と変わらない。そんなきみから見たら、ぼくは別人でしかないんだろうけど、精神的にはあのころとちっとも変っていない」
 「はっきりいうわ」尚美はおれの肩をつかんだ。「滝口くん、ほんとにゴメン。許してちょうだい。あなたは……わたしが作ったの」
 「作った……?」
 「これを見てくれるかしら」尚美はトートバッグに手を突っこみ、タブレット端末を取りだした。電源を入れるとすぐに明るいスクリーンがともる。そこから猛然とページを繰り、電子ペンによる手書きの書きこみが無数にあるノートを開いて見せた。
 ……大学は一浪して立明大法学部に進み、バブル期の大量採用の恩恵に預かり、東京放送協会に就職。同期入局の柄本良太とともに山形支局に赴任。五年間の地方生活ののち、東京にあがる……。
 ……社会部に進み、警視庁、厚生労働省を担当したのち、「ニュースホライズン」のキャスターとなる……。
 ……報道局の派遣スタッフだった玲子と三十歳で結婚。一人娘、加奈は小学校から高校まで地元の学校に通うが、成績は中くらいで、大学は現役合格できない……。
 「なんなんだ、これは。どうしてこんなこと知っているんだ。就職したあとの話なんて、なおみちゃんが知ってるわけないじゃないか」
 取り乱すおれに言い聞かせるように尚美は話した。「これを音声入力するの。あとは設定条件にあわせてライフがきめてくれる」
 「きめるってなんだよ」
 おれは自分の体を見た。汗まみれになったシャツの袖をまくりあげたところから突きでた腕は、高校時代にくらべて筋肉が削げおちてしまっている。かわりに腹まわりは肉がだぶつき、ベルトのうえにこんもりと盛りあがっている始末。顔はどうだ。頬に手をやると、ひげを剃ったばかりの肌がまだつるつるとしている。その年にしてはきれいで健康的な肌をしてますね――考査部のバイトの女の子にいわれたのは、最近のことではなかったか。
 「きみは何者なんだ。ここはいったいどこなんだ。ライフって――」
 「ゲームよ」尚美はおれの顔を抱き寄せた。「あなたは人間じゃないの。もともとゲームのキャラクターなの」
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