プロローグ~四

文字数 20,266文字

 プロローグ
 女は彼を必要としていた。
 彼なしに目的は達しえない。ほかに手段がないのだ。
 ウェアラブル端末の画面にあらわれる彼の行動を吟味し、タイミングを見はかる。計画どおりにはいかない。刻一刻と危険が迫っているのをひしひしと感じながら、部屋の片隅で女は、デスクチェアの肘掛けをつかんだ。
 女は、初夏の日差しに焼かれはじめたオフィス街を見ていた。あたかも自分がそこにいるかのように。地下鉄の出口から埃っぽいアスファルト世界に踏みだし、背の高いビルに吸いこまれていく。エントランスのゲートを抜けたところで人の流れにあらがい、分厚い鉄扉を押し開く。
 非常階段だった。
 女は気を引きしめた。やるならここしかない。外の喧騒がシャットアウトされた異空間のような静けさに包まれ、彼はよろめきながら階段を上がっていく。それにいっしょになって女がついていく。

 第一部
 一
 コペルニクス的転回なんて、ある日突然起きるんだから――。
 大学には入ったものの展望を描けずにいる娘の加奈に、幾度となくおれはそういってきた。だがキャスターの座から引きずりおろされて窓際族を拝命した中年男に、それが起きるなんて。まるで夢を見ているようで、けさの出来事を何度も反すうしては、おれは生ビールのジョッキを握りしめた。
 七階の彼女のことだ。
 いや、あれは本当に七階の出来事だったのだろうか。同期の柄本良太にはたったいま、鼻で笑われたばかりだ。経営企画室の次長として公共放送THKの将来像を日夜見極めている常識人だ。しかし七階だろうとなかろうと、あの女が、今年四十九歳になる元キャスター――いまは左遷先の考査部員――の心を揺さぶったのは事実なのだ。
 「根つめて働きすぎてるんじゃないか」初任地がおなじ山形放送局で、かつてはおなじ釜の飯を食った仲だ。センター街の居酒屋で柄本は心配そうに訊ねてきた。「考査って、一日に何本も番組チェックしてるんだろ。あんまり気負うことないって」
 おれとちがってしっかり染めた黒髪を手でなでつけながら柄本は、やんわりと心の病を疑っているようだった。ゴールデンウイーク明けは五月病が蔓延しだすころだが、ホルモンバランスが崩れてくるこの年代になるといつだって心は風邪ぎみだ。そろそろ定年後の身の振り方を真剣に考えるべき時期でもある。加奈が卒業したら、遠からずあの武蔵小杉のマンションで夫婦二人の生活が始まる。これまでは娘がいたからなんとか夫婦という結びつきを保っていられたが、ここ何年も玲子とはろくに口を聞いていない。キャスターをクビになってからはとくにそうだ。相手への不満をひた隠しにしながら、かろうじておなじ屋根の下に暮らしている。そんな気がしてならないし、最近感じるのは、どうしてこの女と結婚したのだろうかという根本的な疑問であった。
 「心配ないさ」おれはあたりを見まわした。サラリーマンでにぎわうテーブルのなかに知った顔は見あたらないが、用心にこしたことはない。おれは声をひそめていった。「さすが経企室だな。そうやってスパイ活動してるってわけか」
 「いやみなこというなって。経企室なんて、つまんないぜ、本当に」
 「うそつけ、出世コースのどまんなかだろ。なぁ、柄本、早くえらくなって、おれを気らくな関連会社にでも出してくれよ」
 「ばかいうなって。現場がいちばんだ。報道局から出てみると身に染みるよ」
 じっさいそうなんだろう。あそこにいるときが一番だった。おれは生ビールをあおった。柄本とこんなふうにゆっくり話をするなんて二十年ぶりだった。政治部が長かった柄本とは、仕事も私生活もふくめ、完璧に没交渉だった。だからおたがい、たとえひょんなきっかけで言葉を交わすことになったとしても、こうして再会できて喜んでいる。
 「忘れられない女っているだろ」おれは切りだした。
 「ふられた女のことじゃないのか」さすがはエリート職員。図星を突いてきた。「危ない、危ない。そんなこといってるとたちまちストーカーあつかいされるぞ」
 「だけどいるだろ、そういう存在」
 「もう忘れちまったよ。忘れっぽいんだ。女房に不満はないし」芋焼酎の水割りをすすりながら、処世術をさらりと口にされ、おれは恥ずかしくなった。
 「うらやましいな。奥さんと仲がよさそうで。うちの女房なんてこないだ『生まれ変わったら絶対ちがう相手と結婚する』って、娘に話してたよ」
 「照れてるだけだろ。結局は家族なんだし、家族だけが味方だよ。最近つくづく思う。職場なんてイヤなやつばっかりだよ」
 同期の出世頭である柄本がそんなことを口にするとは思わなかった。話さずにはいられなかった。「高校のときの同級生なんだ」
 「なにが?」
 「忘れようにもいまだに頭にこびりついている」
 「その女がいたっていうのか。うちのビルの七階に」
 「じっとこっちを見ていたんだ。朝の九時半ごろだったかな」
 「年格好は?」
 「非常階段の扉についてるガラスごしだったから、よくわからないけど、あまり変わってなかった」
 「それはおかしいだろ。三十年もたってるんだぜ。おまえだって、昔の写真と比べてみろよ。寄る年波には恐ろしいものがある。たんなる見間違えか、似た顔の若い女だよ。でもその女の娘って可能性はあるかもしれない。七階は経理局の分室が入っていて、経費の計算センターとか派遣社員を大量に雇ってる。若い女なら掃いて捨てるほどいる」
 「計算センターか。知らなかったな」ガラスの向こうに見えたのは、ほかのフロアと変わらぬカーペット敷きの廊下の一部だった。「目が合ったんだ。電気が走ったみたいに動けなくなった。断じて錯覚なんかじゃなかった」
 柄本は蔑むような目を向けてきた。「それで再会しようと思って非常階段を使ってるのか?」
 「そういうわけじゃないけどさ」おれはタコのぶつ切りに箸をのばし、独特の冷気が漂うあのふしぎな空間で起きた出来事にもう一度思いをはせた。
 THKこと東京放送協会はこの四月、渋谷に三十階建ての新放送センターを完成させた。考査部は放送法や局内放送基準などに番組が違反していないかチェックする部署で、十階の片隅にある。古巣の報道局は二階だからずいぶんと離れてしまったものだ。旧センターのときは、考査部は報道局とおなじフロアだったのに、どうしてこんなに離されてしまったのだろう。まるでおれに対するいやがらせみたいじゃないか。原発政策のニュースで再稼働に性急な政府の姿勢をちくりと批判しただけなのに。
 だがあのときは、報道局の多くの連中がおれとおなじ考えだったはずだ。使用済み核燃料の処分場がきまっていないのに原発を再稼働させるなんて、ケツ穴が詰まってるのにメシを食いつづけるのとおなじじゃないか。そんな品のないコメントは流せなかったが、それに似た率直な気持ちを本番中にぶちまけたのだが、それが上層部を刺激した。THKは公共放送であり、会長人事はいつも政治がらみだ。時の政権に表だってノーを突きつけられる人物がトップに据えられることはない。だから原発報道だってつねにバイアスとブレーキがかかっていて、それにしたがえない記者やディレクターはどんどん報道局の外に追いやられている。まさか自分がそんな目に遭うなんて思いもしなかった。
 (まずいことになった)
 放送の翌日、最初に教えてくれたのは二期上の報道センター長だった。政権べったりの上層部をことあるごとに口汚く罵っていた急先鋒だ。それがなんだか白シャツについたトマトソースの染みを見つけたかのような口ぶりに豹変していた。
 二日後には後任キャスターが発表され、めでたくおれは降板の憂き目を見た。三月のことである。まわりの仲間の気持ちをくんで発言したつもりだったが、結果的におれひとりがお調子者になって、梯子を外されたというわけである。
 あとは手のひらを返したようだった。同情されるかと思ったのが大間違いだった。それまで付き合いのあった連中は、まるでインフルエンザをうつされるのを恐れるようにまわりからいなくなり、かわりに遠巻きに冷たい視線を送りつけられるようになった。ときにはせせら笑う声さえ耳にとどいた。社会部のエースとして活躍し、ワシントンやロンドンでの海外特派員経験も生かして、五年三か月にわたって看板報道番組「ニュースホライズン」をアンカーマンとして引っぱってきた実績なんて、あっという間にみんなの脳裏から抹消され、むしろひとりよがりな中年男の悲しい暴走の記録として位置づけられた。
 なまじ画面に顔をさらしていたものだから、たちが悪かった。職員ばかりでなく、無数のスタッフや外部の人間が、局内ですれちがうたびに一瞬、空気を飲みこんだ。
 そそがれる好奇の視線にたえきれず、おれは考査部に異動になったあとは、本能的に人目をしのんで行動するようになった。自尊心を守るためである。ところが四月に新しい放送センターに移ってからがつらかった。十階まで上がるにはどうしたってエレベーターを使わざるをえない。ほかの職員たちとエントランスホールでじりじりと鋼鉄の函が下りてくるのを待ち、すし詰めになって十階まで上がっていた。視線は背中や首筋に突き刺さり、そのうち胃壁をも引っかくようになってきた。
 それに輪をかけておれを憂鬱にする出来事がひと月前に起きた。
 四月二日、ある女性職員がレインボーブリッジから転落し、行方不明となったのだ。
 社会部の後輩で、当時は特別報道部に所属していた梶村美沙だ。橋の上に彼女の車が残され、車内に遺書らしき走り書きがあったため、自殺を図ったと見られた。その後も行方不明のままである。美沙は健康的な小麦色の肌をした美人で、アナウンサーとしても通用しそうだった。社会部時代にいっしょに仕事をしていて、いささかも男心をくすぐられなかったといえばうそになる。しかしそれ以上に彼女を輝かせていたのは、まっすぐな正義感の持ち主だということだ。それで女性ながら警視庁キャップや国税担当を務め、去年から特別報道班に移っていた。順風満帆に思えた女性記者がなぜ高い橋から飛び降りねばならなかったのか。真相は判然としないが、自殺説はいまなお有力だった。走り書きには、自分の将来を悲観するようなことが書かれていたという。
 しかしやつが自殺なんてするわけがない。そう思いたかったが、美沙も今年四十になる。そのくらいの年齢になれば、だれだって心に闇を抱えているだろう。だが美沙は苦境に立たされたおれに声をかけてくれ、飲みにも付き合ってくれた。おたがいに思うところはいっしょで、不満をぶちまけるおれを母親のように包みこみ、なにごとにつけ無関心な女房なんかにくらべると、よっぽどおれの傷ついた心を慰撫してくれた。
 さまざまな思いが交錯した。美沙が仕事で悩んでいたのなら、状況はおれとおなじかもしれなかった。だからやつの一件は想像以上にずしりときた。報道の最前線では、かならずしも正義や理想が通用するわけではない。そのことにおれもあいつも折り合いをつけられなかった。そう考えたらどんどん居場所がなくなり、ついにおれは背中に濡れた毛布を覆いかぶされたようになって、職場で息継ぎができなくなったというわけだ。それがもとでおれは夢遊病のようにふらふらと非常階段に逃げこむようになった。なにしろ非常階段だ。非常事態に陥った者たちがなだれこむ避難場所だろ?
 非常扉の向こうは、しんとして気温も一、二度低い感じがした。なにより交通量が皆無だった。まだ新放送センターに慣れていないのか、それとも三十階建ての高層ビルで階段なんて使おうと考えること自体、非常識なのかわからなかったが、扉を開けたとき、先客がいたことを知らせる対人感知機能付きの照明が点灯していたことは、これまでに一度もない。
 非常階段を使っている理由を柄本に聞かせてやった。
 「最初は気分転換のつもりだった。だれもいないから、頭をリセットするのにちょうどいいんだ。京都に哲学の道ってあるだろ。あんな感じかな」
 「哲学の階段か。健康対策室が喜びそうな話だな。だけど上りもやってるとはすごいね。帰りだけかと思ったよ」経営企画部は四階に入っている。そこの非常扉が開いて柄本が姿をあらわしたのは、一時間ほど前のことだ。そこに偶然、おれが通りかかり、いまにいたっているというわけだ。
 「さすがにもうきつい。真夏はむりかな」
 「十階まで上ってるやつはいないと思うぜ。会長は高層階用エレベーターで二十五階まであがって、残りは階段使ってるって話は聞いたことあるけど」
 「さすが。会長の行動まで把握してるのか」
 それには答えずに柄本が口にする。「たしかに空気がちがうよな。昔のおんぼろセンターの階段のほうが、利用者が多かったし、なにより各フロアと一体感があった」
 「セキュリティーのせいだよ。なんでうちのセキュリティー、あそこまで厳重なんだ? メディアだからテロとか気をつけないといけないのはわかるけど、非常階段の出入りまで職員証かざさないといけないなんて、めんどうでしょうがないよ。だからだれも使わないんだろうな」
 「そういうなって」柄本は新センター建設プロジェクトの幹事のひとりでもあった。「消防法には違反してないんだから。フロア側からは自由に非常階段に出られるだろ。逆の場合にICカードで開錠する必要がある」
 「そんなバカシステムじゃなきゃ、あの女に会えたんだよ」ブルーのノースリーブにゆったりとしたスカートをはき、髪にはラピスラズリのような深みのある青色のカチューシャをつけていた。そこまでははっきりと見えた。
 「一度だけか」
 「一度だよ。けさのことさ。だけど目が合ったんだ。だいたい職員証かざしても開かなかったぞ」
 「経理はカネあつかってるから、もう一枚べつのICカードがいるんだよ。それがないと開けられない。それもセキュリティーなんでね。非常階段だけじゃなく、エレベーター使って正面から行くときも、べつのICカードがいる」
 「なんにもたのしいことがない職場でだぜ」どこまで出世の階段上りつめられるか見極めるたのしみがあるおまえさんとちがって――それを口にできるほどおれはプライドを失っていなかった。「ひとすじの光が見えた瞬間だったのにな」やけくそになっておれは生ビールをこんどは大ジョッキで注文した。
 「適当な理由つけて、正面から入ればいいじゃないか。経費精算の問い合わせとかいってさ。それでスッキリするだろ。十中八九、見間違えだと思うけどな。ただ……もし本人だとしたら、どうかな」柄本は意味ありげにほくそ笑んだ。
 「どういう意味だよ」
 「会わないほうがいいってこともあるかもよ」
 その意味はおれにもわかった。さすがは元政治部のエース。洞察力がある。
 「だけど――」
 コペルニクス的転回……か。
 父親のその言葉を加奈がどう受けとめたかはわからない。一浪して中堅私大の経済学部に入学したものの、三十年前の父親同様、将来のことなんてまるで考えていない娘からすれば、それがなにを意味しているか見当もつかないだろう。だがそれは突如、目の前に現れる。いずれにしろその時は遠くないのだが、娘はまだそれに気づいてもいないのだ。
 おれだってそうだった。
 バブル真っ盛りの時代で、学生時代は遊びまくったわりに就職先の内定はいくつも手にできた。そのなかでただ給料が他社よりも高そうだというだけで、テレビ局、それも公共放送であるTHKを選んだ。記者職だ。そんな仕事、これっぽっちも考えたことはなかった。それでも勤めだしたら、なにもかもが変わり“転回”した。学生から社会人になったのだから当然だが、取材したり原稿を書いたりすることにはすぐに慣れ、もっと早く慣れたのは、人前でへいきで天下国家を語るようになったことだった。
 加奈にもいずれそのときがやって来る。父親としては、すくなくともそれが金髪のホストみたいな野郎との出会いでないことを祈るのみだ。しかし若い時代の劇的変化は衝撃的であるぶん、後々振り返ったときに、ある種の憧憬めいたものに感じられるから厄介だ。とくにもう二度とコペルニクス的転回など起きぬ年齢に差し掛かってからは、若い時分を思い起こすたびに、現実の重みに吐き気さえもよおす。
 その意味でけさの出来事は、まるで高校時代にタイムスリップしたかのようで、同期の失踪で落ちこんでいた気分が、ほんのすこし上向いた感じもした。はからずも美沙の一件は、人生を考え直すきっかけとなったわけだ。それを突き詰めると、そもそもおれがこの人生で追い求めていたものはなにか、恋焦がれていた相手とはだれなのか。それを考える必要があるのかもしれない。
 七階の女はその扉を開けたのだのだ。

 二
 どきどきしながらクローゼットをあさった。いま残っている写真は、卒業アルバムのものしかない。奥に積みあげたダンボール箱にしまったはずだ。加奈は遊び歩いていてまだ帰宅しない。玲子は長風呂に入っている。そのすきに見つけないと。
 なんでびくつくんだ。高校の卒業アルバムをたしかめるだけじゃないか。なにか訊ねられたら、出入り業者の会社に同級生が勤めているとでもいえばいい。
 アルバムはすぐに見つかった。前に広げたのはいつのことだったか。谷本尚美のことなら、いまも頭をかすめない日はない。多感だった十代後半、おれは必死の決意で告白し、玉砕した。あまたあふれる失恋話だが、当の本人にとっては、いつまでも疼きが残る深い傷だった。ただそのときは、その後三十年間も記憶の表面に漂い、爪を立てつづけるなんて思いもよらなかったが。
 アルバムを居間の端に寄せつけた父親専用の事務机に運び、風呂場のほうを確認した。物音がしたらひきだしに押しこめばいい。おれは満を持してそれを開いた。
 記憶のままの彼女がそこにいた。
 その刹那、たちまち苦い記憶が脳裏に突き刺さった。そうなるとわかっていたが、それを乗り越えないかぎり、七階の女の謎に迫ることはできない。おれは集合写真の三列目の端にたたずむショートカットの女生徒と対峙した。
 高校時代、一年と三年でおなじクラスだったが、向こうは美人ぞろいのハンドボール部で、こっちはおたくぞろいの写真部。おれはそんなに身長も高くないし、ルックスも中くらいだ。部活だって部長とかでなく、ひらの部員だった。方程式どおりにいけば、おれに幸運が舞いこんでくるわけがなかったが、そこそこ勉強ができて、というより、だれよりも口が達者で、映画の話とかでは始終、適当なことをいってほかの連中を煙に巻いていたのがよかったのかもしれない。尚美は一年生のころから、ほかの連中に対するのとは、ちょっと違う接し方をおれに対してはしてくれた。そして卒業式の二日後、手紙が届いた。
 滝口くんとはもっと話がしたかったんだけど、わたし、臆病で……。
 ほかにもいろいろと書いてあったが、それだけで十分だった。おれは天にも昇らん気分だった。思えば、あんなに高揚したのは、半世紀近い人生を振り返ってもほかにおぼえがない。浪人の身でありながら、その後、何回かデートした。最初のとき、彼女がどんな服を着てきたかいまも鮮明におぼえている。ブルーのノースリーブにふんわりとした淡い色合いのスカート。それにかわいらしい髪飾りをつけていた。
 短大に現役合格を果たした彼女は、キャンパスライフのあれこれをいろいろと話してくれた。だがおれは毎回焦っていた。放っておくといずれだれかに奪われる。野生の独占欲は、一刻も早く彼女をものにしろとうるさいほどに命じ、せっかく目の前に尚美がいても、心はもやもやと晴れぬまま、到底その場を愉しむ雰囲気にはなれなかった。焦燥感は、おれを魅力のかけらもないただの神経質なオスにしたてあげ、気づかぬうちにストーカーのように変貌させていた。それに彼女自身、新しい世界に一歩を踏みだし、変化していた。それはだれにもとめることができなかった。
 おれは志望校に合格したが、その悦びもつかのま、どん底に突き落とされた。晴れて付き合えると、電話を入れたら、向こうも意を決したように告げてきたのだ。
 ずっといい友だちでいたいの、滝口くんとは……。
 電話をきったのはおれのほうからだった。明確な別れの言葉を聞かされる前に遁走したかったのだ。心に楔を打ちこまれたまま、学生時代をぼんやりと過ごし、就職してからもそれは意識の水面に始終顔をのぞかせ、けっして消えなかった。そしていつしかそれは、おれのなかで凝り固まり、人生の明確な一部として常日頃、持ち歩かねばならぬトラウマと化した。忘れようにもいかんともしがたい障害、精神の亀裂だった。
 「なにしてるの?」
 いきなりうしろから声をかけられた。
 加奈だった。いつのまに帰ってきていたのだ。
 「なんだ、帰ってたのか」閉じたアルバムを本能的に背後に隠し、おれは振り向いた。
 「ずっといたよ。なにこそこそしてるの、パパ。それ、卒業アルバムかなにか? 見せてよ」そういいながら加奈は手をのばしてきた。
 隠しようがなかった。風呂場で扉を開ける音がした。そろそろ女房が出てくる。
 「出入り業者の会社に同級生が勤めているんだよ。野球部のやつでさ」
 「ウソ。女子の写真見てたんじゃないの?」
 「ちがうって」
 「じゃあ、なんでこそこそしてたのよ」アルバムはあっさり奪われた。
 「こそこそなんてしてないって」
 「あたし、これ見るのはじめてだ。ママに見せようっと」意地の悪い笑みを口元に浮かべている。そういうところは玲子にそっくりだ。他人の窮地を愉しむ。よくない性分だ。
 「よせよ」
 「ほら、なんかよからぬことしてたんだ。だからあわててる。親が卒業アルバムとか見てるときってあやしいって、センパイがいってたもん」
 センパイ? 男の先輩か。こいつ、もうだれかに捕まったのか。
 「なにいってんだよ。ちがうって。ほんとに野球部のやつなんだって。そいつが取材先の会社にいるっていう話なんだ」
 「じゃあ、見てもいいでしょ、ママといっしょに。教えてよ、その人」
 「あぁ、いいとも」おれは手をのばし、アルバムを奪い返した。「ピッチャーだったやつだ。二年生のとき、クラスがいっしょだったが、卒業してからどうなったか知りもしなかった」説明しながら部活ごとの集合写真のページを広げてやると、加奈がのぞきこんできた。風呂場からはヘアドライヤーをかける轟音が聞こえてきた。
 「あ、この子、すっごくカワイイ!」あっというまに加奈に見つかった。野球部の集合写真の隣にあったのはハンド部、それも女子の集合写真だった。その中心に谷本尚美がいた。まるでブロマイド写真のようにカメラの焦点は完全に彼女に合っていた。というか放っているオーラがちがった。三十年たっても――。
 加奈はたたみかけてきた。「超カワイイ! タレントみたい」
 おれはドライヤーの轟音がいつとまるかとひやひやした。玲子にだけは見つかりたくなかった。そもそも会話なんてないが、これは一〇〇%よくない方向に転がる話題だった。
 待てよ。
 夫婦関係でどぎまぎしなきゃいけないのは、あいつのほうなんじゃないか。去年の夏から玲子は、近くのホテルのレストランでパート勤めをはじめたのだが、最近ようすがおかしい。この春からシェフ主催のワインサークルに入ったというのだが、入念にめかしこみ、ふだん着たことのない服を身に着けて出かけるようになったのだ。
 だがサークルのことを問いただすのは、おれのプライドが許さなかった。すると余計むすっとしてしまう。そんな夫に向かって玲子のほうもとげのある言葉を吐くようになり、キャスターを降ろされたことまで口にして火に油を注いできたときまであった。
 梶村美沙の一件でもそうだった。
 玲子はTHKの報道局の派遣スタッフだった。社会部時代に合コンで知り合ったのだが、すでにそのときには玲子は美沙を知っていた。山形局に優秀な女性記者がいると。そのころから美沙は報道局で評判だったのだ。玲子は結婚して仕事を辞めたが、その後社会部に配属された美沙が現場リポートをするたびに食い入るようにして見ていた。そして最後にはいつも「あの子はちがうわ」とか「さすが」とかいう賛辞をつぶやいていた。だから先月、やつが自殺を図ったらしいと告げると、わっと泣きだした。あげくの果てに「ジャーナリストとしてだれにも打ち明けられない悩みがあったのかな。どっかの報道サラリーマンとちがって」とおれにうしろ指を差すようなことをいってのけたのだ。
 ドライヤーはいつしか静かになり、やがて玲子が居間にあらわれた。パンティにだぶだぶのTシャツをまとい、その胸に乳首が突きだしている。これが出会ったころなら、おれの体と心にどんな変化をもたらしただろう。考えるのもいやになり、目を背けると、玲子が口を開いた。
 「あした、お客さん来るからね」加奈にいったのかと無視してたら、バスタオルを食卓の背もたれに引っかけてから、両手を腰にあて、はっきりとおれに向かっていった。「あしたの夜七時、サークルの人が来るから」
 「あたしはへいきよ」戸惑う父親よりも先に加奈が返答した。「前にいってた人?」
 「そう」
 なんの話だ。
 「作るんでしょ、夕食。手伝うよ」
 「ありがと。ワインは向こうにまかせちゃった」
 おれはライオンがうなるような声で不快感をしめした。
 「ソノマ会の磯崎さん、あしたなら都合がつくんだって」
 けんか売ってんのか、おまえ――。
 思わず口走りそうになったが、娘の手前こらえた。
 「磯崎さんよ、あなたに会いたがってるっていったでしょう。ソノマのワイナリーにとってもくわしいの。個人輸入しているものを何本か持ってきてくれるんだって」
 「聞いちゃいないわよ、パパは。いくらいったって頭に残らないんだから。無関心なのよ、うちのことに」娘は夫婦にとって緩衝材なのか着火剤なのかわからなくなった。
 「せっかくいらっしゃるんだから、あなたがいないんじゃ困るわ」
 困る?
 その磯崎ってのは、男なんだろ。おまえがめかしこんで出かけるのもそいつがいるからなんだろ。そんな野郎が一人で遊びに来るってのか? 勝手に決めやがって。もうすこし配慮があってしかるべきなんじゃないか。夫に対して。
 もやもやした思いがすべて口に出せたら、さぞスッキリしたことだろう。なんでもかんでもあけすけにものをいってくる玲子が疎ましかった。
 「なんだよ、それ」せいぜいいえたのはそれくらいだった。
 「とにかく早く帰ってきて」
 「いいじゃない、ママ。パパがいなくても。パパは自分の世界が好きなのよ」そういって加奈は、さりげなくおれが閉じた卒業アルバムに目をやり、父親をけん制した。おれは加奈が余計な話をしだすんじゃないかと心配になったが、運よく、あいつのスマホからアイドルグループのヒット曲だという騒々しい着メロが聞こえてきて、加奈の注意はそっちに向かった。
 「忘れないでね」玲子はそう言い残してふたたび洗面台にもどっていった。
 仏頂面をしたまま、おれは長いことその場に立ちつくしていた。しかし心は、容色がおとろえてひさしい中年女なんかでなく、もう一人の女性、甘美な思い出へと急速に傾いていった。

 三
 昨夜みたいなことがある以前から、朝食は家では食べないのが習慣になっていた。シャワーを浴びてから、くたびれたビジネスバッグと大きな紙袋をつかんでふらふらと家を出て、午前九時過ぎ、おれは公園通りのドトールでサンドイッチをつまみながら、コーヒーをすすった。ここなら気兼ねすることはない。紙袋を広げ、アルバムを取りだした。
 それにしてもきのうの女によく似ている。というより瓜二つだった。やはり柄本の指摘がただしいのか。おれは精神的に追いこまれて幻覚を見たのだろうか。
 それから職場に向かい、ひそかな期待をこめてまたしても非常階段に吸いこまれた。すぐさま対人感知機能付きのライトがカチリとともり、都心でたった一人の縦穴空間が出現した。
 スキップして上がれるほど若くはない。最新のインテリジェントビルのため、フロアとフロアの間に無数の配線や配管をはわせてあり、その厚みがかなりある。だから一つ上の階に到達するまで、十段上がるごとにあらわれる踊り場が三か所、計四十段だ。考査部のある十階までそれがくりかえされる。高さ二十センチ弱の段差だが、四百回もくりかえすと汗はかくし、息もあがる。はじめのころは三階あたりの踊り場で休憩しないと、心臓が破裂しそうになった。
 ここまで心肺機能が落ちているとは思わなかった。もう何年も運動らしい運動をしていない。精神同様、肉体も着実に衰退してきている。おれは段差を一つずつ慈しむように踏みしめながら、ジャケットを脱ぎ、それをカバンと紙袋を持つほうの腕に引っかけてから、ワイシャツの袖を交互にめくった。
 よし。
 これで準備は整った。駅の階段のようにつぎからつぎへと追い越されることはないし、地下道で傍若無人なキャリーバッグに足をとられることも、荷物を山積みした台車のキャスターが軋る不快な金属音に悩まされることもない。
 聞こえるのは、単調な自分の足音とそれとは裏腹の荒々しい呼吸音だけだ。きょうで何日目になる。美沙が飛び降りてからほぼ一か月だから、それとおなじくらいになるのだろう。はじめのころにくらべれば体も慣れてきた。
 旧放送センターのときは、灰色のリノリウム張りの階段を黄ばんだ白壁がはさみ、窓も踊り場に明かりとり程度のものが設置されているにすぎなかった。柄本をはじめ新センター建設プロジェクトの連中が、おれのような避難民の心の健康をおもんぱかったのかどうかはわからないが、いま踏みしめている階段には黒のカーペットが敷きつめられている。壁は白色だが、真新しいぶん、すっきりとして輝いて見え、階段とともにモノトーンの落ち着いたコントラストをなしている。三階まであがったところで、片側が足元から天井まで巨大なガラス張りとなり、公園通りや代々木公園を悠然と眺められるようになる。上階に進むごとにそれがしだいにミニチュアのように見えてくる。どこか現実離れしていて、都会にぽっかりと生まれた異次元空間のようだ。
 防犯カメラがないのもありがい。センター内の各フロアには、トイレの個室以外はすべてチェックできるだけのカメラが据えつけてあるというのに、こっちは無防備だった。
 「おつかれさまです」
 きりりとした声にわれに返った。階段の上の踊り場に若い警備員が立っていた。もう四階まできていた。契約先の警備会社の制服の着こなしがなんだかぎこちない。新入社員のようだった。
 「おつかれさま」はっきりと返し、おれはアルバムを突っこんだ紙袋を持ったままぺこりと頭をさげた。
 「この上までですか」
 「いや、もうちょっと」
 「たいへんですね、いつも」
 名前までは知らないが彼とは初対面ではない。最初はいつだったか。似たような時間帯にここを使うものだから、時々すれちがい、たがいに会釈するようになっていた。おれは足をとめていった。「運動しないとね」
 「おつかれさまです」さわやかに言い残し、青年は階段をおりていった。言葉こそなまっていないが、田舎の高校の野球部にいそうな朴訥で不器用そうなタイプに思えた。
 問題の七階に近づいたとき、パステルカラーの制服に身を包んだ清掃担当の女性スタッフが下りてきた。
 「おはようございます」職員に気をつかうように彼女は控えめにいって、バケツをモップを抱えたまま端によってくれた。
 「おつかれさまです」自然とおれの口をついて出た。
 「どこまで行くの?」すれちがいざまに訊ねてきた。八百屋の店先にいそうな人のよさそうなおばちゃんだった。
 気になる女を捜しに七階に来たんですとはいえない。おれは平静をよそおい「十階です」と答えた。
 「もうひといきだね」
 おれは足をとめ、山道で情報交換する登山者のように息を整えながらいった。「ええ、もうちょっと」
 どこの所属かとかおばちゃんは余計なことは聞かず、ただうれしそうに微笑んだだけだった。
 ためしにおれは訊ねてみた。「ここはいつもすいてていいですよね。エレベーター待ってるより早いかもしれない」
 「そうだねぇ、ここのエレベーター、なかなか来ないからねぇ。だけど十階だったら、いくら待ってもエレベーターのほうが早いよ」
 「まぁ、そうですね。七階は計算センターでしたっけ。このあたりまでなら階段で下から上がってくる人もいるんじゃないですか」
 「いない、いない」おばちゃんは赤く膨れあがった手を顔の前で振った。「下の総務局との間を伝票持った女の子が行き来するくらいかねぇ。男の人はまず使わないよ」
 伝票持った女の子――。
 きのうの朝、七階の扉にはめこまれたガラスの向こうからじっとこちらを見つめていた彼女。伝票をどこかべつのフロアに持っていこうとしていたのだろうか。だが階段のほうへ出てくる気配はなく、彼女に気づいたおれのほうが分厚い扉を開けようと悪戦苦闘をはじめると、いつのまにか姿を消してしまった。
 「こないだ髪の短い若い女の子がいましたよ」なんとなく訊ねてみた。「計算センターの子じゃないかな。なんか途方に暮れてるようでした」適当に話をつくってみたら、おばちゃんはあらぬ方向で合点したように顔をぱっと輝かせた。
 「いっつもそう。あそこは神経質な部署さ。銀行とおんなじ。一円でも計算が合わないとどやされる」あとはぶつぶつと独り言のようになにやらつぶやきながら、おばちゃんは階下に消えた。
 おれは七階に達していた。
 なるほど。あのとき彼女は六階の総務局に伝票を持参した帰りだったのではないか。それでなにかの拍子に振り向いたら、おれがいたというわけだ。自分のことをにらみつけている中年男に一瞬、金縛りにあったようになったが、直後、鉄扉のノブにしがみつく姿に正気づき、そのまま職場にきびすを返した。さしづめそんなところだったのだろう。
 こんどは冷静に、紳士的な態度で臨まねば。チノパンからハンカチを取りだし、噴きだした汗をぬぐったのち、おれは息をつめて問題の鉄扉に向き合った。
 だれもいなかった。
 縦長のガラスの向こうに見えたのは、灰色のカーペットだけだった。その奥を廊下が横切っているが、通過する者もいない。がっかりした反面、すこしほっとした。きのうは偶然、彼女がそこにいただけだ。毎日おなじ時間に出入りするわけではあるまい。おれはその場にしばらく立ちつくし、もう一度汗をぬぐってから、とぼとぼと職場に向かってふたたび階段を上がりはじめた。
 「きょうでなくてもいいさ。あわてることはない」自嘲気味につぶやき、自分を痛めつけるかのように一段飛ばしで階段を急いだ。「あれは夢なんかじゃなかった。そっくりの子がいたんだから」
 八階を通過しようとしたとき、むっとする熱気に包まれた。エアコンの効きが悪いようだ。紙が燃えるようなにおいもする。なんだろう。
 おれは息をのんだ。
 7F A階段
 白ペンキを塗った鉄扉の上部に黒文字ではっきりと記されていたのだ。
 七階はさっき通過してきたのに、どうしてまた七階なんだ。おれはキツネにつままれた気分になり、足が釘づけとなった。もどっちまったっていうのか。それとも階段を上がったつもりで、ずっと動けずにいたのか。
 紙が燃えたようなにおいが強くなっている。
 彼女がいた。
 きのうとおなじ青いノースリーブにフレアスカート……待て。あのときとおなじじゃないか。髪飾りもそうだ。おれは最初のデートのときを思いだしていた。柑橘系のコロンにノックアウトされそうになったあの日。そのときとすんぷんたがわぬ格好をしている。きのうよりも奥まったところ、扉のずっと向こうにたたずんでいる。こちらを見つめる視線は変わらない。唇をかみしめ、なにかを訴えかけるような力強い視線だった。
 幻覚だろうか。
 自分が信じられなくなった。だが体は勝手に動いていた。「待ってくれ! 行かないで! いま行くから!」おれは叫んでいた。それが縦穴空間に共鳴する。掃除のおばちゃんの耳にも、あの若い警備員の耳にも届いてしまったことだろう。かまうものか。おれは鉄扉のノブにしがみつき、ジャケットのポケットから社員証を取りだして、それを乱暴に扉わきに設置されたICのセンサーに押しつけた。
 扉は開かなかった。
 おれはもういちど扉の上を見た。
 7F A階段
 計算センター専用のICカードが必要なのか。
 彼女が動いたような気がした。こっちの形相に恐怖をおぼえたのかもしれない。おれはガラスに顔を近づけ、もう一度叫んだ。
 「高校でいっしょだった滝口だ! なおみちゃんだろ! なおみちゃんなんだろ!」つらい記憶に躊躇することはなかった。
 彼女はあとずさりをはじめ、やがて吸いこまれるように左の廊下に消えた。
 「待ってくれ!」最後は扉をドンドンと叩いていた。だがそれっきり彼女はあらわれず、ほかのだれかが扉の向こうの廊下を通りかかることもなかった。
 全身汗まみれだった。おれは力つき、その場にへたりこみ、呼吸を整えねばならなかった。百メートルダッシュをしたみたいに心臓がばくばくいっている。
 「そうだ」
 おれはジャケットとカバンと紙袋をその場に残し、踵を返して階下に向かった。
 7F A階段
 さっきおばちゃんと話した踊り場の鉄扉には、はっきりとそう記してあった。
 そこで扉がゆっくりと開いた。
 「あれれぇ、どうしたねぇ?」またしてもモップとバケツを持っておばちゃんがあらわれた。「忘れ物かい?」
 「そうじゃ……なくて……」話そうにも過呼吸のようになってしまい、うまく言葉を発することができない。
 「なんだい、汗まみれじゃないかい」
 「ここ七階……ですよね……」やっとのことでいいきった。
 おばちゃんは扉のうえに目をやった。「そう書いてあるね」
 「計算センターでしたっけ……」
 「だよ。いまも掃除してきたんだよ」
 「七階って……二つ……ありますか」
 「えぇ?」
 「七階って、ここですよね。じゃあ上は……」
 「あんた、なにいってるんだい。あたしゃ、さっぱりわかんないよぉ」懇願するようにおばちゃんがいった。
 「この上も七階って書いてあるんですよ」ようやくまともに話せるようになり、おれは説明した。「いままでよく見ていなかったと思うんですけど、この上も七階……だから中七階みたいになっているんじゃ――」
 「なにばかなことぬかしてんだい?」おばちゃんは背のびするようにして、しげしげとおれの顔をのぞきこんできた。「うえは八階。図書室とかアーカイブ室が入ってるところだよ」
 「ちょっと来てください」おれはおばちゃんの手からモップとバケツを強引に奪い取り、壁に立てかけてから、骨ばった腕を取った。
 「どうしたっていうんだい……引っ張らないでもへいきだってぇ……」
 それでも上の階までおれはずっとおばちゃんの腕をつかんだままだった。そこでおれはふたたび呆気にとられた。
 「八階……だねぇ……」おばちゃんは、解放された腕をさすりながら残念そうにつぶやいた。「だいじょうぶかい、あんた? 診療所なら午前中がすいてるよぉぉぉ。心療内科もあるしぃぃぃ」
 8F A階段
 扉のガラスの向こうにもちろん彼女の姿はなく、アルバイトとおぼしき若い男が台車を押しながら右から左へと廊下を通りすぎただけだった。
 「おかしいよ……おれは見たんだから。七階だったんだ。もうひとつの」
 「七階は下だって」こんどはおばちゃんが先だって下りていった。おれはそのあとをとぼとぼと途中まで下りていったところで疲れ果て、階段に腰を下ろしてしまった。おばちゃんはおれにかまうことなく、モップとバケツのところまで下りていった。
 下で扉が開く音がした。おばちゃんがさっきいた階、七階だ。
 甲高い女の声がした。おばちゃんに話しかけている。
 「もうやってられないわ」
 「きょうはへんなことがよく起きるねぇ。どうしたんだい?」
 「教養番組部の若いディレクターなんだけどさ、タクシー代の精算書類に不備があったから、マニュアルどおりに差し戻したら、怒鳴りこんできてさ、逆ギレよ、逆ギレ」女は計算センターのスタッフらしい。おれは聞き耳をたてた。
 「そりゃ、災難だったねぇ。なにかされたのかい。物を投げつけられるとかさぁ」
 「そこまではなかったけど、あきらかにこっちのことをばかにしてるのよ。若僧のくせにさ。こっちはマニュアルどおりのことをしてるのに『形式的なミスなんだから、それくらいそっちで直せないのか』って罵倒してくるのよ」
 「おっかないねぇ」
 「形式的なミスでも勝手に直しちゃまずいから、差し戻してやりなおしてもらうのが規則で、うちら派遣はそれにしたがってるだけなのに、とにかく横暴なんだから。まったく安月給なのに、なんであんなクレーム受けなきゃいけないの」
 「それで納得してもらったのかい」
 「三十分もかかっちゃった。あぁ、むしゃくしゃする」
 三十分か。なるほど。おれはひざをたたいて、立ちあがった。七階がもうひとつあるかどうかは調べようがない。だが彼女の存在なら調べることができる。

 四
 計算センターからの差し戻し通知がメールで届いたのは、午後四時すぎのことだった。おれはタクシーのレシートを引っつかみ、自席から立ちあがった。
 「わざわざ来ていただかなくても、社内便で後日送っていただいてかまわなかったのですが」埜村というの若い女性スタッフがすまなさそうにいった。
 渋谷から赤坂までのわずか二〇六〇円のタクシー代。そのレシートを添付し忘れただけの話だが、おれは「こういうのはずるずるやるもんじゃないですから」とにっこり微笑んでみせた。
 七階は柄本が話していたとおり、ほかの階とちがって見慣れぬゲートが設置され、警備員も配置されていた。そこでインターホンで要件をつたえて入っていくシステムで、ゲートの先にあるのが、計算センターだ。フロアには大型金庫があるといううわさもあるが、それを解明するほどの興味はない。ただ捜しだしたいだけなのだ。幻のようにあらわれては消えてしまうあの女を。
 「それに新放送センターの構造がまだよくわかっていないんですよ。ほかのフロアになにがあるのか、こういうときでないといつまでもたしかめない気がしてね」
 「わたしもほかのフロアのことなんてぜんぜん知らないですよ。報道局なんて怖くて入ったこともないですし」
 「怖い?」
 「特ダネとか記者の人の秘密がいっぱい転がっていそうで、わたしなんかが近寄ったら捕まっちゃうんじゃないかって」
 「わたしも以前は報道局にいたけど、怖くなんてぜんぜんない。ほかの部署と変わりませんよ」
 「滝口さんって、キャスターだった方ですよね……?」
 「ええ、そうですけど」おれは精いっぱい微笑んでやった。去年の夏、余計なコメントしたら左遷されちまいましてね――。
 「ずっと見てました。母がファンでして。滝口さんも記者だったんですよね」
 ふだんはメールだけのやり取りのせいか、計算センターのスタッフは、職員相手のおしゃべりに飢えていた。埜村嬢はデスクの前に立ちつくすうらぶれた元キャスターに向かってうれしそうに話しだした。年の頃は三十歳前後、ほかのときなら喜んで話に興じるのだが、きょうのおれはこれっぽっちもそんな気が起きず、話半分に聞き流しながら、さりげなくセンター全体に視線を行きわたらせていた。
 センターには、六つの島があり、それぞれに六人ぶんの机がある。ほかに管理職らしいデスクが四つ並び、いちばん奥にセンター長とおぼしき男が陣取っていた。スタッフは全員女性で、だれもが大型の電卓を猛スピードでたたきながら、山積みされた精算伝票と取っ組み合っている。銀行の支店のような雰囲気だった。
 不在の机もあるが、いちべつするかぎり彼女の姿は見あたらない。「ちょっといいですか」おれは思いきって訊ねた。「スタッフの方はこれで全員ですか」
 埜村嬢は首をのばして見まわした。「だいたいこんなもんですよ」
 何人かがけげんそうな目でこっちを見ている。そのなかには管理職の男もいた。
 「なにかありました?」埜村嬢に訊ねられ、チノパンのポケットに手がのびそうになった。卒業アルバムの写真が突っこんであるのだ。
 「いえ……自分の会社のことって、ほんとによくわからないものでして」
 「だったらいつだって来させてやるよ」うしろで男の声がした。
 見おぼえのあるにやけ顔の小男が振り向いた先に立っていた。山形放送局時代、二期上にいた塩崎淳一郎だ。社会部でもいっしょだった。あいかわらず白シャツの袖を乱暴にまくりあげ、学生時代にボート部で鍛えた腕を覆いつくす剛毛を淑女たちに見せつけていた。おれと柄本が新人としてサツ回りを開始したときのキャップだ。
 塩崎はおれの腕をつかんで出口に向かわせた。
 「おねえさまがたのじゃまするなよ。おまえらの不正請求を見破ってる最中なんだからよ」
 職場に響きわたる声でわざというと、わっと笑い声が起きた。
 「二月から来てるんだ。辞令見なかったのか」
 降板させられて以来、そんなものもう何か月も見ていない。サラリーマンとしての終焉が見えはじめたというのに、どうして他人の出世記録をたしかめる必要がある?
 「塩崎さん、社会部のあと、首都圏ニュース部だったでしょう。希望したんですか、こっちに」ゲートわきにある狭苦しい休憩スペースまで拉致されたところで、おれは訊ねた。
 「んなわけねえだろ。これもサラリーマンとして生きるすべだよ。飲むか?」そういって塩崎はカップコーヒーの自販機に百円玉を投入した。
 ブラックコーヒーをおれに手渡し、塩崎はココアを手にソファに腰かけた。「首都圏ニュース部を追いだされたんだって。あそこには、次長が四人もいてな。おっさんだらけなんだよ。部長は一人だろ。必然的に三人が追いだされるシステムさ」
 「こっちでは部長……いや、センター長ですか」
 「監事っていうよくわからないポジションさ。面接とかそういうのをやってる」
 ビンゴだ。
 おれは思いきって切りだした。「塩崎さんだから聞いちゃうんですが――」
 塩崎はコーヒーをすすりながら顔をしかめた。「なんだよ」そしてぼそりと口にした。「梶村のことか」
 「梶村……?」
 「ちがうのか。めんどうな話はよしてくれよ」
 おれはポケットから写真のコピーを取りだした。
 「いい女だな。てゆうか、ちょっと若過ぎないか」
 「よく見てください。見おぼえないですか」
 塩崎はコピーをおれから奪い、ワイシャツの胸ポケットから老眼鏡を取りだしてじっくりとそれをながめた。「だれだ? おれが前に会ったことのある子か」
 「ここのスタッフに似た人はいませんか」
 「……はっきりとはわからんが、いないと思うが。これ、いつの写真だよ。もしかして何年も昔のか?」
 「高校の卒業アルバムの写真です。同級生なんです。見かけたんですよ。階段で」
 「階段で見かけた? うちのスタッフなのか」
 「七階って計算センターだけですよね。若い女性が働いていそうなところって」
 「あとは会議室と倉庫だからな。でも見おぼえないぞ。スタッフはいま三十五人抱えてるんだが、全員の顔と名前がようやく一致するようになった。うん、いないよ。まちがいない。おまえだって、さっき来てわかっただろう。あれでほぼ全員だが、この写真の女の子みたいなのは見あたらなかったんじゃないか」
 おれは肩を落とした。
 「なんなんだよ。昔のガールフレンドに似た女に恋心が芽生えたとかいうんじゃないだろうな。それで捜しに来たっていうのか。ばかだな、おまえ。そんな話、人事とか経企室に知れたら――」
 「経企室はもう知ってますよ。柄本に話したから」
 「やめとけって、あいつ、腹黒いからな。まったく向こう見ずなやつだ。よくキャスターなんかつとまったもんだ」
 「つとまらなかったのはごぞんじでしょう」
 塩崎はため息をついた。「ほんとにおまえ、いつまでもマイペースなんだな。もうすこしまじめに働けよ、サラリーマンとして」
 「そうしたいですよ。だからそのために自分の原点ってなんだろうって、もう一度考えたいんです。そのきっかけになるかもしれないと思って」
 塩崎は飲み干したカップを二メートル先の可燃物ゴミ箱に放り投げた。
 「どうしておなじ記者出身でこうもちがうかね」
 「柄本とはそりゃちがいますよ。だけどあいつはあいつで――」
 「梶村だよ」
 「え……」
 「やつのことを聞きに来たのかと思ったんだ。職員がここに直接来るなんて、めったにない。おまえ、さっき気がつかなかったか。センター長がずっとおまえのこと見ていたんだぞ。あのままだったら、その場で声をかけられるか、あとで考査部長に通報されたはずだ。みんな、ピリピリしてるんだよ」
 こんどはおれが眉をひそめる番だった。「なんでですか。美沙となにか関係があるんですか」
 塩崎はふたたび後輩の横に腰かけ、顔を近づけていった。「自殺なんてウソだよ」
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