五~九

文字数 22,123文字

 五
 青春時代の淡い恋物語から現実に引きもどされた。
 遺体があがったわけでもないが、警察もほぼ自殺と見ている梶村美沙の行動について、疑義が生じているというのだ。
 「まだ状況証拠しかないが、上層部はなにかをつかんでいる」先週になって、経企室の連中が計算センターにやって来て、手続きが停止状態になっている美沙の出張旅費精算の書類をすべて回収していったというのだ。
 「たとえ申請者が死亡しても書類は、手続き中断の処理をして添付された領収証なんかといっしょにこっちで保管することになっている。申請者が行方不明なだけならなおさらだ。だからベテランのスタッフたちの間でうわさが出はじめた。自殺の理由はいまだにはっきりしないんだろ」
 「仕事がらみだろうって話しか知りませんけど」
 「精算書類が回収されたってことは、あいつが出張先でやばいことをしていたって可能性も出てくる。広い意味で“仕事がらみ”だな」
 「まさか出張先でよくない遊びに費やしたカネを経費につけまわしたとか」
 「人間、かならずダークサイドってものがあるんだよ。それがバレそうになって思い悩んで橋から飛び降りた。否定できない話だし、そのときに使った領収証とかから足がつくのを上層部が恐れるのは理解できる。だがおれの過去の経験からすれば、そういうケースなら、多少は具体的なうわさが漏れてきてもよさそうなものだが、それもない。さらに処理を担当したスタッフも妙な領収証とかはなかったといってる。さっきの埜村さんだよ」
 報道局のことを訊ねてきた背景には、自殺を図ったとされる特別報道部の女性記者について、妙ないきさつがあったこともあるのかもしれない。
 「それに自殺と推定されたのもすこし早いような気がする」
 「どういうことですか」
 塩崎は前かがみの姿勢のままいった。「自殺ってことにしておきたいのかもしれない。もちろんまだ仮定の話さ。でも万が一、他殺の可能性があるとして、それが仕事上の理由だとしたら、まずはなにを考えるべきだ?」
 「あいつがなにを取材していたか……ですかね」
 「ふつうはそう考えるよな」
 「出張ってどこ行ってたんですか、あいつ」
 「鶴田村さ」
 「え……」塩崎も梶村も、それにおれもその村の名前を昔から知っていた。初任地である山形県の北部、最上地方にある林業ぐらいしか産業のない寒村だ。さらに最近はべつの話題で知られている。
 原発から出る使用済み核燃料の最終貯蔵施設。その建設予定地だ。
 「そっち関係の取材だったんですか。だとするとなんらかの不正をつかんで、それを告発しようとした。ところがそれを好ましくないと思っている何者かに自殺に見せかけて殺された……? 原発ならきなくさい話がたくさんあるでしょうからね」
 「それがなんなのかさっぱりわからん。それとなくあいつの周囲に聞いてみたんだが、やはり梶村は一匹狼だったっていうんだ」
 「あいつが殺されたなんて」
 「だが現実に不審な動きがあるわけだよ」
 「精算書類の件ですよね」そういいながらおれは、自販機に据えつけられたクレームボックスのメモ用紙を引っつかみ、いま聞いた話をすばやく書きつけた。
 計算センター
 梶村
 精算回収
 埜村さん
 それを見つめながらいった。「なんで隠そうとするんだろう。精算書類を回収したりして。ふつう逆でしょ。社員が自殺を図ったというのなら」
 「原発に対するうちの姿勢、てゆうか、政権とうちの上層部の関係が影響しているとしたらたいへんだな」
 おれはメモをワイシャツの胸ポケットに突っこんだ。
 「あんまり大っぴらにかぎまわるとやけどするぞ」
 「ただのメモですよ。そんな調査能力あるわけないでしょう、このおれに」
 塩崎は声をあげて笑い、おれに向かって小さく手をあげてから自席にもどった。
 おれはゲートのほうへは向かわず、あらためて非常階段に出た。いったん階下に向かい、そこから上がってみた。
 やはり七階は一つしかなかった。
 そもそもおれが非常階段に逃げこむようになったのは、ひと月前、美沙の失踪に端を発していた。そこを行き来しているとき、高校時代の忘れえぬ女の姿を目にし、もう一度会いたいと七階の計算センターにやって来たら、美沙に関する不穏なうわさを聞きつけることになった。
 非常階段の踊り場に立ちつくしながら、ふとおれは美沙に“呼ばれた”のではないかという落ち着かぬ考えにとらわれた。だったらあいつはやはり死んでいるのか……?
 「あいつに話したことがあったかな」つい口から漏れた。
 谷本尚美のことだ。
 社会部時代、美沙といっしょに警視庁回りをしていたころ、仕事のつらさに愚痴をこぼし、その流れかなにかで、おたがいの学生時代の話でもしたのだろうか。それをあいつは幽霊になったあともおぼえていて、尚美の姿に化身しておれの気をひいた。つまり自分の姿をさらすより、いまも忘れぬ女の姿ほうが、おれには効果的だと考えたというのか。
 「二度見かけたんだ。かならず三度目があるさ」
 だったら美沙の一件は調べてみたほうがいい。おれは階段をとぼとぼと上がりはじめた。

 六
 「おれもよくわからないんですよ」
 山形時代の後輩で、いまは特別報道部にいる大木太は、十二階の食堂にいるところをおれに見つかった。
 「うわさはありますけど、警察が動いているわけでもないし。ただ、取材がらみでトラブったらしいっていってますよ、みんな」
 「鶴田村の取材してたって本当か」
 大木の顔がこわばった。「情報入ってるんじゃないですか」
 「わからないから聞いてるんだよ。どうなんだ?」
 「原発がらみの取材って、うちは結構制約あるじゃないですか。取材は自由でも、アウトプットにバイアスがかかる。とくにこの手の話では。政権の意向もあるし」
 「政権の意向をおもんぱかる会長の意向だろ」
 大木は顔をしかめた。「さわらぬ神にたたりなし。ぼくみたいな小物は大きな流れに逆らえないですから」
 「つまりやつは鶴田村を取材して、引っかかったってことか。局内のそういうチェック網に。それで殺された」
 「すぐにそう飛躍する。だいたいたとえ上層部の方針に反しても命まで取られるわけがない。ヤクザじゃないんだし、せいぜい担当変えとか左遷程度でしょう。でもそれで思い悩み、自暴自棄になって、強い酒でもかっくらって……それで橋から飛び降りる。もしくは足を滑らせて落ちた。そういう事故だった可能性だってある」
 「警察は自殺って断定したんだろ。遺書らしきメモもあったんだし」
 「断定はしてないでしょう。ただ、実質的に捜査はもうしていないと思いますよ」そこで大木は左右の席に目をやり、だれもいないのをたしかめてからつけくわえた。「ぼくが聞いてるのは一つだけ。パソコンが回収されてるんですよ」
 「パソコン……? 記者パソコンか」記者パソコンは、記者に支給される原稿執筆と送信用の端末だ。
 「そうです。死んだのだから当然の措置なんでしょうけど、死んだ翌日には回収されちまったんですよ」
 「メールのやり取りとか、取材内容とか、死の真相がわかるかもしれないって思ったんじゃないか」
 「情報管理の観点ってのもありますよね」
 「回収したのは報道管理部か?」
 「経企室とかいう話でした」
 だったら柄本が知っている可能性が高い。それには大木もぴんときたらしい。「聞いてみたらいいじゃないですか、同期の出世頭に。ほら、あそこ」大木は食堂の隣に併設されたカフェテリアのほうにあごをしゃくった。
 クールビズでノーネクタイの柄本良太が、小太りの中年女性とコーヒーを飲んでいた。やつと向き合う格好の女性の顔を見ているうちにおれははっとさせられた。
 「美沙って妹がいたよな」
 「でしたっけ」
 「いたよ。あの人、なんとなく似てないか」姉の失踪からまだ一か月。真相はともかく、生前のようすを訊ねに妹が来社することはありうる。対応するのは人事部だろうが、柄本はなんらかの形で担当になっているのかもしれない。
 おれは一階のエントランスに先回りし、面会を終えた女性がゲートからあらわれるのを待った。
 「姉は『女はこれからよ』って息巻いていて、婚活だってしていたんですよ。だから自殺なんかするわけないんです」社会部でいっしょに仕事をしていたと自己紹介すると、妹はすがりつくように話しだした。「遺体が見つからないとしても、それ以上、なにかを調べてくれるような感じはなかったです」
 「わたしも彼女が自殺を図ったとは思えない。ところで私物は返されたんですか」
 「いいえ。私物はほとんど職場に持っていかなかったみたいです。それに『だいじな取材は家でするから』とも話していました」
 ならば記者パソコンが回収されたのも自宅からということか。望みは薄いと思いながらも訊ねてみた。
 「家はもう整理されたんですか」
 「あの日以来、定期的に行くようにしています」
 「彼女が最後になんの取材をしていたか。そこが気になるんです」
 門前仲町にある美沙のマンションに妹は連れていってくれた。
 築十年ほどの二十階建てだった。そこの十二階の角部屋だった。最初におれが手をつけたのはスマホだった。会社から支給されたものは見あたらない。おそらく警察に提出したあと、記者パソコンとともに回収されたのだろう。だが美沙はもう一台、個人用のものを契約していた。それはダイニングテーブルの端に置いてあった。
 すでに電池切れだったのでコードをつないで入電した。しかし発着信履歴を見たところで、取材先かどうかはわからない。それに履歴は、やつが橋から飛び降りた日よりも一週間も前のものだった。
 「仕事用のスマホを使っていたんじゃないかって警察の人にいわれました」
 「警察が現場検証した時点でこの状態だったということですか」
 「そうらしいです」
 べつの部屋も見せてもらった。こちらは打って変わって足の踏み場もないほどだった。といってもフローリングの床一面を占拠していたのは、膨大な本の山だった。ノンフィクションから歴史小説、それに漫画にいたるまでやつは乱読傾向があった。
 「こっちもすこし整理しようと思っています」力なく口にすると妹はその場にしゃがみこみ、そばに散乱するハードカバーを拾い集めはじめた。
 それを手伝いながらおれは、あいつの幅広い興味を一つ一つたしかめていった。そのなかに原発関連の本が何冊かあった。だがそれらは書籍の海の奥深くに埋もれており、どれも十年以上前に書かれたものだった。それらを最近の取材の参考にしていたとは思えなかった。
 インターホンが鳴った。
 エントランスにだれか来たようだ。
 「不動産屋さんかしら」そういって妹が受話器をあげると、モノクロのモニター画面に若い女の顔が浮かびあがった。「はい」玄関のオートロック開錠ボタンに指をかけたまま妹が応答した。
 いきなり映像が消えた。
 「切られたみたい」妹はけげんな顔でおれのことを見た。
 「名乗らなかったのですか」
 「梶村さんですか……って」
 「宅配業者とかには見えなかったですよね」若い女はつるんとした頬にぱっちりとしたまなざし、やわらかな髪をしていた。それに白っぽいTシャツを着ていた。
 おれはその場に妹を残し、急いで外に出た。エントランスを出て永代通りの左右に目をやる。五十メートルほど離れたところにこちらをうかがうようにして小柄な女が立っていた。インターホンではこっちの顔は見られていない。それでもおれは注意して近づいていった。
 「ちがいますよ」
 声をかけると女は否定したが、そそくさと立ち去ろうとするところはいかにもあやしい。それにこっちは顔を見ている。シャツもおなじだった。
 「梶村さんの知り合いなのかな」おれは女の隣を歩きながら話しつづけた。「さっきインターホンに出たのは妹さんなんだ。わたしは職場の同僚でね。THKだよ。なにか用があるならいってくれ。それに梶村さんの知り合いがいるなら、話を聞きたいと思っていたところなんだ」
 「なんでもないです……」女は振りきろうと足を速めた。
 「いいタイミングで訪ねてきてくれた。もし知り合いかなにかなら、あんたも知っといたほういい」歩行者信号が点滅しはじめた横断歩道に女が差しかかったところで思いきって告げた。「レインボーブリッジから飛び降りたんだよ」
 女の足がとまった。
 ひざの力が抜けたかのように彼女はその場にしゃがみこんだ。「そんな……」まるで激しい頭痛にでも襲われたかのように両手で髪をかきむしる。ピアニストのように白く細長い指をしていた。
 「うそじゃない。もう一か月になるかな。遺書らしいものがあって、自殺を図ったと見られている。だがいまだに遺体は見つかっていない」
 行きかう人々の視線を受けても女は立ちあがろうとしなかった。日焼けした肉づきのいい顔をヤンキースの帽子で隠した大柄なおやじがわきを通るさい、興味津々といった視線を投げかけてきた。さらにタンクトップから肌を露出した派手な感じの中年女に連れられたジャックラッセルテリアが、鼻をひくつかせながら近寄ってきた。中年女はリードをぐいと引っ張ったものの、愛犬同様、好奇の視線を投げかけてきた。おれはその場にしゃがんだ。「自殺かどうか判然としないんだ。事故かもしれないし――」
 「おかしいと思ったんです。ずっとお店に来ないし、電話しても出ない……ここに来てもインターホンがずっと無反応でしたから」女はしぼりだすようにいった。「何日か連絡のつかないことはあったけど、そんなことこれまで一度もなかった。だからおかしいと思ったんです」
 女はまだ二十代だろう。茶に染めた髪が初夏のねっとりとした微風になびく。スリムなジーンズとこざっぱりした白シャツに包まれた体はきゃしゃで、少女のようだった。美沙とは親しいようだった。
 「店って、もしかして飲み友だちとか?」
 「うちの店です。マスターも心配していました。銀座のバーです。わたしはそこで働かせてもらっているんです」
 「行きつけだったのかな」
 女はふらふらと立ちあがり、はじめておれの目を見た。「THKの人……なんですよね」こっちの質問には答えずに女が訊ねてきた。
 おれは名刺を差しだした。だがこっちの名前にも顔にも反応はなかった。最近の若者だ。ニュースどころからテレビ自体、あまり見ないのだろう。「梶村とは社会部でいっしょだったんだ。それで妹さんにたのんで部屋に入れてもらってたのさ」
 名刺をしげしげと見つめながら女はいった。「自殺なんかするわけないよ」
 女を近くの路地に連れていき、訊ねてみた。「心あたりがあるのかな」
 「シビアな取材してるって話してたもん。原発関連だから弾がうしろから飛んでくるかもしれないって」
 「うしろから弾?」
 「政府と会社の幹部がどうとかっていってましたよ」
 「さしつかえなければ、どんな話か教えてほしいな。もしよければ名前を――」
 「岸本です。美沙さんにはマコって呼ばれてたけど。『ジュネ』って店です。一年ぐらい前から通ってくれていました」
 「美沙は仕事の話もしていたんだね」
 「店じゃあんまり。部屋でよく聞かせてくれました」
 「部屋って?」
 マコはマンションのほうに手を広げた。「美沙さんの部屋ですよ。よく泊めてもらっていたんです。二か月ぐらい前から、核のゴミ処理問題を取材してるっていってました。原発なんてよくわからないけど、放射能って遺伝子を傷つけてガンを増やすんでしょ。それだけでもなんだか危険な気はするし、原発からは放射能がまだ残っているゴミがたくさん出るんでしょ。その捨て場所がないんじゃ、どうしようもないですよね。だけど国は、いまの生活レベルを維持するにはどうしても原発が必要だって宣伝してる。それだけじゃなく、記録の捏造までして国民を欺いているって、美沙さんは話してくれたんです」
 「記録の捏造……それで弾がうしろから、つまり局内から飛んでくるっていってたのかい? なにかつかんだってことなのかな」
 「連絡がつかなくなる直前のことです。山形に取材に行ってたんですよね」
 「鶴田村だよ。核のゴミを置いておく候補地があってね。そこに出張していた」
 「そこから帰ってきたあと、一度店に来てくれました。それが最後でした」
 「弾が飛んでくる話はそのときに?」
 「そうです。だけどまさかこんなことに……そうだ。預かっているものがあるんです。USBメモリーです」
 脳天にずしんとくる衝撃が走った。「もしかして取材の――」
 「見ちゃいけないと思って中身は見てません。『万が一のことがあるといけないから、保管しておいてほしい』っていわれたんです。なんだか怖いでしょ、そんなこといわれたら。だからとにかく預かっているだけなんです」
 「そのUSBメモリー、いま持ってるのかい」
 マコは神経質に小さくかぶりを振った。「いまは持ってない。隠してあるんです」
 「もしよかったら――」
 マコは財布から店の名刺を取りだした。「きょうはもう行かなくちゃ」
 「きみの都合がつくときでいい。中身を見せてもらうだけでもいい」
 「考えておきます」
 それだけ告げるとマコはきびすを返して永代通りのほうにもどっていった。

 七
 武蔵小杉のマンションに帰宅したのは九時過ぎだった。
 玄関に見慣れぬ大きな革靴があるのを見た途端、不快な気分になった。女房からメールも留守電も入っていない。だがきのう話していたとおり、ワインサークルのメンバーを招いたのだ。
 「あ、パパ、帰ってきたよ」リビングにいたるドアから加奈が顔をのぞかせた。「お客さんみえてるからね」
 いわれなくてもわかっている。わが娘ながら頭が悪いんじゃないかといらだった。
 「おじゃましてます」ワインボトルが何本も並ぶ食卓から立ちあがったのは、熊のような体格の品のない赤ら顔の男だった。
 「こちら、磯崎さん、サークルの方」ワインのせいとはわかっていたが、玲子の顔は上気して赤らんでいる。
 おれはぶっきらぼうにあいさつした。「滝口です。どうも」
 「磯崎さん、元刑事なのよ。すごいでしょ」
 うれしそうに玲子が説明した。おれは缶ビールをぐびぐびとやった。玲子の話に磯崎は大きな目玉をぎょろつかせながら、まんざらでもない顔をしていた。この手のデブにありがちな無神経さに腹がたった。
 「早期退職されて、警備会社に転職されたんですって」玲子は妙に明るい。家に引きずりこんだ男のことを口にするのがたのしくてならないのだ。
 磯崎は調子のいいやつだった。「テレビに出ている方にお会いできるなんて」
 出ていた、だろ。
 やつは訊ねもしないのに自分の話をはじめた。「退職まで七年以上あったんですが、警備会社の知人が防犯コンサルタントをやらないかっていってきましてね」
 「そうですか」
 テーブルには、いつもの月並みな料理からは想像もつかない豪勢な食いものが並んでいる。だがここで台所からカップヌードルを持ってくるほど、おれも嫌味ではない。どうせあと数十分の話だ。憤慨するのはそのあとでいい。おれは自分にそう言い聞かせ、目の前にあった鳥のから揚げを手でつかみ、口に放りこんだ。ジューシーでなかなかの味だ。
 「それ、おいしいでしょ。磯崎さんが買ってきてくれたのよ。恵比寿のお店だって」
 聞いた途端、げんなりした。よりによって女房が連れこんだ男が買ってきたデリに手を出してしまったとは。
 「コンサルタントといっても、営業マンといっしょにいろんな事業所さんを回らせていただくだけなんですよ。それでも私生活を犠牲にして、昼夜わけへだてなく、犯罪捜査に追われていたころとはまるでちがう。なんていうか別人になったみたいで――」
 「刑事をまっとうしようとは思わなかったんですか」自分でも驚いたが、おれのほうから訊ねていた。「もう何年も前ですが、地方にいたころ、その道ひと筋のまま退職された刑事さんを取材したことがありましたよ。なんだか神々しく見えたけどな」
 「高校卒業して警視庁入って、二十三歳で所轄の刑事課勤務になりました。べつに成績がよかったわけでもないんですが、ほかにやれることもないんで、そのままずっと刑事でした。三十年やりましたからね。自分では結構満足しているんです」磯崎はうれしそうに微笑み、赤ワインを注いだグラスをすすった。「あ、だんだん落ち着いてきましたね、これ」磯崎は玲子に向かっていった。
 「ほんとだ。いいカンジね」
 だれとだれが夫婦なんだ? それを加奈がおもしろそうにながめている。いったいどっちの味方なんだ。
 「磯崎さん、ソムリエの資格もお持ちなのよ。サークルでもいろんなお話をしてくれて。ほんとは警備コンサルタントじゃなくて、ワインのお店を開きたいんですって。いいでしょ、夢があって」
 悪かったな。おれには夢がなくて。
 「いずれ、ですよ。そのためにも早めに準備したかったんです」
 「たいへんそうですね。そういうお店って。似たようなお店はたくさんあるし、五十代からとなると――」
 「不安はあるんです。だけどこれからのシニア社会、需要はあると思うんですよ。六十代、七十代の方がゆったりワインを楽しめる場所が」
 「わたしには無理だ。そんな思いきった決断はできませんよ」心のなかでさらにつづける。潔い生き方なんて、もうこの年じゃできません。みっともないくらい右往左往しながら、必死に会社にしがみつく。それのどこがいけないっていうんですか?
 「いいなぁ、夢があって」うっとりするようなまなざしで玲子は磯崎を見つめ、ぼそりといった。「あたしも考えちゃうなぁ」
 なにをだよ?
 不安をかきたてられるというより、玲子の無神経さに対する怒りが燃えあがった。
 「ねえ、パパ」微妙な空気を察して加奈が話題を変えた。「亡くなった同期の人って自殺だったの」
 いきなり訊ねられおれは娘の顔をまじまじと見た。美沙の話だろうか。それを加奈にしたおぼえはない。
 「さっき話してたのよ」玲子がいった。「磯崎さん、元刑事だし、そういうの知識があるんじゃないかと思って」なるほど玲子か。たしかにやつには美沙の話をした。
 「どうなんだろうなぁ、よくわからないよ」はぐらかしたつもりだったが、磯崎は意に介さなかった。
 「遺書らしきメモが見つかったからって、警察はそんなに早く自殺とは決めつけないですよ。遺体もあがっていないのだし。監視カメラに転落するところが映っていたわけでもないのでしょう。まだ捜査はつづいているんじゃないでしょうか。ただ、原発がらみの取材をされている方だったんですよね。いやな予感がしないわけじゃないな」
 「原発って……」美沙が飛び降りる直前になにを取材していたかまでは、もちろん玲子に話していない。それをなぜこの男が知っているのだ。
 表情をこわばらせたおれのことを見て、磯崎のほうで説明した。「さっきスマホで、梶村さんって方がリポートしたニュースをチェックしたんですよ。ずいぶん精力的に取材されていたようですね」
 ワイシャツの胸ポケットでスマホが振動をはじめた。この場から逃れるにはうってつけのタイミングだった。それにおれが忙しそうだとわかれば、磯崎だってそろそろ腰をあげるだろう。それが常識人ってものだ。
 ディスプレイに表示されていたのは部長の名前だった。
 いやな予感をおぼえ、おれはスマホを耳にあてながら、寝室に向かった。
 異動の打診だった。
 関連会社の管理職ポストの話だった。底なしに落ちていくというわけだ。頭が真っ白になり、部長が細々となにをいっているのかまるで頭に残らなかった。たった一本の電話で、おれは憔悴しきってしまった。当初は出向でも、遠からず転籍になり、給料が下げられる。関連会社とはそういうところだ。
 短い電話だったが、おれは別人のような顔つきでもどってきたらしい。加奈が心配そうな顔を向けてきた。
 玲子と話していた磯崎が話しかけてきた。「おいそがしそうですね」
 「だいじょうぶ。問題ありません」
 「これ、落としましたよ」磯崎から紙切れを渡された。
 計算センターで塩崎と話しているときに書きつけたメモだった。胸ポケットからスマホを取りだしたときに落としたらしい。「あぁ、すいません」平静をよそおってそれを受け取り、こんどはチノパンのポケットに突っこんだ。
 「なんなの? 精算回収って」メモを見たらしく玲子が聞いてきた。
 「なんでもないって」ついかっとなってしまった。
 「怒んなくてもいいじゃない」玲子は口をとがらせた。
 ばかやろう。おれが本当に怒っているのは、おまえのその無神経さ、夫に対する気づかいのなさなんだよ。
 「長居してしまいまして」ようやく察してくれたらしく磯崎は席を立った。
 頭のなかでは部長に告げられたことが渦巻いていたが、形ばかり玄関まで見送ってやった。磯崎はくしゃくしゃの野球帽をかぶり、ぺこりとおれに頭をさげて姿を消した。玲子がついていった。マンションの外まで見送るという。ふん、暗がりでキスでもして、ついでに乳でももませてやるんだろう。
 おれは冷蔵庫からもう一本缶ビールを取りだし、一気飲みした。脳裏には野球帽をまぶかにかぶったやつの姿がこびりついていた。記憶の片隅をつつかれるようなちくりとする痛みが目の奥に走ったが、すぐに霧消した。
 もどって来るなり、玲子は娘に指示して食卓の後片づけをはじめた。
 「カリフォルニアの話、もっと聞きたかったな」
 台所で加奈が口にすると、隣に立つ玲子がうれしそうにいう。「夏にツアー組むっていってたじゃない。あんたもいっしょに行こうよ」
 子どものようにきゃっきゃと騒ぐ母娘から離れたところに、おれはぼんやりと立ちつくし孤独感に包まれた。
 妻はもちろん加奈ともひと言も口をきかぬまま、おれはその夜、布団に潜った。
 眠れるわけがなかった。

 八
 いくつもの夢を見て目がさめた。
 のそのそと布団を抜けだし、シャワーを浴びた。キャスターだったころは、真夜中でも電話がかかってきたし、呼びだしはあたりまえだった。それにいちいち付き合わされるのでは体が持たないと、もう何年も前におれは寝室を追いだされ、リビングに敷いた布団で寝るようになっていた。はなやかそうに見えて、それが看板キャスターの素顔だった。そんな生活が身についていたから、いまも一人で起きてひっそりと家を出る。
 いまの気分を空のキャンバスに描いたような、灰色の雲が低く垂れこめた朝だった。渋谷駅前のいつものドトールのカウンター席について、ようやく人心地ついた。
 コーヒーとサンドイッチは変わらぬ味だった。消費税があがろうと、せめてこの習慣だけはやめたくなかった。でも関連会社に出たら通勤経路だって変わるし、それどころか仕事自体が本質的に変わることになる。おれはそれに耐えられるだろうか。昨夜部長から電話をもらったとき、はっきりとは感じなかった不安が、いまになって首をもたげてきた。
 不幸は追い打ちをかけてきた。
 「よぉ、タッキー」同期入局でいまは編成局にいる中村だった。おれより先に店に入って朝飯をかきこんでいたらしい。「いいか、そこ座って」おれが返事をするより先にやつは隣の丸いすに腰掛けてきた。「どうだ。元気にやってるかい」
 「元気なんかあるわけないだろ」正直におれは答えた。
 中村は残酷だった。他人の気持ちなんてまるで察してくれない。「柄本の話は知ってるんだろ」
 「柄本……同期の?」
 「そう」
 「おととい飲んだよ。超ひさしぶりだったけど」
 「それってご栄転の前祝いってやつか」
 血の気がひいた。同時に体がそんなふうにしか反応しない自分に嫌気がさした。「なにそれ。あいつ、異動するのか」
 「おとといだろ。あいつ、なにもいってなかったか。まあ、自分の話だから、自分からはいいだしにくいか」中村はカフェラテに口をつけた。
 「ぜんぜん聞いてない。栄転って政治部にもどるとか?」
 「ちがうよ。秘書室だよ」
 「秘書室?」
 「そうさ。すげえだろ」
 「会長の秘書とかか」
 「ちがうよ」中村は声をひそめた。「室長だって」
 さすがにそれには絶句した。同期のなかで、次長になった人間だってまだ数人しかいないっていうのに、所属長になるなんて。しかも秘書室だと……。
 「三階級特進みたいなもんだよ。あっというまに役員になるぞ。そのあとは――」中村は、同期の出世頭が今後たどるはずのコースについて、人事の専門家であるかのようにくわしく聞かせてくれた。
 どれもおれの頭には残らなかった。頭のなかを占めていたのは、日本で唯一の公共放送であるTHKの幹部になることが保証され、その後は首脳になることも夢ではないポジションを手に入れた同期に、能天気に高校時代の女の話なんかを真顔で話していた男のまぬけな姿だった。
 ひとりになりたかった。だが中村はドトールを出たあともついてきた。おなじ建物に勤めているのだから当然だし、おれに対する人事通告まではまだ耳に入っていないとみえる。
 エントランスに到着したとき、おれはやつを非常階段に誘った。
 「まじかよ。十階までのぼってるのか」
 「あぁ、このところずっとそうだ。いい運動だよ」
 「すげえな。やっぱり元気あるじゃねえか。スーパー中年だな。おれは遠慮しとくわ。十五階だし」
 やっとのことで非常階段に逃げこむことができた。
 すぐには上がれなかった。
 いつものように人けがなく、ひんやりとしている。それがありがたかった。階段を二、三段上がったところにカバンを置き、その場にどさりと腰を下ろした。人目がないぶん、心のカバーが外れ、赤裸々な感情が胸を突きあげてくる。
 いっしょに入局し、おなじ地方局に配属されて、ともに放送のイロハを学んでいったはずなのに。でもそこから先は個人の選択だった。だからこんなに差がついたのだって想定できただろう。それなのにどうしてこうもぶすぶすとした気分、どちらかといえば不愉快な気持ちになるのだろう。
 それにはやつがおれと酒を酌み交わしながら、その話を持ちださなかったことが影響している。おれにそんな自慢話をしたらかわいそうだと思ったのだろう。
 同期に同情されるなんて。
 いや、それだけじゃない。
 やつは家族が味方だといっていた。でも家族だけじゃなく、会社も味方じゃないか。
 おれはどうだ?
 玲子、加奈……そして部長からの電話――。
 だれが味方だっていうんだ。
 もう限界だ。
 どこかで鉄扉を開閉する音が聞こえた。だれか下りてくるようだった。あわてておれはカバンの持ち手を握りしめ、立ちあがった。体面をたもとうとするだけの良識は、まだ残っているらしい。鉛よりも重くなった足をゆっくりと持ちあげ、階段を上がりはじめた。
 窓の外にはいつもどおりのにぎやかな光景が広がっている。扉ひとつ隔てた放送センター内では、それぞれの職員があたえられた業務に真剣に取り組んでいる。そのはざまにあって、この非常階段だけはきょうも異世界さながらにしんとした静けさが広がり、何階か上からだれかが下りてくる足音とおれの足音が聞こえるだけだった。
 ふと美沙が下りてくるのではないかとの思いに駆られた。あいつならいまもおれに手を振ってうれしそうに声をかけてくれるだろう。だがやつは行方不明のままで、もはやこの世にいない可能性が高かった。つぎからつぎへとおれの寄る辺が水没し、孤独の淵が急速に広がっているような気がしてきた。
 そのなかでおれは闘うことなんてできるのだろうか。
 近いうちにマコからUSBメモリーを受け取れるかもしれない。しかしそれをもとに美沙の一件を解明できたとして、それを告発することなんてできるだろうか。だいいちいったいだれに話せばいいんだ。社会部長? 報道局長? それとも会長? だったらその側近になる柄本だろうか。それより警察に告発したらどうだろう。
 美沙の出張書類やパソコンが回収されたことを考えれば、再捜査したとしても見通しはあかるくない。思うように記事を書けぬ憂さを晴らそうと痛飲した美沙が飲酒運転の果てにあやまって橋から転落した可能性は十分ある。だったらなにも部外者のおれがしゃかりきになって調べる必要なんてないじゃないか。
 計算センターのあの女だ。
 いまのおれを衝き動かしているのは、彼女に近づきたいとの思いからだった。美沙の一件は手段にすぎない。あやうくそれを忘れるところだった。
 「あんた、ほんとにだいじょうぶかい」
 いきなり上から声をかけられた。こないだの掃除のおばちゃんだった。いつの間にかもう七階にきていた。
 「ものすごく疲れた顔してるよぉ。悪いこといわないから診療所行ってきたほうがいいよぉ」
 「たしかに疲れてるかな。なんだかもうわけわかんなくて」七階の踊り場から鉄扉にはめこんだ縦長のガラスをのぞいてみた。いつもと変わらぬ灰色のカーペットが広がっているだけだった。彼女の姿はない。
 「このうえは八階だからね」おばちゃんは心配そうにいった。「ぼんやりしてちゃいけないよぉ。しっかりひざを上げて階段のぼるんだよぉ」
 上階でまだ足音がしている。みんなふつうに仕事をしているのだ。
 「だいじょうぶです」言葉とは裏腹に足からみるみる力が抜けていく。扉の向こうに彼女はいない。この上は八階。もう会えないのか。あれは幻だったのか。おれはおばちゃんを振りきり、つぎなる踊り場へと上がっていった。
 「気をつけるんだよぉ。引き返せるうちにねぇぇ」おばちゃんは警告するようにおれの背中に投げかけ、扉の向こうに姿を消した。
 べつの足音がまだする。すぐ上の階だ。行ったり来たりしているようだ。八階にはなにが入っている? 図書室とかアーカイブ室だとおばちゃんはいってなかったか。ニュースで使う昔のビデオでも運んでいるのだろうか。
 八階の手前の踊り場に差しかかったとき、妙な熱気に包まれた。まるで東南アジアの空港から外に出てきたときみたいだ。やはりこのあたりは空調のききが悪いとみえる。そう思ったとき、嗅覚に記憶がよみがえった。
 またしても紙が燃えるような、火事場にいるようなにおいがしたのだ。
 頭上の足音がとまっていた。その場に立ちつくしているかのようだった。おれがこれから上がっていくフロアで。
 扉が開く音がした。
 おれは最後の十段を二段飛ばしで駆けあがった。
 扉はゆっくりと閉まるところだった。そこにいただれかがなかに吸いこまれていく。扉に記された表示を見ておれは金縛りにあった。
 7F A階段
 もうひとつの七階だ。
 扉が完全に閉じきる寸前、はめこんだガラスの向こうに人影が見えた。首筋がかっと熱くなる。エアコンの故障どころでない。強い日差しにあぶられているようだった。
 「待ってくれ! 行かないで!」
 カバンを手放し、ぎりぎりのところで非常扉の把手をつかんだ。
 7F A階段
 扉に額を激突させながら目の前の表示をもう一度たしかめた。まちがいない。中七階。この向こうには――。
 おれは扉を引き開け、ついにそちら側に足を踏み入れた。
 彼女が立っていた。
 ショートカットにした髪に青いカチューシャをつけている。二人をへだてるものはなにもない。背後で扉が閉じられる金属音がカチリと響いた。
 永遠に思われる数秒間が過ぎる。まばたきするのも惜しいくらいだった。しかし夢のなかの出来事のように相手の姿が消えることはなかった。最初のデートとおなじノースリーブにフレアスカート。記憶の奔流にめまいをおぼえた。
 先に言葉を発したのは彼女だった。
 「滝口くん……」懐かしいあの声がシロップのように耳のなかにとろりと流れこんできた。
 おひさしぶり――。
 そういいたかったのだろうが、彼女のほうも言葉にならないようだった。おれは炎のように体が熱くなり、心臓は喉元にまでせりあがっていた。声を聞くのは三十年前、最後に電話で話し、後味の悪い幕引きとなって以来だ。悲しさ、悔しさ、みじめさ、絶望感……思いだしたくもない負の感情がよみがえってきたが、いまは無上の喜びのほうがそれを上回っていた。
 二人の距離が近づいた。だれにもとめようがなかった。非常階段側とちがってこっちには防犯カメラがある。だがそんなの気にしなかった。自然の成り行きだった。鉄扉と左右にのびる廊下に挟まれた三メートルほどの死角のような空間で、おれたちは――滝口智郎と谷本尚美は――ためらうことなく抱き合った。華奢に見えた彼女の体は夢想していた以上にやわらかだった。
 キスしようと顔を近づけたとき、彼女のほうから身を引き、おれの体を突き放した。「待って」息をあえがせながらいう。「落ち着いて、滝口くん」
 とてつもない焦燥感に駆られた。当然だ。夢なのだ。これまで三十年間、幾度となく似たような夢を見ては目が覚めた。甘美な余韻とは裏腹のむなしさにさいなまれ、二十代のころまでは喪失感をあらためて嘆いたりもした。しかし年を重ねるにつれ、たとえ夢でも再会できることはしあわせだった。だからこそだ。この夢を一秒たりともむだにしてはならない。「なおみちゃん……」
 あらためて抱きしめようとすると、尚美は両手を目の前に突きだし、拒絶する格好をした。「そうじゃないの」あのころと変わらぬリスのような瞳で見つめてくる。「時間がないの」
 眉をひそめたそのとき、背後で甲高い破裂音がたてつづけにあがった。
 「見つかったわ」そう口走ると、尚美はおれの腕を取った。
 それと同時に鉄扉の向こう、非常階段のほうから声があがる。「いたぞ!」殺気をおびた男の声だ。扉にはめこんだガラスに押しつけられた黒いヘルメットが見えた。
 「こっちよ!」
 尚美はおれの腕を引っ張ったまま廊下に飛びだし、左のほうへ走りだした。その刹那、ふたたび連続的な破裂音――すでにおれにも銃声だとわかっていた――があがり、猛然と扉が引き開けられるのが、視界の端にとらえられた。黒い防弾チョッキにごつい黒ヘルをかぶった男たちがすくなくとも三人、なだれこんでくる。おのおの自動小銃のようなものを手にしていた。
 「急いで!」
 おれは尚美に腕を取られたまま、どたどたと廊下を走りはじめた。そっちは計算センターだ。先輩の塩崎や経費精算スタッフの埜村嬢たちがいる。
 二十メートルも進まぬうちに失禁しそうになった。銃声と同時に耳元で耐火ボード張りの壁をえぐりとる恐ろしい音がしたのだ。焼けつく痛みが体のどこからも起こらないのは、廊下がすぐ先で右折したからだった。
 尚美はおれの腕を放していた。おれは運動不足の下半身にむち打って走りつづけた。廊下はその先も複雑に何度も曲がった。おれのなかのかすかな理性が疑問を投げかけていた。きのう来たとき、計算センターのフロアはこんなふうだったかな。それともおれがフロアの構造を知らないだけなのか。だがとにかくそのせいで銃撃をまぬかれている。
 銃撃……?
 いったいなんなんだ。経理局計算センターには、大型金庫も設置されているといううわさだ。テロリストが侵入したのだろうか。
 「行くわよ!」もうひとつ角を曲がったところで、尚美が叫んだ。
 目の前に青空が見えた。雲一つない。
 窓だ。大きなガラス窓がある。十メートル先だった。本能的におれの足がとまった。
 ガラスはない。開け放たれていた。
 「だめだって」口走ったとき、ふたたび腕をつかまれた。
 「へいきだから」
 「七階だぞ」だが選択の余地はない。すぐそばの壁に銃弾が突き刺さった。
 おれはぐいと腕を引っ張られ、窓のほうへ走らされた。
 「飛んで!」
 その声が耳に届いたときには、体は宙を待っていた。彼女の手が離れ、虚空をもがきながらおれは落下していく。
 灼熱の日差し。
 むっとする熱気。
 鼻を突く香辛料のにおい――。
 ちがう。
 ここは……ちがう。

 第二部
 九
 四肢が同時に着地すると同時に右の頬に鋭い痛みが走る。すえた臭いのする地面に顔から激突したらしい。
 夢だ。
 七階から転落してこの程度の痛みですむはずがない。だいいち生きているわけがない。
 七階?
 反射的におれは振り向いていた。
 どこだ、ここは。
 夏の日差しを反射していたのは、渋谷の再開発の目玉として建てられたTHKの新放送センターではなかった。藍色の瓦屋根を持つ古びた建物だった。壁面がパステル調の水色をした四階建てで、一瞬、ペナン島かシンガポールの中華街を想起させた。二階の窓が開け放たれ、そこから飛び降りたらしい。黒ヘルの男たちの姿も見える。
 「こっち!」
 むせ返る熱気のなか、チーターの襲撃を逃れるインパラのような敏捷さで尚美が立ちあがり、左のほうへ走りだす。背後で男たちが重苦しい軍用ブーツで着地する音が聞こえた。
 目を疑った。
 海が広がっていた。おだやなか水面が強烈な日差しにあぶられ、まぶしいほどにきらめいている。同時に生臭い磯のにおいが鼻を突く。港だった。
 なんという夢だろう。
 尚美は息をあえがせながら中華風の建物沿いに進み、隣の建物との間の路地を左に折れた。突如、インド映画で流れているようなにぎやかな音楽が広がった。狭い路地の両側に低い天幕を張った露店が並んでいる。売っているものをいちいちたしかめているひまはなかった。猛犬のように追いすがる男たちの足音がいまにも聞こえてきそうだった。映画でしか見たことのない小さな金属の塊が、いつ超高速で背中にめりこんでくるか。自然と首をすくめていた。
 弾丸は飛んでこなかった。路地は左右にジグザグに折れ、なにより道幅三メートルほどの間に人がごった返し、弾よけがわりになっていた。
 どこなんだ。
 逃げまわるうちに周囲の状況がつかめてきて困惑が深まった。気温がみるみる上昇する。というより体のほうがようやく周囲の気温を感知したのだ。三十度は優に超えている。肩をぶつけながらすれちがうのは、インド系、東南アジア系の人間が多く、路地の左右に軒をつらねていたのは、漢字とアルファベットの看板を掲げた生地屋や乾物屋、それに麺類の屋台ばかりだった。
 つぎの路地を左に曲がったとき、尚美は文字のかすれた看板を掲げた食堂の開放された入り口に飛びこんだ。裸電球ひとつに照らされた薄暗い店で、テーブルが五、六脚並んでいる。よどんだ熱気を店のまんなかに一本だけ立っている黒い柱に据えつけた扇風機がかきまぜるなか、半袖シャツの男たちが黙々と汁そばをすすっている。奥の厨房にいた浅黒い顔の女がびっくりした顔で、包丁で鶏肉をさばく手をとめておれたち二人のことを見た。それを無視して尚美は厨房にずかずかと入りこみ、奥の扉を引き開けた。
 足もとに野菜を満載したかごや米粉らしきものをつめた袋が所狭しとならぶ薄暗い廊下が十メートルほどのび、その先に外の日差しが見える。裏口らしい。尚美はそっちにダッシュし、外に出る前に左右をうかがう。
 表とは打って変わってしんとした路地だった。左右に広がるパステル調の色合いをした長屋ふうの建物には、強い日光を避けるために作られたとおぼしきアーケードがのびている。余裕のあるときなら、その作りをたのしみながらそぞろ歩きもできそうだったが、尚美はその下をさらに猛然と突っ走った。その背中に追いすがりながら、かつてハンドボール部にいたころの彼女の記憶がよみがえった。まさにボールを追ってコートを走りまわっているかのようだった。
 尚美はすばやく振り返り、追手がいないことをたしかめると干上がった路地をわたり、アーケードをくぐって反対側の建物に入っていった。白いタイル張りの廊下を進み、そのまま奥の階段を足早におりていく。
 地下は駐車場になっていた。
 地上の長屋にそって作られているらしく、肌に水滴がこびりつくようなじめっとした空気のなか、ぎっしりと車で埋めつくされている。そこでおれの頭にふたたび疑問符がともった。どれもタイヤが四つあり、たしかに車ではあるのだが、見覚えのないタイプだった。外車とかそういうのでなく、どれもずんぐりとしてアルマジロのようなクーペ形をしている。流線型のボディの前面は大きすぎるくらいのフロントグラスに覆われていた。
 そのなかの白い一台に向かって尚美が手をあげると、電子音とともにドアロックが解除され、エンジンがうなりをあげた。その音でわかった。電気自動車のようだった。
 「乗って」
 声は落ち着いている。追手をまいたようだった。だが銃撃の恐怖は消えていない。おれは一目散に助手席に飛びこんだ。
 レカロのような体の形にフィットする硬いシートだった。ダッシュボード全体からエアコンが猛然と吹きだしている。シンプルなデザインのフロントパネルには最小限のメーターが並び、それらが緑色の光を放っていた。尚美はすぐに車を発進させ、無人の駐車場を百メートルほど低速で進んだところで、EXITと書かれた看板のある突きあたりを左に折れた。そこから下に向かってゆるやかなスロープとなり、左にカーブしながら一階ぶん下りたところで赤信号に出くわした。
 トンネルにいるような騒音が広がり、目の前を右から左へと猛スピードで車が何台も走り去っていく。地下の車両専用道路に直結しているのだ。
 信号が青に変わり、尚美はアクセルを踏みこんだ。そのまま加速して他の車の流れにのる。「これで当分はだいじょうぶだと思う」バックミラーをのぞきこみながら尚美がいった。
 首都高のような地下道はおなじフォルムの車でこんでいた。やがてトンネルを抜けて視界が開け、林立する高層ビルの合間をすり抜けるように車は走った。
 どの時点からかわからないが、おれはずっと息をとめていたらしい。それを一気に鼻から吐きだし、あらためて運転席に目をやった。「すごいリアルな夢だな」ついひとりごちた。「マジに撃たれてるみたいだった」
 「ウソじゃないわ。殺されていてもおかしくなかったんだから。けがはない?」
 おれは自分の体を見まわした。出血しているわけでも、痛むところがあるわけでもない。「だいじょうぶだと思うけど。でもなおみちゃん……たのむから消えないでくれ」本能的に手がハンドルを握る尚美の手にのびる。いつも夢で見ているよりもはっきりとした感触、ぬくもりをおびたやわらかな触り心地だった。
 「落ち着いてね、滝口くん。たのむから冷静にね」右に左にゆるやかにカーブする道路から目をはなさずに尚美はいった。「いまここでハンドルを引っ張られたら、とんでもないことになっちゃうからね。そんなのイヤでしょう」
 防音壁のあいまからのぞくのは、ビルの合間に広がる東京の都心のような光景だった。道路は地面から二十メートルほどのところを走っているのだろうか。この速度でここから転落したら、二人ともただではすまない。せっかくの夢もだいなしになってしまうだろう。いや、夢ならおれだけが墜落して、気づいたときには尚美は消えているという展開にちがいない。おれは彼女から手をはなし、そのまま白いフレアスカートに包まれた太もものうえにのせた。これまで夢では何度となくかき抱いた太ももだったが、いつにもましてきょうはしっかりとした実感が伝わってきた。
 「あわてないで」なだめるようにいいながら尚美は、懐かしさと欲望にかられたおれの手を自分の太もものうえからどかした。「消えたりなんかしないから」
 「本当なの……?」
 「本当よ、安心して。つぎの瞬間、ベッドで目が覚めるなんてことにはならないから」
 「あぁ……なんてラッキーなんだ……いや、待て。そんな夢だってあるさ」おれはひとりごとをつづけた。「だからいわなきゃならないんだ……」おれはつばを飲みくだした。何度も夢のなかで口にしてきた言葉だ。だがきょうはいつにもまして感情が高ぶり、言葉が出しにくい。どんなに深酒してオンエアに臨んでもしゃきっとしていられたのに、まるで舌に強烈な麻酔でも打たれたかのようだった。それでも声を震わせながら伝えた。「会いたかった……ずっと、ずっと……一日だって忘れたことはなかったんだ。そうなんだ。世界で一番……好きなんだ――」
 口にしてみて後悔した。どんくさいったらない。脚本家交代だ。小学校の学芸会じゃあるまいし。
 「ありがとう」
 尚美はちらりとこちらを見て微笑んでくれた。それは高校のころ、写真部のおれがカメラを向けたときに見せてくれる、とっておきの笑顔だった。
 夢でもかまうものか。欲張らずになりゆきにまかせていれば、たいていの夢は長つづきする。経験則を信じておれは包みこむような形状のシートに背中をあずけた。それでも彼女の横顔から目をはなせない。あれから三十年たっている。尚美だって今年四十九歳になるはずだ。たまらず口にしてしまった。「変わらないね、ぜんぜん。高校時代のままだ」
 おせじでもうれしいわ。そういわれると思ったがちがった。
 「変わりようがないわ。そんなに時間たっていないから」拍子抜けするほどそっけない口ぶりだった。
 「三十年だぜ……見てくれよ、この頭」おれは白髪まみれになった頭に手をあてた。「そろそろ染めようかと思ってるけど、ふみきれなくてね」
 「わたしはとっくに染めてるわ。たぶんあなたの記憶のなかにいるわたしも染めていたと思う」おかしな話だ。高校時代の尚美が髪を染めてなんかいるわけがない。それともカラーリングしていたという意味だろうか。あの時代、一九八〇年代に?
 「いきなりで驚いているでしょう」
 「それはたしかだね。さっきはなんで襲われたんだろう。やつら、なんなの? テロリストとかかな」いいぞ。この調子で話を合わせていけば長つづきする。とにかく尚美を近くに感じることが肝要だ。
 「警察よ」
 「警察?」
 「彼らはなすべきことをしたまでよ」
 「どういうこと? それじゃ――」
 「そうよ、悪いのはこっちなんだから」
 車は百キロ近い速度で進んでいく。エアコンがききはじめ、その点は快適であったが、道路の継ぎ目のせいで強い衝撃が始終、肛門を突きあげてくる。
 高層ビル群が消え、左方にドーム型のスタジアムのようなものが見えてきた。そのわきにイスラム教のモスクのような建物が見えた。黄金色の巨大な円蓋が日差しを反射して輝いている。
 「宮殿よ。マスジットシティの中心部。おぼえておくといいわ」
 「宮殿……マスジットシティ……? まったくわけがわからないよ」だがわけがわからなくて当然。夢なんだから。大海に浮かぶ救命ボートのごとく、その無秩序のルールに身をゆだねないと。
 「でしょうね。いまの滝口くんにはわかるわけがないし、たとえ説明しても理解してもらえるかどうか」
 「いや、いいよ」おれは視線を尚美にもどした。「心配しないで、なおみちゃん。夢だろうと幻だろうと、いまおれの目の前にきみがいるんだ。そうだ――」おれは居住まいをただし、思いきって口にしてみた。なによりまず最初にいうべきことだった。これを伝えないことには、三十年の月日はリセットされない。ずっとそう思ってきたし、これまで夢のなかでもこれを口にしたことはなかった。「あやまらなきゃならない。もう忘れちまってると思うけど……あの日……最後に電話かけた日のことだけど」
 「気にしないで。あれには理由があったんだから」
 「理由……?」おれのほうから電話をきったのは、つまるところふられて傷つきたくなかったから。それは女として理解できる理由だというのだろうか。救命ボートに揺られながらじっと空を見つめようとしていたのに、つい水面に手をのばしてしまった。「あれは自分でもよくなかった。身勝手だったよ。ごめん。あやまる」
 「こう考えてみたらどうかしら」じっと前を見すえながら尚美はいった。「あんなことがなければ、滝口くんはいつまでもわたしのことなんておぼえていなかった。逆にいえば、あんなことがあったから、あなたはわたしのことを強く思っていてくれたんでしょう」当事者であるはずの尚美は、あたかも第三者であるかのようにいった。
 「こんな言い方しちゃいけないけど、トラウマってやつかな」
 「潜在意識にいつまでも残っていた」
 「それどころか意識の表層に漂っていたよ。死ぬまで消えない。いまじゃ、そう思うようにしてる」
 「あなたの潜在意識に居座るには、ああするしかなかったのよ」
 さらりといわれ、あやうく聞き流すところだった。だが尚美のほうで話の先をつづけてくれたから、いかに鈍感な男でもいぶかしく思えた。
 「そういうプログラムだったんだから」
 「プログラム……? まいったな。まったくわけがわからない。こういうところが夢ってもののやっかいなところだね」
 「ちがうの」尚美はそれまでになく真剣な口調になっていた。それは三十年前にかけた最後の電話のようすを思い起こさせた。
 急に怖くなった。破局の接近、いや、夢がさめてしまう。訊ねたい気持ちをおさえ、唇をかんだ。
 「ちがうのよ」
 「ちがう……って?」
 「よく聞いて」尚美は助手席のほうを見すえていた。「夢なんかじゃないの」
 「それはまぁ、もしそうなら……」
 うるんだ彼女の瞳に吸いよせられていた。なんてきれいな瞳をしているのだろう。鈍色の相模湾を見渡すグラウンドでハンドボールに打ちこんでいたあのころと本当に変わらない。高校時代の谷本尚美。学校きってのアイドル。だれもが高嶺の花と思っていた女の子。浪人時代、甘酸っぱい想い出をおれにプレゼントしてくれたたいせつな存在――。
 「もしそうなら、うれしいけどさ」
 やっとのことで口にしたおれに尚美は告げた。
 「これが“現実”なのよ」
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