二十八~三十

文字数 17,425文字

 二十八
 美沙はギルモアからキャンプにもどるところだった。キャンプといっても黒い防護シールドをほどこした大型トレーラーが二台とめてあるだけだ。ほかにヘリが三機ある。こちらも防護シールドが張ってある。一機はマレンが操縦してきたものだった。
 美沙は片方のトレーラーの後部扉を開け、なかに入るようおれをうながした。二重扉になっている。高エネルギー線対策らしい。
 「滝口くん……」ナオミが走り寄ってきた。フードを外している。体を貫く線量が下がっているようだ。「よかった。無事で」
 トレーラーは中央部がカーテンで仕切られ、手前には低いテーブルをはさんでソファが二脚あった。「たすけられたんだ」おれは美沙のほうに手を広げた。「同僚に」
 「対空ミサイルでロックオンされちまった」マレンはソファに腰かけていた。防護服を脱ぎ、白いTシャツと紺色の短パン姿になって、くつろいでいるかのようだった。「高エネルギー線で計器がいかれちまうから、あんたには悪いが、彼女だけ乗せてあの場を離れたんだ。そしたら無線で着陸要請が入って、したがわないとミサイルを撃ちこむってすごまれた」
 「レジスタンスよ。ヘリが必要だったの」ナオミが説明した。
 トレーラーの奥に目をやり、おれは息をのんだ。カーテンの隙間に若い女が立っていた。これほどまでに似ているとは。だがティレルとミマスもそうだった。年代こそちがうが、DNA的にはまったくおなじ、クローンなのだ。
 彼女は滑るように近づいてきた。黒のパンツに黒のTシャツこそ、大人の雰囲気だったが、ボブのヘアスタイルもあいまって、おれの高校時代の思い出の女、谷本尚美そのものだった。年齢もたしか十八歳だとかナオミがいっていた。ジャージに着替えてハンドボールを持たせたら、あのころにタイムスリップできそうだった。
 「はじめまして、ギフテです」声音は母親とおなじだった。
 突きだされた右手をおれは恐るおそる握りしめた。「はじめまして。でもだいじょうぶなの……?」ママはえらく心配したんだぜ、とは口にしなかった。ギフテの失踪がもとでこのおれがライフに生みだされ、自我を持つにいたったのだ。ある意味、彼女はおれの最大の創造主だった。
 「さっきまでママにさんざん怒られてたの。勝手すぎるって。けど、ギョルの独裁体制をどうにかしたいって気持ちはおなじはずよ」
 ナオミが口をはさんできた。「自分の意思でレジスタンスについていったっていうのよ」
 「ママにはわからないのよ。あいつがどれだけ非道なことをしているか。わたしはそばで働かされていたからわかる。クローニングだって自分に忠誠を誓う人間ばかり優先するし、自分にちょっとでも反対する人間がいたら即処刑よ。わたし、もう耐えられなかったの」
 「秘書としてギョルのそばにいたのかい」
 「秘書は何人もいるわ。わたしはそのなかでも下っ端だったから、ギョルに直接会ったことはないの。宮殿の十階にある市長室には、側近しか入れない。体が不自由だって話だけど、頭はしっかりしている。この先、十年の間にマスジットシティの人口を半減させる計画があるのよ。資源との見合いで最適人口が弾きだされたの。なにが起こるか想像してみて。ぞっとするわ」
 「一つの政治的見解にすぎんよ」
 カーテンの奥から声がした。ひと晩じゅう一人カラオケを熱唱していたかのようなハスキーボイスだった。
 「いまの人口を維持しながら一人一人に幸福をもたらすことも不可能じゃない」
 音もなく開いたカーテンの向こうにインド系の顔だちの大男が立っていた。濃い口ひげをたくわえているが、年齢はまだ若いようだ。ぎょろりとした目が放つ光におれは射すくめられた。カッシートとナオミが呼んでいたレジスタンスの首領はこの男なのだろう。
 「暴力革命は好みじゃない。最小限の実力行使でいくつもりだ。そのための準備を重ね、機をうかがってきた。以前宮殿を襲撃したのもこの日のためだった。家族には悪いと思ったが、われわれにはギフテが必要だった。彼女の技術に託すしかなかったんだ。手荒なまねをしてしまったが、われわれの意向をくんでくれて感謝している」
 カッシートはおれの右手を握った。年下だったが、おれはたちまち臣下になったようなふしぎな高揚感をおぼえた。正直、その場でカエルのように跳ねてしまいたいくらいだった。圧倒的な存在感だった。
 だがギフテの技術ってなんだろう。
 それにはナオミがこたえてくれた。「さっき聞かされてわたしも驚いたわ。市長秘書になる前まで、ギフテはわたしの助手としてずっとライフの開発に携わっていたの。それでパトスウイルスのことも知っていたし、ライフから実体化させたときに身に着く“能力”についても気づいていた」
 こういうことだ。
 一月に宮殿が襲撃され、ギフテが殺害されたとの連絡がナオミのもとに入り、悲しみの果てに二月六日にナオミは幸福な家族をライフのなかに創造しようとおれを誕生させた。しかしじっさいにはギフテは殺されていなかった。もともとカッシートは高エネルギー線を逆手に取った宮殿の制圧を計画していた。それならとギフテが“跡地”からデブリをかき集めてくることを提案した。そしてそれを実現する手段として、ライフキャラの実体化という手法があることを主張し、自らカッシートについていったというのが真相だった。
 しかしナオミの話では、実体化はプレーヤーが自らのキャラクターに対して行うものではなかったか。「きみもライフに参加していたのか」おれはギフテに訊ねた。
 「わたしはまだ参加していなかったから、まずは自分のキャラを作って、ライフに投入する必要があったの。けどライフは登録制だから、新たにわたしが参加したら、履歴をたどることでわたしが生きていることがばれてしまう。カッシートたちといっしょだとわかったら、だれよりもママの身を危険にさらすことになる。だから手近なプレーヤーの登録IDを使うほかなかった」
 「きみのママになりすましたわけか。それで新たなキャラを作ったんだね」
 「基本データは、滝口さん、あなたのものしかなかった。だからわたしが作りだしたキャラもあなたに近い存在になったっていうわけ。たしか三月中旬だったんじゃないかしら」
 美沙は取り乱すこともなく、落ち着いて自らの創造主の話に耳をかたむけている。
 「それがそこにいる梶村さんってわけか。だがおれはそれ以前から彼女のことを知っていたと思うんだけどな」
 その点はナオミが説明した。「前にもいったと思うけど、ライフはほかのプレーヤーが新しいキャラを投入するたびに設定が目まぐるしく変わっていくの。そこにいる美沙さんが生みだされた時点で、あなたの記憶が修正されて、彼女の先輩だったという設定に変わったのよ」
 おれはあきれて美沙に告げた。「社会部のころの思い出は、みんな作りものらしいぞ」
 「信じられないわ。はじめて書いた記事とか、いまだにはっきり覚えているんだけどな」
 「リアルな体験にしろ、合成された記憶にしろ、それがぜんぶ無意味だとは思いたくないな」
 「無意味だとしたら、いまこうして生きているよすがなくなっちゃうもの」
 「まったくだ。だけどよりによってライフから飛びだしてきたのが、レインボーブリッジから突き落とされたときだとはな」
 「マジで死ぬかと思った」
 「そうなのよ」ナオミがいう。「ギフテは、転写を実行するタイミングを見はからっていたの。こっちの世界に実体化するには、たとえようのない絶望感が必須条件なの」
 さっきトンネルのなかでも、おなじことをナオミから聞いた。とはいえ心理的な追いこまれ方は、おれなんかより美沙のほうが格段に激しかったはずだ。
 「ライフの開発者である母親よりも先に実体化に成功していたなんて」
 ナオミは顔をしかめた。「二か月前にパトスウイルスが散布されたときに気づけばよかったんだけど、てっきりシステムエラーかと思っちゃって」
 「優秀な娘さんなんだな」どうあっても加奈とくらべてしまう自分が悲しかった。しかしあいつにだっておれよりも優れたところがどこかあるだろう。そう思った途端、おれはライフでの暮らしが無性に恋しくなった。
 ぜんぶ幻だったというのに。
 ソファに腰かけたカッシートは、おれのほうに手を広げ、向かいにいるマレンの隣に座るよううながした。
 「ギフテと美沙がいなかったら、この革命は失敗に終わる。それだけはまちがいない」
 美沙は実体化による“能力”をフルに活用してギルモアでデブリを拾い集めてきた。それがカッシートのいう、最小限の実力行使になるという。
 「娘を利用したのは許せないわ。革命の趣旨はわかるけど。どうしてわたしに頼まなかったのかしら」
 「あまり現実的じゃなかったんでね」
 「そうよ」カッシートの隣に腰かけたギフテは、おれの隣に突っ立ったままの母親を見あげた。「ママが同調するとは思えないもの」
 ナオミは口をへの字にゆがめた。「それはそうかもしれないけど」
 たまらずおれは口を開いた。「ぼくとしては非常に複雑だな。娘さんが誘拐されてなきゃ、いまここにぼくはいないわけだし、ライフにも存在しなかった。向こうでの記憶は、ろくなもんじゃないし、最近じゃ、いいことなんて一つもない。けど、そこそこ楽しんでいたんだ。高校時代の大切な思い出ってやつに浸ることもできたしね」一気にまくしたててみて、おれ自身、驚いていた。コペルニクス的転回。おれは潜在的にそれを期待していた。それくらい追いこまれていたんじゃなかったのか? それがそこそこ楽しんでいた……だと?
 笑っちまうぜ。
 だが悪い気はしない。なんだかちょっとばかり気が晴れた。
 「まぁ、いいわよ。いまさらどうしようもないんだし、無事でいたんだから。だけど革命なんてそんなにうまくいくのかしら」ナオミはあらためて疑問を投げかけた。
 カッシートが話をつづけた。「われわれがもとめているのは政治の民主化だ。こっちには十人程度しかいないが、ようはシティ内の同志の問題だ。潜伏しているが、いったん指示を出したら一斉蜂起できる。デブリは、反応抑制ジェルで固めてシールドボックスに入れて冷却してある。線量は通常のデブリの一千万分の一にまで下がっている。宮殿に到着した時点でボックスをすこし開ければ、高エネルギー線感知装置が自動的に働いて、退避警報が流れる。それでギョルもふくめ、宮殿から人間を一掃できる。そのあとで軍と警察のシステムを掌握すれば、新政権樹立だ」
 「そううまくいくかしら」
 「すでに宮殿内の高官のなかに造反者が複数確認されている」
 「高エネルギー線の過剰漏えいにならないかしら」
 「一番注意を要する点だ。シティが崩壊したら元も子もない。でもいまのままではわれわれに未来はない」
 美沙がカッシートを掩護した。「シールドボックスはあたしが管理する。ギフテの計算どおりに十秒だけ開けたらちゃんと閉めるから」
 「それでもリスクは高いと思うけど」ナオミは心配そうに娘のほうを見ていった。
 「リスクをゼロにすることなんてできないわ」
 「あなたたちをとめるのは無理みたいね」
 「ここまで来たらそうだろう」カッシートがいったとき、トレーラーの後部扉が開き、フードをかぶった防護服の男が入ってきた。

 二十九
 カッシートにも選択肢がなかった。
 三機のヘリのうち、二機は別々のプラットホームからレジスタンスのメンバーが盗みだしたものだったが、マレンのヘリはけさ、フライト中にハイジャックしたものだ。それには二名の軍人が乗っており、捜索隊がやって来るのは時間の問題だった。多少強引でもいまこのタイミングで作戦を決行せざるをえないのだ。おれもナオミも尻をたたかれるようにしてふたたびマレンのヘリに乗りこまされた。トレーラーに入ってきた防護服の男によると、捜索隊と思われるヘリがこちらに向かっているというのだ。
 アウター内の移動だけでなく、マスジットシティへの侵入にもヘリを使うという。計画を聞いてぞっとした。ヘリで一万メートル上空まであがるなんて、すくなくともライフのヘリコプターには不可能だ。ベテランパイロットのマレンはちがう意味で懸念をしめした。こっちの世界のヘリのスペックでは一万メートルぐらいまではぎりぎりで上昇できるものの、ホバリングとなると、八千メートルが限界で、ジェット気流によって機体の維持が困難になるという。
 カッシートは聞く耳を持たなかった。アウターとシティとを隔てる皮膜コンクリートは、ドームの頂上部がもっとも薄く、二十センチ程度だという。そのくらいの厚さでも、ジェット気流で高エネルギー線濃度がきわめて薄くなっているから問題ないらしい。その付近までヘリで上昇したところで、壁面をミサイルで破壊し、その隙間からシティ内に降下する作戦だった。穴の開いた皮膜コンクリートは、革命成功後にゆっくり修復しても間に合う。何度も検証したうえでの作戦であるとカッシートは強調した。
 三機が上昇をはじめて二十分もしないで頂上部に到着した。朝日に輝く皮膜コンクリートのドームは、それ自体が白い巨大な宮殿のようだった。激しい気流になぶられる機体は、たとえマレンでも制御に困難を要した。彼に命をあずけているこっちは生きた心地がしない。マレンの隣にカッシートが陣取り、そのうしろにナオミとギフテが並ぶ。最後列におれと美沙が座った。そして反応抑制ジェルで固めて線量を一千万分の一にまで低減させたデブリを収めたシールドボックスは、機体下にある着陸用スキッドの間にわたした鋼鉄板の上にがっちりと固定されていた。
 いまやおれも防護服を脱ぎ、カッシートから渡されたTシャツと迷彩柄のズボンをはいていた。防弾チョッキも着させられている。幸運の女神が味方して見事着陸できたなら、おれは美沙を手伝ってシールドボックスを台車にのせてこんどは自分の足で走りだすことになる。軍用ブーツを支給されたが、美沙といっしょに汗をかくなんて脱税事件の取材で真夏の大阪に行ったとき以来かもしれない。もちろんライフで合成された記憶だが、すくなくともあのときは命の危険なんてあるわけもない。せいぜい熱射病になるくらいだった。それにくらべると現実のなんと非情なことか。胃の底からあがってくる吐き気をこらえながら、おれはひそかにわが身の不幸を呪いはじめていた。
 先頭機がドームの頂上部にさらに接近し、そこで旋回を開始した。さすがにホバリング状態をたもつのは難しいらしい。その円周から離れたところで二機目も旋回をはじめ、マレンもそれらにしたがった。三機の間の交信は、カッシートが握りしめる携帯無線で行われていた。その声はインカムにつたわってこなかったが、十秒後、先頭機の後部ドアが開くのが見えた。
 そこからぬっと顔をあらわしたのは、防護服のメンバーがかつぐミサイルランチャーだった。その先端からミサイルの弾頭部分が見え、朝日をぎらりと赤く反射した。直後、ランチャーが炎と煙をあげ、マスジットシティを覆うドームを強力な爆薬を搭載したミサイルが襲った。
 それが四回つづいた。激しい気流が爆発による炎と煙を瞬時に吹き飛ばし、大きな穴がぽっかりと開いているのが見てとれた。そこを一機ずつ慎重に通過していく。あとはそれぞれ大きな円を描きながら競うようにして地上へと舞い降りていった。
 マスジットシティは通勤ラッシュの時間帯で、主要道路は渋滞のまっただなかにあった。三機は、いったん高度三百メートルにまで下りたのち、縦列編隊を組んで宮殿へと向かった。五分もしないで到着するはずだったが、目的地の方角から軍のヘリコプター部隊らしき一団が姿をあらわした。目を見張る哨戒態勢だ。
 「これも想定の範囲内なのか」マレンがインカムで苦りきった。
 「いま無線をつないでるところだ。デブリがあることを知らせたら、手荒なまねはできんさ。シティを高エネルギー線で汚染することになるからな」カッシートは無線のマイクをつかんで話しだした。
 すると敵機は獲物を前にして警戒する野犬さながらに、おれたちの周囲を飛びまわりだした。インカムに向かってカッシートが満足そうに話した。「おれたちのケツの下に積んでいる物体の高エネルギー線量を測定したらしい。シールドボックスはしっかり閉まっているはずだが、それでも漏えい線量がかなりあるようだ」
 宮殿が近づいてきた。イスラム建築を思わせる黄金色に輝くドームを中心に左右に鳥が翼を広げたように石造りの建物が広がっている。その南側にヴェルサイユ宮殿のような広大な緑の庭が広がり、周囲を黒っぽい城壁が囲っていた。
 おれは防護服のフードとはちがう黒いヘルメットをひざのうえに置いた。美沙はすでにそれをかぶり、ストラップをあごの下にまわしてとめていた。どちらのヘルメットにも左側に小型カメラが据えつけられ、右側にはジャミング機能つきのトランシーバーが内蔵されている。おれはカッシートから自動式拳銃を渡されていた。防弾チョッキの下のほう、ズボンのベルトの腹のところには手榴弾が二つ、フックで引っかけてある。どっちも軍から奪ったものだった。爆薬をぶら下げているというのはじつに落ち着かない気分だった。なにかのはずみで雷管が発火したら、おれはたちまちミンチだ。その姿を想像すると、ますますおれは渋谷のあの職場、いや武蔵小杉のマンションが恋しくなってきた。
 アウターをたつ前にカッシートが説明した作戦はこうだ。
 宮殿上空までヘリを飛ばしたのち、翼棟屋上のヘリポートに着陸し、おれと美沙が降機してシールドボックスを台車にのせる。それを確認したところでヘリは三機とも安全地帯に退避する。その間におれたちはボックスのふたを十秒間だけ開放する。するとシティ内に張りめぐらされた高エネルギー線感知装置がいっせいにレベル5――それでもメルトダウン後のデブリの一千万分の一の線量だというが――の異常線量警報を発令する。それを受けて宮殿の職員たちが避難するあいだにドームへの接近を試みる。かつてギョルの秘書だったギフテは、上司である秘書室長のIDを盗み見ており、おれたちはそれをつかって非常口から侵入する、との手はずだった。
 レベル5とは、高エネルギー線異常線量警報の最高ランクで、周辺住民はたとえ一瞬でもそれが発令されたなら、即刻二十キロ圏外に避難することが要請される。つまり直後にいくらボックスが閉じられて線量が抑制されようと、ひとたびその警報が出てしまえば、おれと美沙は宮殿内を自由に闊歩できるし、カッシートたちも難なく入城できるというわけだ。
 ただ、彼らが入ってくるには、線量が抑制されるまで若干の時間を要した。だからその間におれと美沙でドーム十階にある市長室まであがり、軍と警察のシステムに手をくわえねばならなかった。それについてはヘルメットについたカメラとトランシーバーを使ってギフテが指示をあたえることになっている。
 とはいえおれはまだ心の準備ができていなかった。いくら肉体的に超人化していても、カッシートが思い描くようなまねをできるか不安だった。
 マレンはヘリポートに向かって一気に高度をさげ、あっという間に着陸した。あたふたとおれがヘルメットをかぶっていると「急げ!」とカッシートが怒鳴ってきた。それにおされておれはヘルメットのストラップも締めぬまま、シートベルトを外して立ちあがった。美沙はすでに折り畳み式の台車を抱えて外に飛びだしていた。
 シールドボックスを固定するチェーンが絡み合っていたが、美沙が落ち着いた手つきでそれを一本ずつはずしていく。そして最後のいましめがほどけ、おれが危険物を収めた箱を胸の前で抱える格好になった。腕にずしりとくる重量感がある。
 それを見とどけるなり、マレンはヘリを上昇させた。美沙は、おれの腕からシールドボックスを受け取り、台車にのせた。
 「問題はこれからですよ」美沙は有無をいわさす、ボックスのロックをはずし、ふたを開けた。さらに内ぶたがあり、美沙はためらうことなくそれも開いた。
 銃声とともに足もとのコンクリートが弾け飛んだ。
 翼棟のヘリポートに降りたったおれたちを狙っているのだ。たまらずおれはシールドボックスの陰に飛びこんだ。美沙もおなじように飛びこんでくる。だがそれ以上発砲されなかった。耳をつんざくサイレンが四方八方から鳴りはじめ、宮殿ばかりか街中が警報音の渦に包まれた。
 「閉めないと!」ボックスのふたを開けているのは十秒間だけ。美沙はあわててふたを閉めた。
 「ちょうど十秒ぐらいだ」おれはスナイパーがいた方角に目を凝らした。サイレンはいつまでも鳴りつづけている。線量が本当に抑制されるのか心配だった。
 「行きましょう」美沙は立ちあがり、台車の把手に手をかけた。
 左手五十メートルのところからドームの円蓋がはじまっており、ドアが一つあった。台車を押しながらダッシュし、おれがドアノブに飛びついた。錠がかかっている。が、ノブのわきにあるキーパッドに美沙が秘書室長のID番号を打ちこむと、小さな電子音とともに開錠された。
 なかもサイレンが鳴り響いていた。グレーのカーペットを敷き詰めた廊下が、ドームに沿ってドーナツ状にのびている。ところどころに窓があり、さんさんと降り注ぐ人工太陽の日差しを採光していた。内側にはいくつも部屋があり、職員が机に向かっているはずだった。レベル5はそうした日常を一変させた。廊下では、警報にせきたてられるように部屋から飛びだしてきた職員たちが右往左往していた。台車を押すおれたちのことなど気にもとめない。
 「市長室は九階の秘書室から行くの」ヘルメットに装着したスピーカーからギフテの声が聞こえた。カメラが映しだす映像をモニターで見ながら指示しているのだ。「エレベーターホールに向かってくれるかしら」
 エレベーターで九階まであがると、そこでガラスのドアにはばまれた。ギフテによると、そこから先が秘書室のエリアでその向こうに市長室へあがる階段があるという。ドアのわきに外にあったのとおなじキーパッドがあった。美沙は秘書室長のIDを使ってドアを開いた。
 秘書室はすでにもぬけの殻で、サイレンだけがけたたましく響いていた。おれたちは無人の室内を通りぬけ「MAYOR‘S ROOM」とのプレートのある重厚な木製ドアの前に来た。
 「この先はわたしも入ったことがないの」ギフテが無線で伝えてきた。「市長室であると同時にマスジットシティ全体を管理するシステムのオペレーションルームになっていて、ギョルが一人で操作しているって話なんだけど」
 キーパッドはない。かわりに黒い光沢のあるボードが横長のドアノブのわきに据えつけてあった。美沙はノブに手をかけたが錠がかかっていた。
 「掌紋認証なのよ」ギフテは無線を通じて強硬手段に訴えることをうながした。
 美沙の視線がおれの腰ベルトに注がれている。
 「ピンを抜けばいいのかな」おれは腹の前にぶらさがる手榴弾を一つ外した。
 「ピンを抜いてドアの下に転がせばいいんじゃないかな」
 美沙は台車をエレベーターのほうへ避難させた。無線からそれ以上の指示は入らない。十メートルほど離れたガラスドアの向こうから美沙がこっちを見ている。誤作動してドカンといかないことを祈りながら、おれはゆっくりとピンを抜き、手榴弾を足もとに置いた。
 転がるようにして美沙のもとまでもどり、それからたっぷり五秒たってから爆発が起こった。爆発音とともに黒煙と火柱がドアを包んだ。炎のせいで室温が急上昇した。頭上から降り注いでいたレベル5の警報音が停止した。衝撃波で回線がいかれたらしい。
 煙をかき分けて台車を押した。ドアがあった場所に四角い穴が開いている。その向こうに急階段が見えた。まっすぐに十メートルほどのびている。
 「このうえに市長室があるっていうのか」
 「市長って老人なんでしょ。バリアフリーの真逆をいってるわ」
 おれたちの素朴な疑問にギフテもナオミも、そしてカッシートも口を閉ざしていた。おなじように首をかしげているようだった。
 「市長室っていうのは名ばかりで、システムルームとして、スーパーコンピューターが並んでいるだけなんじゃないのか。だったらいっそのこと早いとこやっちまったほうがいい」
 おれは美沙をうながし、シールドボックスを二人で抱えた。階段をのぼりきったところに鉄扉があり、こちらは無施錠だった。
 ドアの向こうは、下の階同様、環状の廊下が左右に広がっていたが、窓がなく、水族館のような青白い光が天井から降り注いでいるだけだった。階段側の壁は白色の壁紙がはられているが、市長室とおぼしき部屋がある側の壁はむきだしのコンクリートだった。およそトップの執務室とは思えない。
 おれたちはボックスをカーペットのうえに下ろした。背後でドアが閉じ、静けさが増した。さっきの爆発で警報装置が壊れたのかもしれないが、爆風がこちらにも影響したとは思えない。ことによると線量低下を感知装置がとらえ、警報がとまったのかもしれない。だとすれば警備兵たちが押しよせてくるのも時間の問題だ。
 廊下を右に三メートルほど進んだところにドアがあった。高さ三メートルの天井いっぱいまでの高さがあり、ドアというよりも大型金庫の扉のようだった。把手は潜水艦のハッチを開けるハンドルのような格好をしている。それに手をかけ、力をこめてみたがびくともしない。
 廊下をひと回りしてみたが、ほかにドアらしきものは見あたらない。無線からカッシートの声が聞こえてきた。「手榴弾を使ってみたらどうだろう」
 いわれずともそんなことわかっている。おれはさっきより腹がすわっていた。シールドボックスを安全な場所に移動させ、ためらうことなく手榴弾をドアハンドルの隙間に引っかけ、ピンを抜いた。
 煙も火炎も申しぶんなかった。しかし天井の一部が吹き飛び、カーペットが燃えあがったほかは変化が見あたらない。
 「シェルターだわ」無線から聞こえてきたのはナオミの声だった。「高エネルギー線事故にそなえてシステムをシェルターで覆ったんだわ。いわば石棺社会のなかの石棺というわけね」
 「ギョルはいるのかな」おれはヘルメットから突きだした短いマイクに訊ねた。
 「シェルター自体はどんな線量でも遮断できるはず。だったら彼もわざわざほかの場所に逃げる必要はない。このなかからオペレーションすればいいんだから――」
 そのとき風を切るような鋭い音がした。右の頬にマッチを押しつけられたような鋭い痛みが走る。
 「タッキー! あぶない!」
 うしろにいた美沙が天井を指さしている。
 銃だった。
 それがおれに照準を合わせている。おれはあわてて後退し、美沙もそれにつづいた。銃は一つでなく、ほかにも天井に設置されていた。逃げるおれたちを狙い撃ちしてくる。マシンガンだった。この環状の廊下で逃げられるところいえば、秘書室に通じるあの急階段しかない。が、運悪くおれも美沙も撃ちこまれる弾丸に追いたてられ、たったいまその前を走り抜けてきたばかりだ。たとえ防弾チョッキを身に着けていても踵を返すのは自殺行為だった。
 前方にシールドボックスが見えた。幅八十センチ、高さ五十センチほど。一人ならともかく、二人で身を隠すには狭すぎる。だが四の五のいってる場合じゃない。二人同時にそこへ飛びこんだ。ボックスは高エネルギー線を遮断する素材で作られている。しかし銃弾を跳ね返すようなことまでは期待できない。ただ、おれが期待をかけていたのはちがうことだった。それは美沙もおなじだった。さっき宮殿に接近したさいに迎撃ヘリの襲来を招いたが、結局攻撃は受けなかった。それはデブリの存在を伝えるカッシートの言葉を無線で聞いたからだろう。宮殿に着陸してシールドボックスを開いた途端、サイレンが鳴り響き、銃撃もやんだ。つまりやつらにとってもデブリは核兵器並みに厄介なしろものなのだ。たとえ自分がシェルターのなかにいても、外のシティへの影響は甚大だ。だからデブリが近くにある以上、むやみには撃ってこないのではないか。
 そのとおりだった。
 巨大なドーナツ型の廊下はふたたび静寂に包まれた。手榴弾の炸裂によりこちらも室温が上昇し、秘書室以上にどろっとした空気が漂っていた。が、すくなくとも銃撃はやんでいる。おれは美沙と肩を寄せ合い、アルマジロのように背を丸めながら天井のようすをたしかめた。銃は五メートル右手の天井からこちらを狙っている。左手もおなじだった。つまり二つの銃は、たがいに十メートル離れたところからその中心付近にひそむ不審者に狙いをつけているのだ。
 おれたちは拳銃も持っている。だが天井の銃に狙いをつけるには、楯がわりのシールドボックスから腕をせりださせる必要がある。その瞬間、腕がすっ飛ぶ恐れがあった。進退きわまった。
 「こっちの状況はわかるだろ」おれはマイクにささやいた。「いい方法はないのか」
 返答はなかった。かわりに天井が話しだした。
 ベテランの舞台俳優のような朗々とした、じつに聞き取りやすい声だった。

 三十
 「もう何年前になるかな。高エネルギー線感知装置と警報システムをリニューアルしたんだが、サイレンについては業者が持ちこんだサンプルをそのまま通してしまった。その程度のことでいちいち作業をやり直させるのも酷だろうから、わたしもつい放置してしまった。しかしじっさい聞いてみると、はなはだ耳障りなものだね。しかたないからこのフロアだけはサイレンが鳴らないようにしてあるんだ」
 無線をとおして聞こえるその声に、カッシートやギフテ、そしてナオミまでも固唾を飲んで耳をかたむけていた。彼らは折に触れて耳にすることもあったのだろうが、おれにとってははじめて聞く市長の声だった。
 「だから勘違いしないでほしいのだが、線量レベルが下がっているわけではないのだよ」ギョルは、父親がわが子に森の秘密を聞かせるかのような口調で話した。「レベル5のままだ。しかも線量は上がりつづけている。きみたちが持ちこんだそのおもちゃ箱のふたはきちんと閉まっているように見えるんだが、どこかに亀裂が入ってしまったようだね」
 亀裂だって……。
 ブラフとは思えなかった。ヘリを降りてボックスを台車にのせているとき、近くに二発着弾している。跳弾が突き刺さった可能性は否定できない。いまここで首をのばしていちいちたしかめているひまはないが、デブリがこのまま制御不能となるとシティにとっては由々しき事態だ。
 ギョルの声は天井のスピーカーから流れつづけた。侵入者に興味を抱いたようだった。
 「そこで二つの疑問がわくのだが、まずきみたち、どうして防護服を着ていないのだろう。これだけの線量レベルだ。防護服なしには体が持たないはずだが。それに知ってのとおり、わたしはすべての市民の出生に関与している。クローニングと人口子宮の管理だよ。あれは市営事業なものでね。だからわかるのだが、きみたち二人とも市民データベースに存在しない顔のようだ。まさかアウターの人間が生きていたとは思えないのだがね。
 それで思いあたることがあるんだ。ライフだよ。わたしはこの国の未来を信じているが、前途を悲観する者もいる。そういった者の多くが、ライフの世界に現実逃避して別世界をたのしんでいる。そっちもだんだんと理想社会とはいえなくなっているようだが、それでもライフでは本物の太陽がおがめるし、皮膜コンクリートなんてものも存在しない。それまでなしえなかったことを自分の分身に期待することもできる。だからあれにのめりこんでしまっている者は数知れない。たかがゲームにすぎないのにね。しかし最近、それをめぐって由々しき事態が起きている。ライフ内のキャラクターをこちらの世界に実体化させる動きがあってね。それまで理論的には可能だといわれていたのだが、それを実行した者がいるのだ。そんなことをしたらどうなると思う? せっかく維持されているシティの政情を不安に陥れるだけだろう。だから治安維持法違反でその人間を指名手配してやったよ。
 それともう一つ、あくまで理論上のシミュレーションだが、実体化を行った場合、われわれを悩ませる高エネルギー線の代謝能力が身に着くというのだ。量子レベルでの転写過程で、遺伝子が変容するらしいのだ。それを考えると、きみたちのその格好も理解できるというものだ。指名手配犯に関する防犯カメラの映像を解析したのだが、その連れ合いが、そこのきみ、物憂げな顔をしたおにいさんのほうによく似ている。おねえさんのほうはどういう事情があるのかわからないが、推察するにおなじことじゃないかな。科学者なら興味をかきたてられるところだが、わたしの立場では、ただのテロリストでしかない。だから悪いことはいわないからいますぐ投降すべきだよ。その箱は置いていってくれていい。あとで処理させるから」
 ギョルは沈黙した。決断を迫っているのだ。おれは喉がカラカラだった。美沙も進退窮まっている。甘言にのって、両手をあげて立ちあがった瞬間、左右いずれの銃からも発砲され、ボックスを危険にさらすことなくおれたちは射殺される。防弾チョッキの隙間を狙った正確無比な射撃で。
 「階段にもどるしかない。だけど遠いよな」
 「三メートルはあるわ」階段のドアに目をやり、美沙はささやいた。「一人はドアの向こうに飛びこめるかもしれないけど。二人目は撃たれちゃう」
 「なにか方法はないか」おれはマイクに話しかけた。
 ナオミがこたえた。「シェルターといっても一時的な避難施設であることに変わりないわ。食料はもちろん、自家発電だって限界があるはず。システム維持のためにも、いずれは外部電源につながざるをえない」
 彼女がなにをいいたいかわかった。おれたちに勝負に出ろというのだ。「パンドラの箱を開くしかないのかな」
 「あたしがやります」美沙はボックスのふたを開き、つづけて内ぶたも開放した。そのうえで美沙は声を張りあげる。
 「市長、あなたのいうとおり、わたしたちは高エネルギー線にいくらさらされてもだいじょうぶなの。あなたもそこにいるかぎり影響は受けないみたいだけど、それって未来永劫ってわけじゃないでしょ。このまま高エネルギー線が放出されれば、シティの汚染は広がる一方でしょ。宮殿への送電だってままならなくなるはず。そうしたら――」
 ギョルは静かに反論した。
 「シティを汚染するのはきみたちにとっても本意じゃないだろう。まさかすべての市民を抹殺したうえで、きみたち二人で新たな国家を建設しようなんて思ってはいまい。見たところきみたちは、ゲームのキャラクターにしては理性も知性もありそうだ。だったらなによりいまは分別というものを発揮すべきなんじゃないのかな。すくなくともばかなまねはよしたほうがいい。きみたちに分がないのは自明だと思わないかね。電撃的な襲撃だったが、作戦もここまでだよ」
 美沙は肩を落とした。ギョルははげますようなことをいってきた。
 「レジスタンスの連中は、わたしが独裁者だと思っているようだが、誤解もはなはだしい。どれだけ国民全体のことを考えてわたしが行動していると思っているのだろう。半世紀前の“最後の日”のあと、ビッグ・ギョルはこの地を外部世界から完全に隔離して、新たな街を創造した。世界が高エネルギー線汚染に包まれた責任をいまさら突き詰めたところで、なんのたしにもならない。つねに未来に目を向けねばならないのだ。我々はもはやシティ内でしか生きられないし、生殖機能も失った。人類の行く末を考えるなら、クローニングと人工子宮を駆使して人口計画を市が管理するやり方以外にないと思うんだが、どうだろう。わたしは最善をつくしている。市民の話にももちろん耳をかたむけているつもりだ。だからシティの未来を考えてくれるのはうれしいが、心配無用なのだよ。きみたちの思いはかならずやわたしが実現する。形はともかく、きょうこうしてここを訪ねてきてくれて、わたしも意を新たにした。民主的な市政を実現すると誓うよ。それもこれもきみたちの……」
 耳もとで声がした。カッシートだった。「ドアに飛びつくんだ」
 おれは聞き返した。「なんだって」
 「さっきの階段にもどるんだ。やつは演説に陶酔している。いまがチャンスだ。アイデアを思いついたんだ」
 おれは美沙と顔を見合わせた。「ドアだってよ」
 「行くしかないですよ」またおれか。言い返してやりたかったが、ドアに近いのはおれのほうだった。「一か八かやるしかないわ」
 「まいったな」
 おれは脚に力をこめて右方向にジャンプした。ノブにはすぐに飛びつくことができた。だがドアを押し開け、体半分、階段側に押しこんだとき、スーパーヘビー級のボクサーにストレートパンチを食らったような衝撃が左胸、ちょうど心臓の真上に起こった。
 撃たれたのだ。
 息がとまり、おれは階段を転落していった。
 正気づいたとき、最初に目に入ったのは秘書室の天井だった。三途の川のほとりでなくてほっとした。防弾チョッキの左胸のところに黒い穴が開いていた。胸にズキズキする痛みが残っている。
 「だいじょうぶか」カッシートがしゃがれ声で聞いてきた。
 「なんとかね。で、どうすればいい」
 「急いで行動してほしい。シールドボックスに亀裂が入っているのが気になるんだ。亀裂によってボックス内の温度があがれば反応抑制ジェルはとけてしまう。それにより漏えい線量が激増する。緊急事態だ。さっきのエレベーターまでもどってくれ。非常階段があるはずだ」
 非常階段――。
 おれがこっちの世界にやって来たのも、そこが入り口だった。正直、たとえゲームの世界でもいいから、もうそろそろそっちにもどりたかった。仕事も家庭もぎくしゃくしたままだが、すくなくとも命の危険にさらされるわけじゃない。原発の危険性は相変わらずだが、社会の片すみで静かに暮らすことはできるはずだ。
 「それを使って四階ぶんあがってくれるか。十三階だ。宮殿から逃げだす連中のなかに、副市長を見つけたんだ。いろいろしゃべってもらったよ。ギョルのシェルターには、緊急用の出入り口があるらしい」
 おれは非常階段に躍りこみ、一気に十三階まであがった。もちろん途中のどのフロアにも渋谷にもどるトンネルなんてありはしない。悔しさをおぼえながらドアを押し開けると、黄金色に輝く世界が広がっていた。ドーム部分の内側で、外の明かりが透けているのだ。だだっ広い屋根裏部屋のような場所で、床から天井の最も高いところまで二十メートル近くある。そこに向かって電柱のようなものが一本のびており、外に突き抜けている。そのようすをヘルメットに装着したカメラの映像で見ていたカッシートが説明する。「シティ全体に情報を行き届かせる送出アンテナだ。十三階はそれのメンテナンスフロアになっている」
 送出アンテナの根本には、高さ二メートルほどの箱状の機械が何台か並び、赤や緑色のランプが点灯している。
 「機械の裏にまわってくれ」それにしたがって反対側に進む。高さ一メートルほどの鉄柵で囲まれている場所があった。直径は二メートルあまり。らせん階段が下りている。
 「その下だ」
 二メートルほど下ったところで階段が終わり、床に車のハンドルのようなものが突きだしていた。その下に直径一メートルのハッチのようなものがあるが、鍵穴はどこにもない。ためしにハンドルをつかんで力をこめてみた。限界まで力がかかったそのとき、するりと回転し、あとは最後までたやすく回すことができた。おれはハンドルをつかんでハッチを開けにかかった。ひどく重かったがなんとか開けることができた。
 円柱状の薄暗い空間が出現した。梯子があり、さらに二メートルほど下にべつのハッチが見えた。おれはそこまで下りていき、しゃがみこんで目を凝らした。さっきのようなハンドルはないが、キーパッドがあった。
 「これが緊急用の出入り口か。シェルターの天井あたりかな」
 「おそらくそうだろう。銃はあるんだよな」
 おれはカッシートから渡された自動式拳銃を腰のホルスターに差したままだった。まだ一度も発砲していない。「ちゃんと持ってるさ。だけど向こうだって武装してるんだろうし、何人いるかわからないんだろ」
 「ギョル一人らしい」
 「一つ聞いておくが、当初の計画ではギョルはほかの連中といっしょに避難するとの想定だったよな。だがいまは市長さんが一人で籠城しているわけだ。やつが抵抗したらどうしたらいい? ライフの世界でもおれは人を殺したことはないんだが」
 「きみがいなくなったんでギョルも不審に思っているだろうし、当然ながら緊急ハッチのことはわかっているはずだ。ハッチを開けたら、目の前で銃を構えているなんてこともあるかもしれない。だがとにかくシェルターの入り口をなかから開けて、美沙さんからシールドボックスを受け取ることが先決だ」
 シェルター内にデブリを収容することで、逆に外部漏出を防ごうというのだ。
 「副市長によると、シェルター内の扉のわきに長さ三十センチほどの赤いレバーがあるらしい、非常用の強制開錠コックだ。それを下げれば、自動的に扉が開く仕組みだ」
 「信用していいのか。いずれにしろ銃撃戦は必至ってことだな。だがシェルターにデブリを入れたとして、高エネルギー線はなかのシステムに影響しないのか」
 「メインシステムがダウンしたら、べつの場所にあるサブシステムがバックアップで起動する。心配はいらない」
 本当にそうだろうか。おれは一抹の不安をおぼえながらハッチの把手に手をかけた。だが予想したとおりロックされている。「キーパッドがあるってことは、ここに開錠コードを打ちこまないといけないんじゃないか」
 「それも副市長が教えてくれたよ」
 「寝返ったのか」
 「ハッチの開け方を教えたら、ヘリで安全な場所まで乗せていってやるって持ちかけたんだ。道路は避難民の車で大渋滞だからな。ただ、やつのいったことが本当かどうかはわからん」
 「やってみるしかないな」
 「十三桁の数字だ」
 おれはカッシートが告げる数字を一つ一つ慎重にキーパッドに打ちこんでいった。そして最後の数字を打ち終えたとき、バスのエアブレーキから空気が抜けるような音がしてハッチが開いた。
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