十六~十八

文字数 17,169文字

 十六
 「本物の太陽はどこに……」
 アブラヤシの林に目をすがめながら、おれはつぶやいた。
 「アウターにいけばいつだって拝めるわ」
 「ドームに覆われているなんて……そんなばかな……」
 「悲しい現実よ。だけどそれによって生きながらえているのも事実だから。チェルノブイリやフクシマの逆よ。汚染源を石棺で覆うんじゃないの。汚染物質が侵入しないように石棺もどきのドームで自分たちの社会を守っているのよ」
 「七十億人か」気が遠くなりそうだった。「そのほとんどが死んだなんて」
 「いまさらしょうがないわ。“最後の日”を知らない子どもも増えているし、運命だったのよ。だから世界の新生を祈って、国の名前もマスジスタンからマスジットシティに変更したの。ビッグ・ギョルは専制君主だったけど、新たな第一歩を踏みだしたいっていう気持ちは“最後の日”のあとに生まれたわたしにもなんとなく理解できるわ」
 「ドームの外……アウターはどうなってるんだ」それを口にしておれは自らを嘲った。こんなところでジャーナリスト魂をよみがえらせてどうなる。
 「太陽光発電パネルが延々と広がっている。それを管理するプラットホームも末端基地まで合わせると八十か所ぐらいできている。たくさんの人が働いているわ。もちろん防護服に身を包んで、毎日、線量におびえながらね」
 「世界だよ。もとの世界の大地はどうなっているんだ」
 「皮膜コンクリートが妨害しているから、ドーム内とは無線通信ができない。有線回線を使って当局の人間が細々と最低限の連絡を取り合っているだけ。けど“最後の日”から五十年以上たっているのよ。死体にウジがわいているなんてことはもうないわ。このところの気候変動で砂漠化が進んでいてね。散乱していた人骨のたぐいも砂に埋もれだしている。だけど高エネルギー線量はあいかわらず。あと五十万年はだめ。防護服なしには生きられないし、メルトダウンした高エネルギー発電所の周辺は、防護服を着ていたって近づけないレベルよ」
 「ドームのなかはそれまでと変わらないっていうのかい」
 「そんなことはないわ。この五十年でいろいろとムリが生じて……軍事独裁国家化が進んだのはまちがいない。それもこれも自然の摂理に反する方法で暮らさざるをえないかららだと思う。ドームに亀裂が入ったら、わたしたちおしまいだもの」
 「科学だけは発達しているのか」彼女が手にするサングラスを見つめる。「妙なゲームまで作りだして」
 「この世界がいつまでつづくかだれにもわからない。怖くて想像もできないくらい。だったらたとえ夢でもいいから別世界に身を置きたい。それってかならずしも不健全とはいえないと思うわ。滝口くんだって、逃避願望は強かったんじゃないの?」
 ライフでのおれの思考をすべてお見通しのくせにナオミはいやみのように口にした。
 「レベルがちがいすぎるよ」滝口智郎なるゲーム・キャラクターの悩みなんて、せいぜいキャスターをクビになったこととか女房の不審行動とかいう程度だ。あすにもこの世の終わりがやって来るなんていう終末観とは縁遠い。
 「たしかにね。ライフは本当にすてきな世界。根本的にいまの現実とちがう。わたしたちの理想がふくまれているわ。たいせつに守らないと」
 「だけど現実の映し鏡なんだろ、ライフは」
 「そういうところもあるけど、まだまだ希望があるし、なにより……ほら、奥さんとか加奈ちゃんがいるじゃない」
 とってつけたようなことをナオミが口にしたとき、林のなかからティレルたちが姿をあらわした。体じゅうに葉っぱと泥をつけている。崖をのぼってきたようだ。
 「線路のほうは無警戒だ。やつらの姿は見あたらない。それも時間の問題だ。早く動いたほうがいい。このまま林をまっすぐおりればいい。急な崖がつづくから気をつけて」ティレルは紙袋を差しだしてきた。なかにペットボトルのような容器に入れた一リットルほどの飲み水と、ピタパンのようなものに焼いた肉をはさんだものがいくつか入っている。
 「そうだ」ジャメは太った上半身を運転席に突っこみ、なにかつかみだした。「持っていくといい」小型の懐中電灯だった。電源をオンにすると青白い光が荷台を照らした。
 「条件があるんだ」思いつめた顔でティレルがナオミにいう。
 「お金なら心配しないで。トンネルを抜けたらちゃんと払うから」
 「そうじゃない。これを渡してほしいんだ」ティレルは三センチ四方の消しゴムのようなものを手にしていた。
 「メモリーチップ?」
 ナオミが口にするとティレルはうなずき、手にしたものを上下にねじった。消しゴムのようなものは二つに分かれ、片方に黒い小片がささっていた。
 「アウターに父親がいるんだ。もう二十年になるかな。これにおれの生まれてからの記録がすべて詰まっている。渡してきてくれないか。いつかだれかに頼もうとずっと思っていたんだ。あんたに頼むしかもうチャンスがないかもしれない。おやじももう年だし」
 「もしかしてあなた――」
 「あぁ、そうだよ」ティレルはそれまでとは一変して悲しげな顔をした。「生まれてこのかた一度も親父に会ったことがないんだ」
 「しかたないわね。だけどどうやって探すの? プラットホームは八十もあるのよ」
 「第三プラットホーム勤務ってことはわかってる。帰還者から聞いたんだ。外部パネルのメンテナンス班でリーダーをしているらしい」
 「外部パネルのメンテナンス……ってことは、外に出る仕事ね」
 「あぁ、そうだよ。いちばん危険な作業さ」
 「移動はヘリね」
 「そう聞いてる。広いからね。でもどうして?」
 「いえ……」ナオミは話を変えるようにやさしくいった。「おとうさま、元気だといいわね」
 「渡してくれるかい!」ティレルの顔がぱっと明るくなる。「メンテ班の集合写真があるんだ」ティレルは自分のタブレット端末を助手席から持ちだしてきて、赤外線送信でナオミのタブレットに写真を送った。
 ナオミが開いたその写真を見ておれは目を見張った。
 ティレルが父親だという人物は、食堂のような場所のテーブルに他の五人とともについていた。左端にいるのが父親らしい。それにしてもそっくりだ。年齢差はあるものの、瓜二つだった。いくら親子でもここまで似ているとは。しかしナオミは写真の男を見ても驚かない。唇をかみしめ、じっと見つめている。
 「わかったわ」メモリーチップを受け取り、トートバッグのサイドポケットにしまった。「名前はなんていうの」
 「サグルート・ミマス」
 ナオミは紙きれを取りだし、その名を記した。「おとうさまのことはまかせて。第三プラットホームならタパンから上がっていくルートからそう遠くないと思う」
 「ありがとう。こんなにうれしい日はないよ。かならずトンネルの向こうで待ってるから。そこからなら送電用ジャンクションのあるハイランドにもむしろ近い。車で一時間ぐらいじゃないか」
 「滝口くん、行こう」ナオミはティレルから紙袋を受け取り、おれに渡した。
 紙袋をこわきにかかえ、おれはナオミのあとについてアブラヤシの林に分け入った。百メートルほど急な崖を下りたところで、ティレルがいったとおり単線の線路に出た。もう何年も使っていないらしく、鋼全体が赤さびに覆われていた。
 「ティレル本人の写真かと思ったよ」
 ナオミの背中に向かっていうと、振り向きもせずに彼女がこたえた。「クローンだから」
 おれの足とまる。
 「クローン……?」
 「そうよ。クローン人間。ライフじゃ、まだ禁じられているみたいだけど」
 「どういうこと」さっきまで話していた男の顔が頭をよぎる。
 「これも汚染の影響なの。“最後の日”以来、わたしたちの暮らしだけじゃなくて、体そのものも変わってしまった」まるで他人事のようにナオミはいった。「高エネルギー線を浴びすぎてね、男も女も生殖細胞がダメになったの。子どもを生めない体になったってことよ。だけどそのままだと社会は滅びてしまうから、しかたなしにクローニングしていくことになったの。母体は子宮自体も変異してしまったから、人工子宮も作られることになった」
 「人工子宮?」
 「難しい話じゃないわ。ただの水槽よ。羊水がわりの栄養液にクローン細胞をつけるだけ。わたしもそうよ」
 削岩機を耳の穴に突きたてられたかのような衝撃を受けた。なによりそれによる動揺をひた隠しにせねばならないのが苦しかった。同期の柄本が秘書室長になることをおなじ同期の中村からさらりと告げられたときよりも、自己制御は困難だった。
 それでもナオミはあえて話してくれた。「三十七年前に母親の体細胞から生まれたの。生殖がないから、女は母親から、男は父親から、それぞれ作りだされる。生まれた子どもに生殖細胞があればいいんだけど、遺伝子がやられているから、体細胞クローニングでも再生されないのよ」ナオミは一枚の写真をバッグから取りだした。年齢はナオミよりも上のようだったが、顔かたちはそっくりだった。「母よ。南部の町で一人で暮らしているわ。最近はひざが悪くて、あまり出歩かなくなったけど、なんとかやってる」
 おれは言葉もなかった。
 ナオミがぽつりと言う。「セックスっていいわよね。男女が愛し合って、その結果として子孫ができる。うぅん、逆か。子孫を残すために愛し合って快楽にふけるように遺伝子によってプログラムされていたってことか。だから生殖細胞が失われたわたしたちには、もはや男と女がそれまでのように愛し合うってことがないの」
 「それは感情的な面でも?」
 にやりとしてナオミが訊ね返してきた。「ヤリたい気持ちが起きないかどうかってこと?」
 「いや、まぁ……」
 「滝口くん、わたしとヤリたくて、ヤリたくてしょうがなかったものね。だけどその意味ではたしかにそう。セックスしたいって感情、つまり性欲ってものが消え失せてるわ。男も女も。だからライフにあこがれるんじゃないかしら」
 ここまで話してもらったら聞かないわけにもいくまい。「ぼくのことぜんぶ見ていたんだよね。つまりその――」
 「性生活……?」
 首筋がかっと熱くなった。だがナオミはてれもせずに話してくれた。
 「あなたがライフに登場してから三か月、奥さんはもちろん、だれともセックスしていないでしょ、滝口くん」
 事実だった。妻とはとうにセックスレスだし、妄想のなかではしょっちゅう不倫を思い描いていたが、そんなのずいぶんとごぶさただ。すくなくともこの三か月ではゼロ。それ以前となると、ナオミが設定した作られた記憶にすぎない。残念ながら。
 「そこまで設定したつもりはないんだけど、どうやら滝口くん、その年齢にしては妄想が強すぎるみたいね。見ているほうがなんだかへんな気持ちにさせられることもあったわ。でもライフの男性って、みんなそうみたいじゃない。とにかく発散したいのね」
 激しい羞恥心に襲われた。だが“発散”の欲求がない世界なんて想像できない。「たった五十年なんだろ。その程度で人間の根源的な本能が失われるものなのか」
 「いまの五十歳以上の人間は、セックスの産物として生まれたの。人口の二〇%ぐらいかな。だけど“最後の日”に生殖細胞が破壊されたのはほかの人たちと変わらない。だからおよそ性欲なんてものは、この世から駆逐されたのよ。でも愛情は残っているわ。もちろんプラトニックなものだけど。いっしょに暮らしている男女もすくなくない」
 夕刻が近づいた熱帯雨林を貫く線路のずっと向こうにトンネルが口を開けているのが見えた。人影はない。が、ゆったりと歩いているわけにはいかない。先を行くナオミはいつしか速足になっていた。そこではたと足をとめ、ナオミは振り向いた。「もちろん親子の情愛はべつ。たとえクローンでも親子は親子よ」
 「娘さんがいるんだよね。十八歳だっけ。それできみはたしか――」
 「セクハラっていわれるわよ。女性に年のことを聞くと。三十七歳になった。だからわたしが十九歳のときにクローニングした子なの」
 「十九歳っていえば、ぼくは浪人中だ。きみに恋焦がれて苦しみながら予備校に通っていたころだ」
 「わたしがプログラムした記憶ではそうなってるわね。だけどこっちの世界じゃ、クローニングは二十歳前後に行うのがいちばん事故がすくないってことになっているの」
 「ひとりで決められるんだね。家族計画に関する夫婦の話し合いはいらないんだ」
 「すくなくとも“できちゃった”なんてこととは無縁よね。だけどわたしたち、そういう暮らしにどこかあこがれている。だからライフなんてものを作りだして没頭するんだわ」
 トンネルが近づいてきた。
 入り口の周囲は丈の高い草が生い茂り、それがそよ風に揺れるさまはまるで巨大な緑色のライオンがたてがみをそよがせているようだった。高さは八メートルほど。幅もおなじくらいある。さらに近づいてわかったが、天井にはコウモリとおぼしき生きものがびっしりとぶら下がっていた。
 ナオミはトートバッグからタブレット端末を取りだし、電源を投入した。
 「通信環境につないでもだいじょうぶかな。逆探知されるんじゃないか」
 「だいじょうぶ。ジャミングソフト入れてるから」
 「相手は警察とか軍なんだろ」
 「わたしを見くびらないで。市販のだと、解析されちゃうけど、自前のジャミングソフトなの。心配いらないわ」彼女は地図を表示させた。「現在地はタパンの南南東十キロってところかしら」
 「行きたいのはそこじゃないんだろ」
 「そこから東に山道を延々上ったところに広がるハイランド。その奥に送電用ジャンクションがあるの」
 「そこからアウターに出るのかい。危険なんだろ」
 「ハイランドの送電ジャンクションには、以前行ったことがあるの。なかに入ってしまえば、防護服のありかもわかるわ」
 「いったいなにをしに行くんだい。わざわざぼくをゲームのなかから呼びだして、二人きりになりたいだけなら、なにもそんな場所まで行くこともないだろう」
 「ふふ、ある意味、デートみたいなものよ。どうしても滝口くんと行きたいの」
 「じつにありがたいね。神さまに感謝するよ。でもこのぼくを作りだしたのがなおみちゃんだっていうなら、どこへだってついていくさ。ご主人さま、女王さまみたいなものだろ」
 「女王さまじゃ、ちょっと老けてる感じでいやだな。せめて王女さまにしてよ」
 「はいはい」
 たとえこれが異常な夢でも、おれは幸福を味わっていた。どんなふうにして生みだされたかはともかく、おれの心のなかにいるのは尚美、谷本尚美でしかない。長い間恋焦がれてきた、あこがれの女なのだ。その彼女といっしょにいられるなら、どこへでも飛びこむ覚悟があったし、ぎくしゃくしはじめた妻のことなど、もはや念頭になかった。
 考えてみろ。
 おれはそもそも尚美と結ばれることを願っていたのだ。玲子との結婚なんて、紆余曲折の末の成り行きにすぎない。
 トンネルに足を踏み入れるなり、むっとする熱気がいや増した。おれはナオミの前に出て懐中電灯をともした。
 「二キロぐらいだっけ」
 「そういってたわ」
 「洞窟みたいだな。妙な連中に出会わないといいんだけど」そういいながらおれは最初の一歩を踏みだした。
 「滝口くん、マレーシアに出張行ったとき、道端でオオトカゲに遭遇したのよね」
 「よくおぼえてるね。毒蛇とか毒グモもいるって話だった。それにでかいムカデとかゴキブリ」
 「ここも変わらないわ。原始的な生きものであればあるほど、高エネルギー線の影響受けていないから」
 「だと思ったよ」右足がカブトムシ大の甲虫を踏みつけ、ぐちゃっという生々しい感触がひざのあたりまで這いのぼってきた。「急いだほうがよさそうだね。その手の連中は苦手だから」
 トンネルはゆるやかに左にカーブした。出口らしき明かりは見えない。湿度が急激に上昇するなか、おれは懐中電灯を揺らしながらできるだけ線路の枕木に足をつくようつとめ、先を急いだ。
 「つまりライフは喪失感を慰撫するためのものなのかな」唐突におれは訊ねてみた。
 ナオミはしばらく考えてから口にした。「恋愛、セックス、それに生きる希望……そういった人間らしい一面をプログラムによって実現している。だから結果的につらい現実を慰撫する側面があることは否定できないわ。でも滝口くんの前でいうのはなんだけど――」
 「いまさらなにを聞かされても驚かないさ」むしろその手の話を聞いていたほうが、目前の恐怖、つまり暗闇に棲息する気色の悪い連中の巣に足を突っこんだり、顔や首筋に襲撃を受けるなんていう悲劇を想像しないですむ。
 「所詮はゲームよ。いわゆる“特権階級”にある中級以上の公務員たちがひそやかに愉しむ遊びにすぎないわ」
 「その“特権階級”って、どのくらいの人たちのことなんだろう」
 「マスジットシティは、ギョルを中心とする軍事独裁国家。だからほとんどの人が公務員なんだけど、そのなかでも管理職以上ってことかしら。ギョルに絶対的な忠誠を誓って、言いなりになっている人たちのことよ。わたしもそのなかの一人なんだけどね」
 「そうでない庶民とかギョルに反抗的な連中には、手の出ない高級な遊びがライフなのか」
 「プレーヤーは一千万人ぐらい、人口の一〇%ぐらいかな」
 「クローニングもカネがかかるんじゃないか」
 「もちろんそうよ」
 「さっき水上市場にいたような人たちは、どう見ても暮らしにゆとりがあるようには見えなかった。それにティレルたちだって――」
 「子どもを持つことはできるわ」
 「二十歳前後が適齢期なんじゃないのか。そんなに若いんじゃ満足に稼げないだろう。それともその親が資金を工面するのかな」
 「方法があるのよ。逆にいうなら、若いからできることもある」
 もう五百メートル近く進んでおり、トンネルのカーブのせいもあって、入り口から漏れ入ってきていた明かりは完全に失われていた。ここで懐中電灯が切れたらどうなることか。すぐ先の闇のなからこちらのようすをうかがう無数の感覚器官のことを思うと、喉がしめつけられた。
 「ティレルの父親もそうだったのよ」
 「まさか……」
 「そうなの。お金がない人が子孫を残すには、アウターでの発電作業に従事しないといけないの。その見返りとして出発前にクローニングが許される」おれのすぐあとについてきながらナオミが説明した。「アウターで何年間、仕事に従事するかはその人が支払える資金によるの。だからお金が足りない人はそれだけ長く働かないといけない。長い人だとティレルの父親のように二十年におよぶときもある。だから年季明けの時点でなく、お国のために奉公に出る前にクローニングをすませておくのよ」
 「仕事という名の強制労働か。アウターにそんなに長くいてだいじょうぶなのかい。つまり健康上のことだけど」
 「いいわけないわ。プラットホームの外に出るときは、防護服を着ないといけないし、プラットホームのなかだって、除染薬を飲みつづけないといけない。だけどお金がない人たちには、それしか方法がないの。みんな納得づくの話よ」
 「社会保障制度の問題だな」
 「そんなものあるわけないじゃない。ギョルが牛耳っているのよ」
 「ライフのほうが表面的には立派な社会ってことか」
 「表面的にはそうかもね。人権意識もまだ崩れていないし」
 「ぼくなら逃げだすな。さきにクローニングしてくれるんだろ。だったらアウターに出たあと、ころあいを見て脱走するけどな」
 「処刑されるわ」

 十七
 さらに奥まで進んだところで水が流れる音が聞こえてきた。地下水脈があるのだろう。湿度は一〇〇%近い。トンネルの壁も天井も濡れている。それにしてもコウモリの糞らしき悪臭に吐き気を催す。ナオミは早々にハンカチで鼻と口を覆っていた。おれはその前に立ち、懐中電灯の明かりをたよりにごつごつした枕木を一歩ずつ踏みしめながら前進をつづけた。天井からは始終、大粒の水滴が落下してくるようになっているが、さいわいにも懐中電灯には防水加工がほどこしてあるようだった。
 「生きにくい世のなかという点では、ぼくたちが活動するライフもおなじだと思うけど」
 「そんなことないわ。雲泥の差よ。ライフにはまだ希望がある」
 「希望ねぇ……会社じゃ左遷の憂き目、家庭は崩壊の危機。どこに希望があるんだろう。三か月前、ぼくのキャラクターを作ったっていったよね。なんでこんなふがいない男に仕立てあげたんだろうな」おれは口をとがらせた。流れる水の音がだんだんと大きくなっていく。足もとに川が流れているかのようだった。
 「幸せな家庭を思い描いたつもりだったんだけどな。でもさっきもいったけど、ライフはほかのプレーヤーがどんなキャラを投入してくるかで影響を受けて、全体の設定が目まぐるしく変わっていくの。そのときは順風満帆でも、すぐに奈落の底に落とされることだってあるわ」
 「まさに『LIFE』人生ゲームだな」
 「あなたには幸せになってほしかった。いい奥さんとかわいい娘さんに囲まれて」
 「それを願いたくなるようなつらい出来事があったんだね」
 懐中電灯を持っていないほうの手を、ナオミがうしろからそっと握ってきた。「ギフテに会ったら、あなた、あの子に心を奪われてしまうんじゃないかしら」
 「娘さんのことかい」
 「あなたの潜在意識に植えつけてあるわたしは三十七歳の姿だけど、あの子はそれよりずっと若くて輝いている」
 「クローンも年齢差まではどうしようもないんだね。写真あるんだろ。見せてよ」おれは前進をつづけながら聞いた。
 「トンネルを出てからね。こんなところで足をとめられたら困るもの」
 「学生さんとかなの? それとも社会人?」
 「去年の四月から働いているの。秘書をしているわ」
 「秘書……やっぱり美人なんだな。社長秘書とか?」
 「ギョルの秘書よ」吐き捨てるようにナオミはいった。
 「驚いたな。ギョルってのは、首相だっけか?」
 「それは“最後の日”の前まで。しかも先代のビッグ・ギョルの話よ。二代目のギョルはただの市長。マスジットシティだからたしかにそのとおりでしょ。だけど実態は国王とおなじ絶対権力者よ」
 「その秘書になれるなんて、すごいじゃないか」
 「人質よ。ライフに関しては、わたしが一番の研究者だから、どうしても自分の側につけておきたかったのよ。それで無理やり――」
 「宮殿に引きずりこんだってわけかい」
 「あの子もせっかくわたしとおなじ研究者の道を歩みはじめたところだったのに」
 「たまに帰って来たりはするの?」
 「行ったきりよ。電話はしてたんだけど……一月にちょっとした事件が宮殿で起きてね」
 「事件?」
 「レジスタンスが乱入してきたの。それで二十三人が亡くなったんだけど、そのうちの一人がギフテだったのよ。遺体はもう……めちゃめちゃで――」
 足は自然ととまっていた。いつしか足元は泥沼のようになり、革靴はほぼ埋まっている。おれは振り向きざまにナオミを抱きしめた。「なんてことだ……」
 「遺体はほかの人たちといっしょに火葬されて埋められてしまった。帰ってきたのはわずかな私物とギョルからの悔やみのメッセージだけ。納得できないから、いろんな人に聞き歩いたんだけど、どうやら本当らしかった。カッシートというレジスタンスの首領が秘書室にまで入ってきて、銃を乱射したらしいの。ギフテはそこにいた」
 「一月か……」
 「こんな形で娘を失うなんて思わなかった」
 たとえクローンでも愛情は変わらないはずだ。おれは加奈のことを思い、胸がしめつけられた。あいつはいまどうしている。子どものころは、ちょっと外に遊びに行っただけで、なにかあるんじゃないかと気が気でなかった。まして殺されるなんて――。
 「二月六日の夜だったわ。新しい家族を作ろうって衝動的にキャラ設定の走り書きをはじめてね。六時間で設定したのよ」
 「それって――」
 「滝口くんと奥さんと加奈ちゃん」
 言葉がでなかった。おれたち家族は、ナオミの悲しみの果てに生みだされたのだ。
 「わたしの希望のすべて。平凡だけど幸せな家庭――」
 華奢な肩を抱きしめ、キスをした。
 創造主である彼女への感謝をこめて。
 長く恍惚とした口づけのあと、耳もとでささやく。
 「きみの心の傷を癒すことなんてできたのかな。恥ずかしいよ。最近はすべてがぎくしゃくしていたから」
 「ライフはキャラを設定して場に投入するときがいちばんわくわくするし、しあわせなものよ。その瞬間は一枚の絵のように永遠の幸福が輝いている。だけどひとたびゲームが始まったら、いろんな荒波が襲ってくる。キャスターを降板させられるなんて思いもしなかった。だからハラハラしどおしだったわ。公私ともに悩んでいるようだったから」
 「ぜんぶお見通しだったなんてね」
 「いつのまにかわたし、奥さんにジェラシーを感じるようになっていた」
 「まさか」
 「本当よ。キャラクターに極度に感情移入する人はすくなくないの」
 「きみは自分で設定したんだからわかってると思うけど、ぼくはずっときみのことが頭から離れなかった。だけどそれって、きみのそういう気持ちの変化も影響しているのかな」
 「だと思うわ。だってわたし、あなたに恋してしまったんだもの」
 おれは懐中電灯のやわらかな明かりのなかで彼女の目を見つめた。作られた記憶のなかでおれは彼女に恋してきた。恋をするように仕向けられたのだろうか。いや、それはライフのキャラとしてのおれ、滝口智郎自身の感情の発露であったはずだ。そう信じたいし、信じるほかないだろう。作られた自我であるかどうかなんて、ちがう親から生まれたら人生がどう変わっただろうと考えるのとおなじぐらいばかげている。
 もう一度キスをした。
 最悪の居心地の場所で、舌を吸い、むさぼりあった。いつのまにか顔じゅうなめあうような感じになっていた。
 まるで犬だ。
 だが数時間前まで虚像にすぎなかったおれにとっては、痛いくらい鮮烈な瞬間のくりかえしだった。いまこのとき、現実世界に産み落とされた。その悦びにいつしかおれはむせび泣いていた。
 「会いたかったんだ……いつかもう一度って……いや……」
 「会うのははじめてよ」
 「そうだね。だけど――」
 「運命よ」
 「かもしれない。こっちと向こうの世界でつながっていたんだ」
 「そうよ……量子の世界では……なにもかもがつながっている」
 「そして対になっているものは反応する……ひかれあう――」
 「だから運命なの」
 ナオミがはっと正気づいたように身をはなす。
 「会いたい気持ちが高じて、わたしは罪を犯してしまった。パトスを撒いたの」
 「パトス……?」
 「ライフでいうところのコンピューターウイルス。ライフのなかのキャラクターを実体化させるうえでの麻酔薬のようなものなの。それを撒けば、プレイヤーがキャラを呼びだせるようになる。うぅん、もちろんだれにでも呼びだせるわけじゃないけど、実体化にはパトスの散布が前提になるの」
 懐中電灯を握りなおし、ふたたびトンネルの出口に向かって歩きだしながら訊ねた。「それで追われているのかい」
 「そう」おれの手を握りしめ、ナオミはおれに並んで歩いた。「ライフのキャラを実体化させる手法を開発したのはわたしなんだけど、それはあくまで理論上の話。だけど市長であるギョルは、マスジットシティの治安を揺るがすおそれがあるとして、それを実行することを禁じて、その前処理であるパトスの使用を治安維持法違反行為にくわえたの」
 「なぜなんだ。ぼくのような虚像人間になにができるっていうんだ」
 「いまは立派な人間よ。仮想空間であるライフが現実界とつながれば、多くの人がわたしとおなじようなことをしはじめるでしょ。そんなことをしたら、危険人物が大量に流入してきて、手に負えなくなるのは火を見るより明らか。ギョルがキャラの実体化を禁じるのは当然よ」
 「実体化にはそのパトスってやつを撒くことが前提なのかい」
 「そう」
 「それが使われたかどうかって、すぐにわかるのかい」
 「宮殿内にイミトゥレイ社の本部があるんだけど、そこにライフの監視センターがあってね。散布されてから二、三日で検出されるわ。それで警報が鳴る仕組みなの」
 「じゃあ、さっきぼくがこっちの世界にあらわれたときに撃たれたのは、警報を受けて動きだしたってことだったの? 警察が」
 「軍よ。ちょうどわたしがあなたの実体化に踏みきったときだった」
 「逃げる間もなかった。すごい態勢だったよね」
 「治安維持に関しては、ギョルも必死だから」
 「はじめてなのかい、パトスが撒かれて警報が出たのは」
 「一か月ぐらい前に一度発令されたけど、あれは事故だった。システムエラーが重なってパトスが広がってしまったの。だけどライフのキャラが出現したわけではなかった。故意にパトスが撒かれて、キャラが実体化されたのは今回がはじめてよ」
 「ある意味、ぼくとしても人生を変えたいと思っていたタイミングだったんだ。パトスは麻酔みたいなものっていってたよね。たしかにあのとき、思考が混濁していたような気もする。いろんな出来事が重なってしまって、どこかに逃げだしたかった」
 「あの非常階段は、あなたにとってのたいせつな避難所だったのよね」
 「そうだね。なんだか気持ちがすっきりするというか……それだけ疲れていたってことだけど――」
 「そこなのよ」
 「え……?」
 ナオミは隣に並び、強く手を握りなおしてきた。足元の水音がさらに高まっている。いま歩いている線路が濁流にかかる吊り橋のように感じられた。「絶望感……てゆうか、現実から気持ちが遊離する瞬間、それが別世界に転写されるうえでの必須条件なの」
 「なんだか死を受け入れる瞬間みたいだな」
 「そこまで大げさじゃないと思うけど。でもそういう心理状態ともいえるわね」
 「きみはそれをウォッチしていたの」
 「どこで最高潮になるかずっと見ていたわ。チェックするインジケーターがあるのよ」
 「 “見張って”いたんだろ」
 闇のなかでナオミは肩をすくめた。「ほんとなら、アウターに逃げて、身の安全を確保してからパトスを撒くべきだった。だけどわたしが危険行動に出るおそれがあるって、ギョルが気づいてしまったのよ。それで警戒されるようになっていた。自宅も職場も、公安警察と軍にずっと監視されていたの」
 「どうしてきみがなにかやらかしそうだってわかったんだろう」
 「開発者であるわたし自身がライフに入れこんで、あなたに恋心を抱くようになった。それがバレたのよ」
 「もしかしてだれかに話したのかい、ぼくのことを」
 「研究所の同僚の何人かにね」
 こんな状況下であったが、おれは吹きだしそうになった。「ライフとおんなじだな。てゆうか、そもそもライフは現実界の映し鏡だもんな。浮いた話って、つい人に話したくなるんだな」
 ナオミはひじでおれのわき腹を突いてきた。「なにその言い方、人の気も知らないで」
 「ちがうよ。うれしいんだ。ぼくはずっときみに会いたかった。それはきみ自身がぼくのことを思っていてくれたからなんだろ。だからすべては運命、変えようのない絆だったんだね」
 「だけど人にいうべきじゃなかったわ。反省してる。仕事を休んでパトスを撒いてから、ずっとあなたのことを観察していたの。実体化させるタイミングを見計らっていたのよ」
 「きみはうちの会社の七階と八階の間のもう一つの七階、中七階とも言うべき場所にあらわれた」
 「パトスが効いたのよ。あなたのなかでわたしへの思いが高まって、同時に絶望感も増していった。そしてその“中七階”はあなたにとって特別な場所になっていった。だから実体化させるならそこでやるしかないと思ったの。アウターまで移動している時間もなかったし、そろそろパトス警報が流れるころだったから、やるならきょうしかなかった」
 「あそこはどこだったんだい」
 「非常階段は非常階段でも、うちのマンションの二つ下のフロアの階段よ」
 「きみのマンションだったのか。あのレトロな感じの建物」
 「海が近いし、ギフテが気にいっていたの。ライフでいうならマレー半島のプラナカン建築に似てるでしょ」
 「すてきな感じだったね。ゆっくり写真を撮ってるひまはなかったけど」
 「部屋であなたを観察していたんだけど、そこでパトス警報が発令されてね。ちょうどあなたが非常階段をのぼりはじめたときだった。マンションの外で軍の突撃兵たちが見張っていることはわかっていたから、わたしは急いで荷物まとめて飛びだした。けど、滝口くん、あなたは階段でのそのそしていた。じれったいったらなかったわ」
 「そんな状況だったとは知らなかったからね。きみは階段を下りていたところだったのか」
 「四階からね。エレベーター使おうと思ったんだけど、兵士たちがマンションになだれこむのが見えたから、踵を返して非常階段に飛びこんだの。ライフをのぞきながらだから足を踏み外さないか気が気でなかったわ」
 「そこでようやくぼくが“中七階”にさしかかったってわけか」
 「兵士の足音が聞こえてきたときだった。思いだすだけでぞっとするわ。あのタイミングでご対面とはね。せめて駐車場までたどり着きたかったんだけど」
 「いや、危険な恋のはじまりにふさわしい場所だったんじゃないか。だけどこうなった以上、アウターに逃げるしかないのかい」
 「これから向かうハイランドは、その名のとおりの高原地帯だから隠れられる場所はいくらもあるように思うでしょ。でもギョルをあなどってはいけないわ。治安維持に関してはあらゆる手段を使ってくるから。かならず見つけだすと思う」
 「アウターだって危険なんだろ」
 「マスジットシティにいるよりは安全よ」
 「そうじゃなくて、高エネルギー線ってやつさ。ライフでいうなら放射線ってことだろ」
 「プラットホーム内にいるかぎりは比較的安全よ」
 「追っ手が来るんじゃないか」
 「ほかに逃げ場所はないわ」ナオミはぬかるみのなかで足をとめた。「ねえ、滝口くん」
 「なんだい」おれも立ちどまり、高まる水音のなか振り返った。
 「やっぱり迷惑だったかしら、こんな目に遭わせて」
 「なにいってるんだよ」その声に心のかげりがあらわれていないことを祈った。恋してやまない相手についに会うことができたのはいいが、果てしなき逃避行がはじまる予感は、かならずしも心浮き立つものではない。
 「やっぱりご家族のことが――」
 「その話はやめよう」なんとかおれは口にする。「家族もふくめ、ライフでの出来事は作りものなんだろ。ぼくはもうこっちの世界“現実”に身を置いているんだ。気にしちゃいないよ。それにきみも知ってのとおり、向こうじゃ、ろくな状況でなかった」
 「気にならない……?」ナオミは泥のなかで足をふんばり、トートバッグからサングラスをつかみだした。
 「所詮はゲームなんだろ。そのなかでぼくは運に見放された男を演じていた。そこから解放されたんだ。もうもどる気はないよ」
 「ここに映しだされるものをあなたが本当に客観的に見られるのなら心配ないんだけど」
 「だいじょうぶさ」おれはサングラスを彼女の手から奪い、かけてみた。視野が一気に暗くなる。「さぁ、見せてくれよ」
 「奥さんの視点よ」
 「かまわないさ」じれったくなっておれは自分でフレームわきに装着された四角い装置に指をかけた。
 「こうするの」ナオミが手をのばしてきた途端、ぱっと視野が明るくなり、白色のスクリーンが映しだされた。

 十八
 USER NAOMI
 LIFE CHANNEL SUB
 4:39pm 
 2014年5月30日
 濁流のように高まった水音のなか、最初に映しだされたのは男の横顔だった。やっぱり見なければよかった。腹のなかで後悔した。きのう家にやって来たいけ好かないおっさん、元刑事で玲子のワインサークル仲間である磯崎だ。どこかのレストランのようで、テーブルにはワイングラスが置かれている。こんな時間から飲んでるのか。しかも二人で。
 「あいつがいる」落ち着いた口調でナオミに伝えた。「磯崎とかいう元刑事さ。ワインサークルのメンバーらしい」
 「どうしてるの」
 「デートかな。二人で飲んでる。ラブラブだな」口にしてみて余計に腹がたった。
 「あなたはライフのなかでは主人公だからわからないと思うけど、わたしはサブチャンネルからも見ているからなんとなくわかるの」
 「なにが」おれは赤ワインをいれたグラスを磯崎がソムリエぶって傾けるところを憎々しげに見つめていた。「なにがわかるんだい」
 「ゲームだからこれからどうなるか完全には見通せないんだけど、磯崎さんの目的は奥さんじゃないわ」
 「よしてくれ。まさか加奈を狙ってるとかいうんじゃないだろうね」
 「あなたよ」
 「はぁ?」
 「磯崎さんのキャラが現実界にいるプレーヤーによって生みだされたものなのか、それともライフ自身が作りだしたものなのかはわからないけど、あの人はあなたからなんらかの情報を引きだそうとしているのよ」
 そのときサングラスのなかで電話が鳴った。「待ってくれ。磯崎に電話が入ったぞ」
 ナオミがフレームに手をのばし、格納式のイヤホンを引っぱりだしておれの両耳に突っこむ。つぶやくようにしゃべる磯崎の声がはっきりと聞こえてきた。
 磯崎はその場で話しだした。
 (自殺じゃないですよ……エコリサーチって会社が住民アンケートを行ったんですがね、どうもそれがあやしい)
 声はひそめていたが、たしかになにかの捜査にあたる刑事のような自信に満ちた声音だった。
 (九二%が建設に賛成なんてのはうそっぱちだ。ちゃんと証拠もある。じっさいには反対が八割、明確な賛成は一割にも満たなかった。彼女の取材は完璧だった……証拠ならお渡しできますよ。あしたにでもなんとかなりますから……いやぁ、それはどうでしょう。もうこの世にいない可能性は高いと思いますけど。もちろん想像ですよ。ただ、自殺じゃない)
 耳をかたむけながらおれは気味が悪くなってきた。
 (そりゃ無念だったでしょう。政権と公共放送。いやな関係ですよ。だから彼女の無念を晴らしてあげたい。だけどすくなくともTHKの報道には期待できない。新聞だってムリでしょう。だったら週刊誌しかないと思うんですよ……)
 磯崎は電話を終え、ゆっくりと赤ワインをすすった。玲子はその横顔を見つめる。
 おれは生唾を飲みくだした。「美沙だ」
 「…………」尚美は無言のままおれの腕をつかんできた。
 「やつは行方不明になった美沙のことを調べているんだ。玲子にたのまれたのかな。あいつは美沙のことを心配していたから」
 「ちがうと思う。磯崎さんのほうで梶村さんのことを調べていて、それであなたに近づくために奥さんに接近したんじゃないかしら。ソノマ会を利用して」
 異様に高い湿度のなか、おれは全身汗まみれだった。だがそれを不快と感じているひまはなかった。それよりも頭が高速回転をはじめていた。
 「美沙は、原発の使用済み核燃料の最終貯蔵施設のことを取材していたんだ。山形の鶴田村ってところのね。いま磯崎は住民アンケートの結果があやしいといっていた。賛成と反対の数が逆だと。それを美沙はつかんでいたそうだ。証拠もあるらしい」
 「政権はそれが気に食わなかったのかしら」
 「うちの会社もからんでいるのかな。やつの行方不明に――」
 そのときサングラスの世界に訪問者があった。若い女だった。店員に連れられて磯崎の隣にあらわれた。
 「あの女……」
 思わずおれは声をあげ、一歩あとずさった。その刹那、懐中電灯の明かりが激しく揺れ、引いた足が泥のつまった穴にずぶりとひざまで落ちた。あやうくバランスを崩して倒れるところだった。
 「だいじょうぶ……どうしたの……」
 「美沙のマンションを訪ねてきた若い女だ。バーテンやってる子でたしか……」
 「マコじゃないかしら」
 「そうだ。マコだ。それがどうして」
 (じゃあ、玲子さん、悪いけど行ってきますよ)
 (おつかれさま)
 (あとでメールします)
 (わたしも)
 おれが見ているとも知らずに磯崎は玲子に向かっていやらしくウインクをした。そして大儀そうに立ちあがり、やって来たマコの背中に手をやって二人で店の外に消えていった。玲子はそのうしろ姿をいつまでも見つめていた。
 「どういうことだ」おれはサングラスを外し、ひざまでつかった泥から足を引き抜きながら吐き捨てた。「ますますわけがわからないよ」
 「やっぱり気になるんじゃないの」おれに手を貸しながらナオミがいう。
 「気にならないといえばウソになる。だけどそれはレベルがちがう。小説やテレビドラマのつづきが気になるのとおなじってことさ」おれは線路のうえにもどった。「おれが気にしているのは女房のことじゃない。美沙がどうなったかということのほうさ」
 「わたしに付き合ってくれるのかしら」心配そうにナオミがいう。
 「心配いらない。腹はくくっている。さあ、行こう。ティレルたちが待っている」強がるようにいってから、おれは泥まみれになったほうの足を一歩前にだした。
 それまでとは異なる感触が足裏に走った。
 子どものころいたずらっ子が作った落とし穴にはまった感覚に近かった。なにかが破れ、壊れ、崩れていく感触。それにあらがうことができず、無抵抗のまま取りこまれていく感覚……。
 疑問符が頭にともった直後、体は地面に吸いこまれていた。
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