二十五~二十七

文字数 11,194文字

 二十五
 新しい防護服は重くて歩くのも容易でなかった。まるで月面着陸した宇宙飛行士のようだ。それを身につけてピットに下りていく。はじめて踏みだすアウターの外気は涼しく乾いていた。駐機場には、防護シールドを張りめぐらせたヘリコプターが待機していた。おれたちはその最後部に押しこまれ、日の出を待つことになった。
 仮眠を取っていると、いきなり操縦席に長身の男が乗りこんできて、無言のまま計器のチェックを開始した。六時前。宇宙と大地の営みが感じられる夜明けだった。
 メンテナンス要員とおぼしきべつの二人の男がつぎつぎと乗りこんできて、エンジンが始動する。それまでこっちのことを完全に無視していたパイロットが、はじめておれたちのほうに身を乗りだし、天井からさがるヘッドセットを指さして、装着するよううながした。それを頭にかぶるなり、管制塔からの指示が聞こえてきた。
 「三十分ぐらいだな」ビープ音のあと声がした。「できるだけギルモアに近づいてやる。直線距離で四キロ手前に高エネルギー線の無人観測基地がある。そこで降ろしてやるよ。ヘリではそれ以上は近づけない。着陸できるのも最大で十分程度だ。そうでないと計器がいかれちまうからな。いいな。よかったらインカムの緑ボタンを押して話してくれ。まちがっても赤ボタンは押すなよ。管制塔に筒抜けになっちまう」
 ナオミはおれと目を合わせ、うなずきあってから緑ボタンに指をかけた。「OKよ。ありがとう」
 「おれはマレン。ここには十三年勤めてる。血管には青い血が流れてる。真っ青な除染薬を飲みすぎて色が落ちなくなっちまったんだ。自分でもよく生きてると思うぜ!」
 パイロットの冗談にヘッドセットをつけていた前の二人が肩を揺すってくすくすと笑った。おれは笑う気になれなかった。子どもを残すことと引き換えに命を賭す現実をじっさいに目の当たりして言葉もなかった。
 ヘリはふわりと浮かびあがった。新しい太陽が遠い地平線を黄金色に染め、大あくびをしながら顔を出しはじめている。夜明けの東京にいるようだ。だがあれはおれの知る太陽ではない。この世界を司る遠い巨大恒星なのだ。
 眼下を見やると太陽光パネルの群れが一面に広がっている。神秘の湖のようにきらきらと輝くその上空をヘリは滑るように進んでいく。汚染地域であるとは思えぬ幻想的な光景だった。
 「アウターははじめてらしいな」マレンがいう。「あのパネルの下になにが埋まってるか知ってるか。人間の死体だよ。クンパルの側から避難してきた何百万もの人たちの遺体さ」クンパルとはマスジットシティ――当時はマスジット国――に隣接していた国なのだろう。「大勢が皮膜コンクリートを越えてなかに入ろうとしたんだが、認めるわけにいかなかった。かといって大量虐殺を行ったわけでもない。彼らの命を奪ったのは高エネルギー線さ。“最後の日”から一年もしないうちにみんな死んじまった。太陽光パネル建設がはじまったころの最初の仕事は、そういう遺体の始末だったって聞いてる。いまも地面をちょっと掘れば、人骨がわさわさ出てくる」
 「うわさでは聞いていたけど、本当にそうなんだ」
 「都市伝説なんかじゃないんだぜ。この目で何度も骨に遭遇してる」
 「観測基地からギルモアの発電所跡まで道は通っているのかしら」
 「五十年前は通ってたさ」吹きだしそうになるのをこらえながらマレンが返事をした。「もうすぐ見えてくるが、そのころはカイポーっていう、クンパル南端の街だった。カイポーは鉱山で栄えた都会だった。その先にラングデール山っていう緩やかな丘に近い山がある。観測基地はそのてっぺんだ。そこからギルモアまではいまもジャングルが広がっている。まともな道なんてないさ。それに“最後の日”以来続く地殻変動で山が崩落して、岩肌がむきだした急斜面になっている。観測基地から足もとのジャングルまで落差二百メートルぐらいあるんじゃないか」
 「そこを下りてからジャングルを抜ければいいのね」
 マレンがため息をつくのが耳元に伝わってきた。同乗したメンテナンス要員たちもじっと押し黙りながら、心のなかでかぶりを振っているのが見て取れた。「やめとけって。なにがしたいかわからないけど、記念写真でも撮ったらそのまま帰ってこいよ。十分以内に決断してくれたら乗せて帰ってやる」
 ナオミは答えなかった。気まずくなりおれは前の二人にぼんやりと目をやった。
 妙だった。
 左の席に座っている男の防護服の右腰あたりが妙に膨らんでいる。ポケットがあるのだが、そこから黒くて四角い金属が顔をのぞかせていた。メンテナンス作業に使用するものだろうか。見覚えがあった。それも最近。なぜか不安が心の内で色を増してきた。
 やがて足もとから一群の太陽光パネルが消え、でこぼこした地面が陽光に不規則に鈍く輝きだしているエリアに入っていった。よく見ると、それらは住宅やビルといった建物のようだった。それらが密集しているのだ。カイポーの街なのだろう。緑もあちこちに見られる。アウターというからには、荒涼とした不毛地帯が延々と広がっているのかと思ったがちがうようだ。“最後の日”以前はたしかに街を形成し、多くの人が暮らしていたのだ。そして彼らはいま何十万、何百万という遺骨になりかわっている。
 カイポーは五分ほどで通過した。あとは濃い緑に包まれた丘陵地帯がはじまり、ところどころに見られる岩肌は、上りはじめた太陽光によって、ひからびた動物の死骸のようにてらてらと冷たく輝いていた。
 ラングデール山自体は、丈の低い草に覆われたなだらかな山体で、観測基地のある山頂に平坦な場所は猫の額ほどしかない。そこにマレンはヘリを着陸させた。
 「十分だけだぜ」マレンはエンジンを切らずにインカムに告げた。「そしたら有無をいわさずここを離れる。あんたたちだって、いくら防護服を着ていても一時間ももたないはずだ。腰に線量計がついてるから注意しときな。アラームが鳴ったら観測基地に飛びこめよ。いちおうシールドされているから、線量は一万分の一まで下がるはずだ。それでも除染剤飲まないとダメだけどな。救急キットのなかに入ってるから」
 「そうさせてもらうわ。いますぐ飛び立ってくれていいわ。ありがとう。本当に感謝してる。ミマスによろしく伝えてちょうだい」そう告げてナオミは外に出た。おれもついていかないわけにいかなかった。
 駐機場にいたときより気温が上昇している。このまま陽が高くなれば、防護服は相当こたえるだろう。ヘリのローターが砂ぼこりを舞いあげ、視界がさえぎられる。おれたちは腰をかがめ、目を凝らして観測基地に近づいていった。
 基地は石を組みあげてつくった山小屋のようだった。入り口はがっちりと施錠されている。裏にまわってみると、マレンがいうように急斜面になっていた。二百メートルどころでない。五百メートルほど巨大な滑り台のようにつづいていた。
 その先も緑の丘陵地帯が広がっていた。アブラヤシのような木々がうっそうと茂るジャングルになっている。ふしぎだった。人が住めないほどの汚染地帯だというのに、植物はこうして五十年たっても命をつないで輝いている。このちがいはなんだ。しかしDNAレベルではとりかえしのつかない変化が起きていて、いま目にしているのは見せかけの自然なのかもしれない。
 「ギルモア発電所はどっちかな」
 ナオミがだまって指さした。丘の数キロ先に緑が途切れている場所があった。グーグルマップで見るなら、そこだけ十円ハゲが広がっているように見えるだろう。その先に朝日を浴びる人造物が見えた。巨人が使う水がめのような格好のものが三つ並んでいる。
 「さすがにあのあたりは草木も生えないわ」
 「けっこう離れてるな」おれは線量計に目をやった。針はとっくにレッドゾーンに振りきれていた。アラーム音がどんな響きなのか想像してぞっとした。どんなに線量があがろうとおれの体はびくともしないというが、そんなことはこの場では信じられなかった。「近づけるのかな」
 「行くしかないわ」
 「けど、娘さんがあそこにいる保証は――」
 「そんなものあるわけないじゃない」
 毅然としてナオミが言い放ったとき、おれは背後に殺気をおぼえた。

 二十六
 いつもこうだ。
 おれはなんだって気づくのが遅い。キャスター時代も迎合するのがいやでチーフプロデューサーが喜ぶリポートは極力避けてきた。しかしこの年になってようやくわかったのは、迎合も技術であり、能力だったということだ。その点に著しく欠ける者の末路がいまのこのおれだ。たとえゲーム世界での出来事だとしても、同期の柄本なんてそういうところがやっぱり入社当時からたけていたのか。そう思うと悔しかった。だからポケットから顔をのぞかせたあの四角い金属を見つけたとき、ちゃんとナオミと話し合ってみるべきだったのだ。あれは弾丸をこめたマガジンを挿入したグリップの底じゃないかって。
 前の席に乗っていた二人は、メンテナンス要員なんかじゃない。その証拠に彼ら――どちらもアメフト選手ばりの大男だった――はいま、観測基地の裏にいるおれたちを左右から挟み撃ちする格好で、自動拳銃――数時間前におれ自身がこの手でタンクローリーにぶっ放したものとそっくりのタイプだった――をかまえていた。
 即座に浮かんだのは、ティレルの父親だった。息子のいまの姿を見せたのが逆効果だったのだろうか。それまで封じこめてきた情愛に火がつき、なんとしてもシティにもどることを欲してしまったのかもしれない。そしてナオミが指名手配犯であることに気づき、彼女が身を隠していることを通報することで手柄をたてて、ギョルの歓心を得ようとした。
 ナオミもおなじことを考えていたらしい。「だったらどうしてあのとき捕まえなかったんだろう」
 「息子の手前、せっかくメモリーチップを届けてくれた恩人を、父親がその場で軍に売りわたしたような格好は取りたくなかったのかもな。ここなら高エネルギー線を浴びて死んだことにできる。遺体なんて焼いちまえばいいんだし」そういうふうにすることで、ミマスと軍の担当者が話をつけたのだろう。
 「まさかティレルも最初から……」ナオミは、ティレルがはなから父親に自分たちを売らせようと計画していたのではと疑っているようだった。まだ見ぬ肉親のことを思えば、街ですれちがっただけのカップル――しかも一方は治安維持法違反の指名手配犯――なんて、多少手荒に利用したってかまうまいってことだ。
 軍の兵士とおぼしき二人は、銃をかまえたまま一歩前に出てきた。拳銃とはいえ、完全に射程距離内だった。
 恐怖に首をすくめた瞬間、銃声が響いた。それもたてつづけに。
 処刑の瞬間(ルビ、とき)だった。
 身をひるがえして彼女に覆いかぶさる場面だが、おれは反射的にその場にしゃがみこんでいた。というより腰を抜かしていた。だが激痛が走ったわけでも、あの世に向かってふわふわと魂が浮かびはじめたわけでもなかった。足もとに砂煙すらあがっていない。
 目の前の兵士が基地の裏に身を隠し、ヘリのほうを向いている。背後の兵士もおなじだった。ともに発砲している。
 兵士たちの自動拳銃とは異なる銃声がヘリのほうから断続的にあがった。目の前の兵士が倒れ、その手に握られた拳銃がおれの目の前に転がってきた。おれがそれに飛びついたとき、ヘリのほうから声が聞こえた。
 「急げ!」
 背後の兵士はマレンと銃撃戦を展開している。おれはナオミを押しだすようにして倒れた兵士のほうへ走りだした。
 そのときだった。
 倒れている男に足をつかまれた。撃たれたわけではないらしい。蛇のように腕をからませてきて、おれはバランスをくずして倒れた。ナオミが振り返ったとき、男は起きあがり、覆いかぶさってきた。おれの体は、そいつと抱き合ったまま斜面のほうに回転を開始した。あとはなにがなんだかわからなかった。二人そろって速度を増しながら転がり落ち、後頭部や背中や肩が斜面に激突する。地獄の底まで一直線だった。
 気が遠くなる寸前、体が停止した。平地に達していた。ヤシの密林の入り口がすぐそばにある。斜面を見あげると観測基地ははるか遠くに建っている。ここからだと小さな山小屋にしか見えない。あんなところから転がり落ちてきたなんて。おれはやつより先に立ちあがろうと足に力を入れたが、全身の激痛と三半規管がいかれてしまったせいで、まともに立ちあがれず、四つん這いになって逃げるのがせいぜいだった。
 ヘリコプターがふわりと宙に浮かぶのが見えた。そのままおれのいる場所の上空を旋回したが、高度を下げようとはしなかった。それどころか引き返していく。操縦桿を握っているのはマレンだろう。ナオミはどうなった。
 それに思いをはせているひまなかった。立ちあがった兵士が、ゾンビのようにふらふらと近づいてきたのだ。おれはなんとか立ちあがったが、そのとき重大な事実に気づいた。
 銃がない。
 どこかにすっ飛んでしまっていた。相手はナイフを握りしめていた。それもとびきりのサバイバルナイフ。おれは農場から遁走するクンタ・キンテのようにジャングルの入り口に向かってダッシュした。背後に砂利を蹴散らす獰猛な足音が迫ってくる。ヒグマかトラか、それともコモドドラゴンか。背中にぎらつく刃物が突き立てられる恐怖が広がる。
 目の前にヤシの密林が広がっていた。そこに逃げこんだ途端、日差しがかき消えた。丈の低い下草のなかを走る。ヘリのローター音はもう聞こえない。絶望感が広がった。
 耳元で甲高い音が鳴り響いた。
 逃走をつづけながら周囲を見まわした。が、ほかにだれかいるわけではない。ナイフを持ったゾンビが追いすがってくるだけだった。
 アラームだった。
 危険地帯に足を踏み入れたことを線量計が感知し、防護服に張られたコードを伝って防護フード内のアラームに信号が送られたのだ。
 状況はやつもおなじはずだ。しかし迫りくる足音は変わらず、確実にさっきよりも近づいていた。ここで振り向いたらさらに距離を縮められてしまう。だがどうしても気になった。いったい何メートル離れている。そう思って視線がわきに泳いだとき、なにかが顔面に激突した。
 ヤシの合間からおれは青空を見あげていた。東京の夏空のような青さだった。ヤシとはちがう低木の横枝が見えた。そこに顔から突っこんでしまったらしい。
 背後の足音がとまっていた。おれは目だけ動かし、やつのことを探った。
 右目が三メートル先に立ちつくす紫色の防護服をとらえた。その手元では恐怖が銀色に輝いている。おれは鼻からゆっくりと深呼吸をしてみた。昔だれかにいわれたのだ。眠れぬ夜は深呼吸がいちばんだと。興奮した神経を鎮め、自然と眠りにいざなってくれる。しかしいまのおれは眠ってしまいたいわけではない。逆だ。いろいろあったが、総合的に判断するかぎり、やっぱり夢なのだ。谷本尚美に会えたのは満足だ。キスしかしていないけど、これまでに見た彼女の夢のなかで、一番リアルで興奮するものだった。でももうかんべんだ。悪夢へと確実に近づいている。潮時ってやつだ。
 早く覚めろ!
 鼻から深々と息を吸うと熱くて濃いジャングルの空気が鼻孔の粘膜にしみた。妙だった。それまでうるさく鳴り響いていた線量アラームが聞こえなくなっていた。線量が下がったのだろうか。それとも激突の衝撃でアラームが壊れてしまったのだろうか。
 もう一度、鼻から吸ってみる。ちょっとちがう感じがした。それまではフードのフィルターで濾過された外気を吸っており、ナフタレン臭に近いにおいがしていたのだが。
 防護フードが外れていた。
 斜面を転落したさいに防護服とフードをつなぐジッパーが外れかかっていたのだろう。それが枝に激突したときに完全に外れ、すっ飛ばされてしまったようだ。それでアラームが聞こえないのだ。
 防護服の巨漢は動けずにいた。
 高エネルギー線量が危険域に達した場所で顔面を露出して深呼吸をたのしむ男を見つめ、畏敬の念さえ抱いているようにも思えた。おれはゆっくりと立ちあがった。枝に激突した衝撃で鼻血が出ていた。それに全身が痛む。防護服のフードはやつの足もとに落ちていた。それを取りにもどるのは気がひけた。いじめっ子の上級生に奪われた教科書を取りに来させられる小学生みたいだったし、ナイフも気になった。
 もう一度、深呼吸してみた。
 おれはヘリのパイロットがいってたことを思いだそうとした。アラームが鳴ったらすぐに観測基地に入れ。そうしたら一万分の一にまで線量が下がる。それでも除染薬は飲まにゃいかん――とかなんとか。だが屋外で防護服を脱いだらどうなるかまではいってなかった。そんなのいわずもがなってことだ。
 つかみかかれるほどの距離をおいて、おれはやつと対峙した。フードのなかの顔をはじめて見た。浅黒い肌をした若い男だった。まだ十代かもしれない。ヤクザの鉄砲玉みたいなおどおどした目をしている。だがこういう世間知らずのやつがいちばん危険なんだ。おれはやつの手元に目をやった。高知の刃物師がたたきだした鉈のような分厚く、しっかりとしたサバイバルナイフだった。それがおれの体のなかにずぶりと入ってくる。見事な夢の幕ぎれじゃないか。おれはつい言葉を発してしまった。
 「いいぞ、坊主。そいつでおれを早く救いだしてくれ。この悪夢から!」
 夢から覚めたのは坊主のほうだった。自らのフード内でも鳴りつづけているアラーム音に事態が切迫していることに気づき、遅滞なく上官の命令を実行して即座に退避すべきと判断した。ナイフを握りしめる手に力が入り、巨体が一気に飛びだしてきた。
 つぎの瞬間、予期せぬ事態が展開した。
 おれの耳もとで甲高い乾いた音が鳴り響いたのだ。
 鼓膜をつんざく破裂音におれは腰をぬかし、草のなかに尻もちをついていた。
 ナイフを振りあげて突進してきた若い兵士の体は、まるで見えないダンプカーに真正面から轢かれたようにうしろに跳ね飛ばされ、一メートルほど宙を舞ったかと思うと、そのまま大の字になって仰向けにどさりと落下した。紫色の防護服の胸のあたりがどろりとしたもので濡れており、みるみるそれが円形に広がっていく。男はぴくりとも動かなかった。
 銃声だった。
 それに気づいたとき、夢のような感覚はどこかに消え失せ、またしても強烈な現実感に包まれた。おれは怖々と背後に目をやった。
 最初に目に入ったのは、自動小銃の銃口だった。十メートル先だ。引き金に指をかけ、スコープをのぞきこんでおれの胸に照準をさだめているのは、迷彩色の半袖シャツにモスグリーンのハーフパンツをはいた人物だった。おれのことを追跡してきた兵士を立ちどまらせたのは、フードどころか防護服すら身に着けぬ人物の姿だったのだ。
 沈黙ののち、まだ熱をおびたままの銃口が空を向き、射撃手の顔があらわになった。軍用キャップをかぶっていてもそれが女だとわかった。ご丁寧にも帽子を取ってくれたので、木漏れ日がその小ぶりの顔をはっきりと照らしだした。さらに女はポニーテールにたばねていたヘアバンドを外し、肩までのやわらかな黒髪を下ろした。
 おれは口のなかが急速に乾いてきた。生唾を飲みこむとぎりぎりと喉仏がこすれるいやな音がした。記憶の奔流に吐き気をもよおす。
 渋谷にいるみたいだった。
 「なんでだよ……」
 「それはこっちのせりふでしょ」
 梶村美沙はおれのほうにゆっくりと近づき、手を差しのべてきた。
 「時間がないの。急いで」

 二十七
 美沙はジャングルの奥へおれを連れていった。ヤシの木々の合間に下草を踏み固めて作った道があり、軽トラックのような車がとめてあった。錆の浮いた荷台にはクーラーボックスサイズの金属製の箱がゴムバンドでとめてある。
 「驚いたな」軽装の美沙を見たら防護服自体、無用の長物のように感じられる。「いや、ある意味、発見かもしれない」
 「なに?」
 美沙は小銃を肩にかつぎながら神経質な調子で聞いてきた。それこそ梶村美沙そのものだった。社会部の最前線でいつだってピリピリしながらテンパっている。悪くいえば余裕がない。結局、アラフォーになっても男っ気がないのもそういうところが影響しているのだ。社会部でおなじ釜の飯を食ったよしみでいつかいってやろうと思っていた。
 「だっておまえ、クラシックなマセラティ乗ってたんだろ。それがこんなガタピシの軽トラか」
 「ギブリのGTね……でもなんでそんなこと知ってるんですか。話したことありましたっけ?」
 「みんな知ってる話さ」
 美沙は表情をこわばらせた。「なんで?」
 「ダークグリーンのクーペだろ。そんな車をレインボーブリッジのどまんなかに放置するやつなんていないからな。うわさはすぐに広まる」
 助手席のドアを開け、美沙はおれに座るよううながした。そして怖々と訊ねてきた。「あの車どうなりました?」
 たまらず声をあげてしまった。「この期におよんで車のことが心配か。やっぱりおまえ、どこかネジが外れてるんだな」
 「だいじょうぶなのかな」
 「門仲のマンションの駐車場にだれかが運んだんじゃないか」
 「そっかぁ……うん、なんか、安心した」からっと言い放ち、美沙は運転席にまわった。
 「だけどおまえ、ここにいるってことは――」
 エンジンをかけてから美沙のほうが訊ねてきた。「聞いているんですよね、タッキー、ここがどういう世界で、自分がどうしてこっちに来てしまったか」
 「ライフ……ゲームの世界。おれたちはそこのキャラクターにすぎない」
 軽トラはジャングルの道をそろそろと進みはじめた。陽がのぼりだした空のようすをたしかめるように美沙はフロントグラスに顔を押しつけ、しばらく押し黙っていた。おなじ境遇の人間、しかも職場の同僚に出くわし、すくなからず衝撃を受けているようすだった。
 「あたしたち、いったいなんなんですかね」おれの胸のなかでずっともやもやとしていることについて、美沙はズバリ口にした。「どっちが現実なんですか?」
 「こっちに来て一日もたってないんだ。まだ夢みたいだよ。そのうちさめるんじゃないかとも思ってる」
 「あたし、その段階は越えちゃった。だけど夢ならいいって、そりゃいまも思いますよ」
 「おれは会社の非常階段をのぼっていたんだ。ここ何日か気になることがあってな。おととい、高校時代に好きだった子に似た女を七階で見かけたんだ。それがあんまりにも似ているものだから、なんとしてももう一度会いたくて。そしたらけさ、その子がふたたびあらわれたんだ。七階、いやもう一つの七階に。それで追いかけたら――」
 「ふん」美沙はばかにするように鼻で笑った。「相変わらずロマンチストですね。奥さん、だいじにしなきゃだめですよ。あたしは真逆。いきなり拉致されて、突き落とされた」
 やっぱりそうだったか。自殺じゃなかったんだ。「犯人は?」
 「ずっと目隠しされてたからわからない。だけど見当はついてるわ」
 「取材がらみなのか。鶴田村の――」
 「ほかにないでしょう」
 「会社じゃ自殺だって話になってる」
 「遺体は?」
 「ないよ。見つかってない」
 「でしょ。それなのに自殺? うちの会社の考えそうなことね」
 「でももうそんなことどうでもいいんだろ」
 「ゲームだったんでしょ、あっちの世界での出来事すべてが。あたし自身、プレーヤーに作りだされて、ぽいって投げこまれただけなんだし、記憶もすべて作りものだなんて」
 「幻滅するよな。もうなんにも考えたくなくなる」
 「こんなんだったらずっと向こうでゲームさせられてたほうがましだった」
 「でも最終的に殺されるんじゃな」
 美沙は八つ当たりするように拳でおれの腕を軽くたたいてきた。横顔が愛らしかった。入局したころとほとんど変わっていない。顔だちのバランスがよく、とくに情熱的な艶っぽい瞳が魅力的だった。
 「死にたくない。こんなんで絶対に死にたくない。橋からまっさかさまに落ちながら、頭のなかでそのことがぐるぐると渦巻いていた。だけどどうしようもなく死が目の前に接近してくる。あんな絶望感、生まれてはじめてだったわ。そうしたらやわらかいマットのようなもののうえに落ちてきて、こっちの世界に来ていた」
 「呼びだされたんだね、きみを必要とするプレーヤーに」
 「状況を理解するまで時間がかかったわ。ほとんど錯乱状態ですよ。その意味じゃ、タッキー、さすが。まだ一日もたっていないのに、このとんでもない状況についていってる」
 「とんでもない……まったくだ。コペルニクス的転回だよ」
 「でしょ。まったく笑うしかないですよ。だけど本当のコペルニクス的転回はこれから」
 おれはあごに手をやった。「さっき、時間がないとかいってたよな。それと関係あるのか」
 「やっぱりカンが冴えてますね」
 「つまりおまえを呼びだしたプレーヤーがなにかたくらんでるってことか」
 「あれよ」美沙は親指を立てて荷台を指さした。「いまは反応抑制ジェルで固めてから特殊な冷却ケースに入れてあるけど、ケースに亀裂でも入ったら、たいへんなことになる。高エネルギー炉でメルトダウンしたデブリがそのまま入ってるんだから。こっちの人たちなら二十キロ以上離れないと危険。こんなに近づいたら、十秒ともたないわ」
 「高エネルギー炉って、ギルモアのか。おまえが拾い集めてきたのか」
 「それがご主人さまから課せられたあたしの使命」
 「デブリって線量が高いんだろ。本当に素手でさわってもへいきなのか」
 「タッキーだってそうでしょ」
 「そうなのかな」
 「フードなしでもへいきでしょ」
 「つまりおまえのご主人さまは、ライフのキャラが実体化するときの変化を熟知しているってわけだな」
 「毎日毎日、せっせと炉のなかにもぐってはデブリをかき集めてきたの。それもきょうが最後」
 「最後……? そんなものをかき集めて、なにかおっぱじめようっていうのか」
 美沙は左手のほうを指さした。ヤシの林がきれぎれになり、銃撃戦が展開された丘が見えた。「ヘリが飛んできたでしょ。先輩もそれに乗ってきたの?」
 「そうだ。同乗者がどうなったか心配なんだ。あの丘のうえを回ることはできないか」
 「そのつもりはないわ。あたしたちはヘリが必要なだけだから。もう確保しているんじゃないかしら」
 「確保って」
 「ヘリを奪ったってこと。けさ、軍が指名手配犯を移送するって話が飛びこんできてね。けど、まさかタッキーだとはね」
 「ちがう。おれじゃない。おれを作ったプレーヤー、さっきいった七階の女だ。その人がおれを呼びだしたんだ。それが治安維持法違反だっていうんだ」
 「それってあたしもそうってこと?」
 「ギョルに知れたら指名手配されるだろうな。だけどおまえ、呼びだすにはパトスってウイルスが必要なはずだ。それを知っているのはかぎられた人間だって話だけどな……待てよ、おまえのご主人さまって――」
 「もうすぐキャンプに着くから。そこで取材してみたらどうですか」美沙は意味ありげにウインクした。「どんな歓迎を受けるかは責任持てないけど」
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