十九~二十一

文字数 9,077文字

 第三部
 十九
 「なおみちゃん……!」
 「滝口……くん……!」
 体が勝手に反応して彼女の手を握りしめたのがいけなかった。それで泥の滑り台に彼女を引きずりこんでしまった。闇のなかで二人とも水の奔流に頭までつかり、息継ぎのために水面に顔を出すなり、岩盤らしき低い天井に脳天をしたたか打ちつける。さらに額や頬を乱暴にこすられながら、水位上昇の恐怖に耐えなければならない。
 流れにのまれるうちに二つの体は自然と抱き合う格好になり、あとは荒波に翻弄される小舟のようだった。
 トンネルの足元が崩落してから数秒して気づいたのだが、一つだけありがたいことがあった。水が温かかったのだ。鼻と口から流れこんでくる水は、硫黄臭と塩気が強かった。温泉の水脈がトンネルの下を流れていたのだ。
 「だいじょうぶか!」
 「足が……つかないよぉ……」ナオミが取り乱した声をあげる。「滝口くん……離さない……でね……!」
 「壁だ……壁につかまろう……!」おれはナオミの体を抱きしめながら両足をばたつかせ――いつのまにか靴が左右とも脱げてしまっている――壁面を探った。しかし左右の幅が広いのか、壁らしきものはまるで感じられなかった。
 「足が……つかないん……だってぇぇ……!」ナオミはおなじことをくりかえした。思いだした。というか、彼女によるインプットをもとに人工知能であるライフが作ってくれたおれの“記憶”によれば、彼女は高校時代、水泳の授業をひどく嫌っていた。ハンドボール部で活躍し、ほかの球技もふくめ、スポーツは万能と思われた彼女だったが、唯一、かなづちだったのである。
 彼女の体を抱きしめ、両足をばたつかせて必死に顔を水面に浮上させながら、おれは精いっぱい状況把握につとめた。トンネルから滑り落ちたとき、おれは彼女の手だけでなく、懐中電灯も握りしめたままだった。それはいまも左手にしっかりと握られている。が、明かりが消えており、指先でスイッチに触れても反応しない。防水ライトのはずだが水損してしまったか。
 トートバッグは彼女の肩から外れていたが、ひじのあたりでかろうじてとどまっている。なかには通信可能なタブレットが入っていたが、使える状態だとは思えない。それにライフにつながるサングラスは、ちょうどおれが手にしているときだった。彼女には返していない。もはやどこかに流れ去っているか、無人のトンネルに残されているかのどちらかだ。しかしそんなことより、まずは流れのゆるやかな場所を見つけて、態勢を立て直さないと。
 ずっとこのままだったら、どんなだろう。
 真闇のなかで頭に浮かんだ。途端、激しい流れが静まったように感じられた。温かな水のせいもあって、まるで羊水のなかにいるような感覚に包まれた。なんだかこれから産まれる一卵性双生児になったかのようだった。
 闇に流されながら思考もまた漆黒の海を漂っていた。
 作られた記憶ってなんだろう。
 玲子や加奈、両親……。逗子で育った記憶は途切れがちになっているが、高校を卒業するまではそこで暮らし、青春時代をすごしていた。大学をへて、記者になって山形に赴任した。そこで過ごした年月は、第二のふるさととして彼の地を深く心に刻んだ。それがすべて埋めこまれたにせの記憶だなんて。だがこっちの世界が真実だとしても、滞在時間が圧倒的に短く、知識と体験が不足しているため、どうにも現実感がつかみにくい。ナオミという存在でさえ、エーテルの雲のようでいつ消えるとも知れない。
 答えを出そうとすると頭がおかしくなりそうだった。しだいにゆるやかになる流れのなか、おれは胸にたまったものを一気に吐きだした。それでずいぶんとらくになった。こっちの世界に来て以来、はじめて気持ちが落ち着き、いうなれば、ビーチリゾートでぷかぷかと浅瀬を楽しんでいる感じだった。
 おれはナオミの体をもう一度抱きとめた。流れにのまれないためというより、いつまでもいっしょにいたかったからだ。なにが真実かなんて問題ではない。この腕のなかにやわらかな体とぬくもりがある。それだけで満足だった。頭のどこからか聞こえてくるボサノバのメロディーに包まれ、暗闇のなかで水中ダンスをゆったりと踊りつづけた。疲れと恐怖のせいもあるのだろう。ナオミもいつしかおれに首に両手を巻きつけたまま、流れに身をまかせていた。このままこの世の終わりに突入しようともかまうものか。きっと彼女もおなじことを感じているだろう。彼女はライフに癒しと慰めをもとめ、それが高じてこちらの世界に呼びだされたおれは、いま彼女がもとめるものをあたえている。この先どうなるかなんて、もはやどうでもいいのではないか。
 本当にそうだろうか。
 そう思ったとき、体がなにかにぶつかってとまった。金属棒のようなものが、天井から水のなかへとのびている。水底にまで達しているようだった。おなじものが二十センチおきに並んでいる。
 「なにかしら」
 「柵みたいだ」暗闇のなかで、おれはナオミの体から離れ、棒の隙間に体を滑りこませてみた。「反対側に出られる」
 闇のなかで手をのばしてナオミの手をつかみ、下流にいるおれのほうからゆっくりと引っぱってみた。
 「すこし明るくなった気がする」棒の間をすり抜けるなり、ナオミが口にした。
 そのとおりだった。地下水脈の狭い空間には真闇が広がっていたが、いまは闇が薄まった感じがする。岩穴のような圧迫感も消えていた。
 「流れもらくになった」おれはナオミの手をとったまま、温泉のような川のなかであおむけになり、手足を大の字に広げてみた。目は自然と上のほうを見あげる。月はおろか星一つも見あたらないが、空が広がっているのがわかった。「外に出たんだ」
 「だから明るくなったんだ」
 いつの間にか日が暮れている。日の入りの時間が若干早いらしい。それにしてもいったいどれくらい流されたのだろう。
 「川みたいね」
 「人工太陽があるなら、月や星も作ってくれればいいのにな」
 「ギョルにはロマンチックなんて通用しないわ」
 「もうすこし明るければ目が慣れてくるんだけど」
 「遠くの街の明かりが雲に反射しているだけだから、これが限界よ」
 右足のかかとがなにかにぶつかった。川底だった。「こっちだ」おれは流れに直角にあらがって左方向に泳いだ。両足を二、三回ばたつかせただけで、さらに水が浅くなり、両足で完全に立てるようになった。川面はおれのわきの下あたり。ナオミならあごの下のへんだろう。あとは泳がずにも歩いて進めた。みるみる川が浅くなっていく。岸に近づいているのだ。
 最後は二人で手をつなぎ、ぴょんぴょんと跳ねながら岸辺にたどりついた。川底とおなじ拳大の石が転がる場所で、草のようなものも繁茂しているようだ。おれはもはや歩くことができず、水が途切れたところに腰を下ろし、ずぶ濡れの体をごつごつした石のうえに横たえた。息があがり、心臓がドキドキしている。腕時計を見た。
 六時十分だった。
 トンネルの崩落から、いったい何キロ流されたのだろう。しかもどこに向かって。
 「懐中電灯ある?」耳元でナオミがささやいた。
 「つかないと思うけど」おれはずっと握りしめていた懐中電灯をナオミに手渡した。
 スイッチを操作するカチャカチャという音がくりかえされ、最後の最後で世界に光がもどった。「防水でよかったわ」ナオミは懐中電灯を地面に寝かし、その光をトートバッグにあてた。バッグの中身を取りだしてみて肩を落とした。「タブレットはダメになっちゃった。当然よね。スクリーンもないし」
 サングラスのことだろう。最後はおれが手にしていたのだが、どこかで手放してしまっていた。
 「だいじょうぶなのはこれだけかな」ナオミは消しゴムのようなケースを手にしていた。ティレルから預かったメモリーチップをおさめたケースだ。ゴム製で封じられているから水損はまぬかれたかもしれない。
 「ぼくらのこと捜してるかな」
 「たぶんね。だけどここに出るとは思っていないんじゃないかしら」
 「どっちの方角に流されたんだろう」
 闇に生まれた小さな光のなか、ナオミは隣に腰を下ろし、おれとおなじように仰向けに横になった。「朝まで待つしかないのかな」
 「暗いうちに動いたほうがいいよね」
 「それだけじゃないのよ。送電ジャンクションのメンテナンス用ハッチを開けるコード番号なんだけど、きょうのナンバーしか知らないのよ。あしたになれば変わっちゃうの」
 だとすると残り六時間をきっている。「送電ジャンクションに入るにはそこを通るしかないの?」
 「ハッチを入ってすぐのところに非常用キットが置いてあって、そこに防護服が入っているの。二組よ。防犯カメラと対人センサーが設置されているのはその先だから、そこで着替えちゃえばばれずになかに入れると思ったの」
 「なおみちゃん」
 「え……」ナオミはおびえたような声をあげた。
 思いきって訊ねてみた。「ぼくといっしょにアウターに逃げたいってのはわかるけど、本当にそれだけなのかな」
 「…………」
 「なにかほかに目的が――」
 「あるわよ」夜空を見あげ、そこにあるはずのない星々を数えるかのように目をすがめながら、ナオミは冷たく言い放った。

 二十
 ナオミは懐中電灯を河原の闇に振り向けた。丈の短い枯れ草が石ころの合間から顔を出す河原だった。五十メートルほど先に堤がある。そっちに道路があるかもしれない。おれたちは歩きだした。おれは裸足だったが、ナオミはまだスニーカーが脱げておらず、歩くたびにズブズブと音がした。
 ライフでの“記憶”をたどるかぎり、浪人時代、はじめてデートしたときもこうして並んで歩いた。日比谷の映画館だった。そのとき谷本尚美は短大に入ったばかりで、刺激に満ちたキャンパスライフの一端を語ってくれたのだが、一方でおれが将来どんな仕事に就きたいかしきりに訊ねてきた。なんと答えたか忘れてしまったが、尚美はおれの前から消え去ったのち、どこかのエリート銀行マンと結婚したんじゃなかったかな。あっちこっちでおなじ質問をくりかえしていたのだろう。おれとデートしたのだって、滝口智郎株が将来値上がりするか見極めるためだったのだ。どのタイミングで手をつなごうか、いつ肩に手をまわしたらいいか。キスは、そして……。そんな熱に浮かされていたおれは、女の打算についぞ気づきもしなかった。
 ライフでの出来事は、現実の映し鏡だという。だったら谷本尚美は、いまこうしてずぶ濡れになって並んで歩く女の性癖をコンピューターが分析して反映させた結果なのだろうか。でも男と女の関係はいつだって打算的だ。心のどこかでだれもが、多かれすくなかれ相手の将来に賭けている。一人で生きられないのなら、だれかを頼るほかない。だったら最適の相手、自分に釣り合った相手を徹底的に捜しだす。人生の方程式ってやつだ。
 それにしたってだ。
 濡れた前髪を手でかきあげ、開き直ったような口調でナオミは話しはじめた。彼女への気持ちが薄れたわけではないが、おれは事態を客観視できるようになっていた。
 「娘が生きているかもしれないの。信ぴょう性の高い筋からの情報よ。殺されんじゃないの。レジスタンスに拉致されたっていうのよ」
 「拉致?」
 「ギョルと取り引きをしようと考えたんじゃないかしら。娘を人質にして」
 「だけどきみの娘なんだろ。ギョルとは――」
 「そうなの。ギョルは非情よ。他人の娘のためにレジスタンスと交渉なんてしない。だからカッシートたちがなにを考えているか見当もつかない。それでも娘が生きている可能性があるなら、それに賭けてみたかったのよ」
 「カッシートって?」
 「レジスタンスの首領で、以前は国家警備隊の隊長を務めていた男よ。アウターに潜んでいて、政府の転覆を狙っているの」
 「居場所はわかっているのかい」堤を越えた先には、未舗装の小道が左右にのびていた。右手のほうが藪が開けている。二人ともそちらに踏みだした。夜といっても真夏の東京とおなじく熱気がよどんでいる。すこし歩いただけで汗ばんできた。人目もないし、濡れた服を脱いで素っ裸になりたかったが、ナオミの手前、ワイシャツを脱ぐにとどめた。
 「二週間前には、第七十一プラットホームにいたことがわかっている。そこから外に出て“跡地”に向かったらしいんだけど」
 「 “跡地”?」
 「高エネルギー発電所があった場所のこと。いまは打ち捨てられて廃墟になっているわ。アウターのなかでもとりわけ高エネルギー線量が高いところで、防護服を身に着けていても近づけない場所なの」
 「高エネルギー線が漏れているってことなの?」それにしても靴がないというのはじつに落ち着かない。下着を身につけていないようだった。
 「手がつけられない状況よ」
 「そこが“跡地”なのか。そんなところに向かってなにがしたいんだろう」
 「わからない。もしかしたら娘をそこに連れていって、世界をこんな悲惨な場所に変えてしまった見せしめとして、高エネルギー線による処刑をするつもりなのかも。ことによるとすでにそれも実行されているかもしれない。だけど、もしそうだとしたらせめて亡骸だけでも取りもどしたいわ」
 「それが親心だよね」
 「だからなのよ」
 「だから?」
 「滝口くんを呼びだしたのは」
 「どういうこと」
 「滝口くんの体、見た目はライフにいるころと変わらないと思うけど、じつはちょっとだけ変化、というか進化している部分があるの。さっきアランのマンションで血液検査したでしょ。あれはライフにいるころに滝口くんがしょっちゅう受けさせられていた人間ドックの検査とはちがうのよ。KG10っていうタンパク質の存在をたしかめさせてもらったの」
 「タンパク質って?」
 「代謝にかかわるタンパク質で、ふつうの人間にはそれが存在しないんだけど、どうやら実体化させたときの副作用として合成されるみたいなの。ライフのキャラクターを実体化させるにはパトスを撒くことが前提なんだけど、自我のない動物ならパトスなしに実体化させられるから、何度か実験していたのよ。それで確認されていた。高エネルギー線を代謝できるようになるのよ、実体化をつうじて」
 「どういうこと……?」おれは足をとめた。苔のようなものが付着した石のうえで、ぬるりとする気色悪い感触がひざを這いのぼってきた。
 「滝口くんの血中KG10値から考えて、あなたは予想したとおりの体に変化している。いくら高エネルギー線を受けても、おしっこのなかに排出できちゃうのよ」
 おれは両腕で自分の体を抱きしめていた。じっさいには三か月程度というが、感覚的には半世紀近く生きてきた肉体は、煮込みすぎたアイスバインみたいにぶよぶよで、筋肉なんてすっかりそぎ落ちてしまっている。夜中にふらふらと帰宅する途中、おやじ狩りに遭遇したら、無抵抗をつらぬいて即座に財布を渡したほうがいいにきまってる。それがどんな半グレ野郎たちよりも凶悪で、破壊力のある危険物質をアルコールみたいに分解して、ションベンとして体外に放出できるだと――。
 なるほど。
 すべてが氷解した。
 アインシュタインも真っ青の完璧な人生方程式。信じがたいエゴイズムだ。
 「つまり娘さんを救いだせるのは、ぼくしかいないってことだね」

 二十一
 堤沿いの小径を二時間以上かけて歩いたところで明かりが見えた。左手に広がる藪の奥、百メートルほど先だ。ナオミは懐中電灯を消し、その場にしゃがみこんだ。
 「人家かしら」
 「みたいだね」おれもしゃがもうとしたが、いきおいあまって石ころのうえに尻もちをついてしまった。足が疲れすぎて太ももの筋肉の制御がきかなくなっていたのだ。なさけないヒーローだ。暗がりであることがさいわいした。
 「もうバレてるわよね」
 指名手配のことだ。おれがこっちに来てからずいぶん時間がたっている。ティレルたちのような体制に反感を抱く人々がいるのは事実だろうが、すべての市民ではない。アラン夫婦のように通報されるおそれのほうが高いだろう。「すくなくともここがどこなのか情報はつかまないと。このままじゃどうしようもない」
 闇のなかでうなずきあい、おれが先頭になって藪のなかに足を踏み入れた。歩くたびにカサカサと不用意な音がする。明かりが近づくにつれて、おれは慎重に足を動かすようになった。警戒心もあったが、折れた藪が裸足には痛かったのだ。あれが人家なら、まっさきに靴かサンダルをかっぱらおう。
 白色の街灯だった。無数の蛾が狂ったように飛びまわっている。明かりが照らしだしていたのは、十台ほどがとめられる駐車場だった。その先に舗装された道路が見える。駐車場には一台のタンクローリーと例の流線型をした車が二台とまっていた。鉄骨を組んだやぐらのうえに給水タンクのような直径五メートルほどの球体も見えた。
 藪と駐車場を隔てる塀はなかった。おれたちはしのび足で駐車場を突っ切り、道路側に出た。道は傾斜しており、右方向が高くなっている。道の反対側に建物があった。二階建ての事務所のようで、一階奥の窓から新たな明かりが漏れていた。
 「モニタリングセンターね」ナオミがつぶやいた。
 事務所の敷地を道路と隔てるブロック塀に「HIGHLAND REGION MONITORING CENTER」との看板が出ていた。
 「なにそれ」
 ブロック塀の前にナオミはひざをついた。「皮膜コンクリートだけでは汚染は防げないのよ。空気は遮断できても、地中から染みこんできてしまう。だからそれを国土の周辺で除染しつづけないといけないの。それに使う除染剤を撒くためのパイプラインが皮膜コンクリートの内壁に沿って張りめぐらされていてね。そこに除染剤を定期的に供給しながら汚染値を測定しているのが、各地のモニタリングセンターなの」ナオミは駐車場を指さした。「あのやぐらのうえのタンクで除染剤を合成して、タンクローリーで運ぶのよ」
 「ここがどのへんか見当はつく?」声をひそめて訊ねた。
 「さっきのトンネルからいい方向に流されたみたい。ハイランドのどこかよ。送電ジャンクションに近づいている」ナオミは坂道がのぼっているほうを指さした。「そっちをのぼっていけば、ジャンクションに出るんじゃないかしら。パイプラインの除染剤バルブはジャンクションのすぐそばにあるんだから」
 「車を奪うしかないかな」口にしてみてむなしくなった。映画では、主人公が運転席の下にもぐってエンジンスターターの配線を引きちぎり、先端を接触させて火花を散らす場面がよく出てくるが、おれはそんなこと一度もやったことがない。ナオミだってそうだろう。だいたいそんなの都市伝説なんじゃないか。
 「どうしよう」ナオミは口をすぼめた。
 もう八時半になっている。
 「歩くわけにはいかないよな」考えられるプランとしては、あの明かりの漏れる窓をノックし、顔を出した職員を説得して車に乗せてもらうか、キーを借りるというのもある。しかしそれは口にするまでもなかった。
 「だれもいないなら、侵入しちゃうんだけどね」ナオミは開き直ったようにつぶやいた。すでに治安維持法違反という重罪で指名手配されている。住居侵入や自動車盗なんて屁でもないのだろう。「でも押しこみ強盗はちょっとな」
 「なかに何人いるかたしかめたほうがいい。一人なら通報される前になんとかできるかもしれない」カッコつけていってみたが、自信はない。その場で射殺されるかもしれない。せっかくの抗高エネルギー線体質だっていうのに。
 そのときだった。
 モニタリングセンターの正面玄関がぱっと明るくなった。玄関の奥に厚底ブーツをはいた作業着姿の男が立っている。インド系の顔だちで、ポケットに手を入れたまま外に出てきた。おれたちはあわてて暗がりに飛びこんだ。
 男は口笛を吹きながら道を渡った。ポケットから取りだした手にはキーのようなものが握られている。おれは建物の奥を振り返った。明かりはまだついている。男がこれから出かけるとして、まだなかにだれかいるのだろう。だが物音さえたてなければ、駐車場でひともんちゃくあったとしても気づかれまい。車があれば目指す送電ジャンクションに向かえるし、逃避行はいまよりスムーズになる。どこか人心地つける場所にだって行けるはずだ。自然とおれの体は動いていた。やつが銃を持っているかなんて考えもせずに。
 ナオミは賢明だった。娘の命がかかっているし、それを救えるのは何時間か前に作りだした、このサイバー人間しかいないのだから。おれは濡れたズボンの腰のところをつかまれ、抵抗もできぬまま、ブーツ男のうしろ姿を見送った。
 タンクローリーの非常灯が点滅した。男がキーを操作し、ドアロックを解除したのだ。フロントグリルはにらみつけるようにおれたちのほうを向いている。そのまま男が運転台におさまり、ライトをつけたなら、ここはスポットライトを浴びるステージと化す。おれたちは男に気づかれぬよう横に二十メートルほど移動し、新たな暗がりに逃げこんだ。
 男は運転台にすべりこんだ。ルームランプに照らしだされた車内は、アジアの長距離バスさながらの派手な装飾がほどこされている。ドアが閉じると同時にランプが消えたが、男がたばこに火をつけるのはわかった。
 エンジンがうなりをあげ、サーチライトのような明かりが闇を切り裂いた。
 「どっちに行くんだろう」
 「一日に何回か巡回するはずだけど」
 「街にもどるなら、奪うしかないね。運転台に飛びつけば――」
 口にしたとき、タンクローリーが動きだし、坂道のうえのほうにフロントグリルを向けだした。車体が道路側に完全に移り、ブーツ男が一速のままアクセルを踏みこんだとき、おれもナオミも飛びだした。赤いテールランプにみるみる近づいていく。そしてじわじわと車速があがりはじめたそのとき、おれたちは荷台のタンクからのびる鉄梯子に同時に手足をかけていた。あとは送電ジャンクションまでブーツ男が連れていってくれるはずだ。
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