十三~十五

文字数 10,958文字

 十三
 尚美は諭すようにおれの目をじっと見つめた。
 冗談なんかじゃないのよ。厳しいまなざしがそう語っていた。「それを呼びだしたの。こっちの世界、現実の世界に」
 体が宙に浮くような感覚におれは包まれた。後頭部から首筋、背中、下肢へとみるみる血の気がひいていく。ゲームならおれだってやる。リアルな設定のものが多いから、ついそのキャラクターに感情移入することだってある。だがキャラクター自身に意識、自我なんてあるのだろうか。だってその言葉や行動は、ただの電気信号にすぎないのだし、それを動かしているのはプレーヤーなのだから。
 「ぼくが映像のなかでうごめく電気仕掛けの存在だっていうのかい?」荷台にだらりと両足をのばしておれは訊ねた。なんだかおかしくて頬がゆるんでしまった。あまりにばかげている。あこがれの女を前にしながら、キレてしまいそうになった。ぶっきらぼうに言い放つ。「ぼくはぼくだよ。こうして自分の頭で物事を考えることができる。ゲームの駒にしては、高等すぎるぜ」
 「ライフのキャラには自律性があるの。それを開発したから大ヒットしたのよ」
 大ヒット?
 おれは冷静を装い、記憶をたどった。「さっき仮想空間の研究をしていたとかいってたよね。もしかしてそれってそのライフってゲームのことをいってたの?」
 「そう。わたしはイミトゥレイ社の研究員として、ずっとライフの開発を担当しているの。人工知能の技術をベースにしたキャラクターの自律思考性はわたしの研究成果なのよ。」
 「ぼくが暮らすあの世界が、ぜんぶゲームだというのか」
 「自律思考性があっても、キャラクターはその点だけは気づかないようになっている。まぁ、なかには『この世はゲームだ』なんてわかったようなことを口走るキャラもいるんだけどね」
 「じゃあ、ぼくの半世紀近い人生はなんなんだ。ずっと頭のなかでつづいているモノローグはなんなんだよ」
 「初期設定をほどこしたのはたしかなの。だけどライフのなかに投入されたあとは、プレーヤーはキャラクターの行く末に影響をおよぼすことができない。つまりあとは、あなた自身の自我にもとづいて自由に行動しているの」
 「生まれたときから、ずっとぼくはゲームのキャラだったのか。家族も職場の連中も街中の見知らぬ者たちも、みんな電気信号にすぎないというのか。だったら膨大な人類の歴史も――」
 「現実世界、つまりマスジットシティでの出来事を反映しているのはたしかよ。だけど考えてみてくれるかしら。そもそもここもふくめて、目の前に広がる世界そのものが主観的な想像の産物でしかないのよ」
 「どういうことだ」
 「目の前にリンゴが一つあるとするでしょ。だけどそれって本当に存在するのかしら。そんなことだれにもわからないはずよ。ただ、人間の脳がそれを感じ取って、そこに存在すると思わせているだけじゃない。その証拠に、人によってそのリンゴの見え方がちがうはずよ。色とか形とか大きさとか、微妙にちがって見えているけど、そのちがいに気づかずに、とりあえず“リンゴがある”とみんなで思っているだけ。だけど、そのリンゴのわきには、だれもが見落としてしまっているなにかがあるかもしれない。どんなに見ようとしてもだれにも知覚できない世界。ライフでいうなら、その世界や登場するキャラクターがすべて作りもので、背後にプレーヤーが存在する点がまさにそれ。絶対に感じることができないし、逆にいえば、そんなことに気づかれたらたいへんなことになるでしょう」
 「ぼくは生まれてこのかた、きみが作りあげた世界のなかで肝心の部分に気づかずに暮らしてきたってことか。なるほどね。すくなくともぼくが生きてきた世界では、神さまは目に見えない存在ってことになっている。なおみちゃん、冗談みたいな話になっちまったけど、きみは名実ともにぼくの女神だったってわけか」おれは卑屈な笑い声をあげた。
 尚美は超然としたようすでまさに神性を帯びていた。
 「神かどうかはべつとして、知覚できない世界が存在するということよ。こちらの世界とレベルはべつとして、ライフの世界にも科学ってものがあるでしょう。それに準じて考えれば、量子物理学と呼ばれる考え方なんかは、まさに人が知覚できない世界を解明しようとしているんだし、あなたたちが考える“宇宙”の概念にだって、ダークマターやヒッグス粒子といったものがあらわれてきているでしょう」
 「ぜんぶきみたちが作りあげたのかな。その“設定”をつうじて」
 「そうじゃないわ。わたしたちはプレーヤーとしてキャラクターをライフの世界に送りこむだけ。基本的な設定はするんだけど、あとはライフのなかでそれまで培われた歴史や文化や科学的知識が反映されるようになっているの。それにライフに存在するすべての人をこっちの世界にいるプレーヤーが作ったわけじゃない。ライフは基本的に人工知能だと思えばいい。プレーヤーごとのキャラクターの合間を埋めるように、ライフ自体がどんどん登場人物を増やしていけるの。それによってキャラクターの暮らしも影響をうける」
 「だとするとぼくの会社の連中は、ライフのコンピューター自体が生みだしたサイバー人間ばかりってことかな」
 「全員ってわけじゃないわ。ライフのプレーヤーはマスジットシティの人口の十分の一、一千万人ぐらいいるんだから、おなじ会社にもプレーヤーが作りあげたキャラがいてもおかしくないわ」
 「だけどぼくが知るかぎり、地球の人口は六十億人。マスジットシティの全人口がライフに取り組んだって、ほとんどがサイバー人間って計算になるけどな」
 「六十億人全員とあなたが接触するならね」
 「どういうこと?」
 「六十億人なんていう数字、所詮はあなたがどこかで仕入れた知識にすぎないでしょう。現実に一人のキャラがライフのなかで出会ったり見かけたりできる人の数は、一生をかけてでもさほど多くはないわ」
 たしかにそうかもしれない。おれは世界を知っているつもりで、じっさいには行ったことがない場所ばかりだし、そこに暮らす人々のことなんて、テレビを見て想像しているにすぎないからだ。
 尚美はおれの頬に手をのばし、もうしわけなさそうにいった。「じつはね、あなたに関しては、もっと切実な話をしないといけないのよ」
 「死ぬ日まできまってるとかいうんだろ、どうせ」
 「そうじゃないの。滝口くん、いま、何歳だっけ」
 「何歳って……なおみちゃんとおんなじだろ。四十八歳と六か月ってところかな」
 「これまで振り返ってどう?」
 「どうって……やっぱりぼくの死期が近づいているとかいうんだろ」
 「いいから、これまでの人生、長かったと思う?」
 「そういう話か。それならすぐ答えられる。あっというまだった。人生なんて、まばたきする間の出来事だなんていうけど、まさにそんな感じだな。だってきみに最後に電話をかけた日がつい最近のことのようだもん。でも現実には、てゆうかライフではあの日から三十年近くたったわけで――」
 「三か月よ」尚美は平然といってのけた。「それもあの日からじゃないわ。わたしがあなたをライフに投入してから、わずか三か月しかたっていないの」
 「三か月って……」それにはおれも言葉を失った。
 「イミトゥレイの研究者としてライフの開発にはたずさわったけど、自分自身がプレーヤーになったことはなかった。だけど三か月前、ある悲しい出来事があってね。それから逃れるためにあなたを作って、ライフに送りこんだの」
 「そんなばかな」
 「本当よ。あなたはライフのなかで三か月しか暮らしていないの」
 混乱、困惑、混沌、矛盾……。
 灰を混ぜた濃緑色の膿のようなものがねっとりとした渦を巻きながら、おれの頭のなかでうごめきだした。それからたっぷり一分間、黙りこくってしまった。
 そしてようやく口を開く。「じゃあ、ぼくのそれまでの記憶は――」
 「あたかも実体験したかのように巧妙に設定されているの」
 「待ってくれ。じゃあ、高校時代の思い出は……受験が終わったあとのあの事件は――」
 「そうよ。すべて設定されたことなの。基本的な筋書きはわたしが考えたんだけどね」
 めまいをおぼえた。なにかたいせつなものが音をたてて崩れていく。自然と言葉が口をついて漏れだす。「そんなわけないよ……」
 「すぐには受け入れられないと思うけど」
 「ぼくの人生を大きく変えたつらい出来事だったんだ。いまでも疼くトラウマになっている。だけどいまとなっては、だいじな思い出なんだ。きのうのことのように思いだせるし……そうだ、なおみちゃん、さっき、きみにふられたことをぼくがいつまでもおぼえているのは『そういうプログラムだったんだから』とかいってたよね。あれはどういう意味なんだろう」
 「ライフに投入されたあとは、プレーヤーはキャラの行く末に影響をおよぼすことができないの。だからこそ、どんなプレーヤーも自分のことをどこかでキャラに感じさせようと痕跡を残すものなのよ。たいていは潜在意識のなかに埋めこむようにしてね。わたしはそれをもっと具体化して設定した。滝口くんは認めたくないだろうけど、谷本尚美という高校時代の忘れえぬ存在は、プレーヤーであるわたしを感じてもらうための一つの方法だったのよ」
 おれは荷台のごつごつした鋼鉄製の床に胎児のように体を丸めて横たえた。そっちのほうがひんやりとして正気をたもてそうだったからだ。もうすぐ三時半になる。トラックは左右に水田が広がる一本道をかなりの速度で進んでいた。舗装してあるが、ところどころ陥没しているらしく、断続的にひどい衝撃が下から突きあげてきた。
 「きみは本当はなんていう名前なんだい」
 「ナオミよ。それは本当」
 「なるほど……最後に電話をかけたあの晩、きみはぼくから離れていき、思い出だけの人になった。だけどきみという存在自体、三か月前にすりこまれた記憶だったとはな。だいいち記憶がプログラムされるって、どういうことだよ。なんだか自分がコンピューターになっちまったみたいだ。ぼくがきみに恋焦がれているのは、きみ自身が機械的にそう設定したからなのか」できるだけ冷静にいったつもりだが、やはりきつい口調になってしまった。
 尚美、いや、ナオミはそれには答えなかった。
 おれはひとり言のようにつぶやいた。「こんなことなら、真実なんて伝えてくれなくてもよかったのに。ライフだろうがなんだろうが、ぼくはあっちの世界でじっとしていたほうがよかったんじゃないか」
 「絶望の淵にさしかかっていても?」
 その問いにはすぐに返事ができなかった。キャラクターをライフに投入後は、影響をおよぼせないとしても、プレーヤーはその成り行きを見守っているのだ。「絶望的だったんだろ、ぼくの人生。はたから見ても」
 「どうかしら。価値観のちがいもあるし、経済的には相対的に恵まれているほうだったんじゃない? ただ、仕事も家庭も行き詰まっていて、焦りのようなものがあったわ。だから大きな変化をもとめていた。コペルニクス的転回ってやつね」
 もはや苦笑するしかなかった。「お見通しだね。ただ、加奈にそれをいったのは、あの子に広い視野を持ってほしかったし、あんまりあわてていろんなことをきめないでもいいって伝えたかったからなんだ。そうだ、一つ教えてほしいんだけど」
 「なにかしら」
 おれは壁に手をついて体を起こし、訊ねた。「加奈はサイバー人間なのかな」
 ナオミはにっこりと微笑んだ。「あなたの周辺人物として、わたしが設定したキャラよ。奥さんもそう。さっき見たでしょ、奥さんの視点で映るサブチャンネルの映像を。加奈ちゃんの視点に切り替えることもできるけど、見てみる?」
 寝室の鏡に映る玲子の裸体が頭にこびりついていた。「遠慮しとくよ。たとえきみが作りだしたものでも、あいつの人生なんだろう。のぞいたりするのはよくないよ。コペルニクス的転回の最中かもしれないし」おれは、娘が長髪を茶に染めた男にくみしかれている姿をはからずも想像していた。
 「滝口くん、あなた自身がいまコペルニクス的転回の真っ最中なのよね」
 「なにがなんだかわからないよ。ありえないことが起きているんだからね。いったいぜんたいどんな方法を使って、ぼくを“ゲーム”のなかから呼びだしたんだい。電気信号で構成されているただの映像なんだろ。それがこんなふうに三次元の体になって飛びだしてくるなんて」
 「量子力学的な考え方に基づいているの。ライフのなかはもちろん電子の世界なんだけど、つきつめたら原子レベルの世界でしょ。その意味では、こっちの世界と大差ないのよ。そのあいだを移動させたときに、いかにこっちの世界にふさわしい形に再現するかだけど、それには量子がもっている同期性、シンクロニシティ―を活用するの。それによって、キャラクターをこちらの実世界に転写して引っ張りだす。簡単にいうとそんな感じね」
 「簡単じゃないけどな。そもそもぼくは方法なんかより、理由のほうが知りたいね」
 「理由はね」ナオミは荷台の天井の向こうに大空が見えるかのように上を向いた。「三か月間、いっしょに過ごすうちにわたしがあなたに恋してしまったからよ」
 「高校時代の思い出が本当のことで、ぼくがまともな人間だったなら、このうえなくうれしい言葉だね」
 出会ってからはじめてナオミは悲しげな顔をした。「本当なんだけどな……想像以上に滝口くん、ステキな男性に思えたから。たとえ奥さんやお子さんがいてもね」
 おれのなかでなにかが疼いた。人為的に潜在意識が構築されたにせよ、おれは目の前にいるこの女に出会う運命だったのではないか。だからこそおれは聞かねばならない。それにようやく気づいた。
 「さっき悲しいことがあって、それから逃れるためにぼくを生みだしたっていってたよね。さしつかえなければ教えてくれるかな、その出来事を」
 車がゆっくりと速度を落とし、停車したのはそのときだった。

 十四
 車に乗ってから三時間以上がたっていた。田舎の街道沿いのドライブインの前だった。荷台との仕切り窓を開けてティレルが説明する。この先で検問が行われており、荷台が開けられる恐れがあるらしい。
 ドライブインといっても、広がった路肩にオープンエアの屋台が何軒かたっていて、その前に二十台ほどの駐車スペースがあるだけの場所だった。車は二台しかとまっておらず、屋台は閑散としていた。ジャメは駐車エリアのいちばん端にバックでとめ、荷台の扉を開けてもなかが他の利用者の目に触れないよう気をつかってくれた。
 「あんた、相当なことをやらかしたんだね」荷台の扉をそっと開き、ティレルがいう。「いま政府から全市民にメールが入ったんだけど、あんたの身柄を確保した者には賞金が出ることになった。逆にいうと、あんたをやつらから隠してるおれたちは、重罪人ってことだな」
 「無理じいはしないから」ナオミは毅然としていった。「ここまで乗せてきてくれただけでも感謝しているわ。あとは自力でなんとかする」
 ティレルはわきに立つジャメと顔を見合わせた。「なんとかなればいいけどな。だけどこの先、いくつ検問があるか知れない。車なしで、どう突破しようっていうんだい」
 「夜まで待つわ」ナオミは扉の隙間からのぞくアブラヤシの林に目を向けた。直線的な幹の合間からは午後の強い日差しが漏れてくる。それでも荷台には涼しいそよ風が吹きこんでくるようになっていた。
 「間に合うのかい。タパンのあたりまでいくんだろ。もうすこしのところだが、徒歩では難しいな」
 「ヒッチハイクでもするわ」
 ティレルはジャメの顔色をたしかめてからいった。「事情を聞かせてくれたら、もうすこし協力してもいい。ジャメは払うもの払えば、どこまででも運転してくれるだろうし」
 ナオミはトートバッグから革の財布を取りだし、なかをたしかめた。「五万あるわ。でもそれが限界」
 「タパンまでならそれでOKさ」ティレルのわきからジャメが返事をした。
 「後払いよ」
 「わかってるって」ジャメは太鼓腹をたたきながら何度もうなずいた。
 ティレルが荷台に顔を突っこんできた。「タパンってことは、そこから山に入りたいんだろ。つまりハイランドを越えてアウターに出る計画なんじゃないか。送電用のジャンクションがあのあたりにはあるはずだ。ギョルの警備網のなかでいちばん手薄なジャンクションだって、以前、レジスタンスの連中から聞いたことがある」
 「まぁ、そんなところね」ナオミはぼそりと白状した。
 「だったらなおさら明るいうちのほうがいいな」ジャメが気づかわしげにいった。
 ティレルは涼やかな風に揺れるアブラヤシの林のほうに派手な銀の指輪をはめた手を広げた。「このあたりはおれのふるさとなんだ。この林の奥の崖下にもう何年も前に廃線になった線路がある。そこを北に五百メートルぐらい進んだところにトンネルがあるんだ。いまそっちのようすを見てきてやるよ。やつらがいないようなら、そのトンネルを進むといい。二キロぐらいあるかな。出口のところで待ってるから。それでいいかい」
 ナオミは即答した。「ありがとう。それでいいわ」
 「じゃあ、ちょっくら偵察と行くか。ついでに飲み物と食べものを買ってきてやるよ」
 「だったらこれを使ってちょうだい。手付金がわりよ」そういってナオミはティレルに見慣れぬ札を何枚かわたした。
 二人は屋台のほうへ向かった。その裏手からヤシの林に下りるのだろうか。まさか車を残してトンズラはしないだろうが、アランのように通報する恐れがないとはいえない。
 「信じるしかないわ。たとえわらでもすがらないと」
 おれは扉をもうすこし押し開き、風がもっと入るようにした。屋台のほうをのぞいたが、こっちを気にしている者は見あたらない。肉をニンニクで炒めるようなうまそうな匂いが漂ってきて腹が鳴った。緊迫した事態であったが、原始的な本能は旺盛なようだ。
 「腹減ったなぁ」
 「お昼食べていないもんね」ナオミは気づかってくれた。「朝、サンドイッチだけだっけ」
 「ドトールのツナサンド。最近タマゴサンドはよしてる。ハイカロリーだからね。だけどさっき揚げパンも食べちゃったか。きみはどうだい……ナオミ……」
 「いいわよ、ちゃんづけで」おれの手にそっと触れ、にっこりと微笑んでくれた。高校時代の思い出そのままだった。高校時代はもちろん、浪人時代にデートしたときだって手なんて握れなかった。それをいまはさりげなく触れ合っている。なんと感動的な展開なのだろう。それにナオミは本当にきれいな瞳をしている。おれはそのまぶたにキスしたい衝動をおぼえた。「うん、じゃあ、なおみちゃんはおなかすかないかい」
 「すこしね。ほんとならこんな屋台で滝口くんといっしょに冷えたビールでも飲めたら最高なんだけどな」
 「現実の世界にもビールがあってよかったよ」
 「ライフは現実の映し鏡。ライフにあるものは、たいていこっちの世界にあるんだから」
 「なるほどね」おれはアブラヤシの林を見つめた。「風が気持ちよくなってる。夕陽もきれいなのかな。このままずっとここにいたら、トワイライトタイムのシチュエーションとしては最高だね」
 「そうかしら」ぽつりとナオミが口にした。「夕陽なんて、そんなにきれいかしら」
 「自然の妙さ」
 「本物ならね」
 「えっ……」
 「照度も熱量もそっくりに作った人工太陽よ」ナオミはさらりと告げる。
 「人工太陽……?」
 「半球面上の軌道を動いているの。最大高度で一万メートルぐらいかな。軌道も毎日変わるよう計算されている」
 「よしてくれよ、ここはライフじゃないんだろ」
 ナオミは夕陽を見つめた。「現実よ。ゲームの世界じゃないわ。だけど自然の世界でもない」
 「よくわからないな。こんなに自然がいっぱいあるのに。すくなくとも東京以上だ。そうだな、マレーシアのクアラルンプール近郊って、こんな感じだったと思うけど。もちろんライフのなかでだけどね」
 「あなたを作りだすきっかけになった悲劇について話すなら、やっぱりこの話からはじめないといけないよね」そういってナオミは噛んでふくめるようにゆっくりと話しはじめた。それを聞くうちにおれは失踪した梶村美沙のことを思いだしていた。やつが最後に取り組んでいた取材のことだ。
 ライフは現実の映し鏡――。
 ナオミのその言葉は、いまのおれに痛いくらい突き刺さってきた。

 十五
 ライフが現実を投影しているとしても、もちろん文明程度に差があり、おそらく百年程度のちがいがあるらしい。現実のほうがそれだけ進んでいるのだ。つまり、おれがTHKの職員として汲々としている時点から換算して、百年後にライフに起きる事態について、ナオミは話してくれた。
 問題はいたって簡単平明だった。人口爆発とエネルギー不足。あくなき欲望が生みだした悲劇だった。
 いまからおよそ半世紀前、この世界には、超大国から新興国まで百を超える国があり、電力エネルギー需要はうなぎのぼりとなっていた。そこでもっとも効率がよく、慎重に稼働させさえすれば安全でクリーンな発電として、高エネルギー物質の活用が促進された。ナイド66という鉱物を量子分解したさいの熱量を利用するのだが、そのさいに放出される高エネルギー線は、体内に長期間残留し、遺伝子レベルで細胞を傷つける厄介者だった。しかもそれを分解したのちに残るナイドロン27の処分も困難だった。そこで科学の粋を集めて、再処理や無毒化がはかられたのだが、最終的には各国で排出されたナイドロン27を人跡未踏の地、モンカロに国際処分場をつくり、地中深くに埋めるという対症療法的な方法が採用された。それを免罪符に世界の人々は、電気を湯水のごとく使い、自らの欲望を満たすことにあらためて血道をあげるようになったのである。
 過去数万年間、地殻変動が起きておらず、今後もその可能性が極めて低いというのが、モンカロが候補地に選ばれた最大の理由だったが“最後の日”を経験した者にとっては、笑止千万な話である。記録によれば、うららかな春の日の午後、約十分間、長周期振動がモンカロを襲い、貯蔵施設を縦に寸断する形で深さ三キロにおよぶ巨大な地割れが生じた。それだけならまだしも翌日には地割れ部分が熱を持ちはじめ、周囲の温度が急上昇した。地中のマグマが上がってきたというのだ。
 ナイドロン27の漏出が確認されたのは、地震から一週間後のことだったが、それは各国政府が共同声明を出した時点という意味で、じっさいには地震直後から高エネルギー線量レベルが上昇していた。
 熱を帯びたナイドロン27は、上昇気流とともに空気中に飛散し、周辺千キロが危険地域として立ち入りが禁止された。そのなかには多くの人間が居住していたが、事故の数時間後には、千キロ地点でも一年間に浴びる高エネルギー線の二万倍の線量が域内に拡散しており、全住民が一週間以内に死亡した。その後もモンカロは高エネルギー線という猛毒を吐きだしつづけ、危険地域は急速に広がっていった。
 マスジットシティは、もとはモンカロの南西七千キロに位置するマスジスタン列島の南端にあるマスジスタン国だった。マスジティアンと呼ばれる民族を中心とする国で、天然資源こそ乏しかったが、世界トップレベルの高エネルギー発電技術を有する先進国家だった。そして国際処分場を建設してナイドロン27を押しつけようともっとも旗を振ったのは、この国の政治家たちだった。
 首相を務めていたビッグ・ギョルは、モンカロの地割れ部分を石棺で覆う国際プロジェクトに表向きは参加の意向をしめした。しかし一方で国益優先の姿勢を貫いた。現在のマスジットシティの住民にとって、ビッグ・ギョルは敬われこそすれ、恨まれるような人物ではけっしてない。それは七十億の人口が一気に一億人にまで減少するという有史以来の出来事を世界が経験したことを思えば、当然の話だった。
 ビッグ・ギョルは国家全体に非常事態宣言を発令し、空路による交易を禁じて鎖国状態に入った。そのうえで有事に備えて長年練ってきたある計画を実行に移した。すなわち秘密裏に国土上空一万メートル地点に人工の静電離層を作りだし、そこに雲状に活性化させた皮膜コンクリートを吸着させていったのだ。皮膜コンクリートは、上昇気流を受けて上空にとどまったまま、やがてゲル状に固まり、高エネルギー線を吸着する性質があった。そして国土周辺部にいくにつれて皮膜コンクリートの量を増やすことで、その重量で自然と皮膜が地上へと垂れ下がるように設計し、最終的に内側と外側の気圧差によってドーム状に膨らんだ状態を作りだす計画だった。
 計画は当初から同盟国などに漏れていたが、三年で完遂した。それだけのテクノロジーがあるならば、そもそも国際貢献としてモンカロからの高エネルギー線の放出阻止のために活用すればいいはずだが、ビッグ・ギョルはそうしなかった。同盟国をはじめ周辺諸国から厳しい批判を浴びたが、それらをいっさい無視して鎖国を貫いた。それにはビッグ・ギョルなりの目算があったことは、歴史家があきらかにしている。ビッグ・ギョルは、モンカロからの汚染物質の放出は、たとえどんな技術を駆使してもあらがえぬほどのレベルに達していることを当時から見抜いていた。そして汚染が周辺国に急速に広がり、死者が増大するのをまのあたりにして、決断に踏みきったのである。
 当時、各国で高エネルギー発電が電源構成の八割以上をしめていたが、汚染地域の拡大と避難民の爆発的増大は、それら施設の操業停止を引き起こした。やがて施設自体への電力供給が不能となり、安全管理システムが停止するようになった。そこから先は加速度的に早かった。ナイド66と廃棄物であるナイドロン27を安定させていた冷却水プールの水が蒸発し、高エネルギー物質の温度が急上昇してメルトダウンを起こすとともに、大気への拡散がはじまったのである。それが各地の発電所で連鎖的に発生し、もはや手のほどこしようがなくなった。人口急減のはじまりである。
 諸外国の状況からビッグ・ギョルはあることを悟った。このまま他国が壊滅し、世界の人口がマスジスタンの一億人のみとなれば、もはや高エネルギー発電に頼る必要はない。皮膜コンクリートによる巨大ドームで国土を覆いながら、ビッグ・ギョルは未来世界のありようを思い描いていたのだ。
 ただ、首長による究極のエゴイズムも自国民を真に守ることができなかった。人間が作りだした汚染物質に対する大地の怒りは、底知れぬほど深かったのである。
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