三十四~三十六

文字数 17,439文字

 第四部
 三十四
 嗅いだおぼえのある臭いがして、かまどに放りこまれたような熱に全身が包まれた。喉の奥から嗚咽がもれ、いつしかおれは横たわり、胎児のように体を丸めたままがたがたと肩を震わせていた。
 「だいじょうぶですか」
 遠くから聞こえてきた声に自然と体が反応し、ぎゅっとつぶっていた目を開けることができた。目の前に白と黒がぼんやりと浮かびあがり、こんどは冷気が首筋を走る。心地よい涼しさだった。
 「だいじょうぶですか」
 若い男がのぞきこんできていた。警備員の格好をしている。背後に塗りたての白壁が広がる。黒いのは床のカーペット。そこにおれは倒れていた。
 体を起こし、目の焦点が合ったとき、激しい動悸が起こった。とっさに振り返る。
 鉄扉があった。
 開けるのにいちいち職員証が必要な扉だ。向こうを見わたせるガラスの小窓のわきには、7Fと表示されている。
 「マジかよ……」
 おれはその場にあぐらをかき、体を見まわした。長い夢だったにちがいない。きっとここでなにかが起きておれは気絶し、倒れたままでいるところを発見されたのだ。時々、この非常階段ですれちがう気のよさそうな警備員に。ことによるとごく短い時間だったのかもしれない。夢ならよくあることだ。
 体じゅうが白い砂にまみれていた。着ているのは、見覚えのある白いTシャツに迷彩柄のズボン。左の太ももの部分が裂け、その下に巻きつけた包帯がのぞいていた。遅ればせながらズキズキする痛みがそこから這いあがってきた。だが本当におれを困惑させたのは、体をよじったときに腰に走った激痛だった。シェルターの天井ハッチから落下したのだ。ことによると骨に異常があるかもしれない。
 「あんた、いったいぜんたいどうしたんだい? えぇ?」警備員の隣からおばちゃんがのぞきこんできた。「見慣れない格好してるねぇぇぇぇぇ」
 「おれは……」動悸は落ち着きはじめていたが、言葉が見つからない。
 泣き声をあげぬ新生児を刺激する助産師のように、おばちゃんはおれの体をたたきだした。「あれあれ、なんでこんなに砂まみれなのさぁぁぁぁ。お掃除がたいへんになっちゃうよぉぉぉぉ。それになんであんた、裸足なんだいぃぃぃぃぃ?」
 もどってきたのか。ゴムひもが元にもどるようにして――
 ライフに。
 「ナオミは……尚美は……」記憶は消えていなかった。いまのところは。
 「あんた、ほんとにだいじょうぶなのかいぃぃぃぃぃ?」
 あのときおれは……撃ってしまったのか……。
 「滝口さんですよね」警備員が訊ねてきた。「防災センターでカバンをお預かりしていますよ。きのうの朝、ここに置きっぱなしになっていたので。職場にも連絡はしてあります」
 腰の痛みをこらえ、そろそろとおれは立ちあがった。プレーヤーの影響から逃れ、人工知能であるライフのネットワークによって生みだされた自立したキャラクターの脚で。
 「きのう……?」しげしげと自分の体を見まわし、めまいをおぼえた。たしかに全身が砂まみれだった。
 銃は?
 腹に手をやったがなにもない。迷彩ズボンの左右のポケットに手を突っこんでみたが、どっちもあの美しいビーチの砂が詰まっているだけだった。やはり銃は手放してきてしまったようだ。
 「はい、きのうです。九時半すぎだったと思います」
 「きのう、あんた、調子悪そうだったもの」おばちゃんが心配そうにいった。「いったいなにがあったんだい。計算センターに行ってきたのかいぃぃぃぃぃ?」
 「いや……ちょっと……」涙があふれてきた。行ってきたのは計算センターなんかじゃない。おれたちの創造主が暮らす世界に足を踏み入れ、そこでソウルメイトとでも呼ぶべき女に出会い、翻弄されたあげく、最後の最後におれのほうから……。
 いったいなんてことをしたんだ。
 たいせつな人を。
 だれよりも愛していた人を。
 まるでこっちから電話をたたき切るようにして。
 谷本尚美と決別した十九歳の春のように。
 そしてやがてその記憶も霧消してしまうのだろうか。
 「へっ」おばちゃんは鼻で笑った。「あんた、なんだかぁ、浦島太郎みたいだねぇぇぇぇぇ。おっかしいねぇぇぇぇぇぇ」
 記憶が完全によみがえった。
 本当にたいせつなのはだれだ――。
 「カバン、防災センターだっけ」
 「すぐにお返しできますよ。歩けますか」若い警備員はおれに手を貸そうとしたが、おれはそれを丁重に断り、裸足のままゆっくりと階段を下りた。
 防災センターについたとき、なかにいた警備員はもちろん、その前を行き来する職員たちから宇宙人でも見るような目を向けられた。とにかく裸足は自分でも落ち着かない。
 カバンを回収し、そこから先、息を詰めて公園通りに飛びだすなり、急ブレーキをかけたタクシーにそのまま乗りこんだ。
 「武蔵小杉! 急いでくれ!」
 初老の運転手を怒鳴りつけ、おれはカバンをたしかめた。財布も家の鍵もあるが、スマホは電池切れだった。公衆電話を使おうかとも思ったが、探している時間が惜しかった。おれは渋谷駅前の渋滞にはまった運転手をもういちど怒鳴りつけたい衝動をこらえながら、ギョルが言い放った最後の言葉について考えていた。
 「イソザキが……調べているんだな……」
 やつは十中八九、新たなプレーヤーを投入しているはずだ。それはおれの家族に危害をくわえることを目的としているにちがいない。間に合えばいいのだが。
 マンションに到着するなり、おれは財布から五千円札を抜きだし、運転手の手に押しこんだ。釣り銭をもらっているひまはなかった。裸足のままエントランスに飛びこみ、オートロックのパネルに鍵を突きたてる。
 するりと鍵がまわり、ドアが開いたので安心した。ギョルのキャラクターがライフに登場した波紋は、すくなくともおれの棲み処にまでは影響していないらしい。だが気を引き締めないと。そもそも妻が玲子で、娘が加奈であるといういまの認識も、ギフテが梶村美沙を生みだしたときとおなじく、設定変更に基づく修正された記憶なのだろうか。それともギョルのキャラクターが入ってきたとき、おれはまだあっちの世界にいたのだから、すくなくともおれの記憶はもとのままなのだろうか。
 どっちにしろいまはこの記憶を信じるほかない。
 エレベーターが来ていなかった。階段室に飛びこむ。
 六〇三号室の錠は難なく開いた。ドアガードがかかっていれば妻か娘がいる証拠だったが、あいにくドアはすんなりと開いた。
 「おい、いるか!」
 それでもおれは声を張りあげた。が、玲子も加奈もいない。部屋を見分するかぎり、以前と変わりはない。おれは充電器にスマホを接続し、電源を投入した。案の定、玲子から留守電とメールが六件も入っていた。いずれもけさ六時から九時半にかけてだ。最初のは「出張だったっけ?」とのメールだったが、やがて留守電に「連絡ちょうだい」と入り、しまいには「なにかあった? 電話ぐらいしてよ」と怒りの絵文字も入れずに送ってきた。最後の留守電は九時三十四分。職場に電話を入れたらしい。「きのう出勤しなかったって本当? どうしたっていうのよ。心配するじゃない」と震え声で録音されていた。それは事件や事故に巻きこまれての失踪というより、愛人と連れだっての逃避行を恐れているようだった。磯崎を連れこんだことにいまになって罪悪感をおぼえたらしい。
 「だからって会社に電話すんなって」おれは職場に電話を入れ、上司に無断欠勤をわびた。体調不良を理由にしたが、喫緊の業務があったわけでもないのでさして文句もいわれなかった。それどころか家族から電話が入ったことで、かえって上司は特別な興味に駆られているようすだった。
 今日も休むことを告げて電話を切り、即座に玲子に電話を入れたが、留守電に切り替わった。加奈もおなじだった。ギョルはいったいなにをした。焦りが募り、おれはテレビをつけた。よりによってうちの会社の昼ニュースの時間だった。すでにおれは最悪のケースを受けいれようとしていた。全国ニュースが終わり、関東地方のニュースに切り替わった。おなじ若いアナウンサーが一拍置いてから原稿を読みはじめた。
 ……玄関に倒れていたのは、その部屋に住む会社員、磯崎俊和さん、五十六歳で、病院で死亡が確認されました。頭部に鈍器のようなもので殴った痕があったことなどから、警察では……。
 現場検証する捜査員たちの映像の下に、氏名のテロップとともに映しだされた顔写真を見るなり、血の気が失せ、おれはその場にしゃがみこんでしまった。
 おとといの晩、まさにこの部屋でカリフォルニアワインのうんちくをたれていた男の顔が、いまテレビに映ったのだ。強盗殺人事件の被害者として。
 磯崎は元刑事だ。だれかの恨みを買っていたのかもしれない。しかし直近では、美沙がレインボーブリッジから転落した一件を調査していた。だとすると美沙を襲った犯人に襲撃された可能性は高い。だがギョルが新たに放った刺客でないとは断言できない。狙ったのは磯崎なんかでなく、磯崎といっしょにいた――ベッドにいた――おれの妻である。ギョルは新たに投入したキャラクターにそんな設定をほどこしたかもしれない。
 玲子はどこだ。
 最悪の事態ばかり想像しようとする脳みそを凍らせ、とにかくおれは冷静さをたもとうとつとめた。玲子がいつも使っているキャビネットのひきだしを開け、そこにあった名刺の束のなかに磯崎のものを見つけた。目黒の警備会社で、肩書には「防犯コンサルタント」と印字してある。そこに印字された番号に電話を入れると、磯崎に警察勤めを早期退職させた社長が出てきた。だが先方も混乱していてろくな話ができず、前夜の磯崎の行動――具体的には玲子と会っていたあとの話――を訊ねることすらできなかった。
 束のなかにホテルのレストランの名刺があった。玲子のパート先らしい。これまで幾度となく話にのぼっていた場所なのだろうが、まじめに聞いていなかったので記憶にとどまっていなかった。従業員の家族から電話が入ったら先方も驚くだろうが、非常事態だ。
 玲子は店にいた。
 予想に反してかみついてこなかった。いじめを疑われて校長室に呼びだされた息子と面会した母親の反応とおなじだった。
 「あなた……なにしたの……」震え声で訊ねてきた。磯崎が殺害された一件をすでに知っているらしい。きょうは出勤日でなかったが、なにか事情を知らないかとワインサークルを主宰するシェフのもとを訪ねたというわけだ。「いまどこに……」
 「家だよ。帰ってきたところだ」
 「どこ行ってたの」詰問というより、不安に満ちた声音だった。年上の男を自宅に連れこんだことにおれが腹をたて、意趣返しに相手を殺してきたと妄想しているようだった。
 「ごめん、連絡できなくて。急な出張が入っちまって……大阪行ってたんだよ」マスジットシティなんていったってわかるまい。「そっちで番組の収録が夜通しあったんだよ。結構手こずっちまって。充電器持っていかなかったから、スマホも電池切れになっちまった」
 「ほんとなの? アリバイある?」完全に疑っている。
 「なんだよ、アリバイって。磯崎さんの件は、いまニュースで知ったんだ。だいたいおれがそんなばかなまねするわけないだろ」
 「信じられない……」鼻水をすすりながら玲子はいった。前夜、いっしょにグラスをかたむけていた相手が殺された事実を受け入れられないようだった。
 ギョルのキャラクターが投入されたことで設定が変わったんだ、といったところでわかるまい。こっちの世界の流儀で物事を考えるほかない。「なにか心あたりはあるか。元刑事なんだから、だれかに恨まれることだってあるだろう」
 「そこまで知らないわ。ワインにくわしい人のいいおじさんってだけだもん。それ以外の話はしないから。ほんといい人だったのよ」
 「わかってるって」落ち着かせようとおれは同調してやった。「けど防犯コンサルタントって、どんな仕事なんだろう」
 「調査みたいのはしていたようだけど」
 だろうよ。梶村美沙のマンションに出入りする若い女を呼びだしたりしているんだからな。「探偵とか興信所みたいな感じなのかな」
 「どうかしら。きのうの晩も食事会があったんだけど」玲子はデートをオブラートに包んで白状した。「途中で磯崎さんにお客さんが来たのよ。それで連れだって帰ってしまって」
 「なるほど」おれは先をうながした。
 「それが最後だった。わたしもうちに帰ってきたし」深夜に再会したわけではないということか。胸の奥のもやもやが多少解消されたような気がした。「そしたらけさ、警察から電話がかかってきたのよ」
 「警察から? うちに?」
 「そうよ。それが気持ち悪いのよ」
 「なんだよ」いやな予感に胃のあたりがよじれだした。
 「殺害時刻はきょうの未明らしいの。スマホは奪われたみたいなんだけど、固定電話の通話記録が妙なのよ。あの人が最後にかけたの、加奈のスマホだっていうの。きのうの夜十一時すぎだって」
 「加奈に? そんな夜中に……なんでだよ」
 「こっちが知りたいわ。それでけさ、警察の人が加奈のスマホにかけたんだけど出ないものだから、スマホの契約とか調べて、親のところにかけてきたってわけ」
 「加奈には聞いたのか」
 「出かけたあとだったの。いまだにつながらない。授業中なんだと思うけど」
 「磯崎さんは加奈になんの用があったのかな。しかも真夜中に」
 「緊急事態でもあったのかしら」
 「だけどなんで加奈なんだよ」
 「そこよ」玲子は嫉妬したかのようにため息をついた。「あたしにかけるならわかるんだけどなぁ」
 きのうまでなら、磯崎はおまえに夢中だったのかもしれない。だがギョルが入ってきたのだ。物事のベクトルがズレたのだ。それも最悪の方向へ。
 「あ、ちょっと待って。ショートメール入ったわ……えぇ、うそ」
 「どうした」
 「加奈のお友だちからよ。あの子、きょう来てないって。休むって連絡があったみたい」
 「出かけたんだろ」
 「そうよ。十時ごろだったかな。てっきり学校行くのかと思ってた」
 「バイトじゃないか」
 「家庭教師なら夜でしょ。なんなのよ、これ。心配だし、気持ちが悪いわ、ほんと」
 「イソザキが……調べているんだな……」
 ギョルの言葉が頭をかすめる。磯崎はマコが保管していた美沙のUSBメモリーを入手したのだろうか。そして磯崎を殺した犯人はそれを手に入れたのか。だが磯崎と加奈との間で何らかの関係が生まれたということは――具体的にそれがどんな関係だったかは考えたくもないが――ギョルめ、娘を襲うつもりなのか。
 インターホンが鳴ったのはそのときだった。
 下のエントランスでなく、来客はすでに玄関先にまで来ていた。
 「警視庁の者ですが」
 背広姿の二人の男がモニター画面に浮かびあがっていた。

 三十五
 これほどスーツの似合わない男たちは見たことがなかった。
 警視庁のバッヂのあとで見せられた身分証明書には、捜査一課と記されていたが、きっと機動隊あがりだろう。雄牛のような首と上半身にジャケットがはち切れそうになっていた。それでいて二人ともヘアスタイルには気をつかっている。若干背の高いほう――といっても相方も百八十センチはあるのだが――は、肩までの髪を茶に染めていたし、相方のほうは黒い髪をハードムースで逆だて、台風で吹き飛ばされた鳥の巣のような形にまとめていた。
 ただ、外見以上の違和感があった。それが具体的になんであるかは、野蛮そうなルックスとは裏腹の好奇心旺盛な少年のような目をする二人の男に見つめられたままでは、うまく頭が回転せず、思い浮かばなかった。それにまずは加奈と磯崎の関係について、こっちも知りたかった。いったいなにがどうなっているのか。それに自らの潔白も証明する必要があった。だが昨夜のアリバイのとなると、こっちの世界には証言してくれる者がいない。うそを突きとおすしかなかった。
 おれは二人を家にあげ、リビングのソファに腰かけてもらった。スリッパを出すのを忘れたが、長居してもらうつもりはない。
 「被害者の磯崎さんが最後に電話を入れた相手がお嬢さんなんです」ロン毛のほうが、いまにも飛びだしてきそうなフットボール選手のように体を前に乗りだして説明した。「あくまで念のための確認です。お嬢さんと連絡を取ることは可能でしょうか。もしくは磯崎さんとお嬢さんの関係について、お話しいただけるとありがたいのですが」小さな目をきらきらと輝かせながらの意外と理知的な話しぶりだった。ハードムース男のほうは、ソファに深々と腰かけ、座り心地をたしかめている。
 「わたしも驚いているんです」おれは麦茶の一杯でも出すべきか思案しながら適当に答えた。「磯崎さんは妻とワインサークルでいっしょだったと思うのですが、加奈はサークルには入っていない。ただ、おとといの晩、ここに磯崎さんがやって来て食事をしていったんですが、そのときは加奈とも親しいような印象は受けました。それ以上となると、わたしにはよくわからない。加奈に直接聞かないと」
 「連絡は取れますか」
 「ずっと電話をかけているんですが、ぜんぜん。大学の授業に出ているはずなんですが、どうやら行ってないみたいでして、心配しているんです」
 「磯崎さんを襲った犯人が第三者である場合――」ロン毛はあたかも加奈が第一容疑者であるような口ぶりでいった。「つぎはお嬢さんが狙われないともかぎらない」
 「よしてくださいよ」
 「最悪のケースを想定するのがわれわれの仕事でして」ハードムースが口を開いた。年齢的には似通っているが、こっちのほうが先輩格のようだった。ロン毛の隣に並ぶように身をのりだして穏やかな口調でいう。「早急に居場所を把握すべきです。しかしスマートフォンの位置情報を解析しているのですが、電源が切ってあるようでして。よろしければお嬢さんの部屋をたしかめさせていただけませんか」
 驚きを押し隠しておれはいった。「家宅捜索……ってことですか。娘はなにも悪いことをしていないのに。調べるならわたしがやりますけど」
 ハードムースはため息をついた。「あくまで任意です。でもパソコンなどがあるなら、メールのやり取りを確認したいのですが」
 「そんなことしたら加奈にそれこそ殺されますよ。それにパスワードとか――」
 そのときだった。
 耳慣れた着メロが鳴りだした。ロン毛かハードムースかどっちかわからないが、いずれかのジャケットに収まった電話が着信したようだった。
 頭で考えるより先に体が条件反射をしめした。いつ聞いたって騒々しいし、人の神経を逆なでする不協和音でしかなかった。そんなのでよくヒットチャートに入るものだ。所詮、追っかけのファンどうしでノルマをつくって大量買いする残念なシステムができあがっているのだろう。
 でもこれはいったいどういうことだ。
 あわてて内ポケットに手を突っこんだのは、ロン毛のほうだった。身をひるがえし、おれのほうにグレートプレーンズ並みに広い背中を向けて視線をブロックしながら電話を切った。
 中高生、ことによるとうちとおなじ大学生の娘がいるのかもしれない。いずれにしろ、加奈とおなじアイドルグループの追っかけで、こっそり父親のスマホをいじってお気に入りの着メロをしこんだのか。それともこの男は本業のかたわら、アイドルグループのマネージャーでもやっているのだろうか。
 そんなはずはない。
 おれは、潜在的に感じていた疑問の答えをつかんでいた。たとえマンションのエントランスが開いていたとしても、住人以外はだまって通過したりせず、まずはインターホンを押して、訪問先の許可を得るべきである。宅配便のアルバイトだってそうするし、ましてや刑事となればなおさらだ。ところがこの二人はいきなり六階まで上がってきた。
 恐ろしい冷気が背中を滑りおりたとき、ロン毛が向きなおった。その顔が事態を物語っていた。通学途中に犬のクソを踏みつけ、そのまま教室に入ってしまったことに気づいたいじめられっ子もかくやと思わせる、いまにも泣きだしそうなくしゃくしゃの顔をしていた。
 それとは打って変わってハードムースのほうは、能面のように無表情だった。ただ、頭のなかでは精密なプロセッサーがつぎなる手順を弾きだしている。それを感じさせる冷酷な眼光がおれに向けられていた。以前、警視庁回りをしていたころに出会った刑事もこんな目をしていた。公安担当だった。
 待て。
 そもそも刑事でないかもしれない。いまさらながらそれに気がついた。会社のカネを横領した柄本が泣きついた先が、たとえかつて官房長官の私設秘書をしていた男だとしても、不正の隠ぺいのために公安刑事まで投入して証拠隠滅させるだろうか。むしろその筋の輩が派遣されたと見たほうがすなおではないか。
 そんな連中が加奈のスマホを持っているというのはどういうことだ。彼らは磯崎の件を細かく知っている。つまり磯崎殺しにかかわった男たちが、加奈に接触し、スマホの任意提出を受けたということか。
 任意じゃないだろう。
 ならば気を引き締めてかからねばならない。ギョルが放った二人の刺客に対して。
 「まぁ、緊急事態みたいですからね。ご協力いたしますよ」とにかく平静を装った。「あいつのパソコン、開いてみましょうか。デスクトップがあるんですよ」
 下腹に力をこめ、狂言師さながらのゆったりとした動きでおれは立ちあがり、やつらをソファに押しとどめたまま加奈の部屋のほうに体を向けた。
 銃があればなによりだが、ナオミの命を奪ったときあのビーチに放りだしてきてしまった。かわりに武器になるものを探さねばならない。おれは周囲に目をやり、加奈の部屋にいたる廊下に置いたゴルフバッグを見つけた。カバーが外れ、クラブが顔をのぞかせている。めったに使わない三番アイアンが、血に飢えた刃物さながらにこっちに顔を向けていた。
 「ちょっと待ってていただけますか」
 かろうじてそう告げて一歩踏みだしたとき、体がうしろに引っ張られた。
 ロン毛が右手をつかんでいた。腕がすっぽり抜けてしまいそうだったが、そんなことより、憎悪に満ちたやつの小さな目が二人の正体を物語っていた。すくなくとも加奈を守るためにやって来たのではない。
 「なにするんですか」腕を振り払おうとしたがびくともしない。これではっきりした。娘を守れるのは、そして家族を守れるのは、このおれだけだ。それを達観した瞬間、左手が迷彩ズボンの左ポケットに滑りこんでいた。
 「このままじゃすまないんだよ」ハードムースが高圧的に口にした。
 そんなこと熟慮するひまはない。おれは左手につかんだものをぶちまけてやった。
 目の前のロン毛に対しては、弓矢が命中したかのような成果をあげた。尖った砂粒が両眼の角膜に見事に飛びこみ、やつはおれの腕を解放した。野太い声をあげながらその場にひざをつき、狂ったように両手で目をこすりだす。ハードムースはかろうじて目つぶしをまぬかれ、部下にかわって飛びかかってきた。が、ロン毛がいきなり立ちあがったため、それにぶつかり、バランスを取ろうと横に踏みだした足がソファの脚に引っかかって、ハードムースは床に両手をつくはめになった。
 おれは廊下に突進し、三番アイアンをバッグから抜き取るなり、振り向きざまに闇雲に振り回した。ゴルフなら論外のスイング。野球でもヘッドアップでボールはろくにとらえられまい。だがハードムース野郎はちょうど起きあがって絶妙の位置にいた。
 めったにスイートスポットにあたらぬ三番は、完璧にこめかみをとらえ、それだけで相手の動きを封じた。だが気を許してはならない。おれは、血を噴く頭を抱えて倒れた男の背中に何度もアイアンを振り下ろした。
 ロン毛が立ちあがった。片目を開け、右手をジャケットの内ポケットに突っこんでいる。加奈のスマホを取りだして、水戸黄門の葵の御紋のようにおれに突きつけるわけではない。この手の連中が上着の内側に隠し持っているものなんて相場が決まっている。だからその手を露出させまいと、おれは猛然とロン毛にタックルした。
 やつはもんどりうって倒れ、低いテーブルの角に後頭部をしたたかぶつけた。はずみで右手がジャケットから抜け、握りしめていた自動式拳銃が宙を舞って、やつらが入ってきた玄関のほうへ消えた。
 「てめえ……」ロン毛は獣の正体をあらわし、ゲイのように抱きついてくるおれの体を軽々とはじき飛ばし、逆におれに馬乗りになって両手で首を絞めてきた。「手こずらせやがって……娘も血祭りにあげてやるからな」
 ゴリラのような腕だった。叩こうがなにをしようがびくともしない。頸動脈が遮断され、頭が水風船のようになった。眼球がピンポン玉と化して飛びだしてくる。おれはもがこうとしたが、柔道の寝技をかけらたように身動きがとれない。
 視界の端に恐ろしい光景が見えた。動きを封じたはずの上司が立ちあがっていたのだ。その手には、長銃身のリボルバーが握られている。
 なかなかうまいキャラクター設定だ。
 恐怖と絶望のまっただなかにあって、おれはギョルの一手に感嘆していた。磯崎を介し、加奈を介し、つまるところこのおれを抹殺するというわけだ。
 お見事……。
 遠のく意識のなかでそう思いはじめ、そろそろ目を閉じるべきかどうか、遠い世界に消えたナオミと相談をしはじめたとき、ゲーム世界ライフは、粋なはからいを見せてくれた。
 玄関が開いたのだ。
 それも盛大に。
 「いるの……」
 玄関に見慣れぬ革靴が二足並んでいるのを目にしたのだろう。玲子は怖々と呼びかけてきた。一瞬、ロン毛の手の力がゆるんだ。おれは痛むのどに力をこめ、叫んだ。
 「だめだ!」
 長年連れ添った妻にかけた最後の言葉がそれか。
 《GAME OVER》
 じつに中途半端で実りなきキャラクター人生じゃないか。
 ロン毛はおれにのしかかったまま、新たな登場人物にどう対処すべきか判断しかねていたが、首を絞める力はもとにもどっていた。
 つぎの瞬間、驚くべきことが起こった。
 玄関のほうからたてつづけに四発、甲高い発砲音が聞こえたのだ。
 ロン毛野郎の力がふたたび抜けた。やつは凍りついた表情で上司のほうを見ている。
 上司は仰向けに倒れていた。胸のどまんなかから新たに出血している。大量に。
 もはやロン毛の手はおれののどにかかっていなかった。西部劇のパロディーのように両手を高々とあげ、ひざ立ちのままゆっくりとおれのうえから離れていくところだった。
 「警察学校以来だわ」両手で握りしめた自動式拳銃を肩の高さで構え、ロン毛の心臓に狙いをつけたまま、玲子がつぶやく。「呼んでちょうだいよ」
 「えっ……」おれは寝ぼけたような返事をしてしまった。
 玲子が諭すようにいう。「警察よ。警察に通報してくれるかしら。いい? わかったかしら。あたしがいま手を離せないことぐらい、見ればわかるでしょ。ついでにそこで横になっている人のわきに落ちているものを拾っといてくれるかしら」
 「まかせろ……」よろよろと立ちあがり、おれはいわれたとおりハードムース氏のリボルバーを拾いあげ、震える手で警察に電話を入れた。

 三十六
 二人の素性は警察の捜査を待つほかない。だが加奈の居場所はロン毛が白状した。マンションの外にとめたBMWのトランクに押しこめられていた。
 現場検証に時間がかかり、午後六時過ぎになって所轄署に出向いて親子三人で事情聴取を受けた。そのときにはさすがにおれもシャワーを浴び、着替えていた。
 ハードムースは玲子によって射殺されたが、正当防衛になるはずだ。そのためにもきちんと証言しないと。取調室のフロアの端にある休憩スペースの長いすに三人そろって腰かけた。聴取の準備ができるまで待機してくれといわれていた。
 いちばんぐったりしているのは、恥ずかしながらこのおれだった。女は強い。玲子はもちろん、加奈なんて誘拐されたっていうのに浮かれたようにしゃべりつづけている。
 「やるじゃん、ママ」
 「たまたまあつかったことがある種類だったのよ。あの距離で外す人はいないわ」
 「だけど怖くなかった? 相手も銃持ってたんでしょ」
 「そんなこと感じるひまないって。先に撃つしかないのよ」
 「いちおう肩とか狙ったの? ほら、警察ってそうするんでしょ。犯人のけがを最小限にするために」
 「建前上はね。だけどそんなのムリよ。あの状況じゃ。肩を狙ったんだか、心臓を狙ったんだかわかんないわ。だいいち正確に肩を狙ったつもりでも心臓を撃ちぬくことなんてざらなんだから」
 二人の会話を聞きながら、おれはギョルの誤算に感謝するよりも、ライフによる状況補正力に畏敬の念をいだいていた。ギョルは、梶村美沙のUSBメモリーを見つけだす過程で、新たに二人の暗殺者を投入して、災厄がおれたち家族に降りかかるように仕向けたが、それによる波紋を人工知能であるライフが感じ取って、さまざまな状況設定の変更が行われたのだ。玲子は去年からホテルのレストランでパート勤務をしているのだが、それ以前の勤務先が変更されていた。当初は、THKの報道局の派遣スタッフということだったが、そうではなく警察官として神奈川県警に五年間勤めた実績があることになってしまったのだ。玲子も加奈もその修正には気づかず、はなからそうだったと信じこんでいる。だがその変更後にシティから舞いもどってきたおれには、記憶の上書きが行われていないようだ。
 ライフも捨てたもんじゃないか。おれはひそかににやりとした。
 事情を秘して出かけたことを母親からあらためて叱られたのち、昨夜からきょうにかけてのいきさつを加奈は話しだした。
 「けさ七時すぎに磯崎さんからメールが入ったのよ。『真相がわかりました。いっしょにたしかめに行きましょうって』だからとりあえず、自分の目でたしかめようと思ってさ」
 加奈は首をすくめた。磯崎が美沙のUSB、つまりTHK内部の横領事件の証拠をつかんでいたことを加奈は知っていたのだ。前夜にかかってきた磯崎からの電話のあと、なんと加奈は、磯崎が美沙の友人であるマコから入手した問題のUSBメモリーの中身をすべて転送されていたのである。
 加奈は午前十一時に日の出埠頭で磯崎と待ち合わせたのだが、二十分待ってもやつはあらわれなかった。美沙が調べあげた柄本良太の不正について、エコリサーチの担当者からあらためて事情を聞こうとの話で、すでにその担当者は埠頭にやって来ていた。その担当者こそが、おれの家にやってきた二人組の先輩格のほう、玲子が放った銃弾によって果てたハードムース氏だった。
 いくら待っても磯崎はあらわれないし、電話もつながらない。ムース氏はしびれを切らしてBMWに乗りこみ、帰ろうとした。それで加奈は彼を帰らせまいとして自ら車に乗りこんでしまったという。
 「あの人たち、あたしがUSBの中身をほかに拡散させたんじゃないかって心配したのよ。それでうちを教えろって脅された。だけど転送なんかしてないし、家のパソコンにも落としていないもん。これに入ってるだけ」加奈はスマホを操作しだした。
 動画があらわれた。
 美沙が撮影したものらしい。
 柄本が所管する「THK外部評価委員会」による調査依頼を受けたエコリサーチが、どのような架空の調査書報告書と経費請求書を作って柄本に提出したか。担当した女性スタッフが赤裸々に証言し、彼女が作成させられた偽造書類も添付してあった。さらに女性スタッフは、エコリサーチの社長が元官房長官の私設秘書で、あやしげな男たちと付き合いのある気味の悪い存在であることも証言していた。
 その内容にも驚いたが、おれとしてはどうして加奈が磯崎に接近したのか、そっちのほうが気になった。玲子は自らが磯崎に好意を抱いていただけに心情的にはいっそう複雑なようだった。
 「べつにへんな関係じゃないよ」母親の態度を察して加奈のほうで説明した。だがそれには玲子よりもおれのほうが驚かされた。
 それこそコペルニクス的転回だった。
 加奈はジャーナリスト志望だというのだ。
 「あの人、防犯コンサルタントっていうけど、要は探偵みたいにしていろんなことに首を突っこんで調べていたのよ。それを週刊誌に売ってもうけてた。そういう探偵みたいな仕事っておもしろいじゃない。だから話聞かせてもらったり、ちょっと手伝ったりしてたのよ」
 「あたしの前じゃ、よそよそしいふりをして?」むすっとして玲子が訊ねた。
 「へんな関係じゃないっていってるでしょ。知り合ったのだってワインサークルがきっかけよ。だからママが紹介したようなものだからね。けど、もともとは磯崎さんがTHKの女性記者失踪事件を調べていたから。それでパパがその女性記者のこと知ってるんじゃないかって思って、磯崎さんは手始めにママに近づいた。サークルに入ってね」
 それからしばらく母娘でぶつぶつと言い合いになった。おれとしては、たとえ加奈が本心では磯崎に心ひかれていたとしても、それはそれでしかたないと割り切ることができた。なぜならこれもまたギョルがライフに参加してきたことによる状況変化だろうからだ。つきつめれば、それもまたおれのせいってことになる。
 「だいたいさ、パパがあの人からUSBを受け取っていれば、こんなことにならなかったのに」ぽつりと加奈がいった。
 「あの人って?」
 「マコさん。美沙さんのマンションの前で、パパ、会ってたんでしょ」
 美沙の妹に連れられて門前仲町にある美沙のマンションを訪ねたときのことをいってるのだろうか。「なんでそれを知ってるんだ」
 「磯崎さん、張りこんでいたんだって。そこでパパとマコさんが話をはじめたから、野球帽で顔隠して近づいた。あんまり近くまで行ったんで、パパに気づかれたんじゃないかって心配していたけど、気がつかなかった?」
 野球帽……そうか。
 「ヤンキースか。たしかにうろちょろしてたよ、むさくるしい感じのおっさんが。あれが磯崎さんだったとはな」
 「うちにもおなじ帽子かぶってきたじゃない。鈍感ねぇ。そんなことだから先に磯崎さんにUSB取られちゃうのよ」
 「磯崎さんがマコさんと会ったのか」
 「それって若い女の子かしら」玲子が割って入ってきた。
 「そうだ。加奈とおなじくらいの年の茶髪の子だ」
 「食事会の最中に磯崎さんに会いにきた子だわ。それっきりあの人帰ってこなかった」
 おれは加奈に訊ねた。「マコさんから手に入れたUSBの中身を見て、磯崎さんは美沙が殺されたってふんだのか」
 「それを確信したのは、おとといの晩、うちに来たときよ。パパが落としたメモがあるでしょ。それになんて書いてあったかおぼえてる? パパ」
 おれは記憶をたどった。創造主であるプレーヤーとのつながりが切断されたことで記憶まで抹消されてしまったかと思ったが、なんとかたどることができた。「計算センター……梶村……精算回収……埜村さん……だったんじゃなかったかな」
 「そうよ、それ。きのうの夕方、磯崎さんは埜村さんっていうTHK計算センターのスタッフから話を聞いたの。それで失踪した女性記者の経費精算記録を経営企画室の柄本って人が回収した事実をつかんだ。それでその女性記者が柄本さんの秘密に近づきすぎたんじゃないかって考えたの。たんに行方不明になっただけなら、精算書類は保管しておくでしょ。それなのにバタバタッて回収したってことは、都合の悪いことがある証拠。そういうとき人は常軌を逸して、なにをしでかすかわらかないんだって。磯崎さんいってたわよ。なんか、それって遺言みたいで。悲しいけどさ」
 そのときおれのスマホが鳴った。登録されていない番号だった。
 「もしもし」
 「……滝口……さん……。いま、お話してもだいじょうぶ……ですか」
 「はい、だいじょうぶですが――」
 「……柄本です」
 不安そうな声音だった。二人の暗殺者のうち、一人が殺され、一人が逮捕されたことを元官房長官の私設秘書であるエコリサーチ社長から聞かされたのだろう。ここまで来てウソをつく必要はない。なにしろおれたち家族は、やつの差し金で殺されそうになったのだ。
 おれは長いすから立ちあがり、高層ビル街を臨む西向きの窓辺に立った。まだ七時だったが、この時間にしてはやけに暗い。西の空が真っ暗だった。あしたは雨かもしれない。ただ、それにしても異様だった。西の地平線から夜が浮かびあがってきているようだ。それは同期生どうしの抜き差しならぬいまの状況を象徴していた。
 「どうした、エモやん。いま、警察にいるんだ。会いに来るか? じっくり話したほうがいいかもしれないな。記事を書けるだけの証拠が集まったよ。だけど正直、驚いている。おまえには理解できん話だろうが、美沙は生きている。会ってきたよ。あいつ、おまえにされたことに相当ショックを受けているぞ。だからすこし考えさせてくれ。これから刑事さんと話をするんだが、おれもあわてるつもりはないからな」一気にまくしたててやり、言い訳めいたことをやつが口にする前に自分から電話を切り、ついでに電源も落とした。
 「なんだかパパ、人が変わったみたい」玲子がわきに立っていた。いっしょに並んで空をぼんやりとながめる。「だいたい、さっき着てた服、あれなんなの? 砂まみれだったし。海でも行ったの? 大阪行ってたなんてウソでしょ」
 「いろいろあったんだ。ひと言ではすませられない話さ。とにかく帰ってこられてよかった」だめだ。泣くもんか。そう思えば思うほど、どくどくと涙があふれてくる。
 「なんなの、あれ」窓辺にいっしょに並んだ加奈がつぶやく。「気持ち悪い天気ね」
 いまや西の空は仰角三十度ぐらいのあたりまで下から完全に黒く塗り固められ、夕陽に染まる部分と横一線でくっきりと分かれていた。まるで下のほうだけ夜になっているみたいだった。こんな空は見たことがない。
 「雨雲かなぁ……なんか広がってるよね」加奈が指さした先におれも玲子も目を凝らした。暗い空の一部から山型の黒雲が急速に上昇してくる。雲というより、黒い影をCG合成したみたいで、とても自然現象とは思えなかった。
 いまのいままで忘れていたことを思いだした。
 いや、信じたくないだけかもしれない。
 ここはライフ。
 マスジットシティのシステム研究者であるナオミ――残念ながら、その記憶は以前よりも確実に薄れつつあった――が開発した人工知能によるゲーム世界なのだ。おれたちはそのなかに電子的に存在するキャラクターにすぎない。玲子にも加奈にも理解できない真実をおれはあらためて噛みしめた。
 二人が同時に悲鳴をあげた。
 黒雲のてっぺんがさく裂し、黒い稲妻のような巨大なギザギザが瞬時に天頂までのびていた。叫んだのは二人だけでなかった。署内各所から、それに街のあちこちから恐怖の叫びがあがった。まるでスタジアムの歓声のようだった。だれもが異変に気づき、仕事の手をとめ、家路を急ぐ足をとめて西の空に見入っていたのである。
 黒いギザギザは二本、三本とみるみる数をふやし、そのたびに空が光を失い、闇が広がる。やがて筋と筋が絡まりあうようになり、まるで黒いモザイクが空にへばりついた感じになった。
 向こうの世界、現実世界であるマスジットシティを司るメインシステムが“跡地”から持ちこまれたデブリが放つ膨大な高エネルギー線に耐えきれなくなり、ついにダウンしたのだ。時間的にもナオミの話と符合する。まもなくカッシートたちがバックアップシステムを作動させるはずだが、それによりあらゆるものがリセットされる。
 このライフ世界も。
 真闇に包まれたのち、もはやなにも存在しなくなる。キャラクターであるおれの自我は消失し、合わせて生みだされていた玲子と加奈の意識も霧消する。
 ギョルとともに。
 「なんなのよ……」
 暗闇が広がるなか、玲子は加奈と抱き合い、おれもそれにくわわった。
 「だいじょうぶだ。いっしょにいれば」おれは二人をしっかりと抱きしめた。
 「どうなっちゃうの……」加奈が声を上ずらせる。いまや地上のあちこちから悲鳴があがり、阿鼻叫喚の様相だった。「うそでしょ……夢なんでしょ……ねぇ、パパ……」
 そうさ。
 夢なんだ。
 すべては作られた世界での出来事だったんだ。おれは心のなかで二人に語りかけた。
 モザイクは急速に色を増し、もはやあたり一面、塗りつぶされたような闇が広がっていた。街のどこからも明かりが見あたらない。停電しているのだ。おれは廊下に据えつけられた非常用の懐中電灯を手に取った。スイッチを入れても一向に点灯しない。
 「電池ぎれ?」加奈が呆然とつぶやく。
 「どうかな」そうでないことはおれにはわかっていた。いまここでマッチを擦ろうが、ジッポのライターを取りだそうが、炎が――明かりが――ともるはずはない。
 空のてっぺんに残っていた最後の光が飲みこまれ、完璧な闇が下りてきた。
 まるで星のない田舎の真夜中だった。だが静寂とはほど遠い。終末の恐怖におののく何億もの人々の絶叫がゲーム世界に広がっていた。
 「どうなっちゃうの……」
 玲子は泣きじゃくっていた。その肩をあらためて抱いた。ふいにシティの廃線となった鉄道のトンネルではじめてナオミを抱擁したときとおなじ、なつかしい感動がわきあがった。おれは加奈の体にも腕を巻きつけ、けっして離れぬよう三人で一つになった。
 「心配いらない。かならず明けるよ。それまでの辛抱だ」おれは自分を奮いたたせるようにいった。
 やがて無数の叫びが消え、おれたちはおれ一人になり、宇宙空間に浮かびあがったような感覚、おれという電子的な存在の意識が、いまにも消え入りそうになりながら浮かんでいる感覚に包まれた。
 ライフはゲームである。
 シティに暮らすプレーヤーどうしの戦いの場であるが、じっさいにはキャラクターどうしがそこで戦っている。その場が失われたいま、おれの自我はどこへゆくのだろう。
 バックアップによりリセットされた新たなライフ世界に、この自我とともにもし降臨できるのなら、おれはまたおなじ家族と暮らせるだろうか。もしそうなったのなら、おれはそのときはじめて思うのかもしれない。
 ゲームに勝ったのかなって。
 (了)
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