わたしは天使の翼を見た

文字数 1,009文字

 体育の授業中。

 先生のすきをついてこっそりと抜け出した宇佐木眠兎(うさぎ みんと)有栖川達也(ありすがわ たつや)は、校舎裏の小上がりに腰かけ、しばらくの間だべっていた。

「有栖川ってさあ、彼女とかいるの?」

「……」

 彼はそっと、人差し指はこちらへかざした。

「うわっ、きも! そういう冗談はよくないよ!」

 宇佐木眠兎は両手をバタバタとさせた。

 体操服が少しはだけ、肩口がのぞく。

「冗談だと思うのか?」

 有栖川達也がすっと顔を寄せてきたので、宇佐木眠兎はイチゴ大福のようにすねるしぐさをした。

「それって、告白……?」

「だったら、どうする?」

「悪く、ないかも……」

「宇佐木……」

「有栖川……」

 むぎゅ~

「……」

 目をつむる宇佐木眠兎のほほを、有栖川達也は真横に引っ張った。

「……じね」

「ぷっ、はははっ!」

 有栖川達也は腹をかかえて笑っている。

「さいってえ、人の心を踏みにじるなんて……」

「ってことはだ宇佐木、おまえは少なくともその気だったってことだろ?」

「違いますう」

 宇佐木眠兎は再びイチゴ大福になった。

「なあ宇佐木、芥川龍之介の歯車って小説があるだろ?」

「ええ、有栖川! 芥川なんて読むの!? その顔で!?」

「俺が芥川をたしなんでたらおかしいのか?」

「うわ、たしなむとか言ってるし……」

 宇佐木眠兎が羽織っている体操服の袖を、有栖川達也はおもむろに握った。

「歯車の中でさ、芥川は言うんだ。わたしは見るんです、翼を、ってな」

「知ってるよ、そんなこと」

「翼はドイツ語でフリューゲル。しかし、この単語には同時に、袖っていう意味もあるらしい」

「それも知ってますう」

 彼は意に介さず続ける。

「当時、精神を蝕まれていた芥川は、自分自身の幻覚、いわゆるドッペルゲンガーを見たという説もあるんだとか」

「釈迦に説法だよ、有栖川。いったい何が言いたいの?」

 有栖川達也はニヤリと笑った。

「つまりだ、俺がおまえの袖を引っ張るてえのは、そういうことなんだぜ?」

「はあ……」

 西日が校舎の間隙に入りこむ。

 青春の神が試練を与えるかのように。

「影ってえのはな、ひとつになりたいのさ」

「そう、ですか……」

 バスケットボールがバウンドする音が、どこからか聞こえてくる。

「今日はないのか? ずんたった~」

「うるさい、死ね」

 世界が数瞬だけ制止したことに、いったい誰が気づいているというのか。

 しかし、そんなことはどうでもよいとばかりに、赤い落陽はギラギラと、二人を幻影の中へ封印していった。
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