第14話:斉藤さんが大腸癌で死亡と葬儀

文字数 1,654文字

 そんなに悪いですかと聞くと、下血もあり精密検査の結果は数日で出ますが、もし膿が、出ていれば。手の施しようがありませんと言い、もっと早く検査を受けていれば良かったのにと思うだけですと言われた。1人で生活していて他にみてくれる人がいないと伝えると、そうですかと言うだけで、手術するかどうかは3日後にわかりますので電話番号を教えて言われ伝え教えた。

 数日後、電話で、手術はできないと言う事になりましたと連絡が入った。斉藤正子さんをお見舞いに行くと、かなり具合が、悪そうですねと言った。最近、特に具合が、悪いので、食欲も落ちていると告げた。そして、抗がん剤や放射線療法は、やりたくないと述べ、心を落ち着けて死を待ちたいと話した。わかりましたと立山哲男が言い先生に話してみますと伝えた。

 この話を担当医に話すと三島の郊外の静岡県立がんセンターに緩和病棟がありますから希望があれば転院の手続きをとれるというので本人に確認して、すぐ連絡しますと答えた。斉藤正子さんに話すと転院の手続きを取って下さいと言われ、費用は、自分で出せると語った。銀行のキャッシュカードを立山さんに預けますので手続きや支払いをお願いしたと言ったので快諾した。

 この話を先生に伝えると手続きを取りますと言うとがんセンターに連絡してくれた。数日後、転院しますと言い救急車を手配しますので、立山さんは、救急車について来て下さいと言われ了解した。この病院から約20分で静岡県立がんセンター緩和病棟に到着。すぐ入院でき事務手続きを立山哲男がした。そして支払いは、毎月月末にする事がわかった。

 その時に、斉藤正子さんのキャッシュカードを借りて、支払いますと告げた。立山が子供さん達に連絡しなくて良いのですかと聞くと電話番号も知らないし、もう十年以上日本に帰ってきていないので連絡のしようがないと言った。昔の手紙を見せてもらい、住所を控えて、手紙だけでも出してみましょうかというと、できればお願いしたいと言われた。

 そこで、手紙を書く事にした。転院したのが、1月25日。その後、カルチャースクールに、講師が、病気療養中で篆刻教室の中止と書き出した。その後、毎週、立山夫婦が見舞いに行き、欲しいものがあれば買って来ると告げた。2ケ月が経ちホノルルとミュンヘンに住む、斉藤正子さんの子供達の住所に該当する人は、現在いないとの連絡が入った。

 それを伝えると、お手数かけましたねと、寂しそうに言い、これで、覚悟はできましたと話した。その後も、斉藤正子さんの、やつれていく姿を見るのが、辛くなるほど病状が悪化した様で2月下旬には寝たままで、やっと笑顔を見せる程度まで、衰弱していった。2006年3月22日の早朝、訃報が入り、亡くなった。

 この話を伊豆長岡に住む釣り仲間の池田政夫さんに言うと、うちの菩提寺の住職に頼んで、葬儀をしないかと言い出し、釣り仲間に連絡すると10人が参加してくれると電話が入り池田政夫さんに、お願いした。すると翌日、池田さんから斉藤正子さんの実家のも菩提寺が同じとわかり斉藤家の墓の場所もわかったと連絡が入った。静岡県立病院に斉藤正子さんに預かったキャッシュカードで入院費用の精算に行くと病室のロッカーの引出しに大きな封筒が入っていた。

 亡くなった時、立山さんに渡してくれと看護婦さんが言われ、その封筒を渡してくれた。封筒を空けてみると白い封筒に遺言書と書いた封筒が入っていた。そこには、斉藤の全財産と土地建物に関して立山哲男さんに、全て譲り渡すと書いてあり、ハンコがついてあった。そして便せんが沿えてあり知り合って短いにもかかわらず、こんな事をお願いして申し訳ありません。

 最初、あなた方、立山夫婦に会った時に素敵な人達だなと感じ、趣味も同じで、釣りに連れて行ってもらう時も嫌な顔一つせずに、釣りや食事、買い物、送り迎えなど、本当に、お世話になりました。連れ合いを亡くしてから、一人静かに暮らしていたので本当に楽しい2年間でしたと書いてあった。
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