第3話:立山哲男と泉に長男の輝一が誕生

文字数 1,705文字

 新婚旅行は、仕事が忙しく、余裕ができたらと言う事になった。年末のある朝、木村泉さんが気持ち悪いと、食べたものを吐いたので念のため、婦人科を受診すると子供ができていた。出産予定日は、1978年6月8日と告げられた。株の投資の方では、1978年2月2日に伊藤忠商事を166円で1.5万株、249万円で購入して残金が178万円となった。

 1978年、年3月から出産休暇を取り、立山哲男は、家で一緒に、過ごす日が、多くなり食事など家事を手伝った。4月になり、暖かくなると、立山哲男は、一緒に散歩したりして、奥さんの健康に気を使って過ごしていたが、お腹も大きくなり、食べるものも増え、動くのも大変そうだ。そして、6月3日、最初の陣痛が来て、家の近くの総合病院に入院。

 1978年6月8日に2900gのしっかりした男の子を出産した。無事に出産し、4日後の6月12日に自宅に帰ってきた。そうして息子の名前を一番輝けという意味をこめて、立山輝一と名付けた。夏が過ぎて10月になると泉さんが、働きたいと言いだし1978年12月10日から横浜・山手の小さな商社の仕事に復帰した。

 立山哲男が、息子の立山輝一にミルクをやったり、おむつを替えたりして、育児に積極的に、参加して乳母車を引いて証券会社に出かけるようになり、昼休みに証券会社の女性事務員がミルク作りを手伝ってくれたりして赤ちゃんを可愛がってくれた。やがて1979年の年が明け、奥さんが年末年始の休暇を長めにもらい、1月10日から出社し、会社の仕事に戻った。

 立山輝一の一歳の誕生日の6月8日には、奥さんの両親も来てくれて輝一を可愛がってくれた。また、立山哲男の両親も、たびたび家に来ては、立山輝一の可愛い顔を見て、家事育児を手伝ってくれ助かった。そうして1979年も大きな事件もなく無事に終えた。1979年秋頃から伊藤忠の株価が上昇し10月20日に477円で2万株954万円で売却。

 その利益は、473万円で、残金が787万円となった。その後1980年を迎え、春になると休みの日には、バスに乗って、野島の海へ出かけて散歩したりする日が増えた。10月の休日には京浜急行に乗って油壺の水族館へ行ったり三浦港のマグロを食べに行ったりと出かける日も多くなった。そして1981年を迎えた。1月、息子の立山哲男が咳をして風邪にかかった。

 そのため近くの小児科を受診すると、お母さんの免疫に守られる時期を過ぎてきた証拠ですと言われ、シロップの薬をもらい1週間程度で回復した。4月なり、立山輝一が、立ったりして、歩く仕草を始めて、家の中で少しずつ歩き始めた。2歳の誕生日の1981年6月6日には、近くの公園を散歩できるようになり、立山哲男は、奥さんと共の大喜びした。

 この年の10月の休みの日には、京浜急行で久里浜へ行き東京湾フェリーに乗って、千葉県の内房の金谷港に行き、バスでマザー牧場を散歩して帰ってきた。帰りのフェリーでは、乳母車で可愛い笑顔を見せて寝ていた。12月24日の晩に、立山の両親と外のレストランで立山輝一とって初めてのクリスマスパーティーを開いた。

 両親も輝一が歩き出す姿を目を細めて喜んでくれた。そうして1982年を迎えた。今年の6月で3歳になると、幼稚園の入園を考えて、立山哲男が近くの幼稚園を探してみると、一番近い幼稚園は桜幼稚園で徒歩5分、保育園はいずみ保育園でバスで送迎して来てくれる。立山哲男は奥さんと相談して、送迎してくれるいずみ保育園にお願いする事にした。

 4月に申請書類を提出して、5月20日からお試し保育に参加し最初は泣いていたが1週間もするとなれて友達もできた様で、そのまま、お世話になることになった。1981年6月8日3歳の誕生日に立山哲男の両親が来てくれ祝ってくれた。保育園に入った。

 一番好きなのが、保育園の近所の公園で、遊ぶことで、立山哲男に似て、走り回るのが好きだと聞かされ喜んだ。12月なり風邪が流行りだして、息子の輝一も鼻水を垂らしていたが、その風邪を親が、もらって、熱が出て、大変な思いをしてしまった。そして1982年を迎えた。 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み