第九話:第四の王子
文字数 4,384文字
どこを目指すでもない、無意識に任せたふらふらとした足取りが向いた先は、自室へ向かう廊下であった。
一端腰を落ち着け休み、この短い時間で怒涛のように畳みかけた奇妙な難事を整理したい。リプカは無意識が選んだ逃走を幸いと判じて、その機に息を落ちつけようと思い見たのだが――しかし、そういうわけにもいかなくなった。
自室には、見知らぬ先客がいた。
怒涛のように畳みかける難事は、どうやらまだ続くらしい。
この屋敷で唯一リプカの色が見て取れる自室には、無遠慮に部屋中の物を物色する女性があった。
女性はリプカが硬直している間も手を止めず、今はリプカの下着を漁り、それを手に取りしげしげと観察していた。
すわ、強盗であるか?
リプカは一瞬そう考えたが、相手は耽美な薄黄色のドレスに身を包んだ、どこをどう見繕っても強盗を働く身分とは見受けられぬ女性であった。
言って、やはり無表情じみた澄まし顔で、リプカに手を差し出た。
再び硬直したリプカを見て、女性は小首を傾げた。情報過多で働きを止めたリプカの思考が解凍するまで、しばらくの時間を要した……。
――無音の時間が続き。
ビビは濁りのない瞳で、リプカの目を真っ直ぐに見つめながらそう問うた。
どうしてそんな所作ができるのか。リプカは信じられない思いを抱いて、僅か身を引いた。
リプカは口をあんぐりと開けた。
恐る恐る問うた質問に対する、混じり気のない真っ直ぐな返答。
怒りを覚えるより先に、まず恐怖を感じた。ティアドラのときとは違う、会話の行き来は成立しているはずなのに、意識が微塵も共有できない意思疎通の断絶。
正直、全身総毛立つほどの恐怖を覚えた。
リプカは一歩下がり、ビビの人となりを見極めようと彼女を見つめた。
可愛らしい、という言葉が似合う女性だった。少なくとも外見の上では……。
首筋を妖艶に見せる、後ろで綺麗に纏められた髪。瞳の輪郭の鮮明、そして、あくまで女性的なプロポーションを崩さない範囲で引き締まったスタイル。
その立ち姿からはむしろ、リプカと対極の、自然と世に馴染んだ印象が見て取れた。
その人の自然体で、臆するところなく、人一人として確かにそこに立つような――リプカにとって非常に眩しく映る類いの、そんな明るささえ備えて……。
気になる点といえば、綺麗なドレスに身を包んでいるのに、額にずり上げた無骨なゴーグルがアンバランスだった。装飾にしては妙な着飾りである。
ビビは、更に身を引くリプカの手を無理矢理取ると、強引な握手を交わした。
そしてスタスタと部屋の奥へ歩を進めると、許可も取らずリプカのベッドに腰を降ろし、そしてあろうことか隣をパフパフ叩き、「こちらへ」とリプカを誘ってきた。
今すぐここから逃げ出すべきか。
真面目な話、それが懸命な判断だろう。どう考えてもまともな相手ではない。
しかしリプカは恐る恐るの歩みで、ビビの傍に寄ることを選んだ。鏡のように輝くダリア色の瞳には、悪意も狂気も宿っていないように感じ取れたからだ。
若干距離を開けて腰掛けたリプカに、ビビは間を取らず語りかけた。
リプカは未だ、品性を失わない程度に警戒心を剥き出しにしながら、それに応じた。
今更思い出したような中途半端な敬語を織り交ぜながらの、それこそ失礼に当たるような歯に衣を着せぬ問い掛けに、リプカはうっと呻いた。
確かにそれは、その通りの事であったから。
そんな馬鹿な。
リプカは今日何度目かの、その叫びを内心で漏らした。
リプカの瞳をじっと見つめながら、ビビは語った。
よく分からなかった説明に、曖昧に頷きながら、いつだかフランシスから聞いたアルファミーナ連合の超常技術、お伽話のようなそのいくつかを、リプカは思い返していた。
リプカの青褪めた顔を見て――ビビは、ほんの少し、おかしそうに口角を持ち上げた。
確かに。
これ以上の変人が送られてきていれば、リプカは一も二もなく逃げ出すか、怒りに任せ昏倒させていたかもしれない。
しかし、理解できたこともあった。
意思疎通が取れなかったのは、国を跨ぐ環境の違いのせい。彼女は特殊なように感じるが、狂人であるわけではなかった。
それが理解できただけでも、恐怖が安堵に変わった思いだった。
それにリプカは、彼女が口にする、敬語の成り損ないのような奇妙な言葉の端から、彼女がこちらに歩み寄ろうとしている意思を感じ取っていた。
…………正直、それを理解して今の一連を振り返ってみても、いまいち現実味が感じられない印象は拭い切れないけれど。
それはこれから、お話を重ねていけばよいことなのだろう。
ぼそぼそと言ってから、リプカの言葉に瞳を見開くビビに、リプカはおずおずと手を差し出した。
言って、上目遣いでビビを見つめてみれば――ビビもじっと、無言でリプカを見つめていた。
そして戸惑うリプカが身動ぎをし出した頃になって、――やっと、出会ってからずっと変わらなかったその表情を変化させた。
柔らかな表情だった。まるで日に照らされた鮮やかな花のような明るい顔を浮かべ、差し出された手を、しっかりと取った。
リプカは、思わずビクリと飛び上がってしまった。
友達。
ビビは確かに、そう言った。
見るところ、ビビの澄んだ瞳には、僅かな含みも見受けられず。
――だから、リプカは緊張で上ずった声で、それに答えたのだった。
無理だと諦めていた、小さな奇跡の一つ。
――見れば、ビビの手は令嬢にしては荒れた、細かな傷の目立つ、職人のものだった。
リプカはその滑らかとは対極の手に、どうしてか温度確かな人間味というものをどうしようもなく感じ取り、不思議な安心感を覚えながら、その手を握っていた。