第八話:第三の王子
文字数 2,412文字
今自分がどこを歩いているのかも分からないまま、ふらふらと危なっかしい足取りで彷徨っていたリプカは、前方から人が歩んでくることに気付かなかった。
肩に、尋常ではない衝撃が走った。
ほとんど突き飛ばされるように押されながらも、その凄まじい体幹により軽くよろめくだけで済んだリプカは、ひたすら地面に向けていた視線をようやっと上げた。
そこは大広間前の廊下だった。
軽々に婿を決めてはならないという助言に対する混乱の後の茫然が、少女にある種の冷静をもたらしたのだろう。
そういえばと、つい先程父を昏倒させたことを思い出して――衝動の消えた虚脱状態のまま、無意識のうちに、足は後戻りの道を選んでいたらしい。
目の前には、品格の十全を表したかのような女性が立っていた。
ティアドラの我を示すような明確な赤とは違う、日に透けて輝く、美しい巻き毛の髪が何よりも印象的だった。
容姿はまるで精巧な人形のようで、ハッと息を呑むほど整ったものであったが――ただし、顔色は幽鬼のように青白く、それこそ人形のように、度を越えて生気がなかった。
状況を完全に理解しないまま、リプカは慌てふためき女性の傍に寄ろうとした。
の、だが。
女性は自分から、リプカに向かい一歩を踏み出した。
そして――。
リプカは頭が空白になるのを感じながら、茫然と呆けた表情を浮かべた。
侮蔑の言葉に慣れているリプカといえど、面と向かって「死ネ」と告げられたことは初めてであり、そのあまりに直線的な悪意を理解できず、硬直してしまった。
遅れながら、気付く。
こちらを見つめ、睨み据える女性の瞳には――明確な敵意が宿っていた。
あまりに大きな肩への衝撃。あれはリプカの不注意が原因で衝突したのではない、この女性が害意をもって、向かいから歩いてきたリプカに勢いよく肩をぶつけた――そのことに、遅ればせながら気付いた。
淀み切った冷たい語調で、地獄の底から湧き出たような怨嗟の言葉を、彼女は再び吐き出した。
リプカを、狂気が見て取れる、抉るような視線で射抜きながら。
恨みを買うような素行に思い至らず、リプカはただただ硬直しながら困惑していたのだが――。
ふと、気付いた。
女性の目の淵に、涙の玉が溜まっていることに。
リプカの掠れた声に。
女性は、能面のように感情の無い言葉で答えた。
オルエヴィア。
確かに、目の前の女性はその決定的なワードを含む名を名乗った。
そして、ディストウォール。
ディストウォール領域。
鬼のような形相でリプカを睨み据えると、血が滲むほど握り締めた拳を震わせながら、クインは背を翻し、速足に去って行った。
――リプカはまた、膝を折りへたり込んでしまいそうになった。
生まれて初めて向けられた、本物の憎悪。敵意でもない、殺意でもない、害意とも侮蔑とも違う、苛立ちや憤りの衝動とは類を異にする、分別不可能の純粋な《《どろどろ》》。
――なぜ、彼女がこんなところに。
頭の回転の鈍いリプカではあったが、その理由には不思議とすぐに思い当たった。
なぜ、男性ではなく女性なのか。
今度は、誰に何も言われずとも、その訳を推測することができた。
オルエヴィア連合という国は他国と比べて男性優位の社会性を有している、そのことは知識として知っていた。屋敷の書庫レベルの蔵書でも記述を見ることができる、それほどに知られたお国の体制を考えれば、おのずと答えは出てくる……。
男婿を寄こすとすれば、将来重大な役割を担うはずだった男性を行かせなければならない。しかし、敵国であったオルエヴィア連合から遣わす婿候補である。婿に選ばれ、フランシスと関係を築ける可能性は限りなく低いだろう。
婚約者候補としてここへ寄こすということは、婿候補に選んだその者を手放すことに等しい。
だから、今この激動の時期に要を担う戦力となる男性ではなく、女性である彼女が無理矢理の形で選ばれたのだろう。
どんな圧力があったのかは分からない。だが、それを実質の形でオルエヴィア連合――ディストウォール領域に強制したことは疑いようもない。
彼女は、オルエヴィア連合ディストウォール領域から遣わされた……実質的な、人質だ。
リプカのか細い呟きは、自身の胸にすら届かずに、虚しく霧散し消えてしまった。
戦争が起こるぞー。
ティアドラの忠告が、頭の中で反響した。
……どうやら今後しばらく、彼女と顔を突き合わせなければならない機会からは逃れられそうになかった。
リプカはふと、フランシスを思った。
自分ですらこんなにも大変な状況に置かれてるのに、渦中のただ中に身を置くフランシスは無事だろうか……?
宙に視線を彷徨わせぽつりと呟くと、また堪らなく、心配の気持ちが溢れてきた。
不安を紛らすように、リプカは行く宛てもなく、再び足を前に進め始めた。