四 気づかい

文字数 2,360文字

 中野絹恵は銀行員だ。茄子紺の制服に身を包み、普通預金のカウンターにいる。奨学金の担当ではない。奨学金を受けとりに行くと顔を会わせ、笑顔で会釈する。
 表向きは業務的態度をとっても、視線を交わすと、奥二重の目をわずかに細めて目尻をさげたり、口角をほんの少しあげてほほえむなど、喜びを微妙に表す、かわいい愛嬌のある娘だ。

 堀田は大学三年のとき、大学祭で絹恵と知りあった。その後、数回、二人だけで会って、ショッピングモールの喫茶店で絹恵の話を聞き、食事して、ブティックやジュエリー店を見てまわり、映画を見ただけだった。

 大学院へ進学が決った大学四年の夏。
 堀田は絹恵を誘って、家庭教師している子供たちを連れて、夏休みの宿題、川の写生に行った。早々と写生を終え、小魚を捕まえたり、水遊びしたり、陽射しが強い暑い日曜の午後を過ごした。

 四時すぎ。
 帰宅する子供たちと別れたあと、堀田は絹恵を連れて下宿へ帰った。

 部屋に入ると、絹恵はベッドに座ろうとした。
「スプリングが壊れてる。ベッドに寄りかかって座卓に向かうといいよ」
 堀田は絹恵を座布団に座らせた。
 ベッドのスプリングは壊れている。見た目より腰が沈み、たいていの人が窓側に転げて、窓枠に頭を打つ。そして他の理由、戸外を歩いたそのまま服装で、ベッドに座って欲しくないのもあった。

 果汁百パーセントのオレンジジュースをグラスに満たし、座卓に置いた。早くも、グラスが結露し、水滴が座卓へ垂れている。
「はい、タオル・・・」
 冷たい水に浸したタオルを固く絞り、堀田は絹恵に渡した。

 疲れたのか、絹恵はグラスを取らず、ベッドと反対側の壁に接した机の、左右両側に並ぶ二つの本棚の本をぼんやり見ている。日傘をさしていたのに、絹恵のまぶたと頬は日焼けして赤い。


 絹恵は気が利き、性格も良い。
 ふたりで出歩き、銀行でも見ていたのに、絹恵から離れると、堀田は、絹恵がどんな顔だったか特徴が浮かばなかった。
 ならば、他の者たちの特徴を記憶しているのか?好子もあや子も麻美も雅恵も、容姿を記憶している・・・。そういえば、絹恵の顔も姿も、まともに見るのは今日が初めてだ・・・・。
 堀田は、これまで絹恵と何度も会っている。顔の部分を記憶しているが、全体を記憶していないのに気づいた。これでは、福笑いのパーツだな・・・。
 思わず苦笑する。

 あの不審なメールには絹恵と結婚しろ、とあったが、どうすればその気が湧いてくるのだろう?
 そう思いながら、堀田は扇風機を絹恵に向けた。
「暑くて疲れただろう?」。

「えっ?ああ、だいじょうぶ、もう、暑くないから・・・」
 絹恵は風向けを変えた。
「あの子たち、暑かっただろうな。家で水浴び、したかな・・・」

 しまった、と堀田は思った。
「電話した方がいいかな?」
 子どもは大人より皮膚が薄い。身体は大人より地面に近い。大人より日焼けしやすく熱中症になりやすい。子供たちが帰宅して、水浴びしてくれるといいなんて、こんな気遣い、他の娘たちはするだろうか?

「お母さんはジュエリー店だけど、お父さんが留守番してるっていってたよ。お父さんが水風呂に入れるでしょう・・・」
 やはり、先の先まで考えてる。

「ありがとう。一応、連絡しておくよ」
 すぐさま堀田は子供たちの家へ連絡した。
 父親は、
「家に帰ったら、水風呂に入って体を冷やすよう、お姉ちゃんにいわれた、といって、今、水風呂に入ってますよ。気遣ってくれてありがとうございます」
 感謝する旨を述べて電話を切った。


「絹恵はすごいな。そこまで考えてたんだ」
 堀田は、これまで気づかなかった絹恵を発見したように思え、思わず絹恵の頭を撫でるように触れた。
「濡れタオル、使って・・・」
「うん・・・」
 絹恵はタオルを取って額や首筋に当てた。化粧が取れるのを気にしているらしい。

「どうした?」
「このまま、ここにいたいな・・・」
 絹恵は、先ほどまで会っていた子供たちに、自分たちの子供たちを思っているらしかった。

「ずっといてもいいよ」
 絹恵が、絹恵の居る環境を大切にしようとしているように思えた。この娘には他の娘にないものがある・・・。堀田は・もっと絹恵を知りたいと思った。
「うん・・・。あなたも、もっと近くに・・・」
 絹恵は堀田に身を寄せた。

 堀田は絹恵の肩を抱いて背を撫でた。
「昼飯、焼きそばだけだったから、腹が空いただろう。もうちょっとしたら、ご飯炊いて、鮭を焼いて、野菜炒め作って、味噌汁作って、ご飯にする。食べるだろう?」

 絹恵が顔を上げて堀田を見あげる。
「うん。あたしがご飯作る。これからずっと作る・・・」
「無理しなくていい」
 堀田は絹恵の目を見てそう言った。

「えっ?」
 一瞬、絹恵が目を大きく見開いた。
「絹恵の着てる物が魚臭くなるから、今日は俺が作る。
 今度から、ずっと作って欲しい。
 俺でいいのか?」
「うん!ああっ、安心したあ!」
 絹恵は堀田に頬ずりした。


 夕刻。
 絹恵は帰宅した。
「ご飯にするわ」
 母親は台所で夕食を準備している。

「堀田さんとすませたよ。今日は暑かった。子どもたちと川で写生して、水遊びして、子供たちが帰ってから、堀田さんの下宿でお話しして、夕飯をごちそうになって」

「堀田さんの下宿で食べたの?」
「堀田さんがご飯炊いて、鮭を焼いて野菜炒め作って、味噌汁作って」
 絹恵は、魚臭くならないようにと気遣う堀田を、思いだし笑いした。
「良かったね」
 母は満足らしい。

「父さんは?」
「また、同期の人たちと飲み会よ。先のこと考えて、今から手を打つといってたわ」
「あたしも、ご飯、少し食べようかな」
絹恵は夏の賞与を預金に来た小山一郎と中川幸之助を思いだした。二人は堀田の大学の教授だ。守秘義務のため、親しい者にも預金者について語れない。
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