七 ありがとう姉さん

文字数 1,261文字

 堀田が大学院に合格した大学四年の六月。
 事務官の中野雅恵は、知人から家庭教師を紹介するよう依頼されて知人に堀田を紹介して以来、親しく堀田と話す間柄になっていた。

 堀田に家庭教師を紹介する前、雅恵は学内で堀田を見つけると、何かにつけて堀田に声をかけていた。どの学生にもそうするのかと思い、堀田は雅恵を観察したことがある。雅恵が親しく声をかけるのは堀田だけだった。雅恵は堀田と会わない日がつづくと、他の学生に、堀田がどうしているか尋ねていた。


 大学院に進学後の四月半ば、金曜日。
 朝九時すぎ。
 高分子物性棟四階事務室前の廊下で、堀田は掲示板を見ていた。事務室からグレーのスーツの中野雅恵が出てきた。

「速達を研究室へとどけたわ。春の学術会議の案内みたいよ」
「わかりました。研究室へ行ってみます」
 堀田は雅恵にお辞儀して去ろうとした。
「大学院はどう?」
 あわてて話す雅恵の目が眼鏡の内で泳いでいる。

 雅恵は俺を引き留めてるのを自覚してる・・・。
 堀田は笑った。専門の勉学は工学の広い知識が必要であり、かんたんに語れるものではない。
「勉強と家庭教師で忙しいですよ」 
「大変ね・・・」
 期待はずれの答えに雅恵は驚いている。雅恵は堀田に恋人がいると思っていた。雅恵は独身で堀田堀田よりひとまわり歳上。小柄でスポーツを欠かさない。スリムな体型で若く見える。メガネをかけた細面は、目も鼻も口もちょっと大きめで、人目を惹く。

「どうってことない。卒研なんだから」
 堀田はあいさつして、その場から去ろうとした。
「たまには映画とか見るの?時間が取れたら、私を映画に連れてってほしい・・・」
 これまで、はにかみ屋の雅恵は堀田に会釈してちょっとした世間話をする程度だった。
 しかし、今はちがう。上目づかいに堀田を見ている。
「ごめんね。しつこくすると嫌われちゃうね・・・」
 雅恵は言葉と逆のことを言われるのを期待している。

 なんでこんなに積極的になったんだろうと思い、堀田は雅恵を見つめた。
「そうですね・・・」
「もうっ、思いきって話したのに・・・。
 でもいいの。あなたは年の離れた弟みたいな感じ。そうしなくっちゃね・・・」
 雅恵の頬が、グレーのスーツの下のブラウスと同じ薄ピンクになった。堀田を見つめ、衝動的に行動したのを自覚して、期待していた思いをあきらめている。

 堀田は雅恵に告げた。
「ありがとう姉さん、これからもよろしく」 
「うん・・・。しかたないよね・・・」
 雅恵は自分を納得させるようにうなずいた。
「研究室へ行きます・・・」
 堀田は、『あなたは年の離れた弟みたいな感じ』と言う雅恵の言葉が気になって、雅恵の目を見つめた。
『姉さんをなんとかしなければいけない。姉さんに合う人を探さなければならない』
 堀田の心にささやきが聞える。
「天気も良いから、夕方、映画に行こうか・・・」
「えっ?ほんとなの?いいわよ!」

 雅恵を廊下に残し、堀田はエレベーターへ歩いた。エレベーターに乗るとふりかえって雅恵に手を振った。雅恵は顔を赤らめて堀田に手を振っている。
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