煙霞の痼疾未だ止み難く候 其の五(一)「播磨、新宮」

文字数 10,233文字

                            NOZARASI 8-5-1
 煙霞の痼疾未だ止み難く候
  其の五(一)
   播磨、新宮

 新宮まで三日、健脚なら二日であろうか。 
 重三郎はゆっくりと歩いた。豊岡での、城崎での出遭いの名残を惜しむかのように、川を見、山を見、街並みの中をさ迷い、往き交う人に良き湯はないかと尋ね、まだ残る彼の人々の温かさの中に身を置くことの幸せを楽しみながら。
 但馬街道を姫路に向い、生野から国境の小さな峠を越えると、ここからは播磨の国である。さらに市川から山間を抜け因幡街道へ。街道を西へ逸れると揖保川の流れに当たる。川沿いに下ると、すぐに新宮であった。
 新宮から龍野へ向かってすぐの山間に、その庵は、あの時のままに在った。

 剣術修行の旅の果て、と云えば様にはなるが、実際は食うや食わず、道端の祠や野天に寝泊まりする流浪彷徨の果てなのである。
 そんな旅に少し疲れ、大坂の雑踏の中で一年程落ち着いたのは、故郷を出て十年ばかりした頃であったろうか。
 少し鬱々として、気の落ち着かぬ一年余りであった。やっとまた旅に出ようと腰を上げたのは、冬の初めの寒い朝であった。
 姫路の城下で、龍野の先新宮の山間に凄腕の剣客がひっそりと暮らしている、負けたという話を聞いたことがないと……。
 教えを請うべく新宮へ向かった。
 尋ね訪ねて、やっと庵へ辿り着いたのは、寒風の強く吹き荒び虎落笛の鳴る夕闇迫る頃であった。
 囲炉裏の明かりが障子の桟を揺らし、その橙色の暖かさが、寒風の中を歩き続け凍えた重三郎の背中を押すようであった。
 非礼を承知で声を掛ける。
 庵主は意外に若かった、年の頃は重三郎と同じ位であろうか。
 夜分の突然の訪問の非礼を詫び、自らを名乗り、目的を告げると、
「よくお出でなされました。さ、表は寒うござる、この苫屋、何も無けれど、暖を取るだけの薪はたっぷりとござる。さ、さあ、御身体を温め下だされ」
 満面に笑みを浮かべ招じ入れてくれた。          
 非礼な訪問の次第を話すと、一瞬、その顔に翳を浮かべたが、
「風聞にございましょう。それがし、これまで正式には一度しか試合というものを致してはおりませぬ。一応剣の修行らしきものは致しておりますが、人と立ち合う程の剣ではございませぬ。人の口というものは困りものですな」と、一笑に付されてしまった。
「御手合せ、叶いませぬか」                                  
「申し訳ございませぬが、御受けかねます」
 男は、きっぱりと断わるのであった。
 重三郎は、相手の望まぬ立ち合いはやらぬ、そう心に決めていた。それにこの男、話の端々に翳りのようなものを垣間見せ、寂しさのような漠としたものを感じさせた。それが剣に由来するものであるのか、はたまたそうでは無いのか、いずれにせよそれは、他人が侵してはならぬもののように感じられたのであった。
 庵主は、帰ろうとする重三郎を引き留めた。
「折角の久し振りの御客人、良き方のようで、今夜は虎落笛の寂しき音も苦にならずに済むかと喜んでいましたに、どうしてもお帰りになられまするのか」
 重三郎は少し迷った。自分も旅の途中、何となく寂しさに囚われ、誰かと語り明かしたい夜が幾度となくあった。それを思い出すと、無下には帰れぬような気がした。
「これから宿を御探しになられるのも大変でございましょう、何も無き苫屋なれぞ、是非に……」と言われると、もう断ることは出来なかった。
「かたじけのうございます」と頭を下げると、男の顔に喜びの笑みが満ちて行く。素直な男であるな、と重三郎は思った。
 清野三郎兵衛と男は名乗った。
「折角御訪ね下された御方に、立ち合いの出来ぬ御無礼、どうか御赦し下さい」
 清野は重ねて丁重に謝ると、
「今夜はこんなものしかお出しできませぬ」と、ぶぶ漬と沢庵を重三郎の前に出した。
「突然の訪問だけでも申し訳ないものを、有り難く頂戴致しまする」
 冷えた身体に温かなぶぶ漬が美味しく染み渡ってゆく。
 重三郎の人心地ついた様子に安堵したような笑みを見せると、立ち合いの出来ぬその訳を、清野は語り出した。

 十年ばかり前、城で御前試合が催され、城下の各稽古場から五人ずつの若者が代表として選ばれ、稽古場対抗の勝ち抜き戦が行われた。
 清野の通う稽古場は、格段の強さを見せた。中でも無二の友、坂巻の強さは群を抜き、大将である清野の出る前に、他の稽古場の者を悉く退けてしまったのである。
 坂巻は殿の前に呼ばれ御褒めの言葉を戴いた。
「いえ、私より更に強きが、我が軍の大将、清野三郎兵衛にござりまする」
 坂巻が、友を立ててそう言った。
「ならば二人、立ち合うて見よ」と、殿の一声。
 稽古ではいつも取りつ取られつ、五分であった。負けても勝っても二人は仲が良かった。坂巻の友への思い遣りが禍を招いてしまうとは、誰にも予測は出来なかった。
 初めての試合、それも御前試合である、清野は緊張しきっていた。
 立ち合っている内に我を忘れてしまった。夢中で振り下ろした一撃に、坂巻がどうっと倒れた。
 木刀の衝撃に、「あっ」と我に返った時はもう遅かった。  
「坂巻っ!」
 すぐさま助け起こしたが、坂巻はすでに事切れていた。
 清野は己の未熟さを悔いた。悔いても、悔いても、悔やみ切れるものではなかった。
「それ以来、私は人と立ち合う事を止めました。稽古場へ通う亊も……」
 そして、
「人の口とはそんなものでございましょう」と、姫路の城下で聞いた噂を語る重三郎に、清野は寂しく、自嘲を込めてそう言うのであった。、                      
 苫屋の外は、虎落笛と木立を揺する風の音が止むことなく続いていた。

 翌朝、風は止んでいた。
 耳を澄ますと、雑木林のそちこちから鳥達の声が聞こえてくる、静かな初冬の朝であった。
 用を足しにでも行っているのか、庵に人の気配は無く、囲炉裏の火がチロチロと勢いを失い、今にも消えそうであった。片隅の竹籠に用意された柴を小さく手折り焼べていると、ふと、冬の朝の静かな冷たい空気を鋭く斬り裂く真剣を振る音が聞こえたような気がした。
 耳を澄ますと、確かに聞こえる。気のせいではなかった。
 重三郎は焼べられた薪に灰を被せると囲炉裏を離れ、その音のする方へ向かった。   
 庭の外れの井戸の向こう、少し奥まった所に清野がいた。呼吸を整えては真剣を真っ向から振り下ろしている。
「これは出来る、あの噂はまるきりの嘘ではなかったのだ」
 清野の昨夜の話を信じない分けでは無かったのだが、そう思わせる真剣での素振りであった。
 重三郎の気配に気づいた清野が、 
「お早うございます。朝の日課で、これをやらねば飯になりませぬ。今、朝餉を御用意致します故、しばらくお待ちくだされ」と、少し照れ臭そうな笑みを浮かべて言った。     
「いえ、中々の腕前と御見受け致しましたが……」
「素振りを御覧になられただけで、その力量がお解りになられますか」
「はい、多分、腕の立つ御方の素振りなれば」
「立ち合い致すことは叶いませぬが、少しお待ちを」      
 清野が軒下から荒縄で固く縛られた七寸ほどの径の藁束を三つ、庭に打たれた二本の杭の間に重ね、きつくしっかりと固定した。
 合わせれば、高さ二尺余のそれを斬ろうというのか。       
 その前に立ち、清野が呼吸を整えると上段に構えた。
「いやっ!」
 気合とともに、ズンッ!という藁の切れる音がし、三本の束が真っ二つに割れた。
 重三郎は、波立つように鳥肌の全身に広がってゆくのを覚えた。
 出来ぬ。真っ向斬り下ろしで、大太刀でもない限り、とても自分には出来ぬ。
 清野の刀はそんな代物では無く、刀身の反りはやや強いが、自分と同じ備前物の定寸であろうと見受けられた。
「御見事。戦わずして負けたような気が致します」
「やって見ますか」
「いえ、止しましょう、今の拙者にはとても出来ますまい」
「この僅かに強い反りを活かす骨を掴めば容易いことですよ。私の素振りを見抜いたその目、腕も相当のものと御見受け致しますが」
「以前、馬の胴を一太刀で真っ二つに斬るという話を聞いたことがありますが、正に今のがそれでございましょう」
「うーん、斬ったことがござらぬ故、何とも……」
 庵の方から味噌汁の良い匂いが漂ってきた。
「また来ておるのか」
 清野が、少し渋い顔をした。
「御内儀殿ですか」
「いえ、ちと……」
 言葉を濁し、清野は足早に庵へ戻った。
「もう来てくれるなと、あれほど頼んでおるではないか」
「いえ、私は参ります、三郎兵ェ様」
 女人の声がし、三和土の方で何やら揉めている。
「お客様でございましょう、今朝餉を拵えますので、三郎兵ェ様」
 どうやら居辛くならずに済みそうな具合であった。
「後藤重三郎と申します。突然訪問の非礼、御赦し下さい」     
「由美と申します、こんな山奥へようこそお出で下さいました。何もございませんが、三郎兵ェ様のお作りになるものよりは美味しゅうございます。ねっ、三郎兵ェ様」
「……」
 清野は、少し怒っているような顔をしている。
「宜しければ、少し御逗留なさって下ださいませ。三郎兵ェ様は、お一人で寂しくてしょうがないようですので、話し相手になってやって下ださいませ。そうでございますよね、三郎兵ェ様」       
「……」
 朝餉が終わり、片付けが済むと、
「では、夕刻前にはお酒と肴、お持ち致します。何かお食べになりたい物でもございますか、三郎兵ェ様」と、由美が訊く。
「……」
 清野は黙ったまま返事もしない。
 由美が帰って行くと、
「煩いですよね、いつも最後に三郎兵ェ様、三郎兵ェ様と念を押すように……。子ども扱いされているようで……、少し閉口していますよ」
 清野の口調が明らかに変わった、照れもあるのであろう。
 重三郎の顔に、二人の仲を察した微笑みが浮かんだ。
「言い交わされた御方なのですか」
「はい、以前」
「以前?」
「実は、坂巻の妹なのです」
「あの御前試合の……」
 清野はあれ以来、ずっと友の坂巻を殺した翳を引き摺っている。その坂巻の妹を妻にすることは叶わぬ、どうもそう云うことらしい。
「惚れておられるのでしょう」
 重三郎は、下世話に単刀直入に聞いてみた。
「……」
 重三郎は清野の胸の内を思いやると、それ以上は何も言えなかった。
 そして清野も口を噤み、話題を逸らした。

 夕刻近く、由美が少し年のいった小者に大きな荷を背負わせ、自分も一抱えの風呂敷包みを携えやって来た。 
「御苦労さま、ありがとう」と、台所に荷を下ろしてもらうと小者を帰した。
「さあ、頑張るわよ。下拵えはして参りましたから、直ぐにできます、少しお待ちくださいね、三郎兵ェ様」
 襷を掛けると、台所で、と云っても狭い三和土なのだが、忙しく働き始めた。
 清野は相変わらず、困ったような怒ったような顔をしたままで何も言わない。
「もうそろそろお召し上がりになれますよ、三郎兵ェ様」
 台所から由美の声がした。
「直、暗くなる、そろそろ帰りなさい。後は私がやりますから」
「大丈夫です。男は座っていて下ださい、三郎兵ェ様」
 由美が酒と肴を運んできた。煮物のいい香りが漂う。     
「お二人で先にお飲みになっていて下ださい、すぐに後が出来上がりますから、三郎兵ェ様」
 成程、次から次に三郎兵ェ様が口を突く。
 先に飲んでいると、
「終わりましたよ、美味しいでしょう、三郎兵ェ様」と言いながら由美が台所から上がってきて、襷を外した。
 由美が座る間もなく、
「屋敷の近くまで送って行きます。後藤殿、すぐ戻ります故、済みませぬがしばらくお一人で」と、重三郎に声を掛けながら立ちあがろうとした。
「今日は泊ってゆきます、三郎兵ェ様」
 由美の口から出た意外な言葉に、            
「何っ!」と、清野が慌てている。
「それはならぬ。さっ、送ってゆきます」
「父や母には話して参りました。御客様が見えているのならと、御許し下ださいました。宜しいですね、三郎兵ェ様」
「ならぬっ!」
 清野が、少し声を荒げた。
 由美は、意に介さずといった風情で悪戯っぽく笑って、
「さあ後藤様、どうぞ。こんなもので御赦し下さいね、ここにはお銚子もございません故。ねっ、三郎兵ェ様」と、銚氂を差し出す。
 重三郎は少し困って、躊躇いながら杯を出す。
「父も母も、もうとっくの昔に諦めて許して下ださいました。なのに、何故、何故なのですか、兄だってきっと赦してくれています。そうですよね、三郎兵ェ様」
「坂巻の御家はどうするのです、兄妹二人だけではありませんか」
 清野の人柄を知る両親は、同居することは辛くて出来ぬが、二人の仲は許すと、十年余りも変わらぬ娘の一途な心に諦めたらしい。
「私も少し飲んで宜しいでしょうか、三郎兵ェ様」       
「……」
「宜しいですよね、三郎兵ェ様」
 念を押すようにそう言うと、由美は自分で勝手に清野の杯に酒を注ぎ、いきなり立て続けに何杯かを飲み干した。
「後藤様、今日は運が悪かったとお諦めください、こんな日でも無ければこの胸の内っ」
 由美の言葉が涙声になって詰まった。
 また何杯かを飲み干す。
「卑怯です、三郎兵ェ様は卑怯です。後藤様はお幾つになられますか」
「二十八になるかと思いますが……」
 重三郎、少し気後れしてしまっている。
「二十八になられますか。三十ですよね、三郎兵ェ様は。私は二十七。十七の時より、十年もお待ちしている私の心がお解りになられますか、この身一つでここへ参ります、お許しを下さい、三郎兵ェ様」
「ならぬ……」
 清野が、少し弱気になったような声で言う。
 由美は大分酔いが回ってきたのか、やたら元気に、且つ饒舌になって行く。
 やがて堪え切れなくなった感情の昂りに、涙と鼻水が……。
 それに構うことなく更に杯を重ねようとする。
「もう止せ」
 清野が由美の肩に優しく手をかけ、杯を取り上げ、困ったように言った。    
 その手を振り払うようにして、
「止しません!三郎兵ェ様、三郎兵ェ様は逃げておられます、私からも、兄からも。兄を思い出すのが怖いのですか。兄がそんな事に拘泥するような男でない事は、三郎兵ェ様が一番御存じの筈、兄が生きていれば、三郎兵ェ様に立ち合いを挑んでも私を貰えと迫ります。そうお思いになられますよねっ、三郎兵ェ様」と、一気に思いの長を吐き出すように、涙声の中で言った。  
「……」
「何か仰しゃって下ださい、三郎兵ェ様」
 由美の感情が、益々昂ってゆく。
「後藤様、兄に代わって三郎兵ェ様を撃って下ださい。打ち負かして、私を貰ってくれるよう頼んで下ださい」
 酔った身体を二つに折るようにして、由美が重三郎に頭を下げた。
「分かった、分かり申した」
 重三郎、持て余し気味にそう答えた。
「お願い致します、約定致しましたよ。三郎兵ェ様も宜しいですね、もし後藤様にお負けになられたら、私を貰うと約定出来ますね、三郎兵ェ様」
「分かったよ、分かりましたから、もう酒は止しにしてください」
 清野もすっかり持て余し、半ば呆れてそう応えた。
「お約定致しましたよ、三郎兵ェ様」
 声が小さくなって、由美はそのまま軽い鼾を立て眠入ってしまった。
 男二人顔を見合し、「ふーっ」と大きな溜息を吐く。
 清野が、涙に濡れた由美の顔を優しく拭くと、そっと丹前を由美の上に掛けてやった。

 酔い醒めの身体に、由美の作ってくれた葱の味噌汁が美味い。
 やっと正気に戻ってゆくような、久しぶりのくつろいだ朝餉であった。
 食後、旅の話など、清野に聞かれるままに話していると、片付けの終わった由美が、襷も外さず、
「さあ、お二人とも庭に出て下さい。昨夜のお約束です」と、ニ本の木刀を持ち、さっさと庭へ出、偉丈夫のように肩を怒らせすっくと立ち、二人を睨みつけた。
「……?」
 二人は顔を見合せ唖然としている。             
「さあ、三郎兵ェ様」
 縁側で突っ立っている清野の手に木刀を無理矢理握らせる。
「さあ、後藤様。兄に生り代わりお願い致します」
 木刀を差し出し、ちょっと強面で重三郎を促す。
「由美の一生がかかっているとお思い下さい」
 二人、顔を見合せ、どういう事だと面喰っている。
「何をしておいでですか、男が一度お約束した事を守れないと云うのですか」
「……」
「お勝ちになられれば由美は身を引きます、三郎兵ェ様」
 清野はしばらく目を瞑り、意を決したのか、ゆっくりと木刀を握り直すと、重三郎を見た。
 その目に、清野の心の潔さのようなものを感じ、重三郎も、由美の差し出す木刀を断ると、自分の木刀を持ち出し庭へ出た。
 礼の後、清野は上段に振りかぶったまま微動だにしない。昨日の朝の剣を見ている重三郎にはその怖ろしさがよく解っていた。
 重三郎、正眼から八双へ構えを移す。
 時の流れが止まったかのように二人は動かない。
 来た!
 清野がスーッと右足を摺るように体を前に送ると、あの重そうな撃ち下ろしの剣が上段を離れた。      
 瞬時にそれを追って、重三郎の八双も動いた。
 鋭く、小さく、木刀の当たる音が乾いた冬の空気に吸い込まれ、四囲の林に小さく木霊して響いた。
 重三郎の返す一刀が、清野の首筋にピタリと止まった。   
 ヘナヘナと由美が座り込む。
「どちらがお勝ちになられましたか、後藤様ですよね」
 どうやらまともに見てはいられなかったようである。
 無理もあるまい、兄の事も脳裏に残っていよう、思わず目を逸らしてしまったか。
「そのようですが」
 重三郎の一言に、途端、由美の目が輝く。そのまま庭に座り直すと、三つ指をつき、
「明日この身一つで参ります。末永く宜しゅうお願い致します、三郎兵ェ様」と、清野に礼をし、重三郎に向きなおる。
「後藤様、ありがとうございました。それから三郎兵ェ様、お昼は台所の膳の上へ揃えておきました。夕餉は申し訳ございませぬが、干物がございますのでそれにてお願い致します。由美は明日の用意がございますので、宜しいですね、三郎兵ェ様」
 それだけ言うと、由美はさっさと帰って行った。襷を外しながら行くその後ろ姿には、何処か弾むような嬉しさが満ち満ちているように感じられ、いまにも駆け出してゆきそうであった。
「御主、わざと負けたのではあるまいな」
「いや、それは御主には解っていようが。でも、最初は迷うた、由美を失いたくはないと……。だが、間合いを探り合っている内に、それは何処かに消えてしまった。本気の撃ち下ろしだ、よく追い付いたな」
「力と重さでは、あの撃ち下ろしはとても捌けぬ。そうなると速さしかあるまい。八双からの速さが、辛うじて御主の刀に追い付けたのだ」
「いや、並みの八双では追い付けはせぬ。弾かれはせぬ。凄いな、御主は」
「ところで御主、我ら二人、由美殿に上手く乗せられたのではないのか」
「何っ。あっ、由美めっ。謀られたか、酔った振りなどしおって……」
「いや、あれは本当に酔っておられた、なのに上手くしてやられたな、女子の執念は怖いぞ。勝ったのは由美殿であったか、ははははは」
「ははははは」
 清野も、何かが吹っ切れたように清々しく高らかに笑った。  

 翌朝、重そうな大八車の音がして、昨日の小者ともう二人、三台の大八車を伴って由美がやって来た。
「身一つと言っていたではないか、この屋に入り切れるのか」       
 清野が荷を見て呆れている。
「要るものは要ります。だって、ここには何も無いではございませぬか。現に昨夜、お銚子さえも……、要る物は要るのですよ、三郎兵ェ様」
「……」
「今日中に御城の御許しが出ます。明日、三郎兵ェ様の御屋敷で、身内だけの祝言を挙げます。後藤様も御出席賜りとうございます。何せ、時の氏神様でございますもの、宜しいですよね、三郎兵ェ様」
「あっ、宜しく御願い致します、後藤殿」
 まるっきり押されっ放しで、口調まで由美のそれになっている。
「父と母に会うてきたのですか」
「はい、昨日の帰りに。三郎兵ェ様」
「私はもう三年も屋敷へは戻っておりませぬぞ」
「私はしょっちゅうお伺い致しております、その度にお励ましを戴いておりました。三郎兵ェ様を宜しく頼むと、昨日はとても喜んで戴き、御褒めの言葉まで頂戴致しましたよ、三郎兵ェ様」      
「御褒めの言葉をか?」
「はい、御褒めの言葉でございます。あっ、それに頑張りなさいと、三郎兵ェ様」
「何を頑張るのだ?」
「はい。そのー、三郎兵ェ様の御子をー、早く沢山産んでぇー、後継ぎとー、実家の養子をー……」
 少しはにかみ、最後は小声になりながら言う。
「実家の養子?」
「だって、私が家を出ますと実家の跡を継ぐ者がおりませぬ。三郎兵ェ様と私の子を実家の養子にすれば……。ねっ、良い考えでしょっ、三郎兵ェ様」
「坂巻様も、我が父も母も、その話承知なのか。誰がそんなことを考え出したのだ」
「皆様御承知でございます。考えたのは私ですが、誰でもそう思いつくのではございませんか。頑張りましょうね、三郎兵ェ様」    
「……」
 重三郎、吹き出しそうになるのを必死で堪えた。      
 清野が恨めしそうな、情けない目でその重三郎を見た。        

 良い祝言であった。
 その夜の宴の後、重三郎は二人に黙って、「またいつかお訪ね致します」と書置きを残し、また彷徨の旅へ出た。
 たった四日の逗留であったが、重三郎の心に、由美の花嫁姿と、幸せそうな二人の笑顔は、今でも暖かく残っていた。

 あれから三十年余り、今、その懐かしい庵を目の前にして、あの時を思い出し、心が和んでくるのであった。
 庵の入口に近付いて声を掛けようとした時、いきなり若い女人が、中から飛び出すように現れた。
 女人も驚いている。
「あっ、由美殿」
 思わず重三郎の口から由美の名が出た。
 若い女人は目を丸くしながら微笑んで一礼をし、
「母でございますね。少々お待ち下ださい」と、中へ戻っていった。
 そうである、あの若さ、由美である筈が無いではないか。
「母上のお知り合いの御方のようですよ」
「何方かしら」
 中からそんな話声がし、由美が現れた。
 重三郎を一目見るなり、挨拶もせず、
「後藤様!後藤様でございますよね。雪恵!お父様を早く、早く呼んで来て」と、目を丸くし、動転したような声で若い女人に急かせるように言った。
「はいっ。あの後藤様ですよね」
 雪恵と呼ばれた娘は、その只ならぬ由美の口調に、慌てて家の前を走り奥の林に駆け込んで行った。
「よくお出で下さいました。あれからずっと、いつかはまたお訪ね下ださると、首を長くしてお待ち致しておりました。今、畑に行っているのですよ、この頃、畑をいじるのに夢中なのですよ。さあどうぞ、今濯ぎをお持ち致しますね」
 泣いている、由美が突然の重三郎の再訪に涙を流して泣いている。
「いえ、井戸の方へ回ります。昔のままですよね」
「はい、昔のまんま。ちょっと裏に部屋を足しましたが、他は昔のまんまでございますよ」
「お変わりございませんでしたか」
「ふふふ、もう三十年にもなるのですよ」
 やっと感情の昂ぶりが収まって来たか、笑顔でそう言った。
「ははは、そうか、そうですよね。変わらぬ筈が無いか。私もほれこの通り、白髪も多くなりましたよ。雪恵殿お一人ですか、御子は」
「いえいえ、雪恵を始め、三人。ちゃんと実家に下の孫四郎を跡取りとして養子に出しましたよ。上の息子は後藤様の御名を戴き、重三郎とさせて戴きました。今は、龍野の家の跡を継いでおり、二年程前から藩の江戸詰となっております」        
「ほう、それは宜しゅうございました」
 息急き切って、白髪の男が飛び込んで来た。        
「後藤殿、いやぁ良く参られた。三十年、待ち侘びましたぞ」        
 清野が弾む息を継ぎながら、しっかりと重三郎の手を握り締める。その目も潤んでいた。
 雪恵も後を追って走り込んできた。
「雪恵、このお方が、お父様と私の時の氏神様ですよ」
「雪恵と申します、お噂は父と母からよく聞かされております。初めてお会い致しますのに、何故か昔よりお見知りのような気が致します。剣一筋、驚くほどにお強いと」
「後藤重三郎。宜しく御願い申し上げます、雪恵殿」
 あの頃の由美によく似て、化粧もせず、少し日に焼け、どこか幼顔を残した美形であった。

   煙霞の痼疾未だ止み難く候 播磨、新宮 其の五(一)
         其の五(二)へ続く

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み