煙霞の痼疾未だ止み難く候 終章「如月の雨、長湯」

文字数 2,766文字

                           NOZARASI 8-8
 煙霞の痼疾未だ止み難く候
   其の八 長湯
     終章 如月の雨

 気が付けば、如月はもう目の前であった。
 “生更ぎ”
 その名の如く、万物の生命甦る春である。
 あの故郷の春は、もうすぐそこまで迫って来ていた。       

 湯平、そして長湯へ。
 少し微温い長湯の湯に浸かりながら、鬱々と己が心を包み込むこの里の湯けむりのような、あの不可解なものに戸惑い続ける重三郎であった。
 もう故郷は目と鼻の先、僅か四里足らず。それなのに自分の心はときめきも急きもしない。いや、故郷へ足を踏み入れる事を未だ畏れているのだ。
 この旅へ出た時から、それは心の何処かに常に潜んでいたのではあろう。修行の旅で、中国や四国を歩いても、九州の地を踏む事には、無意識の内に躊躇いがあったような気もする。故郷に続く大地を目の前にして、あの漠としたものを心のどこかに感じ、いつも踵を返していたのではなかったか。
 春なれば、母と涙したあの生命蘇る春なれば、この不可解なものを越えさせてくれると信じ、縋りつくようにしてここまで辿り来た。
「何を畏れているのだ、重三郎」
 何度己にそう問い返して見たことだろうか。だが、その思考の過程の中で、拒絶するかのように得体の知れぬ力がいつも邪魔をする。そして、その方が、己が心の安堵するのを覚え、ズルズルとそれに甘んじ、今日もまたこの長湯に留り続けるのであった。 
 また一夜、また一夜と長湯に留まる。
「明日発とう。明日こそ発とう」と、夜には思う。が、朝目が覚めると、躊躇いはまた足を止めさせた。
 また一日が過ぎ、二日が過ぎ、己が心の弱さに苛まれゆく。 
 この旅の様々な出来事が、走馬灯のように脳裏に浮かんでは消えてゆく。
 吉次の顔が……、平太の顔が、千代、サト、……、そして雪恵の悲しそうな顔が浮かんだ。
 その途端、重三郎の胸の奥で、言い知れぬ感情が痛みを伴い小さく渦巻いて心の闇の中の静寂に吸い込まれていった。
「雪恵」
 心奥の水面の静寂を乱すが如く広がり逝く漣に向き合うことのできたこの逡巡の時は、重三郎に己が胸の内に芽生え潜んだ雪恵への恋慕の情を、確かと受け止める確かな時を与えた。
 生まれて初めて抱くその感情と、故郷への思いとが、胸の奥で複雑に絡み合い、時には鋭く、耐え難い痛みさえ感じられるのであった。
 初めての人恋うる切なく哀しい想いに包まれゆく重三郎であった。

 そして、また幾日かの時が過ぎ逝き、如月の夜の雨が降った。
 暖かい春の雨であった。
 朝目覚めて四囲の山々を見る。
 雑木林は、淡い紅に包まれ霞んでいた。
 春の芽吹きの兆しであった。
 芽吹き前の頃、暖かい春の雨を迎えると、椎や椚の雑木林は一斉に芽吹きに備えた木の枝全体が淡紅色を帯び、雨上がりの林はその淡い紅に包まれ霞む。それは草木の生命の再生の始まりであった。
「ドクン、ドクン」と、身体の奥底から打ち寄せるものが重三郎の背を押す。
 が、重三郎は、まだ何かを畏れ、躊躇い続けているのであった。     
「ゆかなければ……」
 尚も留まり続ける重三郎の心を、焦りにも似たような何かが苛み、胸を締め付ける。
 再びの如月の雨の降ったある朝、重三郎は旅の支度をすると、意を決して宿を出た。が、何処か足取りは重かった。
 川沿いに歩く。
 重い足取りを止め、佇んだまま僅かに目の膨らんできた山々の木々をぼんやりと見やる。
 重三郎の心に、あの山河が浮かび、母の面影が過る。      
「重三郎様!」
 重三郎、己が耳を疑った。
「重三郎様!」
 紛れも無い雪恵の、あの弾むような声が背後から聞こえた。  
 空耳か。己が心の未練か。
 新宮を発つ時も、雑木林の何処からか、雪恵の声が聞こえたような気がした。が、振り返っても、何処にも雪恵の姿は無かった。
 呪縛にかかったかのように振り返れぬ重三郎の前に、小走りに走りくる足音のして、雪恵が回り込み、重三郎を覗き込む。
「お一人で……、ここに……」
 重三郎、後は声にならない。
「すぐに分かりました、背中の竿袋。御身体の方は如何なのですか、重三郎様」
 言い終わらぬうちに、雪恵は感極まって嗚咽を漏らしだした。  
 重三郎、やっと我に返って雪恵の肩に優しく手を置いた。
「泣くな、雪恵殿。儂も泣きとうなるではないか。病は豊岡以来一度も出ぬ……」
 重三郎も、それだけ言うのが精一杯であった。       
 胸の奥底から故知れぬ感情が突き上げて来る。溢れ来るその感情に、抗うことの出来ぬ涙が頬を伝う。
 雪恵の肩をそっと引き寄せた。
 互いの温かみに、涙する心が通い合う。
「重三郎様でもお泣きになるのですね、重三郎様」
 雪恵が、やっとくしゃくしゃの顔で笑って重三郎の涙を拭いた。
「これ、重三郎様」
 雪恵が書状と、あの金子らしき包みを差し出した。
 清野の文は短く、最後に雪恵を頼むとあり、由美のものには、こうなる事の予感を感じ、この金子お受け致しました。私たち二人も、そして雪恵も、全てを託すに足るお方と信じ、決心致しました。どうか雪恵を宜しくお願い致します。と結ばれてあった。        
「よいのか、雪恵殿」
 雪恵が、またくしゃくしゃになりそうな顔で嬉しそうに微笑み、頷きながら言った。
「半月程前、もうすぐ春ねって、重三郎様の故郷の春を思いながらポツリと口にしたの。それを聞いていた父が、行くかって……。母もそうなさいって……。雪恵の寂しさも、悲しみも、みーんな解っていらしたのですね」
 雪恵の感情が、また一段と昂ぶって行く。
 重三郎、もう一度雪恵の肩を抱き寄せ、愛しき者を優しく揺するかのごとく、小さく揺らした。
 それを振り切るように、雪恵が重三郎に正対し、
「これからお発ちになるのですね、あの故郷へ。雪恵は、重三郎様と、重三郎様の故郷の春に逢いたくて参りました。行きましょう、重三郎様」と、明るく言って涙を拭き、微笑んだ。
 まるで、重三郎の心の迷いを、疾うの昔に知っていたかのような雪恵であった。
 
 二人は、芽吹き前の淡い紅に包まれた雑木林の山道を行く。
 道が長い下りにかかって、やがて遠く春霞に煙る故郷の城下が見えてきた。
 小さな川の流れに沿って、まるで春への道のように、温かな、柔らかな芽吹きの絨緞が、春霞の中の城下へと続いていた。
 その茫とした早春の緑の中を、二人は黙って涙しながらゆっくりと歩いて行った。

             煙霞の痼疾未だ止み難く候
                       ―完―
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み