煙霞の痼疾未だ止み難く候 其の六「湯田」
文字数 11,378文字
NOZARASI 8-6
煙霞の痼疾未だ止み難く候
其の六
「湯田」
途中、湯治場を探したり寄り道をしたりしながらのんびりと行き、厳島神社に参詣する頃には、秋はもうすっかり深まりを見せ、初冬の気配さえ感じられるようになって来ていた。
あの別れの日からずっと、寂しさと温かさ、相反するものが重三郎の心を支配していた。
父母や家族との別れ以来、この三十有余年の間、一体どれだけの人々と行き逢い、別れて来たのであろうか。己の心の中に、忘れ得ぬ人々は多い。だが、今の心のような別れが果してあったであろうか。
清野や、由美や、雪恵の姿が去来して止まない。胸を裂かれるような痛みが、その度に心を襲う。
全てを脱ぎ棄て身軽になったつもりでいた。後はもう死ぬのを待つだけだ、そう思っていた己が心に起きた、生きんがための今を生きるのだという心の持ちようは、それだけでは無い何かを孕んでいるような気がした。一体何が何をもたらしたというのだ。
徳山で面倒に巻き込まれてしまった。
岩国で錦帯橋をちょっと見てみたいと思いつき、寄り道をした。川を目にすると、心が落ち着き、なぜか離れ難い。釣り好きのせいもあるのであろうか、橋の下を流れる錦川の清流に誘われ、ふらりと上流へ足を延ばし、思わぬ時を過ごしてしまった。
旅の話に、湯田の湯の良さを聞き、徳山まで今日の内に辿り着けば、明日には湯田に着けると、急かされるように徳山を目指したのだが、如何せん初冬の日暮れは早い。
提灯も持たず行く道は、思うように脚は進まず、徳山に辿り着いた頃は、夜半近くになってしまっていた。
もう泊れるところもあるまい。体調もいい、昔のように、このまま夜を徹して歩き続け湯田まで行くか、それともどこか街道筋に祠でもあれば久し振りの野宿もいいかなどと思いつつ行き過ぎようとした徳山の町へ入ってすぐのことであった。
行く手、そんなに遠くない辺りで人の悲鳴が聞こえたような気がした。闇の中に足音がして、幾人かの影が通りの向こうへ走り去って行った。
重三郎は、何か嫌な予感がした。
小走りに行くと、商家の並びの中に、潜り戸の開き、中から薄明かりの洩れている一軒が見えた。近付いて中を覗おうとした時、その明かりが消され、出会い頭に男が一人飛び出して来た。
男は一瞬たじろいだが、顔を隠すように身を翻すと、走り去って行った男達の後を追った。
「おいっ、誰ぞ、誰ぞおらぬか。おいっ」
声を掛けながら中へ入る。
「うっ」
見世の中は凄惨な光景であった。
「おいっ、生きている者はおらぬのか。おいっ」
誰も生きてはいないようであった。
隣家の者を叩き起すと役人を呼びに走らせる。
それからが大変であった。
「それ以上の事は分らぬ。最初に逃げ去って行った者達は五、六人、見世から飛び出して走り去った者も、チラリと顔を見ただけで、夜目故、とても人相などは……。何度も申し上げている通り、背は儂位、五尺七、八寸程、年は三十には至っておらぬようであったと……。同じ事を何度もお聞き召さるな」
「今夜はここにお留まり願えまするか。明日、明るくなってもう一度検分を致しますので、御立合いをお願い致します。それに、出来れば人相書きを作りたく、そちらも何卒宜しく御願い申しあげます」と、人相は確とは判らぬという重三郎に、無理強いをする。
言葉は下手に出ているが、絶対に放免は致しませぬぞ、という感じである。
「ここへか」
重三郎、諦めて少し皮肉げに言う。
「いえいえ、番屋の方に布団もございますれば。おい、宗吾、案内して差し上げろ」
宗吾と呼ばれた若い役人に案内されてゆく。
「どうも、この頃中国路を荒らし回っている凶賊のようですね。中々の連中らしく、犯行は大胆なのに、これと言った証を残して行きませぬ。中に何人か、侍ではないかと思われる者が居るようで……」
「そのようだな」
「御覧になられましたか」
「ああ、もしや生きておる者がと思うてな。あの斬り口は相当の腕の者であろう、あれ程の腕の者が、何故盗賊なぞに……」
「これで殺された者が、皆奴らの仕業だとすれば、三十数名にも上ります」
「何と!惨い事よのう」
「女とて容赦はせぬようで、子供も三人。一人はまだ乳飲み子であったとか……」
「そんな子供までもか……」
結局、翌日も足止めされ、徳山を離れることが出来たのは三日目の朝であった。
「湯田でしばらく湯治を致すつもりでござる。何かお役に立てることあらば、湯田の宿をお探し下だされ」と言い置いて、重三郎は湯田へ向かった。
海沿いの道をゆく。この海の向こうは豊前、故郷はそのすぐ先か。が、急くことはない、春までに着けばいいのだ、春までに……、と自分に言い聞かせながら、湯田への道を足早に行く。
小さな峠をいくつか越え、夕暮れ迫る頃、やっと山口の町並みを抜け湯田へ辿り着いた。
初冬の早い夕暮れの中、そこここに立ち上る湯煙に、何かほっとした風情を感じさせる情景であった。
ほどよい静かな宿はないかと探し、湯田の街を彷徨う。奥まった所で、小さいが良さそうな宿に当たった。
聞いた通り、お湯も良い。徳山でのとんでもない事件の疲れが、湯に溶かされ抜けてゆくような湯舟の中であった。
「ふーっ」
どっぷりと浸かると、大きく息を吐く。
目を瞑る。
あの凄惨な光景……、しつこい役人の目。ゆっくりと温かい湯に身体が馴染んでゆくと、その不快なものも、湯に解されるように次第に薄くなって行く。
ホッと一また息ついた重三郎の心に、雪恵の面影が入れ替わるかのように浮かんでくる。
揖保川の川原で、二人で弁当を食べている時の、あの楽しそうな顔であった。そして、落ち鮎の季節を迎え、別れの予感に泣きじゃくる顔……。
まるで童女のような雪恵であった。
湯田、三日目の夜、星空を見上げながら、ゆったりとした気分で野天の風呂に浸かっていた。
余り柄の良くない男達三人が、無遠慮に入って来た。
ジロリと重三郎を一瞥すると、無視するように奥へ浸かった。何やら不快を覚え、重三郎はすぐに湯を上がった。
翌日、山口の街でも歩いて見るかと、朝餉の後、重三郎はぶらりと宿を出た。
大きくはないが、中々の街である。山手へ向かうと神社仏閣が多く、静かな佇まいを見せ、ちょっと故郷の城下を思い出させた。
そう云えば山口へ着いた夕暮れ、川を渡ったなと思い出し。ちと川でも見てみるかと、川のほうへ向かう。
釣り好きのせいもあるのか、川や海、水辺や流れの音、そんなものを見ていたり、その中に包まれていたりすると、不思議と心が落ち着くのである。
岩国でもそれで遅れ、あの忌まわしい事件に巻き込まれてしまったのであろうに、またそぞろ水の魅力に誘われゆくのであった。
この辺りが町の中心になるのであろうか、少し大きな商家も見られ、立派な町並みである。
川はこの裏手辺りかと、少し先の路地へ入ろうとした時、昨夜の三人と思しき男達が向こうからやって来た。
向こうは、昨夜風呂で会ったとは気付いていないらしく、何やら喋りながらすれ違って行く。
重三郎の耳に、「徳山では」と云う言葉が聞こえた。
あの男、あの夜徳山の商家から飛び出してきた男に似てはいないか……。とすると、あの三人は盗賊の一味か。
まだこんな近くにいたのか。
重三郎は一旦路地へ入り、間を置いて後を付けた。
三人は、大きな商家の前で中を覗うような素振りをチラリと見せた。そしてその先の路地へ入ると裏手へ回り込んでゆく。
まだほとぼりも冷めぬであろうに、今度はこの商家を狙うのか。
確たる証は無い。まさか役人に知らせた後で、間違いでしたでは面倒なことになりそうだし。それに、あの時は他にも何人かいたではないか、そ奴らは何処に居る。
足拵えが為されていないところを見ると、まだ同じ宿に泊っていると見て間違いはあるまい。襲うとすれば頭数が揃ってからであろう。もう少し様子を見ることにし、川沿いに歩いて宿に戻った。
それから二日目の夕刻であった。四人の浪人が宿に入った。
しかし、表だってあの三人と接触する気配は無かった。
間違いはないように思えたが、確信というものが欲しいと重三郎は迷っていた。
夜が更けてゆく。重三郎は、何時でも対処出来るように身支度を整え、布団の中へ入った。
だが、その夜は何も動きは無かった。
今夜か。昨夜も余り眠ってはいない、重三郎は夜に備え昼寝を決め込んでいた。
「後藤様、お客様でございます。有田様とお名乗りの御方ですが」
「知り合いなんぞおらぬが、この地には」
「私でございますよ、有田宗吾です。先日は御世話になりました」と、男はもう宿の者の後ろに付いて来ていた。
人懐っこい笑みを浮かべ立っているのは、徳山のあの若い役人であった。
「先日はお世話になりました」
「何の、当然のことを致したまで」
宿の者が安心したように下がってゆく。
「どうした。また何かあったのか」
「いえ、安芸の方から連中の手配書が手に入りまして、人相書も三人ございました故、後藤様にお見せし確認して戴いて来いと上の者が申しますので」
「どれ」
宗吾が差し出した人相書、手に取ってしげしげと見てはみたが、あの男達に似ている者はいないようであった。が、その内の一枚に、左頬に刀疵というのが有った。
後から宿に入った四人連れの浪人の一人に、確かに左の頬に刀疵のある男がいた。が、人相書の恐ろしげな顔とは、似ても似つかないものであった。
「この人相書、確かなものなのか、似てはいないが、刀疵の男……。それにちょっと気になることもある」
「いえ、生き残った者の口述にて描かれたものらしいのですが、恐ろしさのあまり、当てにはならぬだろうと添え書きが付いておりました。気になることとは、何でございますか」
「御主、この山口に役人の知己はおるか」
「知己と言う程の方は……。ですが、幾つかの藩や宰判に分けられてはおりますが、同じ毛利でございますれば、年に何度か情報交換のような寄り合いを持ちます故、顔見知りの方も何人かは」
「あまり偉くない者の方が良いかも知れぬな、ところで御主、宿の者に役人だと告げたのか」
「いえ、名は名乗りましたが……。人によっては役人と申しますと何かと……」
「そうか、それならば奴らに気付かれてはいまい、ちと近くへ寄ってくれ」
重三郎は事の次第を話した。
「すぐに手配を」
「待て、確たる証は無いと申しているではないか。それがあればとうに当地の役人へ届けておる。間違いで大騒ぎになっては後が面倒だし、同じ宿に泊っても、知らぬ者同士を装おって、かなりの用心深さだ。下手に動いて奴等に気付かれでもしたら、元も子もあるまいが」
「どうなさいますので……」
「儂をあの商家、確か瀬戸屋と看板にあったが、客人として泊めて貰えるよう頼んでくれ。儂がいきなり行っても中々信用はして貰えぬであろうからな。奴等がこの街を去るまでじゃ、事情を話すのは主のみ。他の者へ伝われば、気の小さいものもおろう、恐ろしがって気付かれるやも知れぬ。御主はそれと覚られぬよう、あの商家の見える何処ぞの家陰にでも隠れていてくれ。出来れば、一町ほど先の火の見櫓のある辺りが良いのだが。事あらば、先ず見世の者を外へ逃がすか、儂が表へ飛び出す、すぐそれと知れよう。そしたら半鐘を叩いて詰所へ知らせてくれ。
空騒ぎに終わるやも知れぬ。だがそうでない時は、また何人かの罪なき人が死ぬ。知り合いの役人に事情を話し、あまり大事にならぬよう、奴らに気取られぬよう、それなりの備えを頼んでおいてくれ。手練の者が二人、三人と居れば、儂だけでは店の者を皆は守り切れぬやも知れぬ。頼むぞ」
「大事にならぬよう頼む亊、出来ますでしょうか。間違いでしたら、私の立場は……。それにこの節、夜は、外は……、寒いですよね……」
「何を姑息な事を言っておる。間違いであればそれで良し、謝れば済む。儂の所為にでもしろ。そうでなければ、御主、切腹ものだろうが」
「そうなりますか……」
宗吾はまだ煮え切らぬ表情で腹を撫でた。
「儂の歩いたところ、商家から詰所までは七、八町。そんなに時はかかるまい。呉々も表向きは普段を装うように言っておいてくれ。御主は半鐘を叩いたらすぐに来てくれ、いいな。見世の者にもしもの事があってはならぬでな」
盗賊の噂は、当然商家にも伝わっていた。主は恐ろしさを呑み込むように頷いて承知したという。
「奴等は、皆昼前に宿を出ました、襲って来るとすれば今夜でしょうね。番屋には、徳山の件以来、それなりの人数が配置されているそうで、心配には及ばぬという事でしたが」
客を装った宗吾が伝えに来た。
「店の者は、主夫婦を除いて皆二階で寝るのだそうだ、守り易い。が、御主も早く来てくれよ、大分使えると見たが」
「一応、ちょっとは……」と、宗吾は応えたが、どこか頼りなさげなその様子に、
「そうか、頼むぞ」と重三郎、言ってはみたが期待はしなかった。
夜は更けてゆく。隣室で主夫婦が押し殺したような声でぼそぼそと話をしている。
「眠られぬか、無理もあるまい」
「はい、申し訳ございません」
「さもあらん。気配がしたら手筈どおり、御内儀は直ぐ二階へ行き静かにしていなされ。主殿は、儂が表へお逃がし申す。火の見櫓へ向かって一目散に走りなされ、大声を挙げてな」
「はい、承知致しました」
どれほどの時が流れたのだろうか、重三郎は、先ほどから店の表と裏を結ぶ三和土の通路脇の柱に背を持たせかけたまま目を瞑っている。
表の木戸に微かな音がし、闇に透かして鋸の刃が光った。
ほんの微かな音を立て、板戸の隙間から差し込まれた鋸の刃が引かれる。目立てに手馴れた者が仲間に居るらしい、凄い切れ味である。あの連中の一人は大工崩れか……。
成る程、そうやって木戸を破るのか。商家であるためか、用心のため二重に設えてある心張棒の位置も、ちゃんと下見をしていると見え、無駄は無い。などと、重三郎、感心して見ている。
気配から察すると、どうも七人全員、表に揃っているようである。
「正面切って来るか、大胆なことよの。よしっ、作戦を変えるぞ。こちらから撃って出る。お二人ともに二階へ行かれよ。そっとな。御心配召さるな。亊の収まるまで二階の者たち、決して出すでないぞ、分かったな」
二人がおっかなびっくり、忍び足で二階へ消えた。
鋸で明けられた小さな穴から手鉤が差し込まれ、心張棒を器用に引っ掛けると、カランと音のして潜り戸がスーッと動いた。
戸の陰にピタリと身を隠していた重三郎が、鋸を片手に背を屈め中へ入ろうとした男の上半身を、思いっきり外へ蹴飛ばした
「うわっ!」
「何だ!」
「どうした!」
外で、予期せぬ出来事に慌てた奴らの声がしている。
合図の前にもう半鐘が鳴り出していた。
「逃げろっ!」
その声の終わらぬ内に、重三郎は鋸を持った男を叩き伏せ、火の見櫓と逆の道に立ち塞がった。
走り寄った宗吾が一方の道を塞ぎ、挟み撃ちの態勢になる。もう通りの奥に役人達の声が聞こえ、走り来る龕灯の明かりが闇の向こうに見えた。どうも宗吾が一計を案じ、離れた裏道に捕り方を配していたらしい。
「観念せい!」
「ううう、おのれっ!」
路地を回り込んだ役人たちが重三郎の背後も固めて、残る六人は完全に袋の鼠である。
「ゆくぞ!」
重三郎の動きは、件の如く速かった。
木刀を振り翳すと、あっという間に、刀を抜いて構えていた浪人三人を叩き伏せるように打ち据える。
「御主、その三下二人頼むぞ」
宗吾に声を掛ける。
「はいっ」
宗吾、元気のよい声を上げると、パンッ、パンッと峯で二人を一閃した。
「終わりました」
宗吾が重三郎の方を見、ニコリと笑って刀を鞘へ納めた。
重三郎、ちょっと意外であったが、同じ様に笑って返すと、
「お前が頭目か」と、刀も抜かず泰然と事の成り行きを見ていた浪人に向かって言った。
「そうだ。御主出来るなぁ、だが木刀で俺を倒せるかな。行くぞ、犬め!」
悪意と敵意を剥き出しにした目で重三郎を睨みつける。
「手を出すな。此奴は並みの腕ではない、怪我人や死人は出しとうない、下がって、逃げられぬよう囲んでおいてくれ」
熱り立つ役人達を下がらせる。
「ほう、俺の腕が解るのか、まだ剣も交えぬのになぁ、相当の自信だなぁ。こうなれば俺も最期だ。先ずお前、それから出来るだけ沢山の地獄への道連れを頼むとするか」
どこか飄々として、その目に流離い流れ歩く者の共通に持つ寂しさを漂わせてはいた。が、凶人の陰は覆い隠すべくもなく、その全身に芬々としていた。
「狂人だな、御主」
「狂っておるのは世の中の方であろうが。商人なんて皆ブクブクと肥え太りやがって、見てみろ、この周防、長門を、商人と結託して侍までもが太り過ぎに太っておろうが。道中を見たか、百姓たちの姿を見たかぁ、この寒空に着る物とて無く、食らう物とて無い、皆骨と皮ばかりだろうが。だからこの辺りは一揆が多いのよ、世直しよ、世直しぃ」
「世直しで、乳飲み子までも斬るのか」
「五月蝿い!役人の犬になり下がった奴に何が解るか」
いきなり浪人が膝を折るようにし、剣を抜き放った。
居合であった
喋りながら浪人は、自分の間合いを測っていたのだ。重三郎はそれに気付いてはいたが、わざとその間合いの中に自分を置いていた。
一閃する相手の切っ先を、小さく後ろに跳んで、身を捻って紙一重で躱した。
男の目に一瞬驚きの色が浮かび、その色が畏れに変った。が、その時はもう重三郎の木刀が、流れるような動きの中で淀みなく浪人の喉仏を撃っていた。
「グエッ!」
異様な悲鳴を上げて浪人が転がる。また転がる。喉を潰されて息が出来ないのである。
声にならない声を発して、浪人は踠き苦しみながら転げ回り続ける。
「苦しめ。何人の罪なき人を殺した、己が殺した何倍もの人達が悲しみ、苦しんでおろう。人の心を持たぬ者が何の世直しぞ」
「死にませぬか」
役人が心配げに見ている。
「死にはせぬ、加減はしてある。だが、十日やそこらは声も出せまい、食い物を飲み込むのも苦痛であろう。報いじゃ」
「報いですか。これで殺された者達も、少しは浮かばれましょう」と、宗吾が、殺された者逹を惜しむように悲しげな面持ちで言った。
「そうであって欲しい。後は宜しく御頼み申す」
「どちらへ」
宗吾が、立ち去ろうとする重三郎に訊いた。
「湯治へ来ておるつもりじゃて、宿へ戻る」
「もうとっくに閉まっていましょう」
「あっ、そうか。そんな時分であったか」
「一晩中入れる湯がございます、宜しければ御案内致します」
「後始末はいいのか」
「ここは私の持ち場ではございませんし、皆様、経緯は御存じですので、すぐに戻れば何と云う亊はございません」
「本当にいいのか」
「はい。参りましょうか」
宗吾は、役人に何やら話しかけると先に立って歩き出した。
「やっと片付きました。私の役目はやはり何もありませんでしたが、中々抜け出す機が掴めませず、いや、一日、只付き合っていると云うのも大変なものですね」
翌夕、宗吾が笑いながら部屋へ入って来た。
「明日巳の刻、役所までおいで戴けますか、私も参りますので。それから、下へ頼んで、このまま相部屋ということにして戴きましたので、一献御お付き合い御願い致します」
意外と厚かましいところのある男である。が、何処か憎めない、役人としては向いているのか。
重三郎が苦笑いをしていると、
「御迷惑ですか………」と、宗吾が少し戸惑いを浮かべて言った。
「儂は構わぬが。それに、一人より二人の方が酒も美味いでな」
重三郎は、役人らしからぬ宗吾に好感が持てた。
だが、宗吾は昨夜から一睡もしていなかったらしく、少し酔いが回ると轟々と鼾を掻いて先に眠りに就いてしまった。
偉そうな態度の役人が口を開く。
型通りの挨拶と礼を述べた後、
「見事な腕らしいの、木刀であの凶賊共を平らげたと云うではないか。刀は持たぬのか、丁度良い、これで刀を求めてはどうかな」
侍のくせに刀も持たぬのか。そう言いたげな、人を侮った態度が丸見えである。
三宝に乗せられた小判が、重三郎の前に差し出された。
「これは……」
「そう云う顔をしてくれるな、これはな、毛利四藩から出されていた奴らの首代だよ。生かして捕えれば一人五両。一味全てを纏めて捕えれば十両の上乗せ。そう云う御触れが出ておっての、御主それを知らぬのか、知らずに危ない橋を渡ったのか。立場上、貰うてくれねば困るのじゃ。良いではないか、刀も求められるのではないか。それから、これは瀬戸屋からの志。御主の機転が無ければ、店の者皆、あ奴らに惨殺されていたであろうからな、当然の礼だな」
「それがし、刀は持ちませぬ、従って買う銭金も要りませぬ」
「そう固いことを言うてくれるな、儂の立場も考えてくれ」
「後藤様、宜しいのでは。御断りになられれば、この金子、この役人達の懐へ入ってしまいますこと必定、返って腹が御立ちになりましょう」
宗吾が耳元で囁いた。
それを聞くと、重三郎、
「では、有難く頂戴仕る」と君子豹変、あっさり受け取ってしまった。
役人の顔に、在り在りと思惑外れの色が浮かんだが、
「おっ、そうして貰えるか、それは有難い」とまぁ、何処も同じか。
「何が有難いだ、内心がっかりしていたくせに。腐りきっているのは丸見え、あの盗人の言うとおりだ。湯に参りましょう、湯に。不愉快を洗い流しましょう」
歩きながら、宗吾が怒っている。
どうやらこの男、大事な正義感も失われてはいないようである。
「故郷には何方かお待ちで」
「弟が跡を継いでおる筈じゃ」
「筈、でございますか」
「もう四十年近くにもなるからのう、故郷を出て……」
「四十年でございますか。私の生まれる前から修行の旅でございますか……」
「御主、徳山へ戻らなくとも良いのか」
「はい。先ずこの地の役人があの連中を取り調べ、次に私が加わり徳山の一件を。その調べ書を徳山へ持ち帰ることになると思いますので、当分は山口に」
「こんな事をしておって良いのか」
「はい。先ずはこの地の御番所が先、私はその後」
「立ち合わなくとも良いのかと申しておるのだ」
「いえ、この地の事はこの地の役人が、私が居れば、こちらの役人も何かとやり難かろうと思いまして。気を利かして座を外すのも役人の心得、御心配は無用にございます」
「そんなものか」
「そんなものでございます、役人なんて」
この男、真面目なのか不真面目なのか……。重三郎は思わず苦笑させられるのであった。
湯に浸かりながら、
「好いですねえ、湯田の湯は。徳山より山口の方が好いなあ、毎日湯に入れるものなあ。何とか山口へ勤められないものかなあ」
この男、これもまた、まるで本気のように言う。
「解せぬ男だの、御主は」
苦笑を隠さず、重三郎が呆れる。
「それにしてもお強いですねえ。負けたことなんぞ無いのではございませぬか」
「修行の旅、若い頃はほとんど負けておったな。少しばかり強かった、天狗になって故郷を出、行く先々で打ちのめされての、長門の萩で完膚なきまでに負けた。あれで儂の剣の道は大きく変わった。
おっ、そうだ、御主、萩の城下、東の外れに小さな稽古場があるのを知っておるか。海の見える所だ」
「沢井先生の稽古場ですね」
「そうだ、沢井先生だ。もう三十数年にもなるか……。御主、沢井先生を知っておるのか、どうしておられる、これから御訪ねしようと思うておる」
「五年前、御他界なされました」
「やはりそうか……。遅かったか……。皆死んでゆくの、人の定めではあるがの……。寂しいの、心に残る人の多くは死んでゆくような年になって来たのかのぉ……。ひと目御会いしたかった、素晴らしいお人であった」
「はい」
宗吾が目を瞑り、何かを思い追いかけるかのように呟いた。
「御主、沢井先生とは知己の間か」
「はい。一応弟子ですので」
「何っ、沢井先生の弟子」
「はい。一応皆伝も戴きました。私で二人目だそうです」
「その若さでか……」
「はい。先生の御亡くなりになられる前の秋でした」
「なぁんでそれを先に言わぬ、なれば儂一人、盗賊共と渡り合わなくて済んだではないか」
「はい。でも、何から何まで段取りが宜しいもので……。まるで軍師、これなら心配無用かと」
「何が心配無用じゃ。御主は解せぬ、分かっておれば大騒ぎをせず、二人だけで事足りたではないか」
「はあ……。でも、後藤様かなり出来るのではと思いまして、失礼とは存じましたのですが、ちょっと御拝見致したく……。」
「……」
「しかし、あの居合の間を読み切るなんて、神業でございますね。切っ先がまるで生き物のように、一寸程すっと延びて……。かなり出来る者でも、相手の間合いの中に自らを置けば、あの延びた分は躱せないのではございませぬか。居合は知っていましたが、あんなのは始めて見ました、勉強になりました」
「御主、あれが見えていたのか。さすが沢井先生の弟子だな。あれを居合の妙と云うのかな、肩の筋と節を上手く使うと、一瞬、腕が蛇の獲物を襲う時のように、すっと延びるのだそうだ」
あの立ち合い、並みの者ではそこまで読めまい。この男、見事に看て取っていた。
重三郎、すっかり拍子抜け。何だか身体中の力も抜け、ズルリと湯の中に沈み込んでしまいそうであった。
「ところで後藤様、互いに沢井先生の弟子と云う事は、私共は兄弟弟子と云う事でございますよね。これより兄者と呼ばせて戴いて宜しゅうございましょうか、御願い致します」
「何を言い出すのだ。まあ良いか、御主なら。沢井先生の御導きでもあるか」
「ありがとうございます、兄者」
人懐っこく、また嬉しそうに笑う宗吾を目の前にしては、断れそうも無かった。
それから二日後、調べ書きを受け取り徳山へ戻る宗吾と山口の先で別れ、萩への道を辿った。
別れ際に宗吾が言った。
「もう稽古場はございません。お墓は、裏の一段高い丘の上にございます。十ばかり並ぶ内の一つで、すぐにお分かりになると思います。
先生の御遺志で杉の墓標にしてございます。〝杉の墓標、朽ち果てなば、儂の事は忘れてくれ〟とのことにございました。先日の彼岸に御参り致しました折に、墨で御戒名をなぞっておきましたが、風水居士とでも書いておいてくれと先生が……」
宗吾の顔に、ふっと寂しそうな翳が過った。
「風水居士か、先生らしいの」
「それではまた」と宗吾が言葉を呑み込む。
その心根を慮り、
「豊後岡藩まではそう遠くもあるまい、もし近くまでお出での時は是非にでも訪ねてくれ」と重三郎が言う。
「またお会いして、旨い酒を飲みとうございますね」
「ああ……」
がまさか、その再会がすぐ後にあろうとは、二人気付く由もなかった。
煙霞の痼疾未だ止み難く候
其の六「湯田」終わり
其の七「小倉」へ続く
煙霞の痼疾未だ止み難く候
其の六
「湯田」
途中、湯治場を探したり寄り道をしたりしながらのんびりと行き、厳島神社に参詣する頃には、秋はもうすっかり深まりを見せ、初冬の気配さえ感じられるようになって来ていた。
あの別れの日からずっと、寂しさと温かさ、相反するものが重三郎の心を支配していた。
父母や家族との別れ以来、この三十有余年の間、一体どれだけの人々と行き逢い、別れて来たのであろうか。己の心の中に、忘れ得ぬ人々は多い。だが、今の心のような別れが果してあったであろうか。
清野や、由美や、雪恵の姿が去来して止まない。胸を裂かれるような痛みが、その度に心を襲う。
全てを脱ぎ棄て身軽になったつもりでいた。後はもう死ぬのを待つだけだ、そう思っていた己が心に起きた、生きんがための今を生きるのだという心の持ちようは、それだけでは無い何かを孕んでいるような気がした。一体何が何をもたらしたというのだ。
徳山で面倒に巻き込まれてしまった。
岩国で錦帯橋をちょっと見てみたいと思いつき、寄り道をした。川を目にすると、心が落ち着き、なぜか離れ難い。釣り好きのせいもあるのであろうか、橋の下を流れる錦川の清流に誘われ、ふらりと上流へ足を延ばし、思わぬ時を過ごしてしまった。
旅の話に、湯田の湯の良さを聞き、徳山まで今日の内に辿り着けば、明日には湯田に着けると、急かされるように徳山を目指したのだが、如何せん初冬の日暮れは早い。
提灯も持たず行く道は、思うように脚は進まず、徳山に辿り着いた頃は、夜半近くになってしまっていた。
もう泊れるところもあるまい。体調もいい、昔のように、このまま夜を徹して歩き続け湯田まで行くか、それともどこか街道筋に祠でもあれば久し振りの野宿もいいかなどと思いつつ行き過ぎようとした徳山の町へ入ってすぐのことであった。
行く手、そんなに遠くない辺りで人の悲鳴が聞こえたような気がした。闇の中に足音がして、幾人かの影が通りの向こうへ走り去って行った。
重三郎は、何か嫌な予感がした。
小走りに行くと、商家の並びの中に、潜り戸の開き、中から薄明かりの洩れている一軒が見えた。近付いて中を覗おうとした時、その明かりが消され、出会い頭に男が一人飛び出して来た。
男は一瞬たじろいだが、顔を隠すように身を翻すと、走り去って行った男達の後を追った。
「おいっ、誰ぞ、誰ぞおらぬか。おいっ」
声を掛けながら中へ入る。
「うっ」
見世の中は凄惨な光景であった。
「おいっ、生きている者はおらぬのか。おいっ」
誰も生きてはいないようであった。
隣家の者を叩き起すと役人を呼びに走らせる。
それからが大変であった。
「それ以上の事は分らぬ。最初に逃げ去って行った者達は五、六人、見世から飛び出して走り去った者も、チラリと顔を見ただけで、夜目故、とても人相などは……。何度も申し上げている通り、背は儂位、五尺七、八寸程、年は三十には至っておらぬようであったと……。同じ事を何度もお聞き召さるな」
「今夜はここにお留まり願えまするか。明日、明るくなってもう一度検分を致しますので、御立合いをお願い致します。それに、出来れば人相書きを作りたく、そちらも何卒宜しく御願い申しあげます」と、人相は確とは判らぬという重三郎に、無理強いをする。
言葉は下手に出ているが、絶対に放免は致しませぬぞ、という感じである。
「ここへか」
重三郎、諦めて少し皮肉げに言う。
「いえいえ、番屋の方に布団もございますれば。おい、宗吾、案内して差し上げろ」
宗吾と呼ばれた若い役人に案内されてゆく。
「どうも、この頃中国路を荒らし回っている凶賊のようですね。中々の連中らしく、犯行は大胆なのに、これと言った証を残して行きませぬ。中に何人か、侍ではないかと思われる者が居るようで……」
「そのようだな」
「御覧になられましたか」
「ああ、もしや生きておる者がと思うてな。あの斬り口は相当の腕の者であろう、あれ程の腕の者が、何故盗賊なぞに……」
「これで殺された者が、皆奴らの仕業だとすれば、三十数名にも上ります」
「何と!惨い事よのう」
「女とて容赦はせぬようで、子供も三人。一人はまだ乳飲み子であったとか……」
「そんな子供までもか……」
結局、翌日も足止めされ、徳山を離れることが出来たのは三日目の朝であった。
「湯田でしばらく湯治を致すつもりでござる。何かお役に立てることあらば、湯田の宿をお探し下だされ」と言い置いて、重三郎は湯田へ向かった。
海沿いの道をゆく。この海の向こうは豊前、故郷はそのすぐ先か。が、急くことはない、春までに着けばいいのだ、春までに……、と自分に言い聞かせながら、湯田への道を足早に行く。
小さな峠をいくつか越え、夕暮れ迫る頃、やっと山口の町並みを抜け湯田へ辿り着いた。
初冬の早い夕暮れの中、そこここに立ち上る湯煙に、何かほっとした風情を感じさせる情景であった。
ほどよい静かな宿はないかと探し、湯田の街を彷徨う。奥まった所で、小さいが良さそうな宿に当たった。
聞いた通り、お湯も良い。徳山でのとんでもない事件の疲れが、湯に溶かされ抜けてゆくような湯舟の中であった。
「ふーっ」
どっぷりと浸かると、大きく息を吐く。
目を瞑る。
あの凄惨な光景……、しつこい役人の目。ゆっくりと温かい湯に身体が馴染んでゆくと、その不快なものも、湯に解されるように次第に薄くなって行く。
ホッと一また息ついた重三郎の心に、雪恵の面影が入れ替わるかのように浮かんでくる。
揖保川の川原で、二人で弁当を食べている時の、あの楽しそうな顔であった。そして、落ち鮎の季節を迎え、別れの予感に泣きじゃくる顔……。
まるで童女のような雪恵であった。
湯田、三日目の夜、星空を見上げながら、ゆったりとした気分で野天の風呂に浸かっていた。
余り柄の良くない男達三人が、無遠慮に入って来た。
ジロリと重三郎を一瞥すると、無視するように奥へ浸かった。何やら不快を覚え、重三郎はすぐに湯を上がった。
翌日、山口の街でも歩いて見るかと、朝餉の後、重三郎はぶらりと宿を出た。
大きくはないが、中々の街である。山手へ向かうと神社仏閣が多く、静かな佇まいを見せ、ちょっと故郷の城下を思い出させた。
そう云えば山口へ着いた夕暮れ、川を渡ったなと思い出し。ちと川でも見てみるかと、川のほうへ向かう。
釣り好きのせいもあるのか、川や海、水辺や流れの音、そんなものを見ていたり、その中に包まれていたりすると、不思議と心が落ち着くのである。
岩国でもそれで遅れ、あの忌まわしい事件に巻き込まれてしまったのであろうに、またそぞろ水の魅力に誘われゆくのであった。
この辺りが町の中心になるのであろうか、少し大きな商家も見られ、立派な町並みである。
川はこの裏手辺りかと、少し先の路地へ入ろうとした時、昨夜の三人と思しき男達が向こうからやって来た。
向こうは、昨夜風呂で会ったとは気付いていないらしく、何やら喋りながらすれ違って行く。
重三郎の耳に、「徳山では」と云う言葉が聞こえた。
あの男、あの夜徳山の商家から飛び出してきた男に似てはいないか……。とすると、あの三人は盗賊の一味か。
まだこんな近くにいたのか。
重三郎は一旦路地へ入り、間を置いて後を付けた。
三人は、大きな商家の前で中を覗うような素振りをチラリと見せた。そしてその先の路地へ入ると裏手へ回り込んでゆく。
まだほとぼりも冷めぬであろうに、今度はこの商家を狙うのか。
確たる証は無い。まさか役人に知らせた後で、間違いでしたでは面倒なことになりそうだし。それに、あの時は他にも何人かいたではないか、そ奴らは何処に居る。
足拵えが為されていないところを見ると、まだ同じ宿に泊っていると見て間違いはあるまい。襲うとすれば頭数が揃ってからであろう。もう少し様子を見ることにし、川沿いに歩いて宿に戻った。
それから二日目の夕刻であった。四人の浪人が宿に入った。
しかし、表だってあの三人と接触する気配は無かった。
間違いはないように思えたが、確信というものが欲しいと重三郎は迷っていた。
夜が更けてゆく。重三郎は、何時でも対処出来るように身支度を整え、布団の中へ入った。
だが、その夜は何も動きは無かった。
今夜か。昨夜も余り眠ってはいない、重三郎は夜に備え昼寝を決め込んでいた。
「後藤様、お客様でございます。有田様とお名乗りの御方ですが」
「知り合いなんぞおらぬが、この地には」
「私でございますよ、有田宗吾です。先日は御世話になりました」と、男はもう宿の者の後ろに付いて来ていた。
人懐っこい笑みを浮かべ立っているのは、徳山のあの若い役人であった。
「先日はお世話になりました」
「何の、当然のことを致したまで」
宿の者が安心したように下がってゆく。
「どうした。また何かあったのか」
「いえ、安芸の方から連中の手配書が手に入りまして、人相書も三人ございました故、後藤様にお見せし確認して戴いて来いと上の者が申しますので」
「どれ」
宗吾が差し出した人相書、手に取ってしげしげと見てはみたが、あの男達に似ている者はいないようであった。が、その内の一枚に、左頬に刀疵というのが有った。
後から宿に入った四人連れの浪人の一人に、確かに左の頬に刀疵のある男がいた。が、人相書の恐ろしげな顔とは、似ても似つかないものであった。
「この人相書、確かなものなのか、似てはいないが、刀疵の男……。それにちょっと気になることもある」
「いえ、生き残った者の口述にて描かれたものらしいのですが、恐ろしさのあまり、当てにはならぬだろうと添え書きが付いておりました。気になることとは、何でございますか」
「御主、この山口に役人の知己はおるか」
「知己と言う程の方は……。ですが、幾つかの藩や宰判に分けられてはおりますが、同じ毛利でございますれば、年に何度か情報交換のような寄り合いを持ちます故、顔見知りの方も何人かは」
「あまり偉くない者の方が良いかも知れぬな、ところで御主、宿の者に役人だと告げたのか」
「いえ、名は名乗りましたが……。人によっては役人と申しますと何かと……」
「そうか、それならば奴らに気付かれてはいまい、ちと近くへ寄ってくれ」
重三郎は事の次第を話した。
「すぐに手配を」
「待て、確たる証は無いと申しているではないか。それがあればとうに当地の役人へ届けておる。間違いで大騒ぎになっては後が面倒だし、同じ宿に泊っても、知らぬ者同士を装おって、かなりの用心深さだ。下手に動いて奴等に気付かれでもしたら、元も子もあるまいが」
「どうなさいますので……」
「儂をあの商家、確か瀬戸屋と看板にあったが、客人として泊めて貰えるよう頼んでくれ。儂がいきなり行っても中々信用はして貰えぬであろうからな。奴等がこの街を去るまでじゃ、事情を話すのは主のみ。他の者へ伝われば、気の小さいものもおろう、恐ろしがって気付かれるやも知れぬ。御主はそれと覚られぬよう、あの商家の見える何処ぞの家陰にでも隠れていてくれ。出来れば、一町ほど先の火の見櫓のある辺りが良いのだが。事あらば、先ず見世の者を外へ逃がすか、儂が表へ飛び出す、すぐそれと知れよう。そしたら半鐘を叩いて詰所へ知らせてくれ。
空騒ぎに終わるやも知れぬ。だがそうでない時は、また何人かの罪なき人が死ぬ。知り合いの役人に事情を話し、あまり大事にならぬよう、奴らに気取られぬよう、それなりの備えを頼んでおいてくれ。手練の者が二人、三人と居れば、儂だけでは店の者を皆は守り切れぬやも知れぬ。頼むぞ」
「大事にならぬよう頼む亊、出来ますでしょうか。間違いでしたら、私の立場は……。それにこの節、夜は、外は……、寒いですよね……」
「何を姑息な事を言っておる。間違いであればそれで良し、謝れば済む。儂の所為にでもしろ。そうでなければ、御主、切腹ものだろうが」
「そうなりますか……」
宗吾はまだ煮え切らぬ表情で腹を撫でた。
「儂の歩いたところ、商家から詰所までは七、八町。そんなに時はかかるまい。呉々も表向きは普段を装うように言っておいてくれ。御主は半鐘を叩いたらすぐに来てくれ、いいな。見世の者にもしもの事があってはならぬでな」
盗賊の噂は、当然商家にも伝わっていた。主は恐ろしさを呑み込むように頷いて承知したという。
「奴等は、皆昼前に宿を出ました、襲って来るとすれば今夜でしょうね。番屋には、徳山の件以来、それなりの人数が配置されているそうで、心配には及ばぬという事でしたが」
客を装った宗吾が伝えに来た。
「店の者は、主夫婦を除いて皆二階で寝るのだそうだ、守り易い。が、御主も早く来てくれよ、大分使えると見たが」
「一応、ちょっとは……」と、宗吾は応えたが、どこか頼りなさげなその様子に、
「そうか、頼むぞ」と重三郎、言ってはみたが期待はしなかった。
夜は更けてゆく。隣室で主夫婦が押し殺したような声でぼそぼそと話をしている。
「眠られぬか、無理もあるまい」
「はい、申し訳ございません」
「さもあらん。気配がしたら手筈どおり、御内儀は直ぐ二階へ行き静かにしていなされ。主殿は、儂が表へお逃がし申す。火の見櫓へ向かって一目散に走りなされ、大声を挙げてな」
「はい、承知致しました」
どれほどの時が流れたのだろうか、重三郎は、先ほどから店の表と裏を結ぶ三和土の通路脇の柱に背を持たせかけたまま目を瞑っている。
表の木戸に微かな音がし、闇に透かして鋸の刃が光った。
ほんの微かな音を立て、板戸の隙間から差し込まれた鋸の刃が引かれる。目立てに手馴れた者が仲間に居るらしい、凄い切れ味である。あの連中の一人は大工崩れか……。
成る程、そうやって木戸を破るのか。商家であるためか、用心のため二重に設えてある心張棒の位置も、ちゃんと下見をしていると見え、無駄は無い。などと、重三郎、感心して見ている。
気配から察すると、どうも七人全員、表に揃っているようである。
「正面切って来るか、大胆なことよの。よしっ、作戦を変えるぞ。こちらから撃って出る。お二人ともに二階へ行かれよ。そっとな。御心配召さるな。亊の収まるまで二階の者たち、決して出すでないぞ、分かったな」
二人がおっかなびっくり、忍び足で二階へ消えた。
鋸で明けられた小さな穴から手鉤が差し込まれ、心張棒を器用に引っ掛けると、カランと音のして潜り戸がスーッと動いた。
戸の陰にピタリと身を隠していた重三郎が、鋸を片手に背を屈め中へ入ろうとした男の上半身を、思いっきり外へ蹴飛ばした
「うわっ!」
「何だ!」
「どうした!」
外で、予期せぬ出来事に慌てた奴らの声がしている。
合図の前にもう半鐘が鳴り出していた。
「逃げろっ!」
その声の終わらぬ内に、重三郎は鋸を持った男を叩き伏せ、火の見櫓と逆の道に立ち塞がった。
走り寄った宗吾が一方の道を塞ぎ、挟み撃ちの態勢になる。もう通りの奥に役人達の声が聞こえ、走り来る龕灯の明かりが闇の向こうに見えた。どうも宗吾が一計を案じ、離れた裏道に捕り方を配していたらしい。
「観念せい!」
「ううう、おのれっ!」
路地を回り込んだ役人たちが重三郎の背後も固めて、残る六人は完全に袋の鼠である。
「ゆくぞ!」
重三郎の動きは、件の如く速かった。
木刀を振り翳すと、あっという間に、刀を抜いて構えていた浪人三人を叩き伏せるように打ち据える。
「御主、その三下二人頼むぞ」
宗吾に声を掛ける。
「はいっ」
宗吾、元気のよい声を上げると、パンッ、パンッと峯で二人を一閃した。
「終わりました」
宗吾が重三郎の方を見、ニコリと笑って刀を鞘へ納めた。
重三郎、ちょっと意外であったが、同じ様に笑って返すと、
「お前が頭目か」と、刀も抜かず泰然と事の成り行きを見ていた浪人に向かって言った。
「そうだ。御主出来るなぁ、だが木刀で俺を倒せるかな。行くぞ、犬め!」
悪意と敵意を剥き出しにした目で重三郎を睨みつける。
「手を出すな。此奴は並みの腕ではない、怪我人や死人は出しとうない、下がって、逃げられぬよう囲んでおいてくれ」
熱り立つ役人達を下がらせる。
「ほう、俺の腕が解るのか、まだ剣も交えぬのになぁ、相当の自信だなぁ。こうなれば俺も最期だ。先ずお前、それから出来るだけ沢山の地獄への道連れを頼むとするか」
どこか飄々として、その目に流離い流れ歩く者の共通に持つ寂しさを漂わせてはいた。が、凶人の陰は覆い隠すべくもなく、その全身に芬々としていた。
「狂人だな、御主」
「狂っておるのは世の中の方であろうが。商人なんて皆ブクブクと肥え太りやがって、見てみろ、この周防、長門を、商人と結託して侍までもが太り過ぎに太っておろうが。道中を見たか、百姓たちの姿を見たかぁ、この寒空に着る物とて無く、食らう物とて無い、皆骨と皮ばかりだろうが。だからこの辺りは一揆が多いのよ、世直しよ、世直しぃ」
「世直しで、乳飲み子までも斬るのか」
「五月蝿い!役人の犬になり下がった奴に何が解るか」
いきなり浪人が膝を折るようにし、剣を抜き放った。
居合であった
喋りながら浪人は、自分の間合いを測っていたのだ。重三郎はそれに気付いてはいたが、わざとその間合いの中に自分を置いていた。
一閃する相手の切っ先を、小さく後ろに跳んで、身を捻って紙一重で躱した。
男の目に一瞬驚きの色が浮かび、その色が畏れに変った。が、その時はもう重三郎の木刀が、流れるような動きの中で淀みなく浪人の喉仏を撃っていた。
「グエッ!」
異様な悲鳴を上げて浪人が転がる。また転がる。喉を潰されて息が出来ないのである。
声にならない声を発して、浪人は踠き苦しみながら転げ回り続ける。
「苦しめ。何人の罪なき人を殺した、己が殺した何倍もの人達が悲しみ、苦しんでおろう。人の心を持たぬ者が何の世直しぞ」
「死にませぬか」
役人が心配げに見ている。
「死にはせぬ、加減はしてある。だが、十日やそこらは声も出せまい、食い物を飲み込むのも苦痛であろう。報いじゃ」
「報いですか。これで殺された者達も、少しは浮かばれましょう」と、宗吾が、殺された者逹を惜しむように悲しげな面持ちで言った。
「そうであって欲しい。後は宜しく御頼み申す」
「どちらへ」
宗吾が、立ち去ろうとする重三郎に訊いた。
「湯治へ来ておるつもりじゃて、宿へ戻る」
「もうとっくに閉まっていましょう」
「あっ、そうか。そんな時分であったか」
「一晩中入れる湯がございます、宜しければ御案内致します」
「後始末はいいのか」
「ここは私の持ち場ではございませんし、皆様、経緯は御存じですので、すぐに戻れば何と云う亊はございません」
「本当にいいのか」
「はい。参りましょうか」
宗吾は、役人に何やら話しかけると先に立って歩き出した。
「やっと片付きました。私の役目はやはり何もありませんでしたが、中々抜け出す機が掴めませず、いや、一日、只付き合っていると云うのも大変なものですね」
翌夕、宗吾が笑いながら部屋へ入って来た。
「明日巳の刻、役所までおいで戴けますか、私も参りますので。それから、下へ頼んで、このまま相部屋ということにして戴きましたので、一献御お付き合い御願い致します」
意外と厚かましいところのある男である。が、何処か憎めない、役人としては向いているのか。
重三郎が苦笑いをしていると、
「御迷惑ですか………」と、宗吾が少し戸惑いを浮かべて言った。
「儂は構わぬが。それに、一人より二人の方が酒も美味いでな」
重三郎は、役人らしからぬ宗吾に好感が持てた。
だが、宗吾は昨夜から一睡もしていなかったらしく、少し酔いが回ると轟々と鼾を掻いて先に眠りに就いてしまった。
偉そうな態度の役人が口を開く。
型通りの挨拶と礼を述べた後、
「見事な腕らしいの、木刀であの凶賊共を平らげたと云うではないか。刀は持たぬのか、丁度良い、これで刀を求めてはどうかな」
侍のくせに刀も持たぬのか。そう言いたげな、人を侮った態度が丸見えである。
三宝に乗せられた小判が、重三郎の前に差し出された。
「これは……」
「そう云う顔をしてくれるな、これはな、毛利四藩から出されていた奴らの首代だよ。生かして捕えれば一人五両。一味全てを纏めて捕えれば十両の上乗せ。そう云う御触れが出ておっての、御主それを知らぬのか、知らずに危ない橋を渡ったのか。立場上、貰うてくれねば困るのじゃ。良いではないか、刀も求められるのではないか。それから、これは瀬戸屋からの志。御主の機転が無ければ、店の者皆、あ奴らに惨殺されていたであろうからな、当然の礼だな」
「それがし、刀は持ちませぬ、従って買う銭金も要りませぬ」
「そう固いことを言うてくれるな、儂の立場も考えてくれ」
「後藤様、宜しいのでは。御断りになられれば、この金子、この役人達の懐へ入ってしまいますこと必定、返って腹が御立ちになりましょう」
宗吾が耳元で囁いた。
それを聞くと、重三郎、
「では、有難く頂戴仕る」と君子豹変、あっさり受け取ってしまった。
役人の顔に、在り在りと思惑外れの色が浮かんだが、
「おっ、そうして貰えるか、それは有難い」とまぁ、何処も同じか。
「何が有難いだ、内心がっかりしていたくせに。腐りきっているのは丸見え、あの盗人の言うとおりだ。湯に参りましょう、湯に。不愉快を洗い流しましょう」
歩きながら、宗吾が怒っている。
どうやらこの男、大事な正義感も失われてはいないようである。
「故郷には何方かお待ちで」
「弟が跡を継いでおる筈じゃ」
「筈、でございますか」
「もう四十年近くにもなるからのう、故郷を出て……」
「四十年でございますか。私の生まれる前から修行の旅でございますか……」
「御主、徳山へ戻らなくとも良いのか」
「はい。先ずこの地の役人があの連中を取り調べ、次に私が加わり徳山の一件を。その調べ書を徳山へ持ち帰ることになると思いますので、当分は山口に」
「こんな事をしておって良いのか」
「はい。先ずはこの地の御番所が先、私はその後」
「立ち合わなくとも良いのかと申しておるのだ」
「いえ、この地の事はこの地の役人が、私が居れば、こちらの役人も何かとやり難かろうと思いまして。気を利かして座を外すのも役人の心得、御心配は無用にございます」
「そんなものか」
「そんなものでございます、役人なんて」
この男、真面目なのか不真面目なのか……。重三郎は思わず苦笑させられるのであった。
湯に浸かりながら、
「好いですねえ、湯田の湯は。徳山より山口の方が好いなあ、毎日湯に入れるものなあ。何とか山口へ勤められないものかなあ」
この男、これもまた、まるで本気のように言う。
「解せぬ男だの、御主は」
苦笑を隠さず、重三郎が呆れる。
「それにしてもお強いですねえ。負けたことなんぞ無いのではございませぬか」
「修行の旅、若い頃はほとんど負けておったな。少しばかり強かった、天狗になって故郷を出、行く先々で打ちのめされての、長門の萩で完膚なきまでに負けた。あれで儂の剣の道は大きく変わった。
おっ、そうだ、御主、萩の城下、東の外れに小さな稽古場があるのを知っておるか。海の見える所だ」
「沢井先生の稽古場ですね」
「そうだ、沢井先生だ。もう三十数年にもなるか……。御主、沢井先生を知っておるのか、どうしておられる、これから御訪ねしようと思うておる」
「五年前、御他界なされました」
「やはりそうか……。遅かったか……。皆死んでゆくの、人の定めではあるがの……。寂しいの、心に残る人の多くは死んでゆくような年になって来たのかのぉ……。ひと目御会いしたかった、素晴らしいお人であった」
「はい」
宗吾が目を瞑り、何かを思い追いかけるかのように呟いた。
「御主、沢井先生とは知己の間か」
「はい。一応弟子ですので」
「何っ、沢井先生の弟子」
「はい。一応皆伝も戴きました。私で二人目だそうです」
「その若さでか……」
「はい。先生の御亡くなりになられる前の秋でした」
「なぁんでそれを先に言わぬ、なれば儂一人、盗賊共と渡り合わなくて済んだではないか」
「はい。でも、何から何まで段取りが宜しいもので……。まるで軍師、これなら心配無用かと」
「何が心配無用じゃ。御主は解せぬ、分かっておれば大騒ぎをせず、二人だけで事足りたではないか」
「はあ……。でも、後藤様かなり出来るのではと思いまして、失礼とは存じましたのですが、ちょっと御拝見致したく……。」
「……」
「しかし、あの居合の間を読み切るなんて、神業でございますね。切っ先がまるで生き物のように、一寸程すっと延びて……。かなり出来る者でも、相手の間合いの中に自らを置けば、あの延びた分は躱せないのではございませぬか。居合は知っていましたが、あんなのは始めて見ました、勉強になりました」
「御主、あれが見えていたのか。さすが沢井先生の弟子だな。あれを居合の妙と云うのかな、肩の筋と節を上手く使うと、一瞬、腕が蛇の獲物を襲う時のように、すっと延びるのだそうだ」
あの立ち合い、並みの者ではそこまで読めまい。この男、見事に看て取っていた。
重三郎、すっかり拍子抜け。何だか身体中の力も抜け、ズルリと湯の中に沈み込んでしまいそうであった。
「ところで後藤様、互いに沢井先生の弟子と云う事は、私共は兄弟弟子と云う事でございますよね。これより兄者と呼ばせて戴いて宜しゅうございましょうか、御願い致します」
「何を言い出すのだ。まあ良いか、御主なら。沢井先生の御導きでもあるか」
「ありがとうございます、兄者」
人懐っこく、また嬉しそうに笑う宗吾を目の前にしては、断れそうも無かった。
それから二日後、調べ書きを受け取り徳山へ戻る宗吾と山口の先で別れ、萩への道を辿った。
別れ際に宗吾が言った。
「もう稽古場はございません。お墓は、裏の一段高い丘の上にございます。十ばかり並ぶ内の一つで、すぐにお分かりになると思います。
先生の御遺志で杉の墓標にしてございます。〝杉の墓標、朽ち果てなば、儂の事は忘れてくれ〟とのことにございました。先日の彼岸に御参り致しました折に、墨で御戒名をなぞっておきましたが、風水居士とでも書いておいてくれと先生が……」
宗吾の顔に、ふっと寂しそうな翳が過った。
「風水居士か、先生らしいの」
「それではまた」と宗吾が言葉を呑み込む。
その心根を慮り、
「豊後岡藩まではそう遠くもあるまい、もし近くまでお出での時は是非にでも訪ねてくれ」と重三郎が言う。
「またお会いして、旨い酒を飲みとうございますね」
「ああ……」
がまさか、その再会がすぐ後にあろうとは、二人気付く由もなかった。
煙霞の痼疾未だ止み難く候
其の六「湯田」終わり
其の七「小倉」へ続く