煙霞の痼疾未だ止み難く候 序章「「如月の雨」其の一「箱根越え」

文字数 10,861文字

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煙霞の痼疾未だ止み難く候                             
  序章 
  望郷、如月の雨
    再び旅へ、

 剣の道を極めんとする時、死というものは常に背中合わせに在る。           
 強くなりたい、強くありたい、そう自分に言い聞かせるように修行を積み重ね、我武者羅であった若き日々、強い者と剣を交えても、殊更に死と云うものを自分の内に意識することは無かった。
 いつの頃からであったのだろうか、強くなる亊だけが剣の道では無いと気付き、背中合わせに存在する生と死というものを強く感じるようになったのは……。そして、それに恬淡として向かい合う亊のできるようになってきたのは……。            
 人はいつかは死ぬ。剣を縁とする者であれば尚更のこと、死は常に影のように伴にあった。例え真剣で無くとも、竹刀であろうが木刀であろうが、一歩過てば、それは死に繋がるのである。
 死とは命を断たれること。だが剣客にとっては、剣を握れなくなることもまた死を意味するのである。
 肉に折れ込んだ異物が、いつの間にかその肉体の一部として包み込まれてゆくように、長い修行の時が、無意識の内にそれを心の中に同化させていったのではなかろうか。            
 それは剣客であるならば当然のこと。そういう覚悟が常に心のどこかでできていたからこそ、今、その身に降りかかった死の病に、心乱すこと無く向かい合うことができているのではないかと、重三郎は、あまりにも素直に己が身に受け入れられた死というものを、恬淡とした心で見詰めていた。
 齢五十を疾うに過ぎ、ただひたすらに県の道を究めんとする寄る辺無い身に、突然死というものが突き付けられた時、重三郎の中に、狼狽えると云ったようなものは感じられなかった。それが何故であるのか、その時は不思議な気もしたのであるがが、今はもう心静かに、以前と変わることなく、いや、剣客として未知の剣を求めて立ち合う亊こそしなくなったが、そんな日々より、何故か、もっともっと充実した日々を送れているのではないかとさえ思うのであった。
                                          
 病を得、江戸の外れのこの苫屋に落ち着いて二年。己の来し方を振り返るでもなく、近付いているのであろうその時を思うでもなく、それまでとはまるで違った静かな日々に、重三郎は僅かな違和感を覚えながらも、去来するあの若き修行の旅の日々を想い、どこか心の安らいでゆくのを感じていた。
 一人苦笑いをしながら、「少し老いたか」と、己に問うてみる。      
「なんのまだまだ」と、この江戸で、唯一友と頼る大野から送られ部屋の片隅に置かれた刀架の己が刀に、静かに目をやる。
 剣の修行の旅に明け暮れた重三郎にとって、己の刀架けなんぞ無縁のものであった。幼き日、父に刀を持つことを許された、その時にもらったきりであった。      
 故郷を出る時、
「これを持ってゆけ。そして、必ずやここに帰って来い。帰る路銀の無い時はこれを売れ。構わぬ、武士の体面なんぞ気にする亊は無い。それほど、お前の戻って来るのを皆は待っていると云うことだ。良いな」と父は、家に伝わる備前作りの自分の刀を重三郎の前に置き、重三郎の刀を自分の刀架に架けた……。
 故郷を出て三十有余年、今さら故郷へ戻ってみたところで、皆迷惑なだけであろう。まして病のこの身なれば猶の事。その身にとってこの長き修行、彷徨の旅は、既に故郷への想いを遠きに消し去っていた。
 が、己が心に、その残滓は消えることなく確と今もあるのだと思い知らされる時がやってきた。

 殊の外寒さの厳しかった今年の冬の終わり、暖かな陽気に誘われ久しぶりに歩いた大川の堤。流れの両岸に広がる刈られた葦原のほんのりとした芽吹きを目にし、心のどこかに微かな騒めきのようなものを感じたのではあったが、その日はそれだけのことと、大して気にも留めず散策から戻ったのであった。 
 が、二日ほどした暖かな雨あがりの朝、重三郎は心の奥底に何か胸騒ぎのようなものを覚え、急かされるように大川の堤を登った。
 再び目にしたその川原は、柔らかな新しき緑に茫として霞み、春の訪れを告げていた。
 その時、突如重三郎の目に涙が溢れ、心の奥を、静かではあるが、熱く突き上げて来るような言い知れぬ感情を覚えたのであった。
 あの時の涙だ。あの時の……。                              

 重三郎、十四の春。もう直元服と云う雨上がりの日、母に連れられ早春の野を歩いた。
 小さな川の流れに沿うように、川柳の芽吹きが始まっていた。
 柔らかなその芽吹きの新緑の愛しさに、思わず触れなんとし、それを躊躇った。
 静かに押し寄せる故知れぬ感動の涙が頬を伝い落ちてゆく。
「重三、これが生命なのよ。今、この緑の芽吹き、蘇りゆく生命を、愛しいと感じることの出来る心、その目に溢れる涙、それが重三の生命なの。草も、花も、木も、鳥も、虫も、そして重三の大好きな魚も、あなたと同じ今この時の生命を生きているの。それは人の心を暖かく包んで優しくしてくれるの。大人になっても、その涙を忘れないで生きてゆくのよ」                        
 母もまた、その目に涙を浮かべ重三郎に語ってくれた。            

 旅の途中で死ぬやも知れぬな。
 重三郎はそう覚悟はしていた。
 あの夜、それまで忘却の彼方に在った故郷への想いが脳裏に去来し、眠れぬままに夜を明かした。
 母は生きているのか、父は、そして弟は……。だが、帰郷を決意させたのは、肉親への想いでは無かった。死ぬ前に、あの故郷の山河を、母と見たあの早春の柔らかな緑の山河を、もう一度見て死にたいと……。
 あの大川の早春の日から、もう季節は夏へ移り変ろうとしていた。

「大丈夫なのですか。御身体の方は」             
 帰郷の決心を聞き、大野は重三郎の病の身を気遣った。   
「お陰様で随分と良くなりました。が、まだ発作は時々出ます、何処かの野っ原で野ざらしとなるやも知れませぬな」
「そのようなこと仰せられまするな、何故急に思い立たれました」
「老いの感傷なのかも知れませぬ」
「御引き留めしても、御心は変わりませぬでしょうな」               
 大野は重三郎の病を気にしながらも、それ以上引き留めるような言葉は口にしなかった。
 差料を路銀にするつもりで、重三郎は頭を下げ大野に無心をした。       
 大野は黙って差料を押し返すと、
「これまでの稽古の御礼と餞別です。何も仰しゃらず、御受取り戴きたい。もしあの時あなたにお遭いしていなければ、私はあのまま自分の腕に過信を持った、通り一遍の剣客になっていたでしょう。あの爽やかな剣に手も無く打ち負かされ、改めて剣の道の奥深さに気付く事が出来ました。今の私があるのは、あの時あなたに遭えたからなのです」と言い、三十両もの大金を重三郎の前に置いた。    
 偶然の出会いと立ち合いは兎も角、頼まれて月に六度、この大野の稽古場へ顔を出し、弟子達に稽古をつける程度のことはした。が、餞別に三十両も貰う程のことはしていなかったし、稽古の謝礼は、その都度過分とも思える程貰っていた。
「この身にもう刀は要りませぬ、この脇差があれば充分でござる。これまでの立ち合いも、全て木刀か竹刀で押し通して参りました。御蔭でこの三十余年、人を斬り殺すこともなく修行を続けて来る亊ができました、この木刀が、これからの自分の大のものとなりましょう。どうか御納めくだされ」
 固辞する大野に、
「では、形見として御受け下だされまいか、もう二度と御会いすること叶いますまい。私が貴殿の友として在った証に……」と、重三郎は重ねて頭を垂れるのであった。
 大野はやっと頷き、差料を納めることを承知してくれた。
「豊後までは遠をございますな、船で御行きなされませ。その方が御身体によろしかろう」
 病の重三郎の身を、重ねて気遣ってくれる。
「いや、それがし山育ちのせいか、ははは、船は大の苦手でして、あの船酔いの苦しさは、逆に生命を縮めましょう。一宿一泊のつもりでそろそろと参りまする。来年の春までには、まだ半年と少しござりますれば……」
「来年の春でございますか」
「あの故郷の春に会いに帰りまする。それに、途中死ぬ前に御会いしておきたき方々もござりますれば」
 自分の修行の旅と重ね、重三郎の思いの一端を解したのであろう、大野は微笑んで頷いた。
「して、いつ発たれますのか?」
「この身ひとつなれば、片付くるにそう幾日もは要りますまい」
「御見送り致しませぬぞ。拙者、別れは苦手でござる、今宵を別れの宴としましょうぞ。それにて御赦し下だされ」
「解りまする、それが御主の良きところじゃ」

 重三郎が大野と出会ったのは、二十年ほど前であった。        
 中山道を小諸から上田へ向かう途中、急な夕立にみまわれ、道端に見つけた祠へ走り込んだ。
「わっ、何だ、どうした」
 先客の大野が眠りに就いたばかりであったらしい。         
 寝起きの悪そうな顔で、寝ころんだまま重三郎を見上げた。そして激しく打つ外の雨の音に気付いたのか、
「夕立にございますか」と、開け放たれた扉の方を見た。
「折角お休みのところを、真に申し訳ござらぬ。御赦しあれ」
 大野も修行の旅の途中であった。
 同じ身の上、すぐに打ち解け、互を語った。
 大野は江戸の稽古場の一人息子。五年の修行を父に言い渡され、ひと月足らず前、嫌々旅に出たのだと言って笑った。
 雨上がりの祠の前で二人は立ち合った。
 腕に覚えはあるようであったが、まだまだ重三郎には及ぶべくもなく、あっけなく勝負は着いた。
 大野の顔に、驚きと共に、明らかな落胆の色が浮かんでいた。
 その夜、上田の安宿で酒を酌み交わし、次の朝、
「五年、五年経ったら江戸の稽古場をお訪ねください。その時は、きっとよい立ち合いが出来るよう精進重ね強くなっておきます」と言う大野と、
「確かとはお約束はできませぬが、いつか必ずお訪ね致したいと心に留めておきます」と、片や松本へ、重三郎は善光寺平へと別れたのであった。
 十年ほどして、江戸の稽古場を訪ねた時、大野は師範代として、父に代わって稽古場を立派に盛り立てていた。
 半年も居たであろうか、修行で磨かれた大野の腕は、重三郎との稽古で更に格段の上達を見せ、稽古場を後にする頃には、重三郎も驚くほどになっていた。強いという噂は徐々に広まり、入門を暫く待ってもらうほどの盛況になっていた。
 そして二年前、病の身を引きずるようにしながら常陸から再びこの江戸へ。
 初めての大きな病に疲れ果て、流される枯れ木の如く辿り着いた重三郎を、大野は肉親を遇するが如く温かく迎え入れてくれたのだった。
 その御蔭か、まだ時々発作は出るものの、ひところに比べ身体の調子は頗る良くなってきていた。

 今生の別れにしては、淡々と飲み、淡々と別れてきた。
 代わりに差した腰の木刀の軽さに苦笑いし手をやりながら、重三郎、心の奥で大野へ幾度も幾度も礼を繰り返す帰り道であった。

 
   其の二、箱根越え            

 大川の堤を久方ぶりの旅姿で歩きながら歩みを止め、振り返り、大野に、そして、世話になった人々の住まうであろう方角へ頭を垂れ、もうすっかり夏の緑に変わってしまった目の前に広がる川原に別れを告げた。
 病をその身に得るまでの重三郎の旅は、修行、修行、そして剣、また剣の旅であった。今、その身を厭いながらのんびりとゆく道は、見る物、聞く物、全て皆新鮮に感じられるのであった。
 賑やかな品川宿を過ぎると、急に旅姿の人が目立ってきた。ゆっくりと歩く重三郎を、次々に追い越してゆく往来の人々、あの若き修行の旅の日々は、重三郎が足早に旅人を追い越して行った。往き交う人々の姿や表情、まして話などに目をやり、耳を傾けることなんぞありもしなかった。
 今、目の前を往き交う人々の、生き生きとして何と眩しきことか。
 老い病んだりと雖も、まだまだ大丈夫だなと、意外と早く着くことの出来た戸塚で、初めての宿を執る。
 夜の寝床の中で、重三郎はその身にちょっぴりの安堵と自信を感じていた。
 
 のんびりと相模路の海風に吹かれながら歩き、三日目に箱根の山を登った。       
 何度目の箱根越えであろうか、永い浪々の旅の途中、幾度となくこの峠を越えたような気がするのであるが、剣の亊ばかりに気を取られていたのか、その記憶すら確かとは思い出せない重三郎であった。
 名にし負う峻嶮である、無理をせず、少し早いが、麓の小田原で良い湯だと教えられた、関所までにはまだ間の或る湯治場に泊まることにした。
 ここはまだ春の気配が僅かに残り、少し季節が逆戻りしたかのようであった。登り行くほどに若返ってゆく山の緑を楽しみながら、ゆっくりと踏みしめるように登って来た。
 夕暮れからの山の急な冷え込みに、お湯の温かさが心地よい。両の手足を投げ出すと、思いっきり伸びをする。少し疲れた身体が、その湯に優しく解されてゆく。
 春まではまだ半年以上もある。「ゆっくりと行けばいいのだ」と、己に諭すように呟く。  
 心地よく湯に解されてゆく身体を労うように撫で摩り、忍び来る夕闇の空に瞬き始めた星を何とは無しに見上げながら、幾度となく自分にそう言い聞かせていた。
 翌日、朝遅く宿を出る。
 芦ノ湖からの風が少しヒンヤリとして、僅かに汗ばんできた身体に心地よい。
 関所を過ぎても緑の中に上りは続いていた。     
 背後から馬の蹄の音がして、
「お侍さま、乗ってゆくかい。早発ちのお客さんの戻り馬だから安くしとくよ」と、子供の馬子が声をかけてきた。             
「お幾らかな」と話かけながら、いつになく優しい自分の心に気付き、重三郎はちょっと面映ゆく、また嬉しかった。
「あれっ、木刀、刀売っちゃったの、それじゃ、お金無いよね。何処まで行くの」と、目聡く重三郎の腰のものに気付いたらしい。
「豊後じゃよ」
「豊後?」
「西国、九州じゃよ。遠いぞ、儂の足ではふた月はかかるかな」   
「ふうーん、ゆっくり歩いているようだから、もっとかかりそうだね。でも、どこか身体の具合でも悪いの」
「判るのか」
「うん、毎日旅の人見てるからね、何となく判るんだよ。乗んなよ、只でいいから」
「そういう訳にもゆくまい」
「いいんだよ。お父ぅにも言われてる、困ってる人がいたら助けてやるのが仏さまのお教えだって」
「ほう、偉いな、お父ぅは何をしておる」          
「おいらと一緒、馬子だよ。家には馬が二頭もいるんだ、凄いだろ」
「もう直に下りじゃろ。大丈夫だ。お前も稼がねばならんじゃろ」
「あれ、お侍さま、山道は下りの方が大変なんだよ。旅慣れてないね、旅は初めてなの」
 全身真っ新の重三郎の旅支度を見てそう思ったのであろう。
「うーん、そのようなものか。よし、頼むとするか」
 馬に揺られながら、話しかける。
「ところで、もう直昼時じゃろ、弁当はどうする」
「おいらは、いつも朝と夜だけだよ」
「宿に作ってもらった握り飯じゃが、一緒に食うか」
「ううん、刀売っちゃった人の弁当食っちゃ悪いから、おいらはいいよ」
「ははははは」
 笑いながら重三郎は思った、こんな楽しい会話は何年振りだろうかと……。
「刀なあ、売っちゃったことには違いないやも知れぬな、でも、金は少しある、心配は要らぬぞ」
「じゃあ、もう少し行くと素っ晴らしい眺めの所があるよ、相模と駿河、ふたつの海が見えるよ。そこで食べよ」
「そうか、それはいいな」
 街道を少し逸れて腰を下ろした所は、これぞ絶景、見亊な眺めの場所であった。
「ほおぅ、これは淒いな」
 思わず感動の言葉を洩らす重三郎に、
「へへへ、おいらの取って置きの所だよ、すっ晴しいでしょっ」と、自慢げに満面笑みを浮かべている。
 握り飯を頬張りながら、
「今日は何処まで行くの」と訊かるれ。
「別に決めてはいないがな」
「じゃあ、おいらん家にしなよ」
「いいのか」
「いいのかって、おいらん家、一応宿屋だから」                        
「宿もやっておるのか」
「うん。でもね、泊るのは馬とか牛とか連れた連中ばかしだよ。酒は安酒、客はひどいよ、毎晩のように酔っぱらった奴らが喧嘩だよ。でも、おいらと一緒に寝ればいいよ、厩の二階だから、そんなに五月蠅くもないよ。ちょっと臭いけどね」
 所謂馬喰宿であろうか。
 重三郎、修行の旅はほとんど野宿であった。たまに宿屋だったり、立ち合ってくれた稽古場であったりしたこともあったが、大概は道端の御堂や祠、寺の山門の軒下を拝借したり、橋の下で夜露を凌いだりした。どうにもならない時は、坊主合羽の上に草や木の枝を被って星空の下で寝た。それでも若さ溢れる身体には少しも苦にはならなかったし、いつの間にかそれが慣れに変わってどこでも寝られるようになっていった。    
 子供と寝るなんぞ、ついぞ記憶はなかった。
「お侍さま、宿賃だけでいいって」
「それは済まぬな、ありがとう」
「おいら吉次。みんなキチって呼んでる」
「儂は後藤重三郎。宜しく頼むぞ」
「後藤様。重三郎様。どちらも言い難いや、お侍様でいい?」
「ははははは、構わないぞ」
 吉次が重三郎の袖を引っ張って客の間を分け進む。
「ここがいいよ、ここが、囲炉裏の傍が一番暖かいよ。病なんだし、夜は冷えるから、ここに座って、おいらも一緒に食う」      
 なるほど凄い宿である、皆酔っ払って辺り構わず大声で喚くように話している。二か所ほどで賽子博打もやっていて、賑やかといえば聞こえはいいが、なるほど、吉次の言ったように少し五月蠅い。
 宿といっても、大きな板の間に囲炉裏が二つ、土間からそのまま裏へ通じる三和土があって、その脇に障子で仕切られただけの小部屋が二つ。そちらは女人連れか、少し余裕のある連中の部屋であろう。
 金の無い連中は、広い囲炉裏の板の間に雑魚寝のようであるが、厠へゆく人の出入りがあると、表へ通じる板戸から風に乗って、棟続きの厩から馬たちの臭いも流れてくる。
 粗末な夕飯を食べ終わって少しした頃、
「キチッ」と、母親のちょっと優しげな声がした。
「お侍さま、行こう、おっかぁの勘は当たるんだ」       
 そろそろ寝なさいと云うことなのか。
「なにをっ!」とその時、博打の一団から怒鳴り声が上がった。        
「そーら、おっかぁの勘が当たった」
 吉次が顔を顰めた。
 母親のあの優しげな声は、こういうことだったのだ。
 あっという間に集団での見境の無い殴り合いが始まってしまった。
 何だか最初の喧嘩に悪乗りして、関係の無い連中までが加わっている。
 しかし、こうなると迂闊には動けない、動けば巻き込まれてしまいそうである。座っている分には、身形が侍ということもあってか、殴りかかってくる奴はいないようである。
 殴られた男が勢いよく吉次の上に倒れ掛かってきた。下になって踠く吉次に構うことなく、殴った男がさらに飛び掛かる。吉次が男二人の下になって、更に苦しげに踠いている。
「止めんか!」
 見かねて、重三郎が男二人を引き離した。
「なにをっ、この野郎!」
 今度はその二人が重三郎に襲いかかってくる。
「パンッ!パンッ!」と、重三郎の手刀が二人の喉元へ飛ぶ。                 
「グフッ!」
 咳き込むような悲鳴をあげて二人が尻餅をつく。
「わあーっ!」
 歓声とともに、喧嘩は、重三郎対多数の修羅場へと変わった。
 仕方なく握った木刀で、重三郎はあっという間に五、六人の男を倒した。勿論それなりの手加減はしてある。
 その場が一瞬にして静まり返った。
「まだやりますか?」
 重三郎が静かに言う。
「わぁーっ!」と、また歓声が挙がって、皆が、
「凄ぇ!強ぇ、強ぇ!」
 口々に重三郎を誉めそやす。脇で吉次が嬉しそうに踏ん反り返っている。
「キチ、お前ぇのお客さんか?」
「そうだよ。強ぇだろ」
 自分が鬼の首を取ったような吉次である。

 藁の布団の中で、
「もう明日行くの?」と吉次が寂しそうに訊く。
「そうだな」
 ごそごそと寝返りをうって、思い出したように吉次が言った。
「あっ、そうだ、お侍さま、おいら病に良く効く湯治場知ってるよ、明日一緒に連れてってあげるよ。ゆこっ、ゆこうよ」
 重三郎は、吉次の寂しさが何となく解るような気がした。        
「ありがとう。よしっ、行くか、宜しく頼むぞ」
「よしっ」
 重三郎の声の調子を真似て、吉次が嬉しそうに言った。    
 重三郎が微笑みながら見ている間に、安心したのであろうか、すぐに小さな寝息が聞こえてきた。

 その夜、重三郎は少年の頃の夢を見た。
 父に連れられ湯治場へ行った時の夢であった。
 取り止めのない短い夢であったが、目覚めた床の中でその頃の思い出が蘇ってくる。

 夏の暑い日が続いた、もう直に秋と云う頃であった。     
 重三郎の首に酷い汗疹が出来、気触れてしまい中々治らなかった。皮膚の病に良く効くのだと云うその冷泉へ、父に連れられ何度か通った。
 なだらかな草原に続く道を分け入り、高い山の谷間を少し行くと、今にも潰れそうな苫屋が三棟。そして渾々と湧く、澄み切った冷たい水を湛えた、そんなには大きくない露天の風呂がいくつかあった。
 父と二人、服を脱いでいると、
「お侍さま、今、風呂を空けるように言いますから」と、湯治場の者が気を使う。
「構わぬ。皆、それぞれに病を治しに来ているのであろうが、同病相憐れむと申すではないか、気にするな。重三、来い!」
 恐ろしく冷たい風呂であった。
 あまりの冷たさに、思わず上がろうとすると、
「百数えろ。ゆっくり百だ」と、父。
 とてもゆっくり百なんて数えてはいられない。堪えきれぬ冷たさに、また上がろうとする、
「我慢せい!男の子であろうが。ゆっくり百だ!」と、父の叱責とも励ましともつかぬ声が飛んで来る。
 百、ゆっくり数えるつもりでも、七十、八十と早口になってゆく。
 上がってまた入る、数える口がガチガチと鳴った。両の腕を抱え込んで必死に耐える。
 重三郎のその様子に、周りの湯治客達が笑いだす。
 父も笑っていた。
 忘れかけていた父の厳しかったが優しい笑い顔であった。   

「吉次、何の病に効くのだ、その湯は?」
「知らない。皆、病に良く効くと言ってるよ」
「そうか、ははははは」
 重三郎は本当に楽しかった。吉次の引く馬の背で、吉次と同じ年の頃に戻ったような自分に気付いて嬉しかった。
 どうやら馬は街道を逸れ、三島の外れを韮山の方へ向かっているらしい。
「お侍さま、水筒」
「水を飲むのか。お前のは腰に下がっているではないか」
「違うよ。美味しい水の湧く所がこの先にあるんだ、汲んでゆこうよ。湯から上がって飲むと、うーんと美味しいんだって」
 小さな谷地の水源なのだろうか、その奥まった所に祀られたこぢんまりとした祠に木彫りの仏が祭られてあり、その脇の小さな池から透き通った清水が、水底の砂を躍らせ渾々と湧きあがっていた。
「お山の水が地の下を通ってここで湧いているんだって、冷やっこくて美味しいよ」
 富士山系の湧水らしい、重三郎も口に含んでみる。
「ほうっ、これは美味いな」
 ほんのりとした甘さを秘め、冷たく柔らかな口当たりの清水であった。     
 重三郎の故郷も、水の豊かな山間の城下町であった。
 夏の暑い日、遊び疲れ喉が渇くと、何処でもと言ってよいほどすぐ近くに水場があり、皆争うように口を近づけゴクゴクと飲んだものだ。丁度吉次のような年頃であったろうか。
 あいつらは、今どうしているのだろうか。
 故郷を離れて以来、一度も彼らのことなど思い追いかけることは無かった。二、三人の顔は今でもしっかりと思い出せるのであったが、後の連中の面影は、ぼんやりとしか浮かんでは来なかった。
「直に四十年か……」
 ぽつりと重三郎が呟いた。
「どうしたの?」
 吉次が、脇から見上げるようにして重三郎に声をかけた。
「何でもない。ああ美味かった、ありがとう。さあ行くか」    
「うん」

 人里から少し外れ、雑木林に囲まれた、そんなには大きくはない広場の片隅に、粗末な小屋が掛けられ、ゴツゴツとした石を積んで設えられた大きな水溜りのような、温泉とは名ばかりのところであった。
 僅かに立ち上る湯気に手を入れてみると、これが、意外や熱い。
「誰もおらぬな」
「うん、小屋とお風呂だけだよ、時々おじいちゃんやおばあちゃんが入っているけどね。今日は誰も入っていないや」
「吉次も入るか」
「うん」
「下帯なんぞ要らぬ、皆脱いでしまえ。吉次」
「そうだね」
 湯は、熱さに身体が馴染んでくるほどに心地よさを増してゆく。
 雑木林の緑が眩しい。透き通るような清々しさと、鳥の声以外は何も聞こえない、吸い込まれてゆきそうな静寂だけが二人を包み込む。
「今日は夕刻までここにおろう。な、吉次」
「そうだね、また家に泊ってゆきなよ」            
「そうするか」
 吉次の顔が嬉しそうに綻んだ。
 握り飯を食い、少し昼寝をする。そしてまた湯に浸かりながら、あまりの心地よさにうとうととしてしまうのであった。   
「病なんぞ、本当に治ってしまいそうだな、吉次」
「そうみたいだよ。時々歩けない人なんかも馬に乗せて連れて来てあげるけど、皆元気になって帰ってゆくよ。中には、何日も泊ってゆく人もいるよ、そこの小屋に泊っているんだ。お米や味噌、馬で運んであげた事も何度かあるんだよ」

 次の日も、その次の日も、重三郎は吉次の馬の背に揺られ、この湯に来た。
 吉次に会って五日目の朝、三島宿の先で吉次の馬を降りた。
 吉次は泣いていた。
「ありがとう、吉次。お陰でなんだか身体の具合がとても良くなったぞ。また会えるさ、泣くな」
 吉次の頭を撫でながら重三郎はそう言った。だが、それは叶わぬこと、もし生きて再びここまで辿り着けるなら、吉次に会いに、伴にあの湯に入りに戻って来たいと、心から思うのであった。     
 重三郎の言葉に、吉次は懸命に涙を堪え、姿の見えなくなるまで見送ってくれていた。
 切ない別れであった。が、重三郎の心は、ほんのりとした暖かさに包まれていた。

         「序章」及び「箱根越え」 終わり
                其の三 「駿府、梅ヶ島」へ続く


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