煙霞の痼疾未だ止み難く候 其の二「駿府、梅ヶ島」

文字数 17,790文字

                           NOZARASI 8-2
 煙霞の痼疾未だ止み難く候
  其の二
   駿府、梅ヶ島

 駿府の城下は、あの頃と変わらぬ賑やかさであった。       
 この駿府には、死ぬまでに一度会って語り合いたい男の一人が居た。駿府定番の家臣で、中々の剣の使い手であった。      
「加納殿にお会いしたい」
 門番に告げる。
 ややあって、中から懐かしい大声が聞こえ、加納が転がるように飛び出してきた。
「真に重三殿なのか、おおっ、確かに重三殿じゃ。生きておられたか、まだ修行の旅をしておられるのか、大したものじゃ。それにしてもよくぞ訪ねて来てくれたの」
 加納が、突然の再会に少し興奮気味である。        
「今宵は飲もう、語ろうぞ。作蔵、ありがとう、後藤殿はしばらく御逗留なされる故、宜しく頼むぞ」
 以前の時もそうであったが、この男、目下の者にも気さくに声をかけ、よく面倒を見る。お蔭で周りの者たちも、彼の客人である重三郎に快く接してくれ、居心地がよく、ついつい長逗留を決め込んでしまったのであった。

 盃を交わしながら、話は尽きない。
「大分強くなったようだな」
「いや、相変わらずそうは飲めぬよ」            
「ははははは、こちらのことじゃよ、こちら」        
 加納が笑いながら刀を構える仕草をした。
「あっ、そっ、そうか。ははははは、もう酔いが廻ったと見える」
「負けたのか。あれから負けたのか」
「いや、三本勝負では、あれから負けてはおらぬ」             
「さすがじゃのう。儂も五度、五度挑んで、本気の三本勝負では遂に勝てなんだ。明日、仇を討たしてもらうか」
「いや、もう立ち合いは……」
「捨てたのか……。気にはなっていたが、腰の物が……。食い詰めて手放したのではないのか、そう思われ、訊き辛かったのだが、捨てたのか剣を……」
 加納は少し寂しそうに、そして心配げに、重三郎の何かを感じ、声を低くし詰まらせた。
「刀は、江戸で世話になった御仁に別れの形見として受けてもらった。病には勝てぬよ」
「病なのか、何処が悪い」
「確かとは解らぬ、時々、凄い激痛が背中を走る。あまりの痛さに気の遠くなる亊もある。長く続くと云うことはないのだが……」
「医者には診てもらったのか」
 頷く重三郎に、
「して、何と言った、医者は」と、心配げに訊く。
「江戸である御仁の世話になってな、よい医者に診てもらったのだが、解らぬそうじゃ。ただ、同じような痛みの者を幾人か診たが、一人を除いて、二年から五年ぐらいで死んでいったそうじゃ。同じ病とは限らぬが……、とは言っておったが」
「そうか、覚悟を決めたのじゃな。御主のことはよく知っておるつもりじゃ、つまらぬ慰めは言わぬ。それで儂に会いに来てくれたのか」
「いや、故郷へ帰るつもりで、途中どうしても御主に会いたくて立ち寄った」
「嬉しいのう、この儂を思い出してくれたか。国は豊後であったな、遠いのぅ。大丈夫なのか?」
「分らぬ。途中で死ぬやも知れぬな、覚悟は出来ておるつもりじゃ。故郷の春に無性に会いたくなった。先程も言ったと思うが、刀はその路銀に変える心算で世話になった御仁に無心をしたのだが、受け取ってはもらえなんだ。でもな、過分の餞別のお返しにと、形見として無理矢理受け取ってもろうた。まだ春までには半年以上もある、ゆっくりと行くつもりじゃよ」
「故郷の春に会いたくてな。なればゆっくりとしてゆけるな、儂も、今はそう忙しゅうはない。何日でも構わぬ、遠慮なんぞしないでくれよ」
 加納の声が優しさを増してゆく。
「かたじけない。また宜しく頼む」              

 二日後、外から戻って来た加納が、
「重三、湯治へ行かぬか。安倍川の奥に良い湯がある、様々な病に効くそうじゃ」と、勢い込んでそう言った。
「御主も行くのか」
「いや、儂は行けぬ、余り長くここを空ける訳にはゆかぬでな。それでな、頼みがあるのじゃが……」
「何だ、頼みとは。儂で出来ることであればなんなりと言うてくれ」
「その湯治場まで、二人ほど送り届けてはくれぬか。構わぬか」  
「と云うことは、女人か」
「出入りの商人の娘でな、患うておる。気に病む質のようでな、胃の腑あたりが弱いのではと医者が言うておるらしく、一人娘なのじゃが、婿を取ろうにも中々その気になれぬらしい」
「店の男を付ければよいではないか」            
「それがな、急に商いが混んできてな、誰でもと云う訳にもいかぬ故、手の空く者がおらぬのだそうじゃ。十日もすれば気の置けない者の手が空くそうじゃ、そうしたらすぐに向かわせると言うておる」
「十日、待てぬのか」
「明日発つつもりで準備をしていたそうなのじゃ。それが、急な取引が入って……。一人娘の我儘よ、口には出さぬが悲しそうな顔をして部屋に籠ってしまったそうなのじゃ。そこへ行って御主の話をしてしもうた。赦せ」
「いや、儂でよければ少しも構わぬ。つい先日もな、三島の外れの湯治場へ三日ほど通うたのよ。なんだか身体の調子が良くなったような気がしてな、どうせ急がぬ旅、のんびりと湯治旅にしようかなんぞと思うていたところなのじゃ」
「よし決まったな、ゆくぞ、重三」
「なにっ!」
「発つのは明日。今日これから行って伊豆屋と打ち合わせじゃ」 
「相変わらずせっかちじゃのう御主は。剣と一緒じゃ」
「やるかっ!」
 加納が子供のような悪戯っぽい目をして、剣を構える仕草をした。

「梅ヶ島までは十里ほど、安倍川沿いの道になっておりますが、途中かなり険しいところもございますれば、油島という在所に知り合いがございますので、明日はそこで御一泊なさってくださいませ」
 伊豆屋の主、中々の人物らしき風格である、礼を踏まえ、落ち着いていて好感が持てた。が、「娘の千代を呼びまする」と、店の者に連れられ娘が現れた途端、表情が一変、他愛のない男に脂下がってしまった。これが俗にいう親馬鹿というやつなのであろうか。
「娘はひと月程逗留するつもりでおります。男手は十日もせずに行かせますので、後藤様も、宜しければ、後はのんびりと御湯治下ださりませ」
「ひとつお聞きしても宜しいかな」
「はい、何でございましょうか」
「何か危ないことでもござるのかな、道中か、湯治場に?」    
「さすがにお察しが早うございます」            
「実はのう……」と、加納が口を開いた。
「もう五年程にもなるか。やはり、駿府から梅ヶ島へ湯治に出掛けた商家の娘が、連れの女中と男と共に行き方知れずになっておっての、どうも帰り途で災難に遭うたようなのじゃ。梅ヶ島を出た後、油島まで戻って来る間にな。誤って川に落ちたのやも知れぬのだが、天気も悪く無かったし、三人揃うてと云う亊も考え難いしな。それにな、良からぬ噂もあっての」
「良からぬ噂?」
「勾引しというか、二年程した頃、甲州街道の女郎屋でその娘を見かけた者がおるなんぞと云う噂が立っての。勿論、親は慌てて確かめに行ったのじゃが、娘を探し出すことは出来なかったそうなのじゃ」
「そうか……」
「それにの、梅ヶ島からも頼まれての。そんな噂を消し去るにも、帰りには男手を付けるから、是非娘御に湯治に来てくれと」
「梅ヶ島も、当伊豆屋の大事な取り引き先でございまして、出来るものなら義理も立ててやれないかと思いまして」
「で、儂か。加納殿、謀られましたな」
「済まぬ、赦せ」
「加納様にお聞きしますれば、天下無双の御手並みとか、安心して娘をお任せ出来ます。何とぞ宜しく御願い致します」
「天下無双なんぞと、加納殿の法螺話でござるよ。老いては駄馬にもとやら申しまするぞ」
「私も商人、人を見る目は持ち合わせているつもりでございます、重ねて宜しく御頼み申し上げます」
「よしっ、決まったな。では明日、門番の作蔵に声をかけてくれ」
 加納という男、こういう風に仕切るのは得手のようで、話しは最初から決まっていたようなものとはいえ、とんとん拍子である。

 油島を出ると、安倍川の谷は次第に嶮しさを増してゆく。油島の知り合いが、案内にと男をひとり付けてくれた。
 やがて、女人ではかなり厳しいところも現れてくる。千代と供の女中サトの二人はかなり難渋していたが、思いの外根性のあると見え、汗だくになりながらも男の引く縄を握りしめ、しっかりと一歩一歩踏みしめながら負けじと付いて来る。
「もう直ですよ。赤水の滝があれです、ちょっとひと休みしましょうか。ここが最後の難所ですからね、あとひと頑張りです」
 案内の男が、滝のよく見えるところで励ますように言った。
 見下ろす谷の行き止まりのような崖の中途から、白い滝がかなりの高さを迸り落ちていた。
 小さな集落から少し入った奥に、梅ヶ島の湯治場は緑の中にひっそりと在った。
「好いところだの」
「お湯も好うございますよ、ゆっくりと御養生くださいませ、今日の頑張りが御座いますれば、病なんぞはきっと全快になられます」      
「ありがとうございました」
 女人二人、かなりきつかったと見え、喘ぐような息の下からやっと男に礼を言うと、宿の前の縁台にへたへたと腰を落としてしまった。        
 男は差し出された礼の包みを頑なに断ると、さっさと帰っていった。

 いい湯であった。
 夕暮れが訪れ、行燈に火が灯される。山の清々しい冷気が、開け放たれた窓から静かに流れ込み、湯上りの火照った身体にその清しさを残してゆく。
 二日目の夕餉の折、
「御一緒させて戴いて宜しゅうございますか」と、廊下から声がして障子が明いた。
 夕餉の膳を携え、サトと千代が入ってきた。
「昨日は本当にありがとうございました。慣れぬ山道、二人共昨夜は倒れ込むように寝入ってしまい、お礼も碌に出来ずに失礼致しました」
「よく頑張られたのう。儂でもちときつかったに、その細身で、大したものじゃ。直に病も治ろうて、その頑張りに、きっと退散して行くぞ」
「はい」
 話してみると、中々にしっかりとした二人であった。
「後藤様は、御修行で諸国を隈なくお廻りになられたとか。女子の身なれば、駿府の他はほとんど何処も知りませぬ。江戸や京の華やかな様子を聞く度に、一度は行きたい、旅してみたいと思いますれぞ、儘なりませぬ。宜しければ、こうして毎日の夕餉の折りに、旅の話、お聞かせ願えませぬか」
「剣の修行のことばかり、他には何も見えぬ詰まらぬ男の旅の話なんぞ、なんの慰みにもなりますまいが、そんな話でお宜しければ、ちと法螺話でも交えてお話し致しますか」
 二人は嬉しそうに重三郎の語りに耳を傾け、時折相槌を打ちながら聞き入っている。
 素直な良い女人であるなと、重三郎は思った。        
 五日目の夕餉の折、
「この奥に大きな滝があるそうでございます、明日、御一緒願えませぬでしょうか」
「それはそれは見事な大滝なのだそうでございますよ」と、宿の者から聞いてきたのであろうか、滝を見に行きたいと、二人、目を輝かせながら切り出してきた。
「ほう、それは是非見ておきたいものですね。では、宿の人に昼の弁当をお頼みして参りまするか」
「嬉しい」
「御嬢様、良かったですね」
 宿の暮らしもそろそろ退屈になってきたのであろう、本当に嬉しそうに微笑む二人であった。
「ところでお二人、まるで姉妹のようじゃのう」
「ふふふ」
 千代がまた嬉しそうに笑った。
「御嬢様が五つの時、遊びのお相手として御奉公にお上がりしました。それ以来ずうっと御一緒に。旦那様も奥様も、節の祝いやらなにやら、分け隔てなく……」
 話しながら、サトが涙ぐむ。
「馬鹿ね、サトは……」
 千代の優しい目が、サトを包み込むように微笑んでいる。
「中々に出来ぬことよの。人は、どんなにそれが正しいと分かってはいても、中々にそう出来るものではない。さすが伊豆屋殿、大したものじゃ」

「遠いのか?」
 その朝、宿の者に尋ねると、
「いえ、ゆっくりのんびり一刻もあれば。でも、足元の危ないところもございますので、十分お気を付け下ださいましね。子供を一人、案内にお付け致しますので、御心配は無用と思います」と、笑って応えた。
「子供をか?」と、重三郎が訝ると、
「はい。その子、山や川を、まるでましら(猿)のように駆け回ります。ここいらのことなら大の大人も顔負けの案内人でございますよ」と、宿の女が笑いながら応えるのであった。  
「ほおぅ!」
 三人、顔を見合せて期待する。
 宿の入口に現われた童は、少し硬くなっているようであった。  
「平太と申します」
 宿の者に紹介された童は、はにかみながらペコンと頭を下げた。
「お願いしますね」
 千代が笑いかけると、また一段と緊張してしまった。
 天気は上々である。
 初夏の山の万物は、まるでその生命を競い合うかのように輝き、清々しさと、底知れぬ生命力のようなものに満ち満ちていた。     
「うわー、何だか力が湧いてくるみたい」
 千代が思いっきり深呼吸をし、気持ち良さそうにそう言った。傍でサトも、それを真似ている。  
 その脇で平太も同じように深呼吸をし、
「いつもと同じだよ」と、少しキョトンとしている。
 三人、大声で笑った。釣られて平太も笑いだす。
 平太の緊張もすっかり解され、四人は緑の中の山道をゆく。
 道はもっと荒れているのかと思っていたら、意外にもしっかりとした山道であった。平太の話では、身延へと続く間道であるらしい。
 途中、下って来る二人の男に遭った。目付きの良くない二人の男は、千代とサトを値踏みするかのようにジロジロと見ながらすれ違って行った。身延までは一日がかりだと平太が言っていた。さすればこの男たちは、この狼の出る山の中で一夜を明かしたのか。それとも、夜の山道を駆けて来たのか。
「今日は水が多いよ。淒いや。運がいいね」と、平太の言う大滝は、その落差も相まって、まるで天空から落ちてくるかのように圧巻であった。
「ワアー、寒い」と、サトが両の手を胸に抱え込む。
「でも何だか厳かな感じ。こういうのを霊気と言うのね、生き返るようだわ」
 千代が滝に向って目を瞑り、何かを念じるように手を合わせた。
 三人も千代に倣って手を合わせる。 
 二人とも大喜びで、
「ありがとう、こんな素晴らしい滝を見せてくれて」と、平太の頭を代わる代わるに撫でながら礼を言う。
 平太も、まるで自分の滝を褒められているかのように、二人の喜ぶ姿を見て満足そうであった。
 帰り道、狭い広場のようなところで休みを取ったが、重三郎は、何者かの気配を緑の中に感じていた。
「おじさん、何かいるよ。鹿かな、狼かな、うーん猿でもない。でも何かいるみたいだよ」
 さすが山の子である、この年で宿の客の案内を任されるだけのことはある。その気配が人とは気付いていないようではあるが、重三郎と同じ気配を感じ取っているのだ。
「気にするな、儂がおる、出てきたら、ヤーッと」       
「木刀で斬れるの?」
「ううーん、参った」
「ははははは」
 顔を見合せて小さく笑った二人に、
「何がおかしいのですか?」と、少し離れて、お喋りをしていた千代とサトが振り返る。
「ははは、何でもない。木刀で鹿を倒せるかと訊かれてな」
「倒せるのですか?」
「多分無理だな。人よりはちと難しいかも知れぬからの」
「人より鹿の方が難しいのですか」と、サトが首を傾げる。
「撃つ前に鹿の方で逃げ出すじゃろ、鹿の足にはとても勝てぬわ」
「そうだよ、鹿はこんな山の中でも、五間も六間も跳ぶんだから」
「そんなに跳ぶの」
「うん、崖だって跳んで登ってゆくよ。羚羊はもっと凄い、あの崖だって登ってゆくよ。それも飛び跳ねて」
「嘘。ほとんど絶壁よ、あそこは」
 千代が吉次の指差した急崖を見て、信じられないといった面持ちで笑う。
「本当だってば」
 平太が少し向きになる。
 背後の気配が消えた。
 宿の者が平太に謝礼の包みを渡している。千代がサトに目をやると、サトが素早く紙包みを用意した。
「はいこれ、私たちからよ。今日は本当にありがとう、山の色々なお話、とっても面白かったわ。今度、羚羊があの崖を登るのを見てみたいな」
「まだ信じてないんでしょっ、千代姉ちゃん」
「ううん、登れると思うわ。平太ちゃんが見たというのだもの、私も見てみたいわ」
「また今度ゆこ、見られるかも知れないよ」           
「そうね、また行きたいわ。宜しくね」
「うんっ」
 平太が元気良く応えた。

「なんだか、気分も身体も、自分のものではないみたい」      
 千代が夕餉の後、気持ち良さそうに伸びをしながらそう言った。
「お顔の色もうんといいですよ」
「戴く物がみんな美味しくて、治っちゃうかしら」
「治りますとも。お嬢様の病は半分気の病だと御医者様も仰しゃられてましたでしょ」
「以前、伊豆へも湯治に行ったでしょ、でもこんな感じにはならなかったわ……。そう云えば後藤様、御病気の方は如何なのですか」
「うーん、儂のは発作的に現れるでな。最後に出たのは確か江戸を出る少し前の頃かな、この旅へ出てからはまだ一度も無いな。もうそろそろかもな」
「お気をつけ下さいましね」
「ああ、ありがとう」
「ここの湯で、お治りになられるといいですね」
 千代の優しい言葉の響きの奥に、自分への思いも込められているのだと重三郎は思い、千代の病の治り、早く元気にならんことを祈った。
 治したい、治りたいと思えばこそ、こんな山奥の湯治場へ、若い娘が無理を押してやって来たのであろう、この娘の心の奥に、何か決するものを重三郎は感じ取っていた。

「女は駄目!危ないんだから」
 平太が、千代の申し出をきっぱりと断った。
 ほう、この子にこんな一面があったのかと、重三郎は感心した。

 翌日の夕刻前、平太が魚籠を下げて宿に来た。
「雨子釣って来たよ、美味いから宿の人に頼んで焼いてもらって」
「あまご?」
 魚籠から出され笊に並べられたそれは、体高のある見事な雨子であった。
 八寸余りの魚体、沈んだ銀色の体色の中にある黒っぽい斑紋、体側に散りばめられた星のような朱点が美しい。
「わあー、綺麗な魚ね。でも、綺麗すぎて、食べるの少し可哀想」
 サトが、感嘆の声を上げる。
 千代も、言葉を失ったかのように見とれている。
「榎ノ葉か、懐かしいなぁ。いいのか貰って、釣るのはとても難しいだろ」
「うん、昨日のお礼だよ。いっぱい戴いたから、母ちゃんが、お返しに釣って来て食べてもらいなさいって。時々ここにも頼まれるんだ、今日のお客さんの分の外に、これ三人の分。食べてね」
「だったら、わたしが買ってあげる」
 千代の言葉に、
「いいんだってば、この間のお礼だって言ってるでしょ」と平太が口を尖らす。
「ありがとう」
 千代は、平太を立てて、それ以上は言わなかった。
 帰る平太を、重三郎が追った。
「平太、あの雨子は何処で釣った、この川か?」
「おらの秘密のところだよ。この辺では大きさが揃わない、宿のお客さんに、大きいの、小さいの、バラバラでは駄目でしょ、誰にも教えられない秘密のところだよ」
「一緒に付いていっては駄目か?」
 平太、ちょっと考えて、
「うーん、おじさんなら構わないよ、明日行くかい」と、微笑んで承諾してくれた。
「明日か。よし頼む」
「じゃあ、明日の朝、宿へ行くよ、足ごしらえしっかりやっといてね、危ないところもあるから」

「駄目ったら駄目なの、ちょっと危ないところなの。危ないところでないと、いいのが釣れないんだから、女は駄目!」
 千代はやっと諦め、平太のおでこをコツンと叩いた。        
「エヘッ、悪いね、千代姉ちゃん」と、平太が笑う。
 急峻な斜面、というよりも崖に近いような、危なっかしい、道も無いところを下ってゆく。なるほど、平太が足ごしらえをしっかりと気にするわけである。
 降り立った川原は、大石がゴロゴロと転がり川幅も狭かった。流れは清冽で速く、白泡をあげ大石の間を流れ下っていた。     
「やってみる?」
 平太が竿を重三郎の方に差し出した。
「うん、よしっ、四十何年ぶりの榎ノ葉釣りだな」
「えのはって何?雨子だよ、これから釣るのは」
「おじさんの故郷、豊後ではな、雨子のことを‘えのは’と呼ぶのだよ。えのきの葉だな。秋になると榎の葉が赤く色付くだろ、その頃、赤い色が雨子の脇腹にも出るだろ、それで榎ノ葉だ」
「ふーん、そう云えば秋になって山の色が綺麗になる頃、雨子も同じように綺麗な色になるね。榎ノ葉かぁ」
 流れの緩くなる辺りへ、今朝、平太が早起きして採って来てたと云う川虫を付けて仕掛けを流す。
 黒い影が水中を走った。
「来るよっ」
 平太が少し緊張した声を出す。
 コツ!と、小さな魚信の後に、グッ、グーンと、竿をひったくるように魚が走った。
 重三郎、これは凄い大物かと、忘れていた榎ノ葉の強い引きに、久しぶりの興奮を隠せない。
「岸の方へ寄せて、浅いところから摺り上げるんだよ」         
 平太の檄が飛んでくる。
 重三郎の身体はその通りに反応し、見事な雨子が岸辺に躍った。だが、思ったよりは小さかった。
「凄い引きだな平太、ここの雨子は」
「うん、流れが速くて強いからね、雨子も強くなるみたい。時々天蚕糸を切られて、大事な釣り針取られちゃうんだよ。でも、おじさん上手いね」
「これでもな、平太ぐらいの年の頃は名人だったのさ、榎ノ葉釣りのな」と、ちょっぴり法螺を吹く。
「ふーん、でも、四十年もやってないんでしょ。え・ノ・は・釣り」
「でも、そうだなぁ、身体が覚えているのかなぁ、平太の教えてくれた通りに釣ることが出来たんだものな。ありがとう」
「今日は、おじさん、ずっと釣ってていいよ」
「どうして」
「だって、おらはいつでも釣れるもの」
 四、五匹釣ったところで河原の石に腰を降ろし、ひと休みする。  
「少し早いが飯にするか」
「うん!」
 握り飯を頬張りながら、
「凄いや、おらより上手いね」
 平太が嬉しそうに重三郎の顔を見上げる。
「そうか、ありがとう」
 川の霊気が二人を包み、絶えることなく聞こえる瀬音が静けさを弥増してゆく。     
「川に来るとね、みーんな忘れるの、父ちゃんに叱られたこともなーんも。そして、また元気になるよ」
「川や山にはな、力があるのだよ、その力を平太に分けてくれるのだ。見上げてみろ平太、この谷の深さ。川はな、昔、あの上の方を流れていたのだ。少しずつ、少しずつ、岩を穿って、ここまで深くなったのだよ。何千年、いや何万年、もっとかな。そんな川の力が、この谷の中に満ち満ちているのだよ。木や草も、お天道様の力と水の力を貰いこの山を覆い尽くし、川と共に生きている。その力が平太を優しく包んでくれるのさ。それが川の生命、山の生命、そして、それを感じられるのが平太の生命。雨子もその生命の力を貰って、遠い昔から生きてきたのだよ、綺麗で逞しくな」
 あの時の母の言葉を思い出し、兵太に語りかける。
「だから美味いのかなあ」
「その通りだ。ははははは」
 重三郎も平太も笑った、まるで親子のようである。
 しばらく釣り遡って行くと、急に両岸が切り立って狭まり、もうこれ以上は進めなかった。所謂通らずである。      
「これ以上はいけないから、あの大石の裏でお仕舞いだよ、あそこはいつも大きい奴がいるよ」
「じゃあ平太釣るか」
「いいの」
「いいに決まっているじゃないか」
 平太が嬉しそうに重三郎から竿を受け取る。そして、大石の裏の弛みに仕掛けを入れた。
 小刻みに穂先が躍った次の瞬間、竿先がグンッと撓った。    
「でかいよっ、おじさん」
 十やそこらの少年とは思えぬ身の熟しと竿捌きで、尺を超えた雨子を難なく取り込む。
 大した者である。
「ほうっ、見事な尺雨子だな」
「ここは、時々こんなのが釣れるんだ。でも、おんなじ雨子じゃ無いよ、いつも違う奴。絶対にそう思う」と、平太。
 平太が、大事そうにその尺雨子を水辺に戻し、そっと手を添えた。
 キョトンと逡巡したかのように見えた雨子は、次の瞬間、矢のように深みを目差して一直線に走った。
「どうして放した」
「だって、大きな雨子は売り物にならないし、そんなに美味くないんだよ。それに、大きい雨子ほどいっぱい良い卵を産むから、放してやれば雨子も減らないって、死んだおじいちゃんが、釣りを教えてくれた時にそう言ってた。ここはね、毎日釣っても、またいっぱい釣れるよ。いい場所だから、雨子達が、場所の取り合いして、針が着いてるのも知らず餌の川虫食ってくるんだね、きっと」
 そういうことか、放してやった雨子がまた釣れるのではなく、より強い新しい雨子が差し遡ってきて好場所に居着くことに気付いているのだ。
「そうか、おじいちゃんの教えを守っているのか。偉いな、平太は」
 平太は嬉しそうに重三郎の顔を見上げていた。
「今日は味噌で焼いてもらうといいよ。昨日はきっと塩焼きだったでしょ、味噌で焼くのもとっても美味しいんだよ」
「よし、そうしてもらおう。さっ、帰るか」
「うん、谷底はすぐに暗くなるからね。おじいちゃんも、陽のあるうちに必ず揚がれって、そう言ってた」
 帰り道、平太の弾むように歩く姿に、重三郎の記憶の底から甦ってくるものがあった。
 あの時の光景だ。あの時の自分が平太なのだ……。      

 父や祖父に教えられ、幼い頃の重三郎は釣りが大好きであった。
 あれは幾つの頃であったのだろうか、ある日祖父に連れられ、三里ほど上流の渓谷へ、初めて榎ノ葉釣りに出掛けた。
 朝まだ明けやらぬ内に城下を抜け、川の上流を目差す。白々とした夜明けを迎える頃、そこには重三郎にとって初めて見る世界が広がっていた。
 巨岩が点在し、その間を迸るように白泡を成して流れ下る清冽な流れ。こんな川に魚は棲めぬとさえ重三郎には思われた。      
「さあやるぞ、重三」
「はい」
 重三郎は昂奮と緊張で手が震えた。今まで、餌を付けるのに手が震えて付けられぬなどということは一度もなかった。
「深呼吸せい、重三」
 後ろで祖父が嬉しそうに笑いながら言った。
 重三郎は思いっきり深呼吸をした。
「もう大丈夫」
 祖父に笑いかけると、優しい祖父の笑顔が満足げに頷いていた。
 しばらくして、綺麗な小さな榎ノ葉が、向こう合わせのような感じで釣れた。
 岸辺に水溜りを作って見ていると、
「そろそろ放してやるか」と、祖父が言った。
「はい」
 重三郎も、この榎ノ葉は逃がしてやろうと思っていた。初めて釣れた綺麗な小さな榎ノ葉が、とても愛おしく思えた。この榎ノ葉は逃がしてやらなければ、この清冽な流れに帰してやらなければ、と祖父の言葉を待つまでもなく、強く感じていたのであった。
 そっと流れに放してやると、ゆっくりと深みに泳いで消えた。
 榎ノ葉の消えたその流れをじっと見ていると、
「上へ行くぞ」と、祖父が重三郎の背中を軽く叩いて促した。
 だが、それっきり重三郎に榎ノ葉は釣れなかった。魚信はあるのだが、どうしても針に掛からない、餌の川虫だけが横取りされるかのように無くなってしまうのであった。
 祖父は三十余りも釣っていた。
 夕暮れ迫る頃、城下へ帰り着いた。
 その帰り道、重三郎は一言も発しなかった。祖父も何も言わず黙って歩いていた。
 何か不可思議な感動が重三郎の心に満ち、声を発すれば、自分の体内からその不可思議なものが声と一緒に逃げ出してゆきそうな気がした。それに、いつもは威厳を感じさせる寡黙な祖父の重さが、今日はすごく温かく感じられ、この温かさの中にいつまでも浸っていたいというような気持になっていたのであった。
「重三、また行くぞ、近い内にな」
 祖父は、すぐにでもまた榎ノ葉釣りに行きたいなという重三郎の心を見抜いていた。
「はいっ!」
 祖父の一言に、元気に応える重三郎であった。
 あの渓からの、あの帰り道の光景なのだ。

 緑の中を歩く平太の後ろ姿が、あの時の自分に重なり、重三郎の目頭に熱いものがこみ上げてくる。
 吉次といい、平太といい……。
 それは、自分の死というものに向き合って生きんとしている今、何かの予兆のように感じられるその過去の走馬灯のような光景が、自分の死の時の近づいて来ているのでは無いかと云う予感を、否応無しに突き付けているような気さえした。
 だが、その死に対して、重三郎は抗うことをしようとは思わなかったし、悲しみの感情を抱くことも無かった。
 何故自分はそうであるのか。それは、剣客である己は、常に死というものに直面し、対峙してきた。その心構えが、無意識の内に病からの死というものに対しても、そうであったのではないのだろうかと思う反面、いまその心の内に、何か漠とした不可思議なものを覚えるようになってきていた。      
 潔く死を己の内に受け入れることに、何の抵抗もありはしない。だが今、重三郎の心のどこかに、生きると云うことにも自然でありたいと思う気持ちと同居するかのように、内から静かに湧き上がる生命力のようなものが芽生え始めてきているのを、ぼんやりとではあるが感じ始めていた。それは、ここまでの旅の中で出遭い別れていった忘れ得ぬ人々の与えてくれた勇気のようなものではないのだろうか。
 先を歩く兵太が立ち止まり振り返り、重三郎の表情に何かを感じたのであろう、きょとんとした可愛い眼差しで見た。
「また連れてきてもらえるかなあ、平太」
「いいよ。おらも、またおじさんと榎ノ葉を釣りたい」

 伊豆屋から代わりの男が来た。
 入れ替わりに帰るつもりでいた重三郎であったが、千代やサトが引き留めてくれるし、加納からの手紙にも、伊豆屋も重三郎が一緒の方が安心できると言っている、身体に良いようであれば長逗留を決め込めと唆しているし、平太との約束もあるし、などと勝手に自分に言い聞かせ、逗留を決めた。

 平太と、三度目の雨子釣りに出掛け戻った夜であった。
 夜半に湯に行った伊豆屋の男が、ふらふらと危なっかしい足取りで戻ってきた。
「どうした。あまり遅いので心配したぞ」
「それが……」
 後の声が続かない、どうやら湯中りのようである。         
「ほら水を飲め」
 枕元にあった盆の上の水差しから、椀に水を注いで渡してやる。          
「何か聞いてはならないものを聞いてしまったようでございます」と、やっと正気に戻った真顔で、男が語りだした。
「もう上がろうかという時分に、何となく柄の悪そうな二人の男が湯に入って来ました。丁度私は岩の陰になるところにいまして、二人は私に気付かず、何やらヒソヒソと話しておりました。今出ては、盗み聞きしていたようで不味いかなと感じ、息を潜めていたのでございます。湯の流れ落ちる音で確かとは聞き取れなかったのでございますが、人を殺して川に捨て、女を攫って女郎に売ったとか、そろそろほとぼりも冷めたし、あいつらをやるかとか、そんな話のようでした。あまりの恐ろしさに上がるに上がれず、二人の上がるのを待っていましたら、この有様でして……」
「この話、宿の者にはしておらぬな。その二人も宿の客だろう、明日になれば分かる。今日は幾人も泊ってはおらぬからな。心配するな、儂が付いておる、安心して休め。それから、明日宿の者に確かめるまでこの話は誰にもするな。千代殿にも、サト殿にもだ。いいな」
「はい」
 思わぬ出来事との遭遇に、男は中々寝付けないようであった。

 二人は消えた、朝早く発ったのだと云う。
 重三郎は宿の主に頼み、二人に接した者を呼んでもらった。                
 膳を運んだ女中の話では、以前にも何度か泊ったことのある客だと言う。旅の商人を装ってはいるが、どうも女衒紛いのことをやっているのではないか、夕暮れ過ぎの闇の中を、小さな提灯一つで、二、三人の女を急かせながら、身延へ向かう安倍峠の方へ登って行くのを何年か前に見たことがあるとも言った。
 遠まわしに、重三郎一行のことも聞かれ、五日後に発って、駿府に戻るのだと言ってしまったらしい。
 翌日、重三郎は、伊豆屋から来た男に加納への書状を持たせ駿府に帰した。

 四日後、三人は宿の者たち、そして平太に見送られ、梅ヶ島を後にした。
 別れに平太が泣いた。
 千代は、泣きじゃくる平太の頭を優しく撫でながら、
「あの崖を登る羚羊を見に、きっとまた来るからね。その時も美味しい雨子を釣って来て頂戴ね」と、優しく慰めるのであった。
「うん」と応えた平太の感情が、その優しさにか、少し収まってゆくのであった。
「おじさん、豊後へ帰ったら榎ノ葉釣りするんでしょ」    
「ゆくぞっ。そして、平太の釣ったあの雨子よりでかいやつを釣るからな、元気でいるのだぞ」
「うん、おじさんも元気でね。身体、きっと良くなるよ」
「ありがとう、平太」
 重三郎も平太の頭を撫でてやる、また平太の目から大粒の涙が零れれ落ちてゆく。

 後をつけてくる者の気配を感じだしたのは、梅ヶ島を出て半刻も経たない頃からであったろうか。
 何処で襲って来るのか、重三郎はともかく、二人を安全に守らなければならない。この急峻な山道では、下手なところで襲われれば不測の事態も起こりかねない。
 この山道を知り、悪事に手馴れた連中であれば、地の利を活かして襲って来ようことは明白である、守り易き所を選ばなければなるまい。         
 道が少し開けて、小さな広場へ出た時、
「ここにじっとしていなさい」と、二人に言うと、重三郎は突如後ろへ走った。
 先制攻撃である。
 普通に歩いていても足の竦みそうな所であった。
「ワアーッ!」
 悲鳴のような声が上がった。
「何をしやがる。この野郎!」
 やはり、滝を見に行った折に峠を下って来た、あの二人の男であった。   
「己の身に訊くがよかろう」
「なにっ!」
「人を殺したり、女を攫って女郎へ売りとばしたり。捨て置く訳には参らんでのぅ」
「何言ってやがる、そんじょそこらの小悪党と一緒にするんじゃねぇ。やるぞ、おい」
「おう、合点でぇ」
「ここでいいのかな、大悪党殿、ここから落ちたんでは、とても助からんぞ」
「五月蠅ぇ!」
 重三郎は千代たちの待つ広場へ二人を誘い込んだ。
「その奥にじっとして居なさい。大丈夫、心配はいらぬ、直ぐに片付く」と、事の経緯を知らぬ二人は、抱き合うようにし、怪訝な顔で重三郎を見た。
「はいっ」
 ちょっと怯えてはいたが、二人は身を寄せ合うように広場の隅で身を小さくした。。
「ではゆくぞ、大悪党殿」
「五月蠅ぇ、刀も持たねぇ貧乏浪人が、恰好付てんじゃねぇ」
 兄貴分と思しき男が、叫びながら匕首を構えて飛びかかって来た。
 重三郎の木刀の一閃に、鈍い音がし、男は悲鳴を上げる事すらなく、「グエッ」と蟇のように呻き、悶絶した。すかさず襲いかかって来た男も、敢え無く重三郎の一撃に転がって、右の二の腕を押え、顔を顰め震えている。
 すっかり怯えきっている男に、
「縄を持っていよう、お前らの七つ道具であろうが、その縄を出せ」と重三郎が命じた。
 男は荷物の中から丈夫そうな麻縄を出し、重三郎の前に置いた。          
「この男を後ろ手に縛れ。そうだ後ろ手だ。もっときつく縛らんか。よし、それを首へ巻け。暴れたら首の締まるようにな。そのための縄であろう、お得意であろうが。よし、それでよし。次はお前の首だ、後は儂がやってやろう」
 急崖のこの山道である、数珠繋ぎのようにされ、縄の片方を引っ張れば首が締まるように結ばれては、もし何かあれば二人諸共である。
「気を付けて歩けよ。どちらかが滑ったり転んだりすれば、二人ともお陀仏だぞ。まあ、それ位の罰は受けても良さそうなお前達じゃろうがな」
 後から着いてくる千代とサトは、何が起こったのか、まだ解っていないようである。
 
 油島へ着くと、先に帰した伊豆屋の男が十人ばかしの役人を伴って待っていた。その後ろに伊豆屋、そして加納も居た。
「こ奴らか、あの時の勾引しは。五年ほど前に、この道で勾引した娘たちはどうしておる、言えっ、言わんかっ!」
 怒りの形相で加納がまくし立てる。
 子分らしき男は、もう観念したのか、意外に素直に加納の脅しに口を割った。
 娘は甲州街道の女郎屋へ売られ、すぐに病がひどくなり、また何処かへ売られ、その後信州中山道の宿場で死んだという話を聞いたと……。
 そして女中は、今は何処にいるのかさえ知らぬと、悪びれもせずに吐いた。
 供の男は、殺して安倍川の谷へ投げ落としたと、罪の意識など毛頭持ち合わせてはいないといった感じである。
 病を治さんと、あの峻嶮を懸命に梅ヶ島まで行ったであろうに……。そんな娘を女郎へ売るなんぞと、赦しがたき男達である。
「おのれ、その罪ことごとく暴き出し、一寸刻みにしてくれるわ」  
 今にも切り刻みかねない加納の怒りようである。

 駿府を数日後に発つというある日、伊豆屋が別れの宴を持ってくれた。
 千代とサトも居た。
 どうやら千代に婿を迎えるらしい。聞けば、幼き頃より慕っていた、近所の商家の三男だと云う。
 あの険しい山道を耐え、梅ヶ島の湯治場まで行き、病を治したいと強く願うぐらいである、折々に感じさせられた千代の決意の固さに、やはりそうかと合点のゆく重三郎であった。
「おめでとう、千代殿。すっかり元気のようじゃのう」      
「はい、お陰様で自信も湧き、心も決まりました。梅ヶ島まで参り、身体の具合が好転しなければ諦めようと思っていたのでございますが、山の力、川の力、みーんな戴いてまいりましたので、千代はもう大丈夫です」
「平太に聞かれたか。ははは、お恥ずかしい」
「そういえば平太、元気にしているかしら」
「大丈夫ですよ、元気に雨子釣っていますよ」と、サト。
「サト殿は、良きお方はおられぬのかな」            
 赤くなったサトを千代が突っつく。
「居るのですよ、ちゃっかり。わたしの祝言の後で、サトもお店の手代と。すっごくいい人ですよ、仕事も出来るし」
「ほう、それは良かった、おめでとう、サト殿。旅発ちの何よりの手向けでござるよ」
「ゆかれるのですね、祝言まではお待ち頂けないのですね」   
 千代が、寂しそうな表情で言った。
「済まぬ。梅ヶ島の湯で、儂もすっかり元気が出ての、何かこう身体中がむずむずとしてな、旅へ出ろ、旅へ出ろと、急き立てられておるようで……。煙霞の痼疾未だ止み難く候というやつかのう」
「煙霞の痼疾か……、羨ましいのう御主は」
「豊後まではまだまだ遠をございますね、御身体慈しみ下ださり、無事帰り着かれますこと、駿府の空の下よりお祈り致しております。本当にありがとうございました」
 千代が、深々と頭を下げた。                 
 サトも、その隣で同じように頭を下げている。
「ありがとう、良き日々でござった。山の力、川の力、そして千代殿やサト殿、平太の力も戴いた、元気百倍じゃ、頑張って行けまする。それから、これを平太に届けてはもらえませぬか、釣り針や天蚕糸、雨子釣りの道具にござるが」
「はい、この月末に荷があると聞いております、その時に必ずお届け致します。平太の喜ぶ顔が目に浮かびますね」
 平太の喜ぶ顔が思い浮んできたのだろう、千代が微笑みながら目を輝かせた。

 最後の夜を加納と二人で飲んだ。
「いよいよ明日行くか」
「世話になったな」と、頭を下げる重三郎に、
「何を申すか、儂の方こそ世話になったのではないのかな。ははははは」と、加納が笑う。
「謀りおって。お蔭ですっかり元気が出たわい」
「なんだ、それは」
「梅ヶ島の好き湯、綺麗な眩しいほどの若い女人二人。それに可愛い童、美味い榎ノ葉、素晴らしい山や川。皆から元気を貰うた」
「榎ノ葉?」
「よいよい、こちらのことじゃ。だが、本当に世話になった、かたじけない」
「何を水臭い。ところで……、本当にそう思ってくれるか。なら、何も言わず、曲げてこれを受け取ってもらえぬか」
 加納は、重三郎の前に二つの袱紗の包みを差し出した。     
「……」
「伊豆屋からじゃ。娘御とサトの危難を防いでもらった礼だそうじゃ。それにもう一つは殿からじゃ。あの二人、大変な悪党であった。相模、甲州、信濃、駿河を股にかけ、十人以上も殺しておる。勾引され売られた女人は、奴らさえ覚えきれぬ程らしい。差配は違えぞ、駿府定番の面目躍如じゃと、殿がえらいお喜びようでな」
「儂は駿府定番ではない、これは受け取れんな」
「伊豆屋も受け取ってはもらえぬと思うてな、儂に預けた、是非にも渡してくれとな。恙無くこれからの旅を続ける助けにしてくれと、千代殿も強く願っておった、皆の心を察してやってくれ。殿からは、台所も苦しいゆえ些少じゃ。受け取ってもらえなかったでは殿の顔を潰すようなことになってしまう、儂の顔を立てて、二つとも何も言わず受け取ってくれ、頼む。旅の邪魔にはならんじゃろうが」
「いや、荷が重とうなる。が、これから先の旅の事を思うと、真に有難い。御殿にも、伊豆屋殿にも、宜しゅう御礼申し上げてくれ」
 重三郎は二つの包みを押し戴き、有り難く納め、人の心の温かさに感謝するのであった。
          
 伊豆屋の気遣いであろう、朝、門を出ると、なんと、千代とサトがそれぞれの婿殿を伴って待っていてくれた。思いのほか、華やかな別れになってしまった。
 重三郎は、二人の心根が嬉しかった、まだまだ元気に旅を続けられそうであった。

 あのギラギラとした若さ、そして力漲る頃、旅をするということは即ち、強い相手を求め、それを倒すということであった。年とともに恬淡と変わりはしていったが、三十有余年もの間、ただひたすら剣の為に彷徨い、剣の為に生きてきた。
 その旅の果てに、こんな静かな時が待っていようとは……。重三郎は己が昔に思いを馳せながら、今、この旅の己が足の一歩一歩が死に近づくことへのそれであることを忘れ、見知らぬ風物、人々に、そして何より、心に残る忘れ得ぬ人々の幾人かに逢えることへの嬉しさ、期待が、己の心の中で大きくならんとしてゆくのを感じていた。
 修行という旅の中で、確かに立ち寄り、時を共有したであろうそれらを、そのほとんどを、皆覚えている訳ではない。が今、大野が、吉次が、平太が、サトが、千代が、加納が……、そして、それを囲む人々が、目を閉じれば、全て鮮やかに記憶の中に居た。
 明日は何処の宿か、近くに湯治場は無いのか、名刹は、風光明媚なところはないかと気にかかる。見知らぬ人に、湯治場や道を尋ぬるに、晴れや、雨や、風に一喜一憂し、良き街の、良き湯の風情を楽しむに、「年老いたか、重三郎」と、己に問う。
 いや、一日に歩ける里程も、日を追って延びてきている、若さが戻ってきているようにさえ感じられる。昨日、久しぶりに出たあの痛みも、思ったよりは軽かった。
 何かが、己の内から変わり始めているのか。旅発ちのあの日よりも、もっともっと、故郷へ帰りたい、あの春に逢いたい、そして忘れ得ぬ人々に会いたいと願う気持ちは大きくなってきていた。
 だが、心の何処かで、故郷に見みえることを畏れている自分がいることを、漠然とではあるが感じ始めていた。それが何故なのかは解らない。だからこそ、故郷の地を踏むその時は、あの春でなければならぬと強く思いこんでゆく自分にも、ぼんやりとではあるが気付き始めていた。
 思い返せばこの三十有余年、彷徨の旅の折々に、故郷へ帰ろうと思えばすぐにでも帰れた時は幾度かあったし、そう思い、西へ向かった事も幾度かはあった。
 それを押し止めたものは、一体何であったのであろう。      
 己の剣客としての未熟か……。
「煙霞の痼疾未だ止み難く候か……」
 遠ざかる富士山を背に歩きながら、重三郎はそう呟いていた。

     煙霞の痼疾未だ止み難く候 「其の三、駿府、梅ヶ島」終わり
               其の四「尾張名古屋」へ続く            
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み